28 カナリア ――A
部屋に静寂が落ちた。
ピヨがかまくらの中からじろっとこちらを見たが、そこから出てこようとはしなかった。
「須藤さんの言う通りです。僕の至らなかった言葉を補ってくれてありがとう。サトカさんがいなければ、ひどい間違いをするところだったかもしれません」
「私が言わなくても、アマネさんも神谷さんもご承知だったと思います。差し出がましいことをしてしまいました」
「どうしてそう卑下するんですか。そうだろうと思っても、はっきり言葉にしてもらうと安心する一言はあります。今、アマネさんに一番必要だったのは安心できる環境のはずです」
「彼女、二回、気になることを言ったんです」
「二回ですか」
「はい」
サトカさんは右手を上に向けて出した。言いながら指を折る。
「私がバカだったから、と、迷惑をかけて巻き込んだのは自分の責任だ、と」
「……確かに言いましたね」
サトカさんは唇をかんだ。
「理屈ではなく、自分があのとき違うことをしていたら、と後悔する気持ちはすごくよくわかります。冷静に考えたら自分に責任のないことにまで」
僕はうなずいた。あのときサトカさんは、お母さんのけがは自分のせいだと言って、僕がむやみに反論したんだ。
「他人事とは思えませんでした」
「サトカさんしか言えないことだったと思います。プロの援助職として、それからそれ以外の、サトカさんのこれまでの人生の積み重ねからでた言葉でしょう。体をいたわる言葉も、心をいたわる言葉も」
僕は自分の手のひらを見つめた。僕は何が言えるだろう。
「僕は、……自分が浅はかだったと思います。疲れている日だったのに、有無を言わせず巻き込んで、ボランティアで仕事をさせてしまいましたね」
「浅はかって?」
「サトカさん、僕と神谷さんがそういう関係だと思ったんでしょう」
サトカさんは答えず、僕から目をそらした。耳の縁まで赤い。
「違うと言うのは簡単です。でも、この込み入ったややこしい状況を説明して信じてもらえるかというと別だと思いました。僕はどうしても、本当にそうじゃないとわかってほしかった。僕にとっては大問題だからです」
言葉もなくうつむいたサトカさんの横顔に、僕は自嘲めいたため息混じりに続けた。
「結局、直接聞いてもらえば一番わかってもらえるだろうと思いました。僕が何かを言うより。とてもエゴイスティックな理由で巻き込んだんです。でも、あの電話でサトカさんがいてくれなければどうなっていたことかと思うと、自分が情けなくて」
僕は畳の上に投げ出していたバッグに手を伸ばした。中から、歩道で拾ったCDショップの袋を取りだして、彼女の目の前に静かに置いた。
「これ、落としましたよね」
彼女は息をのんだ。
「拾ってくださっていたんですか。どこで落としたかもわからなくて、もう戻ってこないと」
「これを持っていれば、もし今日話を聞いてもらえなくても、もう一度会ってくださいって言えるかなと思っていたんです。我ながらいじましいと思いますが。でも、これ以上僕のエゴで迷惑をかけ続けるわけにはいきません。もう一度だけ、今、聞かせてください。こんなどうしようもない人間ですけど、僕はサトカさんが好きです。
勘違いだったとはいえ、さっき、僕が他の女の子といたと思って怒ってくれましたよね? それって、少しは期待してもいいんですか」
サトカさんはうつむいたまま、黙っていた。膝の上に揃えられた手がわずかに震えていて、それを押さえるように彼女はぎゅっと拳を握った。色白で、ほっそりしていて、力を込めているのにどこか華奢な手で、僕は魅入られたようにその手を見つめていた。
「……自分のエゴで振り回したというなら、それは私の方なんです」
呟くような声だった。自分が何かを言ったら終わりになってしまう予感がして、僕は身動きできなかった。
「怖かったんです。あなたと出会って、私の生活は何もかも変わりました。あなたの一言ですごく気分が晴れたり、連絡をずっと待っていたり、何かあったら真っ先に、あなたなら何て言うかなと考えたり。毎日すごく気分が変わって、驚くくらい。だからいやだとか、会いたくないなんて思ったことはなかったけど、それが怖くもあるということを自分で本当の意味ではわかっていなかったのかもしれません」
静かに息を一つついて、彼女は話を続けた。
「あのとき、私は恐怖で完全に道理を見失っていました。母が倒れていたあの部屋で、祖母も倒れて運ばれたんです。祖母は骨折程度で、命に関わる怪我ではなかったはずだったんですが、その後リハビリ中に肺炎をこじらせて、結局生きてあの家に戻ることはできませんでした。母も、一時期すごく具合が良くなくて、私は毎日家に帰るのが怖かった時期があるんです。自死や事故があったら、と。そんなことが一気に噴き出してきて、自分でも手をつけられなかった。
それに、父が亡くなったのは私が中学受験に受かった数ヶ月後で、母が調子を崩したのは私が試験に受かって就職ができたすぐ後でした。いいことがあっても続かない、変化は不幸を連れてくる、という何の根拠もない不安感がずっとどこかにあって。
不合理な話です。理屈が通らない。彰実さんがあの日言ってくださったとおりです」
室内の空気はぴんと張りつめた糸のようで、何か一つでも動けばはじけて崩れ落ちてしまいそうだった。
「こんな理不尽な理屈でずっと自分の暮らしを前向きに過ごすことから逃げてきたんだって、どこかでは気がつき始めていたんです。彰実さんが一緒にいてくれるときは、自分が変われるんじゃないかって思い始めていたのに、あのときは恐怖に負けてしまった。きっと嫌われる、だから先に離れてしまおうって思ったのかもしれません」
途切れた言葉の先を僕はただうなずいて待った。僕に今何かができるとしたらそれは待つことだけだ。
「そうしたら何もかも元通りになる、と思ったんです。つまらないけれど波風のない怖くない日常に戻れると思っていた。でも、そんなはずありませんでした。
あきらめられるわけなかったんです。色のある世界を見てしまった後で、あなたのいない世界を日常だと思えなかった。
でも、私は取り返しのつかない言い方であなたを振り払って、傷つけたと思いました。あなたが移り気や冗談であんなこと言う訳ないってわかっていたから。だから、あなたが私に見切りをつけて、次に進もうとしていたとしても、私には何を言う資格もない。でもどうしてもあきらめきれなくて、この情けなくて救いようがない自分のことをお話しして、あのときのことを謝って、一度だけ、聞こうと思ったんです。それでもまだ私のことをもっと知りたいと思ってくれますか、まだ間に合いますか、って。
それで結果がだめだったとしても、自分にできる最善を尽くしたうえで、あなたの口からもう終わりだと聞けばあきらめるしかなくなるだろうと」
ぽつり、と力を入れすぎて白っぽくなった彼女の手の甲にしずくが落ちた。
はっとしてその顔に視線を上げた。涙でふちが赤くなった目で僕を見つめていたサトカさんと目が合った。彼女は震える小声で言った。
「私、あなたのことが好きです。やっとちゃんと言う勇気がでました」
気がついたときには僕は彼女に腕を差し伸べてぎゅっと抱きしめていた。
その耳元でささやいた。
「言ったじゃないですか、僕はサトカさんがいい。次なんて考えたこともない」
サトカさんは声もなくうなずいて僕の胸元に頬を寄せ、腕を回すと僕のシャツの背中をきゅっとつかんだ。
「私、ひどいこと言いました。ずっと謝りたかった」
しゃくりあげながら切れ切れに言う。
僕は彼女をすっぽりと腕の中に抱え込んで、あやすように揺すった。
「いいんです。僕は百回ごめんなさいを聞くより一回好きですって言われたい」
「……もう。わけわかんないこと言わないでください」
泣き笑いになって、彼女はくったりと僕にもたれかかった。
うん、この方が数倍いい。サトカさんはちょっと強気なことを言って笑ってるときが一番かわいい。
「僕のほうこそ謝らなきゃいけないんです」
彼女は僕の腕の中で物問いたげに首を傾げた。
「サトカさんが一番ストレスを感じて疲れているときに、むやみに反論してよけいなケンカをしたから、追い詰めてしまった」
僕は彼女の二の腕をゆっくり撫でた。
「サトカさんを手放したくなくて焦って、結果的に遠ざけてしまった。僕こそ最低の、取り返しのつかないことをしたんじゃないかって」
彼女は静かに首を振った。
「待っていてくださって、今話を聞いてくださって、私にこれ以上望めることなんてありません。私は自分で気がつかなくちゃいけなかったし、自分で踏み出さなきゃいけなかった」
サトカさんはもっともっとたくさんのいいことを望むべきだし、僕にあげられるものなら何でもあげよう、と僕は内心で誓った。不安になる暇なんてないくらい、この人の人生がいいことでいっぱいになるといい。そして望めるなら、そのときには、僕はこの人の隣で笑顔になるのを見ていたい。いいことばかりではなかったとしても、この人の隣に並んで座って、一緒に雨が上がるのを待っていたい。
「そういえば、気になっていたことがあるんです」
「何ですか」
「どうしてレッド・ツェッペリンを買ったんですか? サトカさん、これ持っているでしょう?」
彼女はちょっと困った顔をした。
「お守りというか」
畳の上の袋に手を伸ばし、中に入っていたCDを取り出した。ケースには斜めに大きくひびが入っていた。
「うわ」
悔やんだようなうめき声をあげる。落としたときの衝撃のせいだろうか、角の辺りが少し欠けてもいるようだった。
「お守りですか」
「一番たくさん、父と聞いた覚えがあるアルバムなんです。その後、きついことや不安なことがあったとき、何かを乗り越えていかなきゃいけないとき、一番聞いていたのがこの一曲目の」
「〈移民の歌〉」
僕が割り込むと彼女ははじかれたように僕の顔を見た。彼女の背中に回したままの僕の腕をくすぐるみたいに髪が踊る。
「知ってるんですか」
「サトカさんが言ったんです。初めて待ち合わせしたとき何かを聴いていたので、僕が後で聞いたら、その曲の名前を。その日に調べて、その曲だけ、ダウンロードで買いました」
「本当に? その一言でですか?」
「サトカさんのこと、何でもいいから知りたかったので」
「うそ」
彼女はもう一度うめいた。
「私、全部うまくいって、許してもらえたら、これをあなたに渡そうって思ってたんです。重いかもしれない嫌われるかもしれないと思って話さなかったことも、少しずつ、勇気を出して話そうと思って、自分への約束のつもりで。
CDは割れちゃってるし彰実さんはもう〈移民の歌〉を持ってるし、何してるんだろう私」
がっかりした様子で唇をかむ。なんだか肩の力が抜けてよけいにかわいらしく見えて、僕は思わず笑ってしまった。サトカさんの手に自分の手を重ねて、そっとひびの入ったCDケースに添えた。
「中身は割れてませんよ、きっと。僕に選んでくれたんなら、僕はこれがほしいです。このひびも含めて、今日のことずっと思い出せそうだから」
それから、サトカさんがくせで唇をかんでいるとき、いつもしたかったことを実行に移した。嫌がられたり、戸惑った反応をされたりしたらすぐやめるつもりだったけれど、彼女は僕の意図をちゃんと察して、目を閉じてカナリアみたいに少し首を傾けてくれた。
唇で軽く触れた彼女の唇は柔らかくて温かくて、わずかに開いたそこからこぼれた吐息は甘い香りがした。僕が少し唇を動かして、彼女の唇を撫でると、驚いたように身をこわばらせて、のどの奥で軽く息を飲むような音を立てる。踏み込み過ぎたかな、と思って離すと、彼女の方から僕の唇の端に、小鳥がくちばしの先でちょんとつつくみたいなかわいいキスをして、照れ隠しみたいにぎゅっと抱きついてくれた。
つまり、これが僕とサトカさんの初めてのキスってことになるわけだけど、これだけかわいいしぐさを見せられても、サトカさんの長すぎた一日のことを考えて、そこで踏みとどまった自分の自制心については、僕は誇りに思う。それが僕にとってどれだけ困難だったとしても、威張るほどのことでもないし誰かに言うことでもないけれど。














