1 帰宅 ――S
「ただいま」
からりと玄関を開けて入ると、家の中は冷え切っていた。
「こんなひどい雨なのに、遅かったじゃないの、心配したわ」
居間のソファの左隅、定位置から母が怨ずるように言う。
「ごめんなさい」
私は半ば上の空で、スーパーの買い物が入った袋を台所の床におくと、ヒーターのスイッチをいれた。
「帰ってきてくれたからいいけど。どうしたの」
「いろいろ切らしてて、買い物に寄らなきゃいけなかったの。パンも卵も」
嘘ではない。でも、なぜか、全てを話す気にもなれなかった。
「ああ、そうだったわ」
私が買い物に行けばよかったわね、と母は肩を丸めた。とたんに、罪悪感に襲われた。嫌みをいうつもりではなかったのだ。
買ってきたものをしまって、簡単な夕食をととのえながら、肩越しに尋ねた。
「今日、病院の予約あったでしょう? 行った?」
体を重そうに動かして、母はゆっくりと立ち上がり、食器棚に近づいた。茶碗や皿を出しながら、返事をする。
「行ったわよ、もちろん。明日の晩で薬なくなるもの」
どうやら、今日の予定を忘れるほど具合が悪かったわけではないらしい。
「よかった」
味噌汁をわかし、母が盛り付けた昨日の作り置きの副菜に、豆腐と青ネギをだしでさっと煮つけてたまごで閉じた一皿を添えると、母を促して自分も座った。
母が箸を取って食べ始めるのを見てから、会話を切り出した。
「先生は何て?」
「ずいぶんよくなったって。前回始めた薬が合ってるんだろうって。再来週もう一度診てもらって、良さそうなら、月一回通院にできるかもって言われたわ」
「お薬、ちゃんと飲んでるものね。焦らないで、じっくりつきあわないと」
母は笑みのようなものをわずかに頬に浮かべてうなずいた。
「はい、薬剤師先生。ずいぶん本物みたいになったじゃない」
「みたい、じゃなくて本物だよ。母さんこそ、憎まれ口をたたけるくらい元気が出てきてくれて嬉しい」
「いつまでもこうしてはいられないもの」
「それよ、それ。いつまでだって、こうしてていいって。いつかそのうち、自然に変わるから、それまでは無理に変えなくていいって先生言ってたじゃない」
「でもねえ」
「まあまあ。それより、みっこおばちゃんが送ってくれたりんご、食べようよ。初物だよ」
むいてくれる? と尋ねると、母は首を振った。
「刃物、まだ怖いのよ。あなたがやって」
そう言うと、またゆっくりと立ち上がり、食器棚のいつも一人分ずつ果物を入れるガラスのボウルに手をかけた。三枚取りかけて、静止する。私は息をのんだ。凍り付くような数秒が流れる。母は、ガラスのボウルを二枚と、それより一回り大きな染め絵の平皿をとりだした。
「お父さんとおばあちゃんは、お皿は一つでいいでしょう」
私は声も出せずにうなずいた。
八等分したリンゴの四切れを皿に載せると、私は居間の片隅にある仏壇の前に座った。少し色あせた写真から父が、まだ鮮やかな写真から祖母が、そっくりの笑顔でこちらを見ている。
「初物のりんごだよ」
そう言って手を合わせ、目を閉じた。心の中で付け足す。
お願いだから、お父さん、おばあちゃん、仏様。母さんの病気を治してください。
でもその瞬間、瞼の裏に不意に浮かんだのは、予想もしていなかった映像だった。片手に傘を差し、もう片手でタオルの固まりを大事そうに抱えた男性。私より、少し年上に見えた。くしゃっと無造作に顔を縁取っていた癖のある長めの前髪も、カジュアルなシャツとチノパンも会社帰りには見えなかったが。意志の強そうなしっかりした顎や鼻筋と、かすかに笑みを浮かべたような柔和な目元がはっきりと脳裏に焦点を結ぶ。穏やかな声が耳によみがえる。
お手伝いしましょうか。
参りましたね。
なんとかしましょう。
大丈夫、です。
なぜか急に、喉の奥がつまったような気がした。瞼の裏をチクチクと熱いものが刺す。
慌ててまばたきを繰り返して、こみ上げてきたものを散らした。こんなことでは、母に余計な心配をかけてしまう。意識してゆっくり深呼吸をくりかえし、自分に言い聞かせた。
大丈夫、大丈夫。
脳裏のあの人の声と重なる。
なんで私、あの人とあんなに話ができたんだろう。初めての人で、名前も知らない。連絡先も聞かなかった。でも、いつも、自分の言うことを意識しすぎて舌が凍り付いたみたいになるのに、なぜかさっきは思ったことを思ったままに話すことができていたと思う。
なんで私、あの人の一つ一つをこんなに覚えているんだろう。