20 見つけた探し物 ――S
はっと気づいたら、病室に朝食が配膳されているところだった。母の意識レベルの確認で夜中に何度か看護師さんが来てくれるはずだったのだが、私の方はさっぱり意識を取り戻さなかったということか。
「おはよう。ずいぶん迷惑掛けちゃったみたいね」
母が照れくさそうに言った。
「気分は?」
変な姿勢で長時間過ごしていたせいで強張った身体を伸ばしながら私は尋ねた。
「目が覚めたら救急車で運ばれて病院にいた人間としては、悪くない」
「そう」
それはよかった、と呟くと、もう話せることはなくなった。今話したら泣いてしまう。
母がふつうに目を覚まして会話をしている。そのことがこんなにありがたいなんて。
「私、今日の仕事休めるか店長に聞いてみる。電話してこなきゃ」
バッグを持って逃げるように病室を出た。携帯電話の通話が許可されている談話スペースは、朝食時間ということもあり、誰もいなかった。
スマホのスリープモードを解除した瞬間、私の目は無意識にメッセージアプリに新着マークがついていないことをチェックしていた。違う。電話を掛けにきたの。がっかりしている自分に内心で腹を立てながら、私は店長の番号をアドレス帳で引き出した。
いつもエネルギッシュに動き回っている店長は、電話に出るのも早かった。普段ほとんど有給を使っていないこともあり、すぐに今日の休暇は認めてもらえた。
「今日が月曜日だから、明後日は永井さん、休みの日だ。明日のことは、落ち着いてから相談してくれればいいからね。家族の一大事なんだから」
「ありがとうございます。この後、ドクターの診察があるので、それが済めば見通しも立つと思います。カナエさんにもよろしくお伝えください」
「うん、お大事に。永井さんも無理して体調崩さないように」
改めてお礼を言って電話を切った。ふと思い立って一階に降り、院内のコンビニでコーヒーとサンドイッチを買って母のところに戻った。
食べなきゃ。カフェインも味方してくれるはずだ。生活は待ってくれないのだから。
「今日は休ませてもらった。診察いつかわかった?」
「九時過ぎだって」
私は簡素な丸椅子に掛けて、サイドテーブルに置いたレジ袋から卵サンドを取り出した。封を開けてかじる。あまりおいしいとは思えなかったが、仕方ない。食べないよりましだ。コーヒーで流し込むようにその一口を飲み下してから尋ねた。
「いつ、どうして転んだの?」
母は食べ終わった朝食のトレイを少し押しやって、ベッドのヘッドボードにもたれかかった。
「たぶん、里佳が帰ってくる直前なんだと思う。八時過ぎだったかしら。箱を下ろそうとしていたときに路地の表の方で話し声がした気がして」
慌ててバランスを崩し、踏み台から落ちたのだという。
「どこから指摘したらいいのかな」
私が怖い顔をすると、母は大げさに肩をすぼめてみせた。
「わかってる。一人でやっちゃダメっていう、クリニックの先生との約束を忘れてたわけじゃないの」
「二時間ルールもね」
「でも、片づけしてた訳じゃないのよ。探し物していただけだもの」
「子どもか! そんな言い訳通用しません」
「わかってるわ。だから、里佳に見つかったら怒られると思って、慌てちゃったのよ」
私は猛烈に腹が立ってきて、残りのサンドイッチに大口でかぶりついた。お行儀なんて知るか。病室でこの分からず屋を怒鳴りつけない分別があるだけで十分だ。
「本当にごめんなさい」
しょんぼりした様子で母が言う。これだ。この顔をされると弱い。父もよく苦笑混じりに言っていた。
「本当にびっくりしたし心配しました」
敢えて怖い顔をキープして言った。
「はい。反省してます」
「親子が逆じゃないの?」
そうねえ、と母は笑った。こんな風に笑う母を久しぶりに見た気がした。
「里ちゃんとはずっと親子が逆になっちゃってた気がするわ。でも、お母さんも心配したのよ。上着も携帯もなしで家出したでしょう」
今度は私が身を縮める番だった。
「はい。もうしません」
もう、二度と。家を出て、行く先なんてありはしない。
そう思ってから気がついた。
「さっき、片づけしてた訳じゃなくて探し物をしてたって言った? 何を探してたかわかったの?」
「たぶん見つけたと思う」
母は遠くを見つめるように窓の外を見た。私が電話を掛けにいっている間に看護師さんがカーテンを開けてくれたのだろうか。弱い冬の朝日に、すっかり葉の落ちたケヤキの枝が精巧な切り絵のように浮かび上がっていた。
「家に帰ったら、里佳と話さなくちゃいけないことがたくさんあるわ」
その後は私がいくら聞いても、家に帰ったら、と繰り返して母はその件に触れようとしなかった。
◇
診察は問題なく終わり、数日間は意識レベルが急に低下しないかこまめにチェックすること、という条件で退院が決まった。
手続きや支払いを終え、病院からタクシーを使って、帰宅したのはもう昼近かった。
疲れた。
自分の身体が砂の詰まった袋になってしまったみたいだ。
私がとりあえず身の回りのものを自室に置いて手を洗った後、どさっとソファに腰を下ろして動けないでいると、母がゆっくり立ち上がった。
「お昼にしましょう」
あわてて立ち上がろうとすると、母は手のひらをこちらに向けて言った。
「私にだって昼ご飯の用意くらいできるわ。もう、リニアモーターカーだって走ってる時代なのよ」
「まだ試験走行だよ。っていうか、それってどういう意味?」
「火も包丁も使えなくたって、文明の利器を使えば料理ぐらいできるっていう意味」
訳が分からない例えだ。
「おばあちゃんや里佳ほどのものは作れないけど、とりあえず食べられるものを」
そう言って、母は台所に立った。
どうするのかと思ってソファから首を伸ばして見ていると、母はハムを手でちぎってシリコンの電子レンジ用調理器に入れ、コンソメの粉末、フライドオニオン、冷凍グリーンピースと合わせていき、電気ケトルでわかしたお湯を少し注いだ。コンソメを溶かすためだろう、軽くかき混ぜてから牛乳をなみなみと足して電子レンジに掛けた。電子レンジが動いている間に、ツナ缶を開けて水気を切り、こしょうとマヨネーズであえたものを食パンに乗せ、溶けるチーズを乗せていく。その様子を見ているうちに、お腹が小さく鳴った。
おいしそう。
少し元気が出てきて、私も台所に入った。
ケトルにはたっぷりお湯が残っている。
母がツナメルトトーストをオーブントースターに入れているのを横目に、ティーポットとカップを出した。
「いい紅茶、淹れよう」
「お願い」
叔父がスリランカ出張の土産にくれた、鮮やかな更紗模様で彩色された缶に入った茶葉をメジャースプーンで計ってガラスのポットに入れた。
こうしていると、何も起こらなかったみたいに思えた。昨日の午後からのことが夢みたいに。
そう思った瞬間、胸の奥底がずきんと痛んだ。
そんな訳ない。私は自分のこの生活と引き替えに、あの人を傷つけた。
この痛みと共存していくしかないんだ。
あえて勢いよく、電気ケトルからポットにお湯を注いだ。華やかな香りが湯気と一緒にふわっと立ちのぼった。
こうやって茶葉を泳がせると、おいしくなるんですって。
そう言ったのは誰だっただろう。しばらく叔父のインド赴任についていった叔母が現地で教わってきたのだったか。
「あつっ」
しずくがはねて、ポットの持ち手を押さえていた左の親指にかかった。
「大丈夫?」
「ちょっとはねたのがかかっただけ。平気」
私は何でもないように微笑んだ。
平気。大丈夫。それでもちゃんとやっていける。
母の料理を食べたのは何年ぶりだったろうか。トーストもスープも、優しい味がした。紅茶はほんの少し渋かった。
食べ終わったところで母に尋ねた。
「ねえ、何を見つけたの。もう教えてくれてもいいんじゃないの」
母はため息をついてティーカップを置いた。
「そうね。おばあちゃんの部屋に行きましょう」
そこは昨夜、慌ただしく離れたままの状態で、踏み台が倒れ、段ボール箱が転がっていた。あの内臓を鷲掴みにされるような恐怖が蘇り、私はわずかに身震いした。
嫌な記憶を消し去るように、もとは縁側だった廊下に通じる雪見障子を開けて、その向こうの、廊下と猫の額ほどの庭を隔てているサッシ窓も大きく開け放った。昼下がりの日差しと冷たい風が一気に流れ込んでくる。冬の空気は、昼間の縁側にいつも漂っているちょっと香ばしいような日向のにおいも巻き込んで吹き払っていった。
これで、少しはましになった。
十分空気が入れ替わったところで、私はサッシを閉めて振り返った。
母は転がっていた段ボールを起こして、中身をあらためているところだった。
「やっぱり、ここにあったのね」
ほとんど独り言のように呟く。
私が近づくと、母は身体を斜めにして、私にも箱の中身が見えるようにしてくれた。
「アルバム?」
はっとした。背表紙に書かれた日付は順序もバラバラで、慌てて詰め込まれた箱のようだったが、新しいものでも十年あまり前、古いものでは数十年前のものも読み取れた。
「これ、もしかして」
「お父さんのものね」
私が言いよどんだ一言を、母は敢えて言葉にして言った。
「おばあちゃんも見ることができなくて、あんな奥にしまっていたんだわ」
母は一番上に乗っていた一冊を手にとって無造作にページを開いた。
そのまま黙って、母は写真に見入った。
私も、古そうな一冊を抜き出して広げてみた。父が学生の頃だろうか。
見知らぬ若い男女に混ざって、山頂記念碑の前でポーズをとっている集合写真。ギターを抱えて手元を見つめているスナップ。父が海の前で、サーフボードをルーフに乗せた車に寄りかかっている写真の、隣にいるのは母だ。
私の知らない父だ。……何となく、以前から思っていたことだけど、ちょっとカッコつけるというか、流行を追いかけるタイプだったんだ。この中の一つでも、続いた趣味があっただろうか。
「ほら、里ちゃんの七五三。三歳ね」
母は自分が広げていたアルバムをこちらに向けた。
写真の中では、見覚えのある近所の神社の境内で、着物姿の幼い私が今よりだいぶ若い母に手を引かれて立っていた。
「すごいふくれっ面。何でこんなにやさぐれてるの」
「着物が着慣れなくて、不機嫌だったんじゃないかしら。祈祷の間中、お行儀よく座ってなくちゃいけなかったし」
ページをめくると、三歳の私は父の腕の中で満面の笑顔を浮かべていた。綺麗に結われた髪を意にも介さず父の肩に頭をこすりつけて甘えている。
「疲れたからだっこをせがんで、思い通りにしてもらってご機嫌なのね」
「そうね。里ちゃんは本当にお父さん子で、お父さんが構ってくれたらすぐに泣き止むし、お父さんの行くところはどこでもついて行きたがったわ」
母はアルバムの中の写真を指の腹でゆっくり撫でた。
「覚えてる? 私がお父さんとちょっとしたケンカをすると、お父さんは決まって里佳を助手席に乗せて車で出かけちゃったわね。それで、一時間くらいすると、私には抹茶、里佳にはチョコモナカのアイスクリームを買って戻って来るの」
「覚えてる。自分用はあずきバーで、おばあちゃんにはいつもプリンだった」
「あの時、何をしていたの? ずっとタイミングがなくて聞けなかったのよ」
私は写真の中でこちらに向かって微笑みかける、自分の記憶の中よりほんの少し若い父の顔を見つめた。この写真は母が撮ったものだ。だからこの父の笑顔は母に……母だけに向けられたもののはずだ。
「別に何もしなかった。私も、そんな時に話したいことなんてなかったし、お父さんは私に愚痴を言ったり自分の主張を正当化したりはしなかったし。大音量で洋楽のロックを掛けて、黙って車に乗って海の見えるところまで行って、クルマから降りて、三分も海を見たら、帰るぞ、母さんが心配してる、って言うのよ。誰が心配掛けてるのよって決まって私は言い返してた。それで、またロックを聴きながら車に揺られて、そこの国道の角のコンビニでアイスとプリンを買って」
言いながらやっと腑に落ちた。だから、高校生になって何かにモヤモヤしたとき、父のロックを聴こうと思ったんだ。横で見ていた父なりの対処法が知らない間に私に染み着いていたということなのだろう。
「私はうらやましかった。どっちにうらやましかったのかすらわからないわ」
母は低く呟いた。感情がごっそりそげ落ちたような、初めて見る横顔だった。
「……うらやましいって」
「あなたはお父さんに本当によく似てる。好きなものも、考え方も。私はあの人とそんな共通点をあまりもてなかった。大きな衝突はなかったけど、小さなケンカばかりしていた。どっちが里佳のことをよくわかっているか、なんてくだらないことで張り合ったりもしていた。習い事は何をさせるのか、どれを続けるのか。塾は、進路は。そういう大きいことから、小さいことでは着せる服や買ってくるおやつまで。里佳がお父さんの選んだものを選ぶたびに勝手に傷ついて、私の選んだものをえらぶと勝ち誇った気分だった。たいていはお父さんの方だったけど。今思えば本当にバカみたいなことをしていたと思う。
だから、罰が当たったと思ったの。あの人が帰ってこなかったのは私が文句ばかり言って、向こうを張って、ゆったり休める家庭にしていなかったからだと。神様が怒ったんだろうと。
里佳の言う通りよ。あなたが何が好きでどうしたいのか、私もあの人もあなたに聞けばよかったのに、私がそれを競争する材料にして、結局は何もかもなくしてしまった。
ずっと、あなたと話をしなきゃいけなかったのに、逃げていたことに、病気になって動けなくなって、ようやく気がついたの。里佳からお父さんを奪ってしまったのに、まだ私はあの人を許せなくて、ずっとあの人の話をするのを避けてきたんだって」
私は身動きもできず、息をのんで聞いていた。気づいたら頬を涙が滑っていた。
母のせいではない。直面しないで避けてきたのは私もきっと同じなのだ。
母がこんな風に自分を責めていたなんて、私は想像すらしていなかった。
「私は私のせいだと思っていた。私を中学受験させるために無理をしたんじゃないかって。私が原因で二人がケンカしていたんじゃないかって。私がいなければ、もっと心配事もなく穏やかに仲良くいられたんじゃないかって思ったこともある。おばあちゃんにも誰にも、言ったことはないけど」
母は私の手を取って、ぎゅっと握った。驚くほど強い力だった。
「ごめんなさい、里佳。私は自分のことに精一杯で、あなたの気持ちを見つめようとしなかった。自分のしたこと、しなかったことに向き合うのが怖かった。あなたのせいじゃないのよ。まだ子どもだったあなたにそんな一言も言ってやれなかった。そんな風に思っていたなんて、想像もしていなかった。お母さん失格よ」
「私が言わなかったもの。私だっておばあちゃんだって、お母さんとゆっくりお父さんの話をしようとしなかったのね。そうして、気を遣っているつもりで結局、お母さん一人にしてしまった」
私は母の手を握り返すと、その肩に額をつけた。
「お母さん、ごめんなさい。それなのにケンカの時、ひどいことを言ってお母さんを責めて。私お母さんのことが大好きよ」
ごめんねごめんね、と母は子どものようにしゃくりあげた。私は母の手から自分の片手をそっとほどくと、背中に回してとんとんとさすった。
「私、つい最近、言われたの。生老病死は人の力が及ぶことじゃないって。私もお母さんも、自分のせいだって思うことをやめないと、前に進めないのかもしれない」
そうだ。あの人はやっぱり、正しかった。いつも、大事なことは後から気がつくんだ。
そう思うと、また涙がこみあげた。でも、ぐっとこらえた。あの人が私に正しい言葉をくれていたなら、せめて今、私は正しい行いをしなくちゃいけない。自分のバカさ加減を責めるのなんか後でもできる。
「あのね。お母さん。お父さんと私が二人で出かけたり、おしゃべりしてたとき、お父さんはいつも、お母さんのことばかり話してた。お母さんと見た映画、お母さんの好きな色、お母さんの苦手な匂い、出会った頃の流行りの歌。大好きだとか愛してるとか逆立ちしたってお父さんは言わないと思うけど、もう、十を越えたら私にだってのろけてるのくらい丸わかりだった。お父さん、最後に照れくさそうに、こんな話を里佳にしたのは内緒だぞって、必ず言ったの。でも、もう、私お母さんに言っちゃう。天国でもう一度会ったとき文句言われたって、知るかふざけるなって言うつもりなんだ。さっさと一人で先に行っちゃっておいて無責任なこと言わないでよって」
母は低い声で少し笑った。
「本当にそうね。一人でさっさと行っちゃって、いやなお父さん。もっと待っててほしかったわ。今頃悔しがってるかもしれないけど」
そんな風に思ってみたことなかったわ、と付け足すと、母はため息をついた。
「やっぱり、里佳はお父さんにそっくりよ。知るかふざけるなって、あの人、笑いながらよく言ったわね」
母は私の肩に両腕を回してぎゅっと抱き寄せた。小さい頃にいつもしてくれた、私の大好きな仕草だった。
「私、里佳がいてくれて本当によかった」














