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カナリア  作者: 藤倉楠之


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23/30

22 氷のロマンチスト ――A

「なんだか浮かない顔だね」


 カウンターのすみっこで、グラスに少しだけ残っていたウーロン茶を飲み干した僕に、ピーナッツの小皿を差し出しながら、定春さんが言った。お酒を飲む人には出さないであろう黒糖の衣が掛かったものだ。


「まあちょっと色々と」


 否定する気も肯定する気も起きず、僕は曖昧にお茶を濁した。背後では、誰かが言った何かにどっと周囲が沸いている。僕が飲まないのもこういう席で周りを盛り上げたりする方ではないのも、このメンバーでは周知の事実なので、人の輪から外れてぼうっとしていてもとがめられない。遠慮も気兼ねもない行動である。


 研究室の忘年会は、論文を提出した学部生、修士課程の院生の慰労もかねて、締め切り日の夜に行われるのが恒例となっていた。<やまさち>の店内は貸し切りで、食事のコースも後は締めの頃にデザートを出すだけとなり、定春さんも一息ついたところらしかった。急須に茶葉を入れながら言う。


「この前来たときは調子良さそうだったのに。あの子は今日来てないの?」


「研究室関係じゃないですから」


「あ、そうか。研究室って四年生からなんだっけ。あの子もっと若いよね。彼女バイト探してない? 榎本君にもっと中を任せたいから、フロアやってくれる子がいると助かるんだけどなあ」


 サトカさんが実年齢よりだいぶ下に見えることは気づいていたけど、商売柄、人よりずっと人間観察をしてきている定春さんがここまで豪快に推量を外すのも珍しい。


「残念。バイトはしないと思います」


「嘘でしょ。聞いてみるだけでもさあ。また連れておいでよ」


「どうかなあ」


 僕はこれ以上サトカさんの話題を続けるのがしんどくなって、定春さんを煙に巻こうと試みた。


「あの子、女の子の姿をしてたのは世を忍ぶ仮の姿で、実はカナリアの精霊だったんです。だからバイトはしないと思う」


「誰がですか」


 背後から遠慮会釈なく話題にねじ込んでくる声に、僕は思わず首をすくめた。


 須藤さんだ。卒論ですっかりなついたらしい神谷さんも、ひょいとその後ろから顔をのぞかせた。


「いやその」


「ついこないだ、アキが連れてきた子」


 定春さんはあっさり僕を見捨てて、須藤さんの眼光に屈した。横目でちらっと僕を見たのは、ごめんよ、のアイコンタクトだろうか。


「へえ。珍しいじゃないですか。私の知ってる人? どんな子でした?」


「いや須藤さんは全然知らない人」


「ちっちゃくて髪の毛長くてゆるっとカールしてて、動きが上品ですっごいかわいい子でしたよ。冗談とはわかってても妖精って言われたら納得するかも」


 僕は、話を切り上げようとしたところにかぶせてペラペラしゃべった榎本君を睨んだが、若い見習い料理人はどこ吹く風で、僕の前に熱い煎茶の湯飲みを置いた。


「ふうん」


 須藤さんは僕の隣の椅子を引いて浅く腰掛け、値踏みをするように目を細めて僕の肩の辺りをじっと眺めた。


 僕はとにかく話を変えようと、須藤さんの向こうの椅子にこれまたちゃっかり陣取った神谷さんに話を振った。


「定春さん、バイト探してるんだって。神谷さんの知り合い、一年生か二年生で、心当たりない?」


「誰でもいいってわけにゃあ行かないんだけどな」


 カウンターの向こうから定春さんが正す。


「お客さんによっては鍋のお給仕をしてもらわなきゃいけないし、懐石を出すこともあるから、着物が自分で着られて最低限の所作ができないと。着物は作り帯だし、うちの奥さんが教えるから何回か練習してもらえば大丈夫だと思うけど、所作はねえ。できればお茶をやってた子がいいな。そうでなくても教えるけど、ちゃんと覚える気のある子。当然、それなりに長く続けてくれる子がいい」


「心当たりありますけど、本人がどう言うかなあ。学生じゃなくてフリーターなんです。だから、時間の融通はきくかも。興味は持ってくれると思うんだけど。一度連れてきてもいいですか」


「おう、いいよ。食事に連れてきなよ、デザートぐらいごちそうしてやるから」


「じゃあ、そのカナリアさんは所作がそんなに綺麗だったんですか? スカウトしたくなるくらい」


 須藤さんが割り込んだ。気になるテーマにはきっちり食らいついて離れないのが彼女のスタイルだ。何がそんなに気になるのかわからないけど。


「そうなんだよ。お茶やってるか、ご家庭のしつけが相当しっかりしてるか。今時の十八、十九じゃ珍しいくらい、しっかり箸が使えたし、取り分けも完璧だったから」


 カウンターからの遠目でよくそこまで見ていたものだ。僕が妙なところに感心していると、須藤さんはじろっと横目で僕をにらんだ。僕だけに聞こえる程度の声で言う。


「だから未成年はまずいって言ったじゃないですか」


「何の話? だから未成年でもないしそういうのでもないって。カナリアの精霊だから、山の神に呼ばれて、小鳥に戻って山に帰っちゃったんだよ」


 サトカさんについて何を言っても須藤さんの餌食になることはわかっていたので、僕はとぼけとおして切り上げようとした。


「裏切り者」


 ぼそりと須藤さんが言う。耳を疑う暴言に、僕もさすがに眉をひそめた。


「はい?」


「聞こえませんでした? 裏切り者、って言ったんです」


 須藤さんも負けじと少し声のトーンを上げた。こちらが口を挟む間もなく畳みかけてくる。


「何ですかそれ。カナリアの精霊? 山の神? いつから民俗学に転向したんです? それとも中途半端なユング心理学ですか。先方からも門前払いですよ、そのうっかり食器棚にしまって三日目のイワシみたいなクオリティじゃ」


「うっかり食器棚って」


「三日目のイワシ」


 想像してしまったのか、定春さんと榎本君が揃ってげんなりした声を上げた。とばっちりを食らってはかなわんとばかりにそそくさと離れていく。


「ご自分でお気づきではないですか。昨日も今日も、ため息ばっかりついて、死んだ魚も裸足で逃げ出すくらい淀んだ顔してますよ。猫がお腹でも壊したのかと思いましたけど、それならこんな席に来てないでしょう」


「僕がどんな顔してようと須藤さんに絡まれるいわれはないし、説明する義務もない」


「説明? いりますかそんなもん。これだけ状況証拠がそろえば十分です。だいたい吉見さんなんか広げっぱなしの百科事典みたいなもんで、ページ数だけはやたら多いですけど今問題になってる項目は見たら読めます」


「状況証拠って」


「研究室関係でもない女の子を、サシでここに連れてくるって、そりゃ吉見さんにとっては相当の相手でしょう。定春さんが気軽に話題にするあたり、雰囲気も良かったんじゃないですか。にもかかわらず、昨日今日の吉見さんときたら腐ったイワシですから、何かあったなってことは聞かなくてもわかります。ところが当の本人ときたら、言うに事欠いてカナリアの精霊がとか寝ぼけたことをほざく。これが裏切りじゃなくて何なんですか」


「だから僕が何を裏切ったって」


 須藤さんは僕の目の前の煎茶も一瞬で凍らせそうな冷たい目をした。


「吉見さんの学問を、です。そんな生半可な気持ちで社会学者やってたんですか。見損ないました」


 あまりの論の飛躍に僕は呆然とした。どこをどうやったらこんな口論になるのか。須藤さんが本気で怒っていることだけはわかるけど、逆に言うとそれしかわからない。


「学問を裏切るって何?」


「単に振られただけなら、吉見さんはそんな持って回った言い方しないでしょう。何かあるんでしょう? 詳しい事情を話す気はないんでしょうから私も聞きません。でも、それって生身の相手がある話ですよね」


 僕をにらみつけたまま、彼女は自分の言葉の効果を見定めるように一瞬間をおいた。僕は何も言えなかった。


「一番つらい思いをしているのはどなたですか。それをそんなふわふわと腑抜けた出来損ないのおとぎ話に閉じこめて、そのカナリアさんに吉見さんまで呪いを掛ける気ですか? 私に言わせれば、呪いなんて、内面化された不合理な信念と社会的偏見です。何かの呪いがあるから、女の子だったはずの相手が、カナリアに変身してどこかに閉じこめられてしまうんです。その不合理な信念と社会的偏見に論理の光を当てて無効化するのが学問じゃなかったんですか。一番大事な相手を救えないなら、吉見さんにとって学問って何なんですか」


 須藤さんは僕よりよほどロマンチストで神話学者で、そして僕が思っていた以上の名探偵だったらしい。彼女の論理の刃は確実に僕の問題の急所をついていた。


 そんなこと、本当は僕だってわかっている。


 サトカさんに背を向けて家に帰ってから、僕は憑かれたようにフィールドノートをまとめて、発表できるように準備を始めていた。どうせ眠れない。ぼんやりしていたら、心はいつでもあの瞬間に戻ってしまう。そこから自分を引きはがして、次に何ができるか考えるために僕に必要だったのは、つまづいて見ない振りをしていた、自分の仕事に目を向けることだった。書けば、自分でも驚くほど書けた。漠然と考えていたことのもやの中から糸を引きだして、紡いで、巻き直して、今までつっかえていたのが嘘のように書きたいことが溢れてきた。


 どうしてか、なんて分かり切ってる。サトカさんだ。僕の話をいつも全力で聞いて、笑ったりあきれたり怒ったりしてくれた。僕の話にはちゃんと意味や価値があると実感させてくれた。


 自分に対する不安や不信という僕の呪いを解いてくれたのはサトカさんだ。なのに僕は彼女に何もできないまま離れて、こんなところでうじうじしている。


 須藤さんの糾弾は痛かった。


「須藤さんは?」


 僕は神谷さんには聞こえないくらいの低い声で言った。


「須藤さんの呪いを大島が解いてくれたの?」


 大島は彼女の婚約者だ。


 須藤さんは初めてたじろいだ。


「……すみません。私、言い過ぎました」


「いや、須藤さんは正しいよ」


 僕はすっかりぬるくなった湯飲みを手に取った。両方の手のひらを暖めるようにして持つと、陶器の中の液体がゆらりと揺れた。


 定春さんと榎本君はいつの間にかカウンターの中からも消えていた。背後で、運ばれてきたデザートの黒ごまプリンにわっと歓声が上がる。僕と須藤さんと神谷さんの分は、カウンターの上に仲良く三つ並んでいた。


「僕は弱いから、正しいこととそうでないことがわかったとしても、すぐに動けないこともある。でも、このままでいいと思っているわけでもない」


 須藤さんはうなずいた。


「吉見さんが弱いと思ったことはありません。吉見さんが、とっさにでしょうけど、その比喩を選んだことには意味があるはずです。きっとその子、困っています。吉見さんしか助けられません」


 そして、カウンターの上からプリンとスプーンを一つずつとると、何事もなかったように会釈して、小上がりの座卓にいるグループの方に戻っていった。僕に須藤さんが突っかかるのはわりといつものことだし、声を抑えていたため、神谷さん以外のメンバーは僕たちのちょっとした諍いは気にもとめていないようだった。


 神谷さんも手を伸ばして、デザートのグラスを引き寄せると、神妙な面もちで、磨いた御影石のような色合いが美しい柔らかい固まりをすくった。


「うわ、絶品」


 口に入れて一瞬で笑顔になる。それから僕の方に向き直った。


「さっきの話ですけど」


「さっきの?」


 神谷さんは慌てて顔の前で手を振った。


「須藤さんとお話しされてたことは全然聞こえませんでした。その前の話で、ご店主と榎本さんと盛り上がってたもんですから。アルバイト、どんな仕事でどんな子がいいとか。今まで働いた子の様子とか、条件とか」


 神谷さんは定春さんともすっかり打ち解けたらしい。相変わらずの人たらしである。


「昨日お話しした友人を、ここのアルバイトに誘ってみようと思ってて。とにかく一つ、まとまってシフトに入れるバイトがあれば、収入が下がっても、安い部屋を見つけて今のお店をやめられると思うんです」


「ご本人と定春さん次第じゃないかな。連れてきてみれば?」


「はい。ご店主にもそう言っていただきました。彼女の事情は私が話すべきことでもないので、言っていませんが。もし、話がまとまらなかったとしてもこの黒ごまプリンだけでも、ここにくる価値はあります」


 にこにこして、スプーンを口に運ぶ。


 僕は手つかずだった自分のグラスを神谷さんの方に押しやった。


「よかったらもう一つどうぞ」


「いいんですかぁ」


 断る気ゼロなのが丸わかりのおざなりな遠慮の言葉も言い終わるか言い終わらないうちに、神谷さんは差し出されたグラスを受け取った。


 僕も定春さんの黒ごまプリンは好物だ。普段だったら人に譲ったりなんかしない。


 だからこれは須藤さんには鼻を鳴らして呆れられそうだけど、一種の願掛けなのかもしれなかった。黒ごまプリン断ち。


 精進して、考えて、動き始めないといけない。


 ヒントはきっと、あの日の会話の中にあるはずだ。


 ほどなく会がお開きになって、上着だトイレだとばたばたしている連中を尻目に、一足早く外にでると、意外な人物に出くわした。


「大島。何でここに?」


 須藤さんの婚約者氏がスマホ片手にガードレールに寄りかかって立っていた。形のいいスーツを着こなして、変な言い方だが研究者っぽくない垢抜けた男である。格好付けた身なりのわりに、すごくまじめで研究熱心なことは今までのつきあいでよくわかっていたけれど。


「幹世ちゃんのお迎え。いらないとは言われたんだけど、別に暇だったし」


 聞いてるんでしょ、とにやりとするので、僕もつられて笑顔になった。


「聞いたよ。就職と結婚、おめでとう。……あ、これ」


 手に持っていた紙袋を差し出した。


「結婚祝い」


「ありがとう」


 受け取ってから、彼は首を傾げた。


「どうして? 幹世ちゃんに渡せばよかったのに」


「今日も、ちょっともめまして。タイミングを見失った。僕が悪いんだけど」


「今日も、ね。幹世ちゃん、吉見にはすごく突っかかるから」


「鈍くさいからね。見ててイライラするんじゃないか。こっちは来年度、須藤さんなしでどうやって研究室を回すか、不安しかないけど」


「なるようになるよ」


 大島は肩をすくめた。


「知ってたか? 幹世ちゃんが同世代の研究者で自分より上だと思ってるの吉見だけだよ。だから突っかかるんだろう」


「マジでか。何かの間違いじゃないか。だってじゃあ大島は?」


「俺は、研究面で彼女より下だとは言わないけど断じて上じゃないって言ってた。俺、最初、幹世ちゃんは吉見に気があるんじゃないかと勘違いして嫉妬してたもんな。全然違うって幹世ちゃんには後で怒られたけど」


「そりゃ大島、見る目がなさすぎる」


 僕は笑った。


 彼もつられて笑いかかって、僕の後ろに目をやってさらに大きい笑顔になった。


「幹世ちゃん」


 手を挙げて声を掛ける。


「いらないって言ったのに! それに、人前でその呼び方やめてって言ったはず」


 照れている須藤さんなんて初めて見た。


 僕は、犬も食わないとばっちりを避けるべく、じゃあまた、とだけ言いおいてさっさとその場を離れた。


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[良い点] 一気に御話が盛り上がって、読み応えがありました。 16話から此処までの御話で、想いを伝えあった二人が急転直下……よくあるパターンかもしれませんが、最も身近な存在であるお母さんに対する想いが…
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