19 パニック ――S
いつも、彰実さんが送ってくれる路地の角にきた。ここでお礼を言って私は角を曲がり、彰実さんは見送ってくれて、私が玄関にたどり着いたら去るのがいつものパターンだった。今日は彰実さんは私と一緒に角を曲がり、我が家の玄関へと向かっている。
現実感がなかった。好きな人に好きだと言ってもらって、ややこしい事態なのに挨拶しましょうと誠実に言ってもらって。こんなに幸せなことはないはずなのに、実感がわかない。
彰実さんの言葉や真意を疑っているのではない。私にはもったいないくらい優しくてまじめで意志の強い人だと思う。
それが問題なのだ。
私にはもったいないほどの幸運は、やっぱり神様に取り上げられてしまうんじゃないだろうか。そんな不合理な不安が私の内心をずっとむしばみ続けていた。
こんなのは杞憂だ。母はきっと、彰実さんのことを信用してくれるし、喜んでくれる。今までだって時々、さして本気でもない口調で、里ちゃんはいい人いないの、なんて言うこともなかったわけではないし、娘の年齢くらいは覚えているだろうし。
私は玄関の鍵を取り出した。古い曇りガラスの引き戸の向こうが、妙に暗い気がして胸騒ぎがした。
「ただいま」
屋内に入り、声をかける。居間の明かりは一段暗くされていた。もう寝てしまったんだろうか?
靴箱の上に置いている時計に目をやった。八時半。
さすがに、明かりを落として休んでしまうには早いような気がした。それとも、まだ私に腹を立てていて、顔を合わせないように自室にこもっているのだろうか。
「ちょっと待っててください」
彰実さんを玄関に残して、私は家に上がり、居間の障子を開けた。母の姿はない。
「お母さん?」
続きの祖母の和室から、明かりが漏れているのに気がついた。
「まだ片づけしてるの? 一人でやっちゃダメだって、先生が……」
言いながら和室に通じるふすまを開けた。のどの奥で声が凍り付いた。
母は畳の上に倒れていた。足元には踏み台が転がっている。
脳裏にフラッシュバックする光景が、目の前のそれと重なる。
あの時もこうだった。
転んで起き上がれなかった。おばあちゃん。
痛みにうめいて、苦しんでいた。
「お母さん!」
自分の悲鳴が他人の声のように耳に届いた。
目の前の母は身動きもしない。
「サトカさん?」
彰実さんの慌てたような声。
私は畳にひざをついて、母の肩に触れた。温かい。
「お母さん! ねえ、お母さん!」
「サトカさん落ち着いて」
彰実さんがいつの間にか隣に来ていた。低い、穏やかな声だった。母の肩をつかんだ私の肘を優しく、でもきっちり押さえている。
「頭を打っているかもしれません。揺すっちゃだめだ。耳元で声をかけて。肩はつかまないで軽くつねって」
私は自分がしゃくりあげたような浅い呼吸になっていたのに気がついて、意識して深呼吸した。
彰実さんの言うとおりだ。しっかりしなきゃ。
「呼吸はありますか」
私は母の胸から腹部をじっと見つめた。緩やかに上下している。
「あります」
耳元で呼んでも、母は軽く唸るだけでまともな返事はしなかった。
彰実さんは辺りを素早く見回して、テーブルの上にあった封筒を取り上げた。通信販売のカタログだ。封筒の表書きを私に示して、確認した。
「この家の住所ですね」
私がうなずくと、彰実さんは立ち上がってコートのポケットを探った。
「救急車、呼びますよ」
私の返事も待たず、スマホを操作して電話をかける。母の状況、ここの住所と手際よく必要な情報を伝えているのを、私はほとんど呆然として聞いていた。
おばあちゃん。タクシーで病院に運んだ。痛い痛いと泣き言を言い、ごめんねえ不注意だったからと謝り続けていた。
二度と、元気でこの家に帰って来ることはできなかった。
電話を切って、彰実さんは私に向き直った。
「スマホとバッグを用意して。すぐに来てくれます。お母さんの保険証はわかりますか」
私は慌てて自分の部屋に戻り、普段のバッグにスマホとお財布を入れて戻った。母は保険証をいつも持ち歩くバッグに入れていたはずだ。それも居間のソファの横で発見した。彰実さんは母の首筋に右手の人差し指と中指を揃えて触れ、自分の左手首の腕時計を見つめていた。
「脈はしっかりしてます。大丈夫ですよ」
母の首から手を離し、立ち上がろうして、彰実さんは何かに気がついたように身を伸ばした。私もつられて近寄ると、彰実さんは倒れた踏み台の向こうを指差した。大きな段ボール箱が転がっている。
「あれを、上げるか下ろすかしようとして転んだのかな」
見覚えのない箱だった。ふと見上げると、押入の上の天袋の引き戸が開けっ放しになっている。私も母も背が高くないので、片づけの際には後回しになって手付かずだったところだった。
サイレンの音が近づいてきた。
明日はきっと、広瀬さんのゴシップサークルはこの救急車の話で持ちきりだろう。そんなどうでもいいことがふと脳裏をよぎった。
「救急車の付き添いは、家族一人しか乗れないと思います。バッグちゃんと持って。家の鍵も。行き先を聞いたら僕もタクシーで追いかけますから」
トントンと私の両方の二の腕を叩いて、私の顔をのぞきこむようにして彰実さんは言った。私ははっとして我に返った。
「いえ、そんなご迷惑をおかけするわけには」
「何言ってるんですか。これで帰ったら心配で僕も眠れませんよ」
明るく彰実さんは言う。
私は泣きたくなった。
全部私のせいだ。ケンカなんかしたから、母は私を待たずに一人であんな箱を下ろそうとしたんだろう。家を飛び出していたから、倒れたのにも気づかなかった。彰実さんまで巻き込んで、何をしてるんだろう。
サイレンの音が近くで止まった。路地に面した窓から、慌ただしく物を降ろす音や話し声が聞こえてきた。彰実さんが玄関を開け、救急隊員がきびきびした物腰で入ってきた。リーダー格とおぼしい隊員のいくつかの質問に私が受け身で答えているうちに、他の隊員が手際よく母を担架に乗せて運び出していった。促されて私もバッグを二つ持ち、家を出た。鍵を持って、と、さっき念を押されたことを思い出して、戸締まりをした。
すっかり彰実さんを頼り切っている自分に気がついて、じりじりとした焦りを覚えた。こんなんじゃだめだ。私がしっかりしてお母さんを守らなきゃ。今度こそ、この家に元気で帰ってこさせなきゃ。
でも、膝に力が入らない。
私が乗り込んで、崩れるように付き添い用の席に座ると、ほどなく、救急車は再びサイレンを鳴らして発車した。
夢から覚める音だ、と思った。このサイレンが、夢の向こうから私に呼びかけている目覚ましのベルなんだ。頬を涙が伝った。何に泣いているのか自分でもわからなかった。おばあちゃん。お母さん。彰実さん。私はこれ以上何を失うんだろう。何なら失わずに済むんだろう。何を失いたくないんだろう。
母を案じて泣いていると思ったらしい隊員が、何か声をかけてくれた。私は調子を合わせて相づちを打ったけれど内容はさっぱり頭に入ってこなかった。
◇
私が呆然としているうちに、救急外来での治療は矢継ぎ早に進んだ。母はあっという間にCTスキャンに連れて行かれ、私はよくわからないまま、ずっと待たされた。病院に着いてほどなく、廊下のベンチで座って待っているとき、彰実さんが来てくれた。私の横に座ったけれど、私も彼も何も言わなかった。
ようやく私が診察室に呼ばれた。彰実さんも立ち上がりかけたけれど、私は手で制した。
「一人で大丈夫です。ここにいてください」
病院のにおいがする沈黙の底で、私は結論を出していた。
彰実さんを巻き込んではいけない。これは私が背負うべき責任だ。
他には何もほしがらないから、神様。
お母さんを助けてください。
診察室に入ると、医師がCTスキャンの画像をコンピューターの画面上にいくつか並べて説明してくれた。母は病院に着いてから少ししてかなりはっきり意識を取り戻したらしい。骨や脳に画像上のダメージは見つからず、今すぐこれ以上深刻な事態になる可能性は低いこと。安静にした方がよいこともあり、今晩は経過観察のために入院すること。数日間のうちに、意識状態が下がってもうろうとすることがあるかもしれないが、その際はすぐに再受診してほしいので、気を付けて生活すること。心療内科で処方されている薬の影響でめまいを起こした可能性もあるので、改めて主治医に相談した方がよいこと、などが淡々と告げられた。私はただうなずきながら聞いていた。
医師の説明が終わると、入院についての説明を事務員と看護師がしてくれた。私の脳はもうオーバーワーク気味で、すべてが理解できたわけではなかったが、レジュメにまとめられたものもくれたので、落ちついてから読み返せばいいや、とあきらめた。家族を救急搬送されたら、誰だってある程度は放心状態になるだろう。今だいじなことは、母がきちんと医療の庇護の下にいるということだ。
私がナースステーションから戻ってくると、彰実さんはベンチから立ち上がった。スーツとまではいかないけれど、普段よりよほどかっちりした服装をしているのに今さら気がついた。ぼんやりと、似合うな、かっこいいな、と思ってから、気がついた。外向きの仕事で出かけていたからだ。そこに私が転がり込んで、この人は普段着に着替える間もなく、ずっと私の面倒をみてくれていたのだ。もう夜更けだというのに。全身をかきむしられるようないたたまれなさを覚えた。
「どうでしたか」
辺りの静寂にはばかってだろう、低くささやくような声で彼は尋ねた。
「今晩は入院することになりました。でも、CTの結果は悪くないので、このまま行けば明日の朝には帰れると思います」
「よかった」
彰実さんは心底ほっとしたようにため息をついた。
「私は付き添いでここに残らせてもらうことにしました」
「それが安心ですね。明朝に退院なら、どうせまたすぐ来なきゃいけないし」
じゃあ、僕は帰ります、と彼は微笑んだ。
途端に心細い気分になって伸ばしかけた手を、私はこぶしに握りしめた。こんなんじゃだめだ。今、はっきりさせなきゃいけない。この人に、というより、自分に。
もうここには戻らないのだと。
「少しだけ、お話があります。外で話せますか」
目を見て言った。彰実さんはいぶかしそうに私の顔を見返した。
「もちろん」
時間外出入口に、あえて先に立って向かった。今、手をつないだり触れられたりしたら、私の決心なんて波打ち際の砂の城くらい簡単に消え去ってしまうだろう。
夜が更けるにつれて屋外の気温はぐっと下がっていて、今はもう吐く息が白く見えるほどだった。ロータリーはいくつかの照明で照らされて、あたりを白けた淡い色にかえている。
出入口から十分に距離を取って、私は立ち止まった。救急患者を運ぶ車両は出入り口にぴったりつけて停められるはずだ。ここなら、邪魔にもならないし、さして興味をひくこともないだろう。
「お話しって?」
切り出しあぐねている私に、彰実さんは静かに尋ねた。
「あの、こんなところまでついてきてくださって、本当にありがとうございました。私一人だったら、おろおろしてしまって、こんなに早く、救急車を呼んだりできなかったと思います。母の命を助けてくださったのかもしれません」
彰実さんはちょっと面映ゆそうに、肩をすくめた。
「サトカさんこそ、お母さんのことなのにここまでよく落ち着いて対応しましたね。僕は初対面ですから、かえって冷静に対処できる面はあったでしょう」
ずるい。どうしてこのタイミングで、この人はこんなにやさしいことを言うんだろう。私が、不器用だけど見栄っ張りな鴨みたいに、水面の下で必死に水かきを動かしていることをどうしてわかってしまうんだろう。
私は、ぐっとうつむいて喉の奥にこみあげてくる塊をこらえた。
「お話ししたいのは、全然別のことなんです」
「別のこと?」
「さっきのお話です。付き合ってほしいと言ってくださった」
私は、彰実さんの顔を見ることができず、自分のつま先を見つめながら一気に言った。
「やっぱり無理です。ごめんなさい」
「無理って、どういうことですか」
彰実さんの声のトーンが一段下がった。
「無理です。そんな風に、思えない」
「僕のことを?」
そうです、と言えれば、どんなに簡単だっただろう。でも、その一言はどうしても声にならなかった。
「サトカさんは嘘がつけないんですね。振るならもっと上手く振ってくれませんか」
その声にははっきりと怒りがにじんでいて、私ははっとして顔を上げた。彰実さんは今までに見たことがないほど怖い顔で、私を睨んでいた。奥歯をぐっとかみしめているらしい顎のあたりが、岩のように頑固そうに見えた。
怖いんじゃない、真剣なんだ。
「私、誰かとお付き合いできるような人間じゃないんです。母の面倒も見なきゃいけないし」
「お母さんがそうおっしゃいましたか?」
「まだ話してません。でも、母は私のせいで死にかけたんです。今回のことだけじゃない。私を育てるのに、命を削ってきたんです。なのに、私は母を放り出して逃げていた。母に何かあれば、私は自分が許せません」
「あなたの留守中に、お母さんが転んでけがをされた。不幸な事故ですけど、あなたに責任があるとは僕には思えないんですが」
「私にはもう母しかいないんです。父も、祖母ももういない。母を失いたくないんです」
「それとこれと何の関係があるんですか」
声はあたりに遠慮してか低く殺したものだったが、その分かえって凄味があって、私は凍り付いたように彼を見上げて動けなくなった。
「僕が嫌いだから無理です、考え方が合わないから無理です、なら納得もします。正直、きついですけど。でも、今の話はあまりに筋が通らない」
「でも、このままでは、私、あなたに迷惑しかかけません。今日だってそうです。そんなの、嫌です」
「僕にとって何が迷惑かは僕が決めます。サトカさんじゃない」
ぴしゃりと言われた。
「誰かと付き合える人間じゃないって何ですか。資格もへったくれもないですよそんなもの。何がそんなに不安なんですか」
私は絶句した。頭がうまく働かない。何か言い返さなくちゃいけないのに、警報音みたいな耳鳴りがわんわん響いて、言葉がまとまらない。
彰実さんは怖いくらい真剣な顔のまま、たたみかけるように続けた。
「お母さんを失いたくないと言いましたよね。でも、さっきのお話なら、お母さんは安定した容体なんでしょう? 何が怖いんですか? 僕の特別な人になってくださいと言ったのとどんな関わりが? 誰かがいなくなること? それとも、僕が浮わっついたことを言っていて、信用できないと?」
私はこらえきれずに耳をふさいだ。押し殺した悲鳴に似た声は、また、もう一人の自分が発したもののように遠く聞こえた。
「私の何がわかるんですか! 勝手に想像して問いつめないで」
彰実さんは平手打ちされたかのようにはっとして、口を押さえた。気圧されたように半歩下がる。
「……すみません。そんなつもりじゃ」
ここが最後のチャンスだと思った。私は残っている力を振り絞って言った。
「あなたが悪いんじゃありません。私、あなたといるとどんどん弱くなる。甘えてしまう。自分でしなきゃいけないことを頼ってしまっている。そんな自分が嫌なんです。このままでは、自分の甘さや努力不足で本当に誰かを不幸にしてしまう」
今度は、彰実さんが絶句する番だった。でも、否定と怒りが瞳の底にちらついて見えた。何か反論しようとしかけたのを、私は手のひらを見せて押しとどめた。
「帰ってください。恩知らずな態度で申し訳ありません」
彰実さんは私の目をじっと見つめた。私も意地でそらさず見返した。
「わかりました。今日は帰ります」
そしてきびすを返して静かに去っていった。
私はその背が曲がり角の向こうに消えるまで、その場を動けなかった。
絶対泣いてしまうと思っていたのに、涙はこぼれなかった。
疲れすぎていると、涙は出てこないらしい。
母と十四年ぶりくらいにケンカして、人生初の家出をして、好きな人に告白してもらって、母に付き添って救急車に乗って、交際期間三時間くらいで破局した。
乾いた笑いがこみ上げてきた。
今まで、変化なんて何もない生活だと思っていた。何もかもこんなにいっぺんに来なくてもいいのに。
夜間出入り口の小さなブースに詰めていた警備員さんに会釈して、静かな院内に戻った。
教えられた母の病室に滑り込むと、母はもう寝息をたてていた。
私は椅子をベッドに引き寄せると、座り込んだ。
自分の腕を見て、ようやく、借りた上着を返しそこねていたことに気がついたけれど、立ち上がって脱ぐ気力も湧かず、そのままベッドに突っ伏した。
上着を着たままの腕に顔をうずめると、シナモンのような甘いかおりと、日向のにおいが混ざって、病院のにおいから私を遠ざけるように包み込んだ。ちゃんとクリーニングして返さなきゃ。
目を閉じると彰実さんの顔が浮かんできた。見たことがなかった怒り顔。傷ついたように私を見つめていた。ようにではない。傷つけたのだ。あの人が軽い気持ちや一時の気まぐれなんかであんなこと言うわけがない。私は納得してもらえるだけの言葉さえ見つけられなかった。
ようやく痛みが追いついてきて、私は声もなくただ涙を流した。
もう起きあがれない。起きあがりたくない。何もかも、彰実さんに出会ったことさえ夢だったらよかったのに。こんな気持ちになるくらいなら。
私が誰かの夢のただの登場人物で、このまま夢を見ているその誰かが目を覚まして、何もかもがテレビのスイッチを切ったみたいに消えて終わりになってしまえばいい。
私はそのまま、うとうとと浅い眠りについた。














