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カナリア  作者: 藤倉楠之


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19/30

18 川沿いの遊歩道 ――A

 外は夕方からの北風でしんと冷えていた。サトカさんの家まで、歩いて二十分くらいだろうか。


 風自体は止んできていたので、住宅街の中を走る川沿いの遊歩道を通ることにした。街灯でしっかり明るい割に時折自転車やランナーが通るくらいで交通量が少なく、歩きやすいのだ。大学の行き帰りに足を延ばしてジョギングするときによく使うルートでもある。


 サトカさんは、僕の傍らで登山ジャケットの袖口からちょこんと覗いた指先に息をかけて暖めながら、呟くように言った。


「どうして、山だったんですか」


「え?」


「研究のテーマです。私、理系ですから、一般教養程度の知識しかありませんけど、社会学なら、もっと人里や都市で研究される方が多いんでしょう?」


「そうですね。狩猟関係は、民俗学や文化人類学の先行研究の方が多いです。でも、僕が知りたいこととは少しだけずれているし、その分やれることもあるかなと」


「彰実さんは、山、お好きなんですよね。それは何でなのかな、と思って。私はそんな風に人に話せる好きなものがないから、いいなあって思ったんです」


「何でかなあ。僕、じいさんっ子なんです。祖父は農家をしていて、合間に山菜取りとかキノコ取りとか、川に魚を捕るワナを仕掛けたり、色々教えてもらったんですよ。じいさん自身は狩りはしてなかったんですけど、飲み友達みたいな人たちには日曜猟師がけっこういて。じいさんの家で集まって一杯やるときなんか、僕は小学生ぐらいでしたけど、つまみ目当てに周りでうろちょろしてると、武勇伝をいろいろ聞かせてくれるんです。単純に、かっこいいなあって子ども心に思ったのが最初かな」


「登山とか、トレッキングじゃないんですね」


「ああ、そっち方向に関心が向いたことはあまりないな。根が食いしん坊なのかもしれません。食べられるものの話題が好きなんです」


「だから狩猟採集なんですね。採集って、山菜とりとかですよね」


「そうです。野菜も肉も、普通に店に行けば買えますし、ただ生命活動を維持するためにはそれで十分なんですけど、山でとれるものって、僕にとっては、もっと人間の野生の部分とつながれるような気がするんです。都会で生活してると、自分が生き物だってことを忘れそうになるんですけど、味覚からそういうことを思い出せるっていうか。うまく言えないですけど、元気が出るような気がします。

 だから、今日、あの店に行ったんですよ。元気だしてもらえたらいいなと思ったので」


 彼女はうつむきがちに歩きながら黙って僕の話を聞いていた。僕が言葉を切ると、噛みしめるように頷いて、ゆっくり微笑んだ。


「なんだか伝わるような気がします。分かります、と安易に言ってしまうと違うような気がするんですけど。元気は出ました。ちゃんと帰れそうです。……あの、本当にありがとうございました」


 遊歩道沿いに植えられた桜のたもとで彼女は足を止めて、深々と頭を下げた。僕も足を止めて、彼女に向き直った。


 違う。こんな風に感謝してもらいたかったわけじゃない。


 考える前に、言葉が口から滑り出していた。

「ずっと思っていたんです。サトカさん、僕と付き合ってくれませんか」


 サトカさんは、驚いたように顔を上げた。賭けてもいい、僕だって自分の言ったことに同じくらい驚いていた。でも、次の瞬間、すとんと腑に落ちた。


 そうだ。今、言わなくちゃいけなかったんだ。


 タイミングとか理屈とか、そんなこと考えてないで。


 ピヨを引き取ったときもそうだった。後から思えば今までの人生で一番賢い決断の一つだった。


 僕の直観は僕より賢い。


 サトカさんは泣きそうな顔をした。


「どうしてですか」


「どうしてって」


 好きだから。じゃだめなのか。


「私、多分、変なんです。自分でもまともじゃないと思います」


「どうしてですか」


 今度は僕が聞き返す番だった。


「情緒不安定すぎるし」


「思春期に忙しすぎてやってこなかったんなら、今になって、揺れることがあったっておかしくないでしょう。僕に言わせれば十分まともな親子ゲンカに聞こえます」


「さっきだって、母とケンカを始めたあたりから、自分が二人いるみたいな変な感じになって」


「サトカさんが変なんじゃないですよ。疲れているときに強いストレスがかかれば、そういうことだってあります。遭難しかけた人から、そういう奇妙な精神状態になった話は何度も聞いたことがあります」


「でも」


「心配ならもちろん、お医者さんに相談したらいいと思います。でも、それとこれとは話が別です」


「別って」


「サトカさんが病気だろうが薬を飲もうが元気だろうが、それで僕の気持ちが変わる訳じゃない。病気じゃないに越したことはないですけど」


 サトカさんはぽかんとして口を開けた。何かを言おうとしたようだけど、言葉にならないようだった。


「前にも言いましたよね。嫌ならそう言ってください。ストーカーにならないプライドだけはあります」


「嫌なら、こんな日に頼ったりしません。手をつないだり、送ってもらったりしません。部屋にだって入りません」


やっと言葉が口に追い付いたように、サトカさんは、早口で言った。


「私が自分で正気だと思えるのも、思ったことをいちいち吟味せずそのまま言葉にできるのも、下らない冗談を言ったり笑ったりできるのも、今はあなたと一緒にいるときだけです」


「じゃあ、いいじゃないですか」


 何でこんなに怒ったような、泣きそうな顔をしているんだろう。


「ずるい。そんな風に理詰めでふさがれたら、断れないです」


「断りたいんですか?」


「嫌です。断りたくなんかない。でも、だめなんです」


「それがわからないんです。どうして?」


「……私には、いいことなんて続かないから。きっとあなたを不幸にしてしまう」


 お父さんとお母さんみたいに。


 彼女が言わなかった言葉が僕にははっきりわかった。


「それは違う」


「でも、お父さんはいってしまったし、お母さんだって私のせいでさんざん苦労して病気になって」


「違います。あなたにはそんな大きな出来事をどうこうする力はない。生老病死は人の力の及ばない出来事です。僕にだってそんな力はない。でも、僕はあなたが一人で泣いているのは嫌だし、あなたが笑ってる声が好きです。泣いてるときはそばにいたいし、どうにかして笑わせたい。だから、僕にチャンスをください」


 僕は両手を彼女に差しのべた。彼女は、初めて出会ったときみたいに大きな瞳でこちらを見返した。


 もう僕にだってわかる。この人がこんな顔をするのは不安で仕方ないときだ。


 僕は一歩近付いた。彼女は逃げなかった。もう一歩。両手を伸ばして、その背中に回し、ふわっと抱き寄せた。生きている身体の確かな質量が僕の腕の中にすっぽり収まった。


 野生のカナリアを初めて捕まえた人ってこんな感じなんだろうか。


 彼女の後れ毛とキンモクセイの甘い香りが鼻をくすぐった。


「僕はサトカさんが好きなんです。サトカさんがいいんです」


 彼女は小さくうなずいた。


「わたしも、すきです」


 ため息のような小さな声だったけれど、確かに聞こえた。


  ◇


 どのくらいそうしていたかわからない。多分、そんなに長くはなかったと思う。


 僕はしぶしぶではあったけど、身体を離してサトカさんの手を取った。


「まだ、距離があります。お母さんが心配しますから、帰りましょう」


 ちゃんとお付き合いしたいのだから、ご家族の不興は買いたくない。


「はい。……あ」


 サトカさんは僕を見上げて微笑みかけ、直後に、奥歯の虫歯を思い出したような渋い顔をした。


「どうしましたか?」


「歩きましょう。歩きながらお話しします」


 サトカさんは僕が捕まえている手はそのままに、ちょっと怒ったような足取りで歩き始めた。

 何だろう。この手があるから、僕に怒っているわけではないと思うけど。


「私、彰実さんに言っていないことがあるんです」


「まさか、既婚者だとか言わないでくださいね」


「まぜっかえさないでください」


 すかさず言い返してから、サトカさんは唇をかんだ。


「母とケンカしたとき、すごく些細なことなんですけど、言い合いになったんです」


「探し物を教えてくれない、と」


「その後なんですけど、母も、私が言っていないことがあると」


 おぼろげに思い出した。


「そういえば言ってましたね。何を隠してたんですか」


「隠してたわけじゃありません」


 むっとした顔をしたけれど、言葉にちょっと覇気がない。


「じゃあ?」


 これです、と彼女はそっぽを向いてつないだ手を揺すった。


 訳が分からず、僕が戸惑っていると、しぶしぶ絞り出すように言う。


「何度か送っていただいたときに、ご近所のゴシップ主婦に目撃されてたみたいで」


 声に色が付くんなら、多分、今のサトカさんの頬や首筋と同じくらい赤いんだろう。もっとも、そちらも夜の闇ではっきりとはわからないけれど。


「噂で聞かされるなんてショックだった、付き合ってる人がいるんなら何で紹介してくれないのって」


 僕の顔も恥ずかしさで内側からかっと熱くなった。


「ええと、あの……」


 なんて言ったらいいんだろう。これはサトカさんが言い出しづらかったのも無理はない。


「すみません」


「彰実さんが謝らないでください。悪いのは無責任な噂話で人をだしに楽しんでる人たちなんですから」


「とはいえ、放置はできませんね」


 交際を申し込んだんだから、そのご近所のいけ好かない主婦たちはともかく、サトカさんのお母さんにはちゃんと筋を通さねばなるまい。


 僕は頭の中でいくつかチェックした。服装は出張帰りだからまとも。名刺は持ってるはず。時間もまあ九時にはなってないから遅すぎることもないだろう。


「今送っていったついでに、お母さんに、簡単に初対面のご挨拶だけさせていただくのはどうですか?」


「え?」


「正直にそのまま言うしかないでしょう。お友達づきあいをさせていただいていましたが、ごく最近、真剣におつきあいさせていただきたい、とお願いをいたしましたって」


「……ごく最近」


「そうでしょう?」


「物は言い様ですね」


「嘘はつかなくてもいいですけど、何もかも全部言わなくてもいいんじゃないですか」


 サトカさんは難しい顔をして考え込んでいたが、しばらくしてうなずいた。


「ありがとうございます。確かに、母はきっと安心すると思います」


 つないだ手に、きゅっと力がこもった。


 すみません、と、小さな声で言う。


「どうしてサトカさんが謝るんですか」


「つきあうってなって何分もたたないうちに、親に挨拶するなんて話になっていて。私じゃなければ、こんなことになってないですよね」


 僕は努めてむっとした表情を作った。ピヨを叱るときのテンションだ。猫を叱るなんて我ながら変な話だと思うけれど、ピヨは利口な猫なので、本気で話せば結構伝わる時もあるのだ。


「サトカさんじゃなければ、好きになってないですから。それは前提条件がおかしいんです。付き合ってくださいって言ったのは『ごく最近』ですけど、好きになったのもつき合えたらいいのになって思ったのも『最初から』だから、僕にとっては別に突然でも何でもありません」


 本当は緊張で足がすくみそうな自分もいるのだが、人生、見栄とはったりが必要な瞬間というのは確実に存在する。サトカさんが不安なときは僕がしっかりしていないと。


「最初から、ですか」


 サトカさんはちょっとまぶしそうな顔になった。


「どちらかというと、こいつをお母さんに紹介して大丈夫なのか? という疑問をサトカさんに持たれていないかの方が、心配かな」


冗談めかして言うと、彼女はポニーテールの毛先が踊るほど強く首を横に振った。


「私の人生に起こったことの中で、間違いなく一番いいことが、彰実さんです」


 そろそろ、サトカさんの家が近づいてきていた。川沿いの遊歩道から、階段を上がって一般の生活道路に出た。


 よく晴れた夜だったが、街灯の明かりが強くて、星はほとんど見えなかった。南の空、家並みとその向こうの高層マンションの隙間に一つだけ見えるのはシリウスだろうか。


 サトカさんはあやふやな声で言った。


「変なことを言うようですけど、夢を見てるみたいです。こうなったらいいのになって思いすぎて、ものすごくリアルな夢を見ているみたい。もうすぐ目が覚めてしまうんじゃないかって、この夢の時間が終わってしまうんじゃないかって、すごく不安です」


 サトカさんの言いたいことは何となくわかるような気もしたし、でも、それを肯定してしまうのも違うと思った。


 僕はつないだ手に力を込めた。


「いなくなったりしません」


 こんなとき、言葉は役に立たない。自分にも、それは妙に空虚に聞こえた。

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