26 逃走 ――S
どこをどう走ったかわからないくらい夢中で走って、私はホームで発車ベルを鳴らしていた電車に飛び乗った。車内はこうこうと明るくて、反対側の車両ドア近くの手すりにつかまると、ガラスに自分の顔が映って見えた。涙ぐんでいるのを急に意識してしまう。唇をかんで必死に呼吸を整え、精一杯なんでもない振りをした。
ショックで頭が真っ白だった。
買ったはずのCDもどこかで落としてしまったのか、手に持っていたはずが見当たらなかった。
やっぱり、もうだめってことなのかな。
彰実さんが肩を抱いていた女の子は、私とは全くタイプの違う子だった。共通点なんて、背がそんなに高くないことくらいだ。ふっくらしていて、血色がよくて元気そうで、明るい幸せそうな雰囲気。いつでも周りを笑顔にしそうなタイプだ。
あんな子がふさわしいんだろう。きっと。あの人の隣にいるのに。あの人を幸せにするのに。
ガラスの向こうの自分の顔はぞっとするほど青ざめて見えた。
私のことを好きだって言ってくれたのに。あれからまだ数日しかたってない。
心のどこかで憤る自分もいた。でも、私がそれだけのことをしたということなんだろう。手をさしのべてくれていたのに、払いのけた。愛想を尽かされても仕方がない。
感情が高ぶっているせいか、先ほどまでの冬の夜の冷気のせいなのか、指先はこわばって震え、うまく動かなかった。口元を押さえて息を吐きかけ温めようとしたけれど、その息さえも震えていた。
あっという間に降りる駅が来てしまう。さほど多くない下車客の流れに乗ってホームに降りた。
母とクリスマスケーキを食べた後からずっと、借りたままになっていた上着を返す、という口実なら会ってもらえるかもしれない、と望みをかけて、私は考えていた。
会って、病院での非礼を謝りたかった。それから、きちんと自分の気持ちを伝えて、もう一度チャンスがもらえるか、聞きたかった。気持ちを伝えるのに、自分に気合いを入れるために、CDを買おうとふと思い立ったのだ。
〈移民の歌〉。私が新しいことや壁に直面したとき、ひたすら後ろ向きになったり心が折れかけたりしていたときに、いつも聞いていた曲だ。私のことを知りたい、といつか彰実さんは言ってくれた。まだその言葉が有効なら、一番情けなくて一番だめだったときの自分のことを知ってもらって、それでも、彰実さんがまだ私にチャンスをくれるか聞きたかった。
あんなところで、あんな風に現実に直面するなんて思わなかった。
いや、直面すらしていない。現実の影が見えた瞬間に逃げ出したんでしょう。
自分を責める自分の皮肉なつぶやきが聞こえた気がした。
そんな思いを振り払うように頭を一度強く振って、改札に向かって歩き出したとき、私はようやく、肩に掛けていた紙袋のことを思い出した。
あの時貸してくれた彰実さんの上着。今日、仕事帰りになると、預けていたクリーニング店が閉まって年末年始休業に入ってしまう可能性があったので、出勤途中に店から引き取って職場のロッカーに入れていたものだった。
「どうしよう」
思わず独り言がこぼれた。
どうもこうもない。返さなきゃいけない。でも、あんな風に逃げ出して、今、とてもではないが彰実さんに顔を合わせられる気がしなかった。とはいえ、一旦、家に持って帰ったって、葛藤が持ち越されるだけだろう。
仕方がない。今なら彰実さんは留守にちがいない。部屋に行って、一筆添えて、紙袋ごとドアノブに引っかけてくれば、それで終わりにできるだろう。
駅を出ると、私は重い足を叱咤しながら、彰実さんの下宿がある昔ながらの住宅街の方に向かった。
◇
なぜか、彰実さんの部屋の明かりは点いていた。でも、薄いドア越しの室内は静まり返って、物音一つしなかった。消し忘れたのだろうか。何だかんだで几帳面な彰実さんらしくないような気はしたけれど、それ以上考える気力はわかなかった。
私は通勤バッグの中から付箋とペンを探し出した。付箋は、ピヨさんにちょっと似た雰囲気の、毛の長いキジトラの猫がプリントされ、その猫の輪郭に沿って切り抜かれたものだ。たまたま書店のレジの前に並べてあるのを見つけて衝動買いしてしまった、最近のお気に入りだった。これも、きっともう使えない。見たら辛くなってしまいそうだった。ガラクタのようだけど個人的に捨てられない宝物が入っている引き出しに入れることになるだろう。
何て書こう。
よけいなことはそぐわない気がした。
一言、『ありがとうございました』と書いて、落ちないように紙袋の内側に貼った。
にゃあ。
薄いドアの向こうからピヨさんの声が聞こえた気がした。
一目でもピヨさんに会えたら良かった。でもここで長居して、鉢合わせになったら気まずいどころの騒ぎではない。
ドアノブに袋をひっかけると、私は逃げるように古い下宿屋の建物を走り出た。
十二月の空気が身を包んだ。小走りで川沿いの道に出た。この前彰実さんが送ってくれた道だ。いつの間にか、小走りが駆け足になっていた。仕事用の靴は立ち仕事でも足に負担がかからないように選んだヒールローファーだったけれど、もう足は長すぎる一日にとっくに限界を迎えていて、小指と足の裏がひどく痛んだ。全力で走るなんて大人になってからは滅多にしていない。そのせいなのか、息はすぐに上がってしまい、わき腹までキリキリと痛み始めた。
もう無理だ。私は速度をゆるめ、歩道に植わっていた桜の木の幹に手を突いて立ち止まった。
辺りは街灯の光で妙に白々しく明るく照らされていた。遊歩道の柵の向こうに見える黒々とした川の水面は、ちらちらと街灯の光を反射した黒い鏡のようで、その内側にどんなよどんだものを隠しているとしても今はなにも見えなかった。
情けない。走って逃げている自分にも、走り通すことさえできない自分にも腹が立った。また涙がにじんでくる。
結局何もしていない。あらゆることから逃げているだけだ。
なにから逃げているんだろう?
私は桜の枝越しに空を見上げた。
本気でそう思っていると知られたら恥ずかしくて、今まで誰にも言っていなかったけれど、父は空のどこかから私のことを見ていると、中学一年のあの日からずっと心のどこかで信じていた。
今の私を見たらなんと思うだろう。弱虫で中途半端で、変わることができないでいる。母は過去と次第に和解してどんどん変わろうとしているのに、私は自分自身とも自分の未来ともまともな関係を築けていない。そんな状態で、誰かと心を通わせることなんかできない。
あの日、彰実さんは私に、なにが怖いんですか、と尋ねた。私は、母を失うことが怖いんだと思っていた。でも、本当は違うんだ。彰実さんと出会ってからずっと、何かが不安だったし苛立ってもいた。それはきっと、自分が変わってしまうことへの恐れだ。私は自分が変わるのも怖かったし、変わったことで、それとも変わらなかったことで、彰実さんに愛想を尽かされる日が来るのが怖かった。来るか来ないかもわからないものに怯えるのに耐えきれなくて、自分から手を振り払って愛想を尽かされようとした。それがあの日の私の行動の本質なんだ。
何て卑怯で、何て弱虫で、何て利己的な行動をしたんだろう。
灼けるような後悔の念が固まりになって喉元にこみ上げた。
立っていられなくなって桜の木の根本にしゃがみ込んだ。手のひらで顔を覆うと、涙がぼろぼろとあふれ出た。
歩けない。前も向けない。もうなんの力も残っていない。
時間が止まってしまったようだった。後から後から涙はあふれ出て、奥歯をかみしめていても押し殺した嗚咽がこぼれた。
そのとき、ふと、誰かに呼ばれたような気がして、私は思わず顔を上げた。
サトカさん。
私をそう呼ぶのはあの人だけだ。空耳まで聞こえたのかと自分の未練がましさにうんざりしながら、足元に落ちていたバッグを拾って立ち上がった。母が心配する。少なくとも、帰らなくちゃ。
「サトカさん!」
今度ははっきりした声が、少し遠くから聞こえた。まさか、と思いながら振り返った。
彰実さんだ。ちょっと怒ったような顔で、全速力で自転車をこいでくる。
「……どうして」
私の目の前で彼は自転車を止めた。ハンドルにもたれかかるみたいにして、肩でしていた息をととのえる。
私は身動きもとれず、じっと見つめていた。これは現実なんだろうか。私が本当におかしくなっていて自分に都合がいい妄想か何かを見ているだけなんだろうか。
「良かった、無事で。メッセージ、せめて読んでください。電話に出られなかったとしても。既読もつかないし、ご自宅に寄ってもお母さんはまだ帰ってないって言うから、本当に何かよくないことに巻き込まれたんじゃないかって」
彰実さんは、左手を伸ばして私の手をつかんだ。思いがけない、強い力だった。
夢でも妄想でもないんだ。つかまれた手の感触から、はじけるように現実感が戻ってきた。
「心配しました。……良かった、無事で」
「ごめんなさい」
やっと喉に息がとおって、私は言葉を絞り出した。繰り返された言葉に、本気で案じてくれていたのがわかって、いたたまれなくなった。デートを中断して来てくれたんだろうか。
そこまで考えて、わからなくなった。デートを中断? そこまでしてもらういわれはない。彼女だって怒るだろう。
「さっきの方、一緒にいなくていいんですか。私のことなんかより彼女さんを優先しないと。連絡は返さなくてすみませんでした。でも、デート中に他の女子にメッセージ送ってたらだめじゃないですか」
妙に腹が立ってきた。言葉にカドが混じる。私はつかまれていた右手を丁寧に抜き取って、半歩下がった。
「ああもう。やっぱりだ」
彰実さんは空いた左手を髪につっこんでイライラとひっかき回した。もともとがくせ毛なのにそんなことをしてくしゃくしゃと乱れたせいか、いつもより少し若く見えてどきっとする。
「違います。デートでも彼女でもないです。話だけでも聞いてもらえませんか」
いつもは穏やかな彰実さんの、滅多にみせない剣幕に押されて、私は思わずうなずいた。
「ちょっと込み入った話なんです。外で立ち話にできる話でもないですし、ピヨも置きっぱなしにして来ちゃったので、部屋に来てもらえませんか。サトカさんが嫌がることはピヨの親として絶対にしませんから」
「ピヨさんの親……?」
あのかわいらしい毛玉は、ついに愛くるしさで彰実さんの娘という地位を獲得してしまったらしい。
彰実さんは、しまった、という顔をした。
「忘れてください。とにかく、約束します。さっきお宅に伺ったときお母さんに職場の名前も入った名刺も渡してきてますから。本当に、嫌がることはしません」
まっすぐに私の目を見ていう言葉には抗えない力があった。
「信じます。お話があるというなら伺います」
じゃあ、と、もと来た道の方に促されて、歩き始めた。彰実さんも自転車を降りて、引きながら私に並んだ。
「あの、家に寄った、っておっしゃいましたか?」
彰実さんはちょっとぶっきらぼうな口調で前を見たまま言った。
「あの後、最初、メッセージを送ったんです。でも既読がつかなくて、様子が心配だったので電話も掛けました。スマホ、どうしたんですか?」
私はあわててバッグの中を手探りに探した。出勤したときサイレントモードにして、退勤するとき母に買い物に行ってから帰ると連絡した。電車や店で鳴ってはいけないと思ってサイレントのままにして、その後はすっかり見るのをわすれていた。
開くと、彰実さんからのメッセージが三件、不在着信が一件。母からも着信が入っていた。
「サイレントにしていて、見るのを忘れてました」
「動転しているようだったのでそうかなとは思ってましたけど、連絡がつかないのがどうしても心配で。差し出がましいかなと迷ったんですけど、ご自宅に伺って、帰っているなら、また改めて、落ち着いてからお話しさせてくださいと言うつもりだったんです。でも、お母さんは帰っていないっておっしゃるし、心配されているしで、とにかく自転車で探してみようと思って一旦部屋に帰ったら、上着があったから、もしかしてこのルートかなと思って」
彰実さんは息を一つついて、厳しい顔をした。
「お母さんにすぐ連絡してください。知らない人間が夜、娘を訪ねてくるっていうだけでもずいぶんぎょっとされているでしょうに、当の娘さんが連絡が付かないんではなおのこと心配でしょう。名刺を渡しましたけど、我ながら、それだけでよく信用していただけたものだと思います」
「……はい」
正論である。私は着信履歴から自宅の番号を呼び出して掛けた。いつも通り留守番電話になったところで、呼びかける。
「もしもしお母さん? 里佳です」
『里ちゃん? 良かった!』
すぐに母が出た。
『どこにいたの? さっき、吉見さんという方が里ちゃんを探して訪ねてきてくれたのよ。会えた? お母さんもだけど、その方も心配してた』
「今会えたところ。携帯、音を切ってバッグに入れてたからわかんなかった。ごめんなさい」
『それはいいのよ。……それなら良かった。吉見さん、救急車の人?』
私は頬が熱くなるのを感じた。やっぱり母の鋭さには隠し事ができない。
「そう。その人。少し話があるって、聞いてからになるから、遅くなるかも」
『じゃあ、お母さんはもう戸締まりして寝るわ。吉見さんに、私からもお礼を言っていたと伝えて。この前のも、今日のことも。遅い時間になるならちゃんと送ってもらってね』
「はい。電話のこと、ごめんね。おやすみなさい」
電話を切って、バッグにしまうと、私は彰実さんを見た。やっぱり厳しい顔で前を向いている。
「母が、今日のことも救急車の件もありがとうございましたと言っていました」
彰実さんは驚いたようにこちらを振り返った。
「ご存じだったんですか? てっきり意識がなかったものと思って、その話はしなかったんですが」
「後ではっきり思い出したんだそうです。声だけは聞こえていたと」
「サトカさん、あの後で僕のことをお母さんに話したんですか?」
怪訝そうな彼の視線に、私は首を振った。
「名前やどこの人かは話していませんでした。でも、他に誰かいたんでしょうと聞かれたので、それにだけは、いたと」
「それで、僕がそのときの人間だってはっきりわかるものなんですか?」
「声だと思います。母はものすごく感受性が強いというか、直感力があるというか、少ない情報から正解にたどり着くのが早いんです」
「名探偵みたいですね。それで信用してもらえたのか。……お父さんがミステリーがお好きだったんですよね?」
「はい。母はほとんど読みません」
「お父さんは感性が鋭い方だったんですか?」
私は思い出して笑った。
「とんでもない。母の考えているごく当たり前のことも気づけずに、しょっちゅう気に障ることを言っては怒らせていました。母のことは大好きだったと思うんですけど、鈍感でちょっとわがままで、流行りものに流されやすかったりして。でも、そこが憎めないタイプというか。娘の私が言うのもなまいきなようですけど」
彰実さんも笑った。
「そんなタイプのお父さんなら、お母さんは少しミステリアスで途方もなく魅力的に映ったでしょうね。お会いして思いましたけど、サトカさん、雰囲気や仕草がお母さんとそっくりですね」
「そうですか? 親戚や家族ぐるみの知り合いからは、父や父方の祖母に似ていると言われる方が多いです」
とっさにそう答えてから、彰実さんの言った言葉の内容が追いついてきて、私はちょっと頬が赤らむのを感じた。
少しミステリアスで途方もなく魅力的。彰実さんは私のことをそんな風に思ってくれているんだろうか。
あの人のことは彼女でもデートでもないと言っていたし、こうやって隣を歩いていると、あの日の前の彰実さんとなにも変わらないようにも思えた。
信じてもいいんだろうか。まだ、あきらめなくてもいいんだろうか。
そんなに期待してはいけない。彰実さんは単にいろんな友人に親切すぎるくらい親切な人で、私はただのお友達ナンバー百五十一くらいっていうこともありえる、と私は自分を諫めた。
全ては、話を聞いてからだ。














