24 メリークリスマス ――S
バターロールとミネストローネで軽い夕食を用意した。食べながら、母に診察のことを尋ねると、母は服薬の量の変更について説明した後、こう言った。
「先生がね、ハサミは使えますかって。先の丸いものなら使えるな、って思ったの」
「へえ」
「ナイフや包丁が使えなくても、別にそれはそれでいいじゃないですかって。切ってある野菜も売ってるし。で、料理をしたいなら、工作用のはさみでも、料理専用にしてきれいに洗って使ったらいいんじゃないですかって」
「そう言われてお母さんはどう思ったの?」
「ちょっと、目からウロコだったわ。この前、料理してみるまで、私、自分で何もできないって決めつけていたのかなって」
「あのスープ、おいしかったよ」
お世辞ではなく、本当においしかった。フライドオニオンであんなに短時間でこくが出るとは思わなかった。
「里ちゃんの方は?」
母の診察中、久しぶりに同行した私も、家族面談を促されて別室で話をしていたのだ。
「ソーシャルワーカーさんの面談だから、生活状況とか聞かれただけ。でも、条件次第で使える制度もあるし、薬のことも、受診するかどうかを含めてクリニック全体で相談に乗るから、もっと気軽に電話とかしてくださいねって」
「そうか。電話か。たしかに、ちょっとめまいがする、位のうちから相談すればよかったのね。わたしも、里ちゃんに甘えすぎてたと思うの。もっと、他の人にも頼っていいのかなって」
私は眉をひそめてスプーンをおいた。
「迷惑だなんて思ったことはないからね。娘なんだから当たり前だよ」
「里佳がそう思ってくれてるのはわかってる。でもね、お母さん、あなたに聞きたくて聞けなかったことがあるのよ」
母はためらって言いよどみ、スープボウルの中のマカロニを意味もなくスプーンで追い回した。
「何」
「里佳、本当に薬剤師でよかったの?」
「どういうこと?」
私は虚を突かれた。
「中学に入る頃、薬剤師っていう将来の夢が急に出てきたのよね。お父さんはすごく喜んでたけど、私、そのときはお父さんに、里佳だってまだ子どもなんだから変わるかもしれないわよって釘をさしてたの。でも、お父さんがあんなことになって」
マカロニはつるつると母のスプーンの先で逃げる。
「里ちゃん、お父さんが亡くなったとき、学校をやめるつもりだったでしょう。でも、学費はともかく、環境はすごくいい学校だったし、入るのに里ちゃんがすごく頑張って勉強したのも知ってた。お父さんが亡くなったからってそれを自動的にあきらめさせたくないって思ったの。お父さんが応援した夢を私があきらめさせたら、変な言い方だけどお父さんに負けた気がして。
それで、学校も夢も変えないで、っていう言い方をあなたにしてしまったのよ。でも、あなたが必死になって勉強に打ち込む姿を見る度に、無茶をさせてるんじゃないか、本当にしたいことをさせているのかって思っていた。でも、怖くてどうしても聞けなかった。
中学、高校、大学に行った後だって、もし他にやりたいことが見つかれば、進路を変えたいって言われれば、私はいつだって全面的に協力したいと思っていたの。そのためにはやっぱりお金が必要だと思った。働かなくちゃって」
「そんな。だって、薬学部だけだって十分大変だよ」
「それでもよ。他にやりたいことがあったら、あきらめないでほしいと思っていたのよ。今からだってそう。お母さんにできることは多くはないかもしれないけど、足は引っ張りたくないと思ってる」
「そんな言い方しないで! お母さんに足を引っ張られてるなんて思ったことない」
「薬剤師は? 後悔していない?」
「してないよ」
私は即答した。お店は安心して働ける職場だ。常連の患者さんたちにも覚えてもらえて、いつもありがとう、と声をかけてくれる人もいるし、ちょっとした困りごともだんだん相談してもらえるようになってきた。あのチャートも、適当な子どもだましの占いのようでいて、結果を見ればそれなりに何かを言い当てていたのかもしれない、と思う。
改めて聞かれて、それが自分でも驚くほどクリアだったことに、安堵した。熱烈に憧れた仕事ではなかったかもしれないけど、向いていなければ、そもそも大学の課程と国家試験をやり抜くことはできなかっただろう。
「この前はひどいことを言った、私。本当に、薬剤師になったこと自体は後悔していないし、チョコモナカだって好きだよ。ただ反抗したかっただけなのかもしれない」
ごめんなさい、という言葉が、思ったよりずっとスムーズに口からこぼれ落ちた。
母はマカロニをようやくすくって口に入れた。ゆっくりかんで飲み込み、一口水を飲んでから、口を引き結んで私をじっと見つめた。
母が最大限集中しているときに、その瞳の色が不意に薄くなるように見えることがある。今までも、人生の大事な場面で、時折見かけた表情だ。祖母は『降りてきている』と表現していた。私は霊感なんて信じないけれど、母の直観力自体は知っている。自分に向けられると、何もかも見透かされそうな琥珀色の瞳だ。
「彼氏さんのことはいつ教えてくれるの」
「え?」
「一昨日、ここに来てたでしょう。紹介してくれるつもりじゃなかったの」
「……どうして」
私は目を伏せて、ほとんど空になったパン皿のふちに描かれた唐草模様をいたずらに指でなでた。
「噂とかじゃないわよ、今度こそ」
「そんなこと、もういいじゃない」
「よくないわ。私、だんだん思い出したの。あのとき、目は開けられなかったけど、声が聞こえた。あなたの声。心配そうで、半分パニックみたいだった。私は大丈夫って言いたかったのに身体が動かなくてもどかしかった。もう一人、男の人の声が聞こえたわ。落ち着いてってあなたに言ってた。多分、救急への電話も。違う?」
私は目を伏せたまま首を横に振った。うそはつけない。この母にはついても無駄だ。
「来てたのね」
母は念を押した。私はうなずくしかなかった。だめだ。ここで泣いてはいけない。でも、瞼の裏が砂をかんだようにごろごろと痛んだ。
「じゃあどうして教えてくれないの」
「だって、彼氏じゃないもん」
「でも家に連れてきたでしょう」
「いろいろあったの。状況は変わるのよ」
「何が変わったとしても、私が直接見た……見てはいないけど、聞いたことは変わらないわよ。あの人あなたのことをとても心配していた。いたわって、守ろうとしていた。たった二日前のあの場面で、あなたにそういう風に接してくれていた人と、何の状況が変わったっていうの」
「もういいって。もう会わない。もう関係ない」
「……ここ何週間か、里佳、すごく生き生きしてきてた。今までの頑張り屋さんでいい子の里佳だけじゃなくて、ふつうの女の子みたいに笑ったり、怒ったり。スマホ見てにこにこしてたり、何かに不安そうでそわそわしてたり。私はそれがすごく嬉しくて、何かが変われるんじゃないかって思えたの。病気になっておばあちゃんも亡くなって、行き詰まって、どうしていいかわからなくなって、途方に暮れるような気持ちだったけれど、私にもできることがまだあるんじゃないかって」
私は驚いて顔を上げた。母の琥珀色の瞳と目があった。
「病院で、あなた、親子が逆だって言ったでしょう。私もそう思っていた。不自然な形にもつれていたものを、もう一度、解きほぐしたかった。今ならそれができると思う。ねえ、里ちゃん。お母さんにしか、きっとこれは聞けないでしょう? 昨日も今日も、あなたは様子がおかしかった。沈んでいたし、動き出していた感情が止まっちゃったみたいだった。何があったの」
「……私の方から、お断りを」
私はこらえかねて、大きく瞬きした。ぎりぎりまでたまっていた涙が頬をすうっとすべりおりた。
母は怒ると思っていた。今までの口振りで、声しか聞いていない彰実さんのことをずいぶん買っているようだったから。案に相違して、母はひどく悲しそうな顔をして、パンの皿の横でいつのまにか堅く拳に握っていた私の手に、伸ばした手をそっと重ねた。
「どうして」
批判でも怒りでもなく、ただ先を促す声音に、私の涙は止まらなくなった。
「分からない。怖かった。お母さんが死ぬんじゃないかと思って。私がちゃんとしてなかったから」
「里佳はちゃんとしてたわ。先生の言いつけを守らなかったのも不注意で転んだのも私よ」
「でも、どうしても、これ以上大事な人をなくしたくなかったの。神様がお母さんを助けてくれるなら他には何もいらない」
「……ねえ里佳。私、いろんな人から霊感があるとか透視だとかテレパシーだとか、言われて本当にいやだった。お父さんがそうじゃないって言ってくれたのよ。そんな科学を飛び越えた解釈を持ち込まなくたって、ちゃんと合理的に説明できるはずだって。私自身が説明できないとしても、意識しないままにいろいろな情報を受け取って処理して答えだけが私に見えてるんだろうって」
私はうなずいた。祖母がなんと言おうと父はその持論を変えなかった。私も、父の言うことは子どもながらにそうなんだろうと思っていた。
「私に霊感や予知能力があるならお父さんがあんなことになる前に何としても病院に連れていってたわ。何かをしてお父さんが助かるなら、何をしてでも、お父さんを連れて行かないでくださいって神様にお願いしたと思う。神様にそんなお願いをして聞いてもらえるのなら」
母は目を閉じて深くため息をついた。
「わかるでしょう。そんな力も取引も、この世のどこにもないのよ」
その言葉はずしりと私の胸に落ちた。母は目を開いた。私をじっと見据える。
「里佳。あなたは、そんなありもしないもののために、本当にあきらめられるの。あなたがその人をあきらめたからって私が死なない保証はどこにもない。いえ、人間なんだから、いつかはかならず死ぬのよ。もちろん、まだもう少し長生きしたいなあと思ってはいるけど」
「……それは」
「その人も、あなたにとってもう、大事な人なんじゃないの」
今度は私が目を閉じる番だった。後から後から、頬を涙がこぼれていった。
「まだ二日しか経っていないでしょう。今やれることがあって、後悔したくないなら、やった方がいいわ。私はもう、いくら後悔しても、お父さんに話しかけることもできないのよ」
私はただうなずいた。何ができるかはわからなかったけれど、あきらめるのが無理だ、ということだけははっきりわかった。
「さあ、ケーキを食べましょう」
母に言われて、私は呆気にとられた。ケーキ? このタイミングで?
「おいしいものを食べたら、気分が落ち着いて、ちゃんと考えられるようになるんじゃない? なんだか正体は分からないけれど、イスファハーンとグリオット、攻略してみましょう」
母の理屈は時々ものすごく飛躍する。でもそこがお母さんらしいんだ、と父がよく言っていた。そして、なぜか、飛躍の大きいときほど、後から考えて的を射ているのだ。
たぶん私には今、ケーキが必要なんだ。今何をしなきゃいけないか考えるために。
母にカフェインレスコーヒーを淹れるのを任せて、私は、供えてあったケーキを取りに、しんと空気の冷える仏間に向かった。
手を合わせ、父と祖母に真っ先に浮かんだ言葉を心のなかで語りかけようとして、私ははたと考え込んでしまった。
「仏壇に向かってメリークリスマスって、ありなの?」
笑いがこみあげてくる。
彰実さんはなんて言うだろう。聞いてみたい、と思った。一昨日までの彰実さんなら、なんて言うにしろ、きっとまず笑ってくれただろう。その声が聞きたかった。イスファハーンとグリオットのことも、話したかった。なんて言っただろう。案外、普通にそれがなんだか知っていたりするのかも。
あのとき、最後に私を見た、ひどく落胆した……傷ついたような彼の目が脳裏に浮かんだ。
今の私に、何ができるだろう。まだチャンスは残っているんだろうか。














