21 神谷さんの卒業論文 ――A
控え目なノックの音に、僕はノートパソコンの画面から目を上げた。助教室のドアに取り付けられた、居場所を表示するプレートは、『在室』にしてあったはずだ。研究室の院生なら返事も待たずに入ってくるのが常だったが、ノブは動かなかった。
「どうぞ」
声を張って促すと、おずおずとドアが細く開いて、思っていたよりも少し低い位置にふわふわしたくせ毛の頭が覗いた。
「すみません、吉見先生。今ちょっとお話ししてもいいですか」
神谷さんだ。
「いいよ、入って」
僕はもう癖になった動作で作業中のファイルを保存すると、パソコンを閉じた。ピヨは僕がパソコンを広げると、遊びの時間はおしまいだとわかってきて、この頃はすっかりパソコンに敵意を持っている。作業データは常に保存しないとどんな危険にさらされるかしれないのだ。大学で作業しているときでも保存する癖は抜けなくなってしまった。
背後の同僚のデスクから椅子を抜き出して、神谷さんに勧めた。
立ち上がってドアの外にでると、プレートを「面談中」に切り替える。同僚のもう一人の助教は「出張中」だ。ドアを完全に閉めないように、というコンプライアンス委員会からの通達を思い出して、ストッパーをかませてドアを少し開けたまま、デスクに戻った。
「どうしましたか」
卒論の学部公式の締め切りは明日だったはずだ。まさか、やっぱり書けませんとか言うんじゃないだろうなと思うと、胃の底がきゅっと縮みあがりそうな気がした。
「おかげさまで、卒論、一足早く教務課に今提出してきました。研究室締め切りの時、先生方と須藤さんにご指摘いただいたところを直して」
神谷さんは深々と頭を下げた。
僕はほっとして、知らず力が入っていた肩を落とした。
「おめでとう! がんばったね。良い出来だったと思うよ」
言い回しや誤字脱字くらいしか指摘するところのない、よくまとまった論文だった。やればできる学生なのだ。
僕がほめても、彼女はどことなく浮かない顔だった。
「あれでよかったのかなって、なんとなく納得がいかないんです」
やっぱり、モヤモヤは抱えたままだったらしい。できるだけのフォローはしようと、僕は居ずまいを正した。
「納得いかない?」
できるだけニュートラルな口調を心がけて聞き返した。溜まっている気持ちがあるなら、水を向ければ自ずとあふれてくるはずだ。
「大学での勉強はとても楽しかったです。知りたいことが次々出てきて、ホント今でもまだ卒業したくないくらい」
「卒論は?」
「テーマ変更しないで頑張れって、須藤さんにも先生にも言われて、それは本当に正しかったと思います。統計はすごく苦手だと思ってたけど、須藤さんが手取り足取り教えてくれて、データ処理が進んできたら、だんだん面白さも見えてきて、それはそれで新しい発見でした。量的処理をする質問紙も本当に奥が深いツールなんだなって」
「そうなんだ」
意外だった。テーマ変更をさせなかったことが引っかかっているとばかり思っていたのだ。
「気になっているのは別のことなんです」
「別のこと?」
「私、この学科を選ぶとき、まだ何もわかっていない高校生でした。素朴に、社会をよくする大人になりたい、と思って、それで」
「社会をよくしたいから社会学専攻、か」
「自分が将来何になりたいかも分かっていなかったから、社会のこと、もっと知りたい、と思ってここに来たんです」
「なるほど」
神谷さんらしいといえばすごく神谷さんらしい。行動してから考えるタイプなのだ。
「来てみてどう思った?」
「さっき言ったとおり、本当に楽しかったです。でも、私が楽しかっただけで、結局世の中の役に立つことって自分の身につけられたのかなぁ、次につながる何かをここで残せたのかなぁって」
「ああ」
腑に落ちすぎるくらい落ちて、僕は腹の底から唸った。
「結局誰かの役に立つことって私にできるのかなって」
「直接的にすぐ世の中の役に立つスキルっていうことなら、たしかにここより秀でた環境はあっただろうね。福祉系の専攻とか、教育系とか。神谷さん、教職は?」
うちの学科でも選択科目で必要な単位を揃えれば、中学と高校の教員免許がとれるのである。他学部である教育学部の授業をとらなければいけなかったり、教育実習に行かなければいけなかったりと負担が大きいのは事実だが、就職につながる資格でうちでとれるものはそれくらいという事情もあって、毎年度、ある程度の学生がとっている。
「とりませんでした。子ども苦手なんです。私自身が子どもみたいなものですし」
「やれば案外はまったかもしれないけどね」
エネルギーがあるし、自然に人を引きつける明るい魅力がある。困ったことがあっても子どもがフォローしてくれたりして、それが結果的に相手の力を伸ばすような、いい先生になったかもしれない。
神谷さんはぞっとしたように首を横に振った。
「責任重大すぎます。一人で四十人もの人生を預かるなんて無理です」
「どんな仕事にも責任はあるよ。神谷さんだって、バイトでたくさんの責任を果たしてきたでしょう。内定も取ってるんだったよね」
「はい。実家に近い、イベント企画の会社です。地元密着系の、フリーマーケットやお祭りの運営から、コミュニティー誌の編集まで何でもやる会社」
ぴったりである。神谷さんなら、即戦力だろう。
「卒論は卒論でしんどかったけど楽しく書いて、就職先も本当に楽しみです。でも、だからこそどうしても気になることがあって」
「何?」
神谷さんはため息をついた。
「友達になった、踊り子の女の子なんです。優しくて真面目で、すごくいい子なんですけど、どうにも暮らしがうまくいっていないみたいで」
話題が急ハンドルで方向転換した。僕がつながりが見えず、呆気にとられているのを見てとったのか、神谷さんはじれったそうに右手で左手の親指の付け根あたりをこすった。
「いろいろ大変なんです。身寄りがなくて、お店の寮扱いのアパートで暮らしてるんですけど、いつまでも続けられる仕事じゃないでしょう。できれば手に職をつけて、もう少し堅実な仕事がしたい。でも、カレシがヒモみたいな野郎で」
神谷さんは言いかけて慌てて口を押さえた。
「すみません、口が悪い言い方でした。とにかく、にっちもさっちも行かないんです」
「うん」
先を促すことしかできない。
「私、何かできないかって思ったんですけど、私には何もないなって。すごい無力感で。せめて彼女の話を聞いて、研究としてきちんと形に残せれば、誰かの目に留まって、彼女の苦労もどこかで他の誰かの窮状を救うヒントになるかもしれない、と思っていたんです。そうしたら、私も救われるんだけどなあって彼女も言ってくれたんです。でも、それも叶いませんでした。
彼女の話、とっても大変なんですけどいつも明るいし、自分のことより私のこと心配してくれて、どうしてそんな風にいられるのかなって、いつも尊敬してて」
神谷さんはうつむいた。また手首をこする。癖になっているらしい。
「彼女を見てると、自分がどれだけ甘やかされた環境で生きてきたのかなって思うんです。何不自由なく高校を出て、何の疑問も持たずこんな学費のかかる私学に来て、親の仕送りで一人暮らしして学生生活を目一杯謳歌して、就職は実家から通える範囲。時々、夜中とかに、叫びだしたい気持ちになることもあります。人生にいたたまれない気持ちっていうか」
「人生にいたたまれない、か」
相変わらずシャープな表現だ。
「それが、納得がいかない、につながるんだね」
神谷さんはうなずいた。
「不真面目な学生生活を送った覚えはありません。留年はしましたけど。でも、だからこそ、自分なりに社会をよくしたいと思って入った大学を、こんな気持ちで卒業でよかったのかなって」
「そうか」
僕は腕を組んで背もたれに深くよりかかった。
なんて言えばいいんだろう。これは神谷さんの全力の直球だ。
僕はこのボールをキャッチして投げ返す責任がある。
「僕も、自分より苦労してそれを乗り越えてきている人の前に出て、自分を恥じるような気持ちになったことはある。神谷さんが言いたいのはそういうことかな」
神谷さんは曖昧に頷いた。
「そうかもしれません」
「僕はいま、仕事として教育と研究をしている。でも、神谷さんの言うように、この仕事が誰の何の役に立つんだろうって思うことはあるよ。目の前でつらい思いをしている人に僕が何をできているんだろうって思うことも」
神谷さんは、声もなく、でも今度は深く頷いた。
「でも、だから僕は、今神谷さんの話を聞いて、すごくほっとした」
「どうしてですか」
「今自分の置かれた状況に疑問を持つこと、このままでいいのかと自問することが、何かの役に立つことの始まりじゃないかなと僕は思うし、今まで当たり前だと思ってきたことをあらためて問い直したり、違う視点から考えることができるなら、それこそが学問の価値だと思う。誰かの役に立つことや、何か後に残っていくことは、そこをスタート地点に始まるんじゃないかな。神谷さんが卒業に際してそういう気持ちを持ってくれたこと、その気持ちを指導教員の僕に言おうと思ってくれたってことは、神谷さんは僕が……僕たちが一番伝えたかったことに気がついたということだ。つまり、僕が教員の一人として学生生活に関わらせてもらった意味は何かしらあったんだと思うし、ここをスタートに神谷さんが世の中の役に立つことをいずれ成し遂げてくれるなら、僕の仕事も間接的ではあるけど、世の中の役に立つことになる」
難しいです、と神谷さんは眉根を寄せて考え込んだ。
「わかりにくかったかな」
僕も考え込んでしまった。
「とにかく、目の前のことからやるしかないし、卒業はするしかないし、でも考えるのも悩むのもやめちゃだめってことでしょうか」
「……うん。全く間違ってない。でも、さっきの話からよくそこに着地したね」
僕が感心して言うと、神谷さんはちょっと胸を張ってにこっと笑った。
「吉見先生の一番弟子ですから」
「また大学に戻りたくなったら、いつでもおいで。社会人編入もあるし、一度就職してからなら、また見えるものも違うと思う」
僕はデスクの引き出しを開けると、学会の時に持って行く名刺を一枚取り出した。大学、役職名の他に、メールアドレスが二つ印刷されたものだ。
「僕はずっとここで仕事をできる訳じゃないから、所属が変われば大学のメールアドレスは使えなくなる。まだ来年度はおいてもらえるみたいだけどね。ここに書いてあるアドレスは、個人で作った仕事用のもので、何年か経って、また神谷さんが勉強したくなったときでもつながるはずだから、もし必要があれば連絡をください」
パソコンでしかチェックしないから、携帯のアドレスほど早く返事はできないけどね、と言い添えて渡すと、神谷さんはきちんと両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「お友達のことは、確かに心配だよね」
「そうなんです」
神谷さんは眉をハの字にした。
「正直、すごく複雑でデリケートな対応が必要なケースじゃないかと思う。僕も専門家じゃないからわからないけど。その人が一番何を必要としているか、きちんと見極めて、福祉や行政につなぐべきじゃないかな。餅は餅屋に任せて、神谷さんは友達でいることにできるだけ専念したほうがいいと思うよ。
『援助者』は探せばきっと何かしら見つかるけど、『いい友達』は、失ってしまえばもう一度見つけるのは大変だから」
「いい友達、ですか。うん、わかる気がします」
「援助機関を探すのに、必要なら、カウンセリングセンターの学生相談に行ってごらん。たぶん、地域の情報を持っているはずだ」
今日一番の晴れやかな顔で彼女はうなずいた。
「私にできることが何で、やらない方がいいことが何か、よく考えてみます」
ありがとうございました、と頭を下げると、彼女はつむじ風のように去っていった。
パタン、と軽い音を立てて閉まったドアの向こう側で、かすかな足音が去っていく。僕はこちら側で、椅子の背もたれにぐったりともたれかかった。無機質で白い天井を見上げると、知らずため息がこぼれた。
病院でサトカさんと別れてからもう三日になる。
自分よりもよほど厳しい環境で、毅然と顔を上げてきた人の前に僕はどう立てるだろう。惨めでいたたまれない気分なのは僕の方だ。あの人が僕を見限ったとしても無理はない。
自己卑下が何の役にも立たないことは知っているし、自分の過去も現在も変えられる訳じゃない。無い物ねだりをしても仕方がない。諦めるつもりがないなら、今自分が持ち合わせているものでチャレンジするしかない。でも、僕はどうにも身動きがとれないでいた。
僕は彼女に何ができるだろう。
自問しても答えがでない。諦めたくない、ということだけははっきりしていたのだけど。














