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カナリア  作者: 藤倉楠之


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23 洋菓子すずらん ――S

 母のかかりつけの心療内科クリニックの隣にある薬局を出ると、あたりはもう何となく夕暮れに近づき、淡いオレンジのトーンに染まっていた。一年で一番日が短い季節を実感する。


 まだ会社が終業する時間には早く、町の人通りはまばらだった。


 母は腕時計を見てため息をついた。


「思ったよりかかったわ」


「ただでさえ年末で混んでるところに、イレギュラーに入れてもらった予約だからね。しょうがないでしょう」


 電車が混む前に早く帰ろう、と促すと母は眉をひそめた。


「今日はクリスマスよ。ケーキ屋さんくらい寄ってもいいでしょ。テイクアウトにするから」


 クリスマス。昨日のイブは出勤日だったが、母が転んでから二日目、まだ意識状態が急変する可能性もあって、休ませてもらうことにした。午前中は父の本棚にアルバムを入れるスペースを作って、今後見返したくなるかもしれない何冊かを二人で選んで入れておくことにした。全部はとうてい入りきらないので、残りはあらためて祖母の和室の押入に戻した。そこまでで、母の作業時間は約束の二時間いっぱいになってしまった。


 私自身は何か作業をしていた方が気が紛れたけれど、母をまた疲れさせるわけにはいかない。それに、様子を見ていなくてはいけない以上、自室にこもって本や音楽に逃げるわけにも行かない。


 苦肉の策で、母にはとりあえず台所の食卓で座ってもらって、私はコンロと換気扇周りを掃除することにした。昨年末は気力がわかなくて、ほったらかしてしまったコンロ周りに、さすがに無視できない油汚れがたまってきた、と言い訳して。


 この前、客間だった部屋を片づけているうちに見つけた九十年代の遺物、ポータブルCDラジカセが奇跡的に動いたので、台所に持ち込んで、母の好きなヴァネッサ・パラディのアルバムをかけ、私は祖母が例年やっていた大掃除の手順をなぞりながら、黙々と手を動かした。母は時々、思い出したことをぽつりぽつりと口にした。


『おばあちゃんの黒豆、おいしかったわ。教わりたかったのに、もう少し暇ができたらって思ってるうちに、チャンスを逃しちゃったわね』


『レシピはあるから挑戦してみよう』


 私がそう言うと母はにっこりした。


『里ちゃんはいつもおばあちゃんを手伝ってたから、コツがわかるわよね。三人入るとうちの台所狭いから、私はいつも食べる人の方だったもの』


 私は洗剤を吹き付けてポリ袋に入れてあった五徳を取り出し、金だわしで力任せにこすりながら、ふと思った。母はずっと、寂しかったのかもしれない。私と父、私と祖母がいる空間に、うまく入れない気持ちがしたのかもしれない。


 私は反射的な罪悪感を予期して身構えた。でも、不思議とそれは来なかった。代わりに、今まで感じたことのなかった悲しみがひたひたとしみてきた。


『私は、お母さんの料理も教わりたいと思ってたんだよ』


 ぽろっとこぼれた私の言葉に母はきょとんとした。


『だって私、料理苦手だから、ほとんどおばあちゃん任せだったのに。何を?』


 中二くらいのとき、学校でインフルエンザが流行ったことがあった。なんとか自分はうつらずもちこたえていたのに、流行の最後の方で逃げ切れずもらってしまい、熱をだして早退する羽目になってしまった。祖母は趣味のコーラスサークルの温泉旅行で留守にしていたため、母の職場に連絡が行ったらしい。どうにかこうにか自力で帰り道にかかりつけの内科を受診して、家にたどり着いた私は、制服から着替える気力もないままベッドに倒れ込んで寝ていたのだが、無理に仕事を切り上げてあわてて帰ってきてくれた母が、魔法のように短時間でトマト味の卵とじリゾットを作ってくれたのだ。


 母は私の話を聞いて、遠くを見るような目になった。


『そんなこと、あったかしら』


『あったあった』


 私が言うと、母も手を打った。


『ああ、思い出した。あのとき、自分や家族のインフルエンザで休む人が多くて事務所がパンクしかかってて、帰らないでくれってすごく引き留められたのよ。今のご時世でそんなことあったらパワハラって言われちゃうわよね。そのときは、中学生の娘一人、病院にも連れて行かずに寝かせておく母親がいますか、って強引に時間休暇とったの。帰ってきたら里ちゃん自分でもう病院にも行って薬も飲んでて、拍子抜けしちゃったんだった。……でも、リゾットの作り方なんて聞かれた覚え、ないわよ。何でその時に聞かなかったの?』


 私は小さくため息をついて、肩をすくめた。


『だってわかっちゃったんだもん』


 後で熱が下がった頃、のどが渇いて水を飲みに来たとき、台所のテーブルの上に、トマトジュースの空き缶とカップスープのスティックが一本空になって置いてあるのに気がついたのだ。流しには鍋などはなく、几帳面な祖母がきちんと片づけたままになっていた。後は聞かなくても見当はついた。


 ゴミを片づけながら、テスト勉強の時の夜食で今度やってみよう、と思ったのを覚えている。


 母はきまり悪そうに天井を見上げた。


『犯行現場を名探偵に押さえられちゃったわけね』


 そのリゾットが、祖母のしきたりきっちりの料理しか知らなかった私には目から鱗で、お気に入りのレシピになった。一人で食べるとき、こっそりよく作ったし、母は他にも、簡単でおいしいレシピを知っているんじゃないかと思って、聞きたかったのだ。


 でも、聞けなかった。母はいつも仕事で忙しくしていて、そんな話をするどころではなかった。一度もそんな風に思ったことはなかったけど、母が忙しくて寂しいと私も感じていたのかもしれない。


『私たち、思ってる以上に同じようなこと考えていたんじゃないの』


『そうかもしれない』


 母は笑った。


 トマトの卵とじリゾットを一番最近作ったときのことを思い出して、私は五徳を磨く手にさらに力を込めた。あの人はすごくおいしそうに食べてくれた。ピヨさんが膝に乗ってくれて、あのときはすごくほっとする時間だった、と思い出して、そんな自分が嫌になった。手がくたくたになるまで五徳や換気扇のファンを磨いて、壁や調理台もきっちり拭き上げて、台所はピカピカになったけれど、私の気は晴れなかった。


 結局、クリスマスらしいことは何もできなかった。


 何をしても、どこにいても、少し気がゆるむと、気持ちはあの人に向かってしまう。


 私、こんなに弱かったかな。


 木枯らしが一瞬強く吹いた。


 私はコートの肩からずり落ちかかっていたトートバッグの紐をきゅっとかけ直すと、先に駅の改札に向かっていた母を小走りで追いかけた。


「どうしたの」


「ちょっと、今夜の夕ご飯のこと考えてぼーっとしちゃった」


 ごまかすと、母はふうん、と気のない様子で頷いた。


「里ちゃん、ケーキ二個食べられる? 駅前の<すずらん>」


 我が家の行きつけである。私が小学生の頃の、ネームプレートが乗ったバースデーケーキも、クリスマスのブッシュドノエルも、いつもそこで予約していた。父が亡くなってからはホールケーキを食べきるのが難しくなり、カットされたケーキばかり買うようになっていたけれど。


「夕ご飯を控えめにすれば。どうして?」


「去年はおばあちゃんの喪中もあって、買う気になれなかったでしょ。でも、後で何となく後悔したのよね」


 ここからうちの最寄り駅までは、一駅分だけ普通電車に乗る必要があった。母はカードを触れさせて改札を入ってから、追いついた私に言った。


「お父さんとおばあちゃんの分も買おう。で、仏壇を拝んだら、下げて二人で二個ずつ食べちゃおう」


「こないだは、みっこおばちゃんがすぐ下げるって文句言ってたじゃない」


「だってケーキよ。消費期限があるもの。当日中よ」


「二個食べたいだけでしょう」


 私が言うと、母は笑った。


「ばれちゃった」


 母はずいぶん笑うようになった。正体不明だった捜し物がやっと見つかって、肩の荷が下りたようにも見えた。まあいいか、と私もうなずいて、電車を降りた後、久しぶりにケーキ店のガラス戸をくぐった。


「里ちゃん、何にする?」


 ショーケースの中は記憶にあるのと同じように、きらきらしたフルーツやチョコレート、ジュレで飾られたケーキでいっぱいだった。以前食べたのと全く変わらなさそうな、安心するショートケーキやモンブラン、ブランデーシロップを効かせた店の名物のザッハトルテに、小さい子たちから絶大な支持を誇るチョコレートバナナケーキ。イチゴと生クリームでできたサンタクロースがちょこんとのっている、クリスマス限定のイヤーマグ入りのカップケーキも、毎年の定番だ。

 でも、その合間合間に、今まで見たことがなかった新しいデザインのケーキが混ざっていた。ラズベリーとマカロンがトッピングされたもの。深紅のムースとダークなチョコレートムースに淡いグリーンのスポンジが地層のように美しく重ねられたもの。グリオットとチョコレートのムース、と札がついている。抹茶のニューヨークチーズケーキ、と書かれた札の後ろには、ふたつきの金属製の容器がおいてあった。光に当たると抹茶の色味があせてしまうため、という断り書きをみて、なるほど、と思う。タルトタタンも、私が子どもの頃にはこの店にはなかった気がする。


「これは迷う」


「そう? 私は決まったわ。お父さんはザッハトルテ。私はグリオットとチョコレートのムース」


「早いよ」


「だって、お父さんはいつも、ザッハトルテだったもの。私はチョコレートとフルーツの組み合わせ、好きだから。このケーキは初めてだと思うけど」


「じゃあ、おばあちゃんのと自分のを私が選んでいいの?」


「そうして」


 そう言われると、祖母はいつも、モンブランがご指名だった。この店のは昔ながらの淡いイエローのクリームが鳥の巣のように絞り出された上に、黄金色の栗の甘露煮が乗っているタイプで、今風の渋皮を生かしたものよりここのが好きだとよく言っていた。それで決まりだろう。


 私はどうしよう。


 ショーケースをじっとにらんで考えた。一番光って見えるのは、新作マークがついたピンクのケーキ。マカロンとラズベリーが乗った、イスファハーンという名前のものだ。私が無知なだけかもしれないが、名前からは味の想像が全くつかない。


「じゃあ、おばあちゃんにモンブラン。私は」


「当ててみていい?」


 母に遮られた。


「いいよ」


「違ったらちゃんと言ってよ。いい?」


 うなずくと、母はショーケースを指差した。


「あれでしょ。イスファハーン」


「どうしてわかるの? 二十種類くらいあるのに」


「わかるわよ。直感でも何でもないわよ。里ちゃん、絶対、食べたことないの、味がわからないのにいくじゃない。味の予想があまりつかない新作は二つ。でも、なんだか知らないけどグリオットのムースは私が押さえたから、そっちは『一口ちょうだい』することにして、もう一つの新作に行くと思ったのよ。あっちの方がさらに味の予想がつかないし」


 母の種明かしに、私はちょっと赤くなった。


「おっしゃるとおり。お母さんこそ名探偵じゃない」


「名探偵じゃなくて、『里佳のお母さん』なのよ」


 どことなく誇らしげに、母は四つのケーキを注文して、会計をした。


 その背中を見るともなくみていると、ふと脳裏に響いた記憶があった。


『新しい食べ物、気になる方ですか? 僕もです』


『食べておいしくなければ納得も行くんですけど、食べないままだと未練が残るんですよねえ』


 こみ上げてきた涙を、瞬きをして散らした。


 私、本当にどうかしてる。

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