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カナリア  作者: 藤倉楠之


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18/30

17 ぼたん鍋 ――A

 ピヨの世話をしてから一階に降りると、サトカさんは公衆電話の横の壁にもたれるように立っていた。僕の登山ジャケットはやっぱり大きすぎたようで、袖からほとんど指先しか見えない。


「お待たせしました。……連絡つきましたか」


 出入り口の方に向かって促しながら問いかけると、サトカさんは曖昧にうなずいた。


「いつも留守電なんです。防犯のために、メッセージを聞いてから、電話にでるかでないか決めているので」


 出なかったので、友人と食事してから帰る、と伝言を吹き込んできたと言う。


「まだ怒っているのかも」


 不安そうにため息をついた。そうやっていると、服装や、いつも薄化粧だと思うけれどそれよりさらに簡素なメイクもあいまって、本当に十六歳くらいに見えてしまう。それもまた、素朴でかわいらしいと思ったけれど、緊急事態だし、女性としてはあまり言われたくないかな、と思ってコメントは差し控えた。


 街は早くも夕闇に沈み始めていた。一番日暮れの早い季節なのだ。家々の軒先や店の窓に飾られたクリスマスのイルミネーションにも明かりが灯り始めている。風が強くなってきていた。


「ちゃんと話せば、きっと大丈夫ですよ。今まで、ケンカ、あまりしなかったって言ってましたね。本当の中高生の時も?」


 サトカさんはうなずいた。低めのポニーテールの毛先がふわふわ揺れた。


「気苦労をかけちゃいけない、と思っていましたし、勉強も忙しかったですし」


「優等生だったんですね」


「ただでさえ、母は心配事が多かったもので。父が亡くなったのは、私が中学に入ってすぐの頃でした。私のせいで、母は相当無理をしなきゃいけなかったんです。多分、父も」


「どういうことですか」


「私の母校は、女の子が産まれたからには是非通わせたいと父がずっと言っていたところでした」


 サトカさんが挙げた名前は、県下でも有数のお嬢様学校だった。確かに、学費だけでもバカにならない金額がかかったはずだ。


「父はごく普通の会社員で、特に副収入があったわけでもありません。その後の大学進学まで考えたときには、かなり切り詰めた上に仕事でも無理をして教育資金を作っていかなければ、経済的にはかなり厳しかっただろうと思います。父は早い段階でそれを見越していたはずです」


 だから過労だったのかもしれません。


 彼女の最後の一言は、木枯らしにとばされそうなほど小さな声だったが、僕の腹の底にずしんと響いた。


 この人は、父親の死も、母親の過労も病も、自分のせいだと思っている。おそらく、十代のかなり早い頃から。


 それはたった一人の肩に乗せるには、あまりに無理のある重荷に思えた。


 僕は何も言えなかった。無言で前を向いたまま、彼女の手をとると、つないだまま自分のコートのポケットに突っ込んだ。顔を見たら、そうじゃないんだ、そんな風に考えるのは間違ってる、と言ってしまいそうだった。


 そうじゃない。でも、そうやって頑張ってきたこの人の人生を否定する資格は誰にもない。


 僕がよけいなことを言わないように奥歯を噛みしめたのを、彼女は敏感に悟ったようだった。少し慌てたように言った。


「あの、すみません。暗い話ばっかりで」


 僕が彼女に腹を立てたと思ったのだ。自分の鈍感さを内心呪いながら、僕は努めてゆっくり深呼吸した。


「薬学部も、かなりかかったでしょう。シングルマザー家庭では、さらに大変だったんでしょうね」


「ですから、学費免除と奨学金は絶対にとらなきゃいけなかったんです」


 どれだけ努力を重ねたんだろう。あの大学で奨学生になるって。成績トップのごく一握りにしか、学費免除や給付型奨学金がないのは、どこの私学でも事情は変わらない。しかも、家事もやって、遠距離通学で。


「ケンカや家出はしてる暇がないですね」


「本当に初めてです」


「じゃあ、今までイライラしたりストレスがたまったりしたら、どうしてたんですか」


 サトカさんは、僕がつかまえていないほうの手をあげて、数えて指を折るしぐさをした。


「カフェインと、推理小説と、ロックです」


「コーヒー、ブラックでしたね」


「飲み過ぎると胃が荒れちゃうんで、たくさんは飲めないんですけど。そういう日は推理小説を読むか、それも無理なくらい精神がすさんでたら、イヤホンで大音量でロックです」


「なかなか無頼な」


「女子っぽくないでしょう?」


 彼女は少し笑った。


「母は嫌がります。母は恋愛小説と甘いポップスが大好きなんです」


「ロックは何を?」


「レッド・ツェッペリン。レディオヘッド。U2。スリップノット」


 あまり聞かない僕でもわかる、ゴリゴリにハードな面々だ。にしても。


「二十代の好みにしては渋くないですか」


「父のコレクションが主なので、古いものばかり」


「サトカさん、お父さんっ子なんですね」


 サトカさんはきょとんとした。


「そういえばそうですね。そんな風に思ったことなかったです。新しく買うくらいならまず家にあるもので、というのがきっかけだったので」


「じゃあ、以前、買い物の前に待ち合わせた時もロック聞いてたんですか?」


 イヤホンをしてうつむいていた彼女の姿を思い出す。


「あのときは、レッド・ツェッペリンでした。<移民の歌>」


 即答だった。コートのポケットの中でつないだ手に一瞬力がこもった。何か特別な曲なんだろうか。問い返す前に彼女は話題を変えた。


「彰実さんは? イライラしたり、モヤモヤしたりしたときはどうするんですか」


「月並みですよ。おいしいもの食べたり、ウォーキングやジョギングしたり。あと、山に行くと、リセットされることが多いです」


 いつの間にか、目的の店の近くまで来ていた。自分がサトカさんに食べさせたいものを、と、深く考えずに一番なじみの店に足を向けていたが、今さら不安が大きくなる。いやがられないだろうか。僕が食べさせたかった真意をわかってくれるかどうか。


 僕は気づかないうちに丸まっていた肩を伸ばした。


 石橋は叩いていないで渡れ。とにかくダメでも出してみて、結果は後から引き受けろ。


 雑居ビルの階段を示した。上から誰か降りてきたらすれ違うのがやっとの狭い階段なので、名残惜しいけれど、ずっとポケットでつないでいた手を離す。


「ここです。ついてきて」


  ◇


 〈やまさち〉は開店直後だった。夕食としてはすこし早めの時間だが、席はもう半分ぐらい埋まっていた。


「こんばんは」


 カウンターの向こうに声をかけると、定春さんは少し驚いたようだった。


「いらっしゃい。お連れさんがいるんなら、一番奥側の小上がり、どうぞ」


 脱いだ上着を掛け、座った頃合いを見計らって、フロア担当の若い店員がおしぼりとメニューを持ってきてくれた。榎本君という、定春さんが修行と並行して通っていた調理師学校の後輩の青年だ。


「飲み物、いかがいたしますか」


 聞かれてちらっとサトカさんを見ると控えめに首を横に振っている。僕が、食事だけで、と答えると、榎本君はうなずいた。


「ご注文、あらためてうかがいます」


 きびきびと去っていく。


 僕はメニューを広げて、最初の日替わりのページをサトカさんの方に向けた。


「ここ、研究の関係で知り合った方のお店で。この時期、シカとイノシシが食べられます。流行のジビエ料理みたいにおしゃれじゃないけど、おいしいですよ。あの、嫌じゃなければですけど」


「嫌って?」


「以前食べたことがあって苦手とか、アレルギーとか、かわいそうだから食べられない、とか。普通の豚や鶏のメニューもあります」


「食べたことはないです。なのでアレルギーはわからないけど、以前IgE値を調べたときには標準値でしたから、特段、心配はしてません」


 サトカさんはまゆをひそめた。


「最後の、かわいそうって意味が分かりません。豚はいいんですか? どっちにもずいぶん失礼な話に聞こえますけど」


 僕は虚を突かれて聞き返した。


「どっちにも?」


「シカとイノシシにも、鶏と豚にも」


 と言ってから、サトカさんは怯えたように身をすくめた。


「すみません、理屈っぽいこと言って。失礼な言い方でした」


「謝らないでください」


 僕はこみ上げてくる笑いをかみ殺しながらとりなした。


 なんだ。こんなに簡単なことだったんだ。


 意味が分からない、と言ったときのサトカさんは、黄色のバッグに物が入らない、と不満そうだったときと同じ表情だった。この反応はある程度、想像できたはずだったのだ。今までに交わしたこの人との会話をちゃんと思い出していれば。


「失礼なことを聞いたのは僕の方です」


「じゃあ、笑ってるのは何でですか」


「本当にサトカさんの言うとおりだと思って。以前、怒られたことがあったんです。シカの肉を食べるなんて無神経で残酷だって」


「彰実さんに怒ったんですか? しかも、怒り方の意味が分からない。私、多分その人とは仲良くなれないと思います」


 むっとした顔で言うサトカさんは本当にかわいらしく見えた。胸の奥にじんわり温かいものが広がってくるような気がした。


「僕はおいしいと思います。よかったら食べてみませんか」


 尋ねると、彼女はうなずいた。


「おまかせします」


 僕はメニューを引き寄せた。食べるものを選ぶなんてほんの些細なことでも、信頼されて任されていると思うと責任と自負を感じる。


 初めてなら、奇をてらわない方がいい。今日のサトカさんは疲れているはずだから、ほっとする温かいもの。


「ぼたん鍋にしましょうか。最初からご飯もつけてもらって」


 イノシシの薄切り肉を、野菜と一緒にみそ味の出汁で煮て食べる料理だ、と説明すると、サトカさんは微笑んだ。


「おいしそう」


 お冷やを持ってきてくれた榎本君に注文を伝えると、僕は何となく落ち着かなくなっておしぼりを取った。ここは本当に好きな場所で、研究室の後輩や同僚を連れてくることはそれなりにある。でも、そういうところをサトカさんに見せるのはまた別の緊張と気負いがあった。


 不思議なもので、場の緊張の総量は決まっている、と思えることがある。誰かが途方もなく緊張し始めると、その場にいる他の人の緊張がなぜか下がって、すっと落ち着く、という現象だ。

 僕が緊張してきたのを察してかどうかはわからないけれど、サトカさんはうちに来たときからずっと張りつめていた糸が少しゆるんでリラックスしてきたようだった。


「普段はお酒も頼むんですか?」


「いいえ。僕、全然飲めないんです」


「全然?」


「一口でもう、すぐ顔に出るし、気分も悪くなるし。ビールを小さめのコップに一杯で寝ちゃいますから」


「そうなんですか? そこまでだと色々大変そう」


「大体の場面は、飲めないんです、で何とかなる時代になってますから、いいんですけど。お神酒を飲まなきゃいけないときだけ困りましたね」


 フィールドワークで、大人数で獲物を特定のポイントに追い込んで仕留める、巻狩りに同行したときの話である。


「山に入る面々で、お神酒を回し飲みするんです。形だけでいいからと言われて口には含んだんですけど、これが結構度数の高い日本酒で」


 直感で、飲み下したらまずい、と思った。でも、信頼を得なければならない場面で、無作法に吐き出すわけにも行かない。


「それで、どうしたんですか?」


 彼女が先を促してくれる。


「目立たないところで、出そうと思ったんです。でも、なかなかチャンスがなくて、そうこうしてるうちに口の粘膜はぴりぴりしてくるし、徐々にアルコールは回って来ちゃうしで。結局、顔を拭く振りのタオルに出したんですけど、時すでに遅し。心拍数は上がってくるし、めまいはするし、冷や汗は出てくるしで散々な目に遭いました」


「狩りは? 見学どころじゃないんじゃないですか」


「記録なんか付けられる状態じゃなかったですけど、とにかく意地で歩いてついては行きました。最終的には、水飲んで歩いているうちに何とかアルコールも抜けてくれて。でも、さすがに調子悪かったのはばれちゃいましたね」


 次からは呼んでもらえないだろうと覚悟したのだが、これが怪我の功名だった。飲めない酒を口にして、最後まで山道をついてくるとは、都会のひ弱な学生かと思ったら根性だけはあるじゃないか、と、リーダー格の古老に気に入ってもらえたのだ。おかげでそのグループと関係がつながり、そこからいろいろ知り合いの方を紹介していただけたりして、研究が軌道に乗り始めた。


 そんな僕の話を、サトカさんはじっとこちらを見つめて少しだけうなずきながら聞いてくれた。


「あまり、格好いい話でもないんですけど」


 つい話しすぎた、と思いつつ切り上げようとすると、彼女は首を横に振った。


「そんなことないです」


 ちょうどそのとき、鍋が運ばれてきた。二人前が一つの小鍋に仕立てられて、よそうばかりの状態で提供されるのがこの店の流儀だ。


 サトカさんが、さっと手を伸ばしてお玉と小鉢を受けとる。一瞬出遅れた僕は、中腰になりかけたのを座り直した。


 肉、野菜、豆腐と見目よく盛り合わされた鍋から、手際よく小鉢に取り分けていく彼女の手つきは、慣れていて迷いがなかった。僕なんかとは場数が違うのである。


 おばあさんに家のことを教わった、と言っていた。豆腐一切れを崩さないように、野菜も散らからないように食べやすく。食べ物を大事にするようにきちんと教わってきたのであろう仕草は、優雅といってもいいくらいだった。


 差し出された小鉢を礼を言って受け取り、気がついた。僕が寝込んでいたとき、手早くリゾットを作ってくれたサトカさんも、こんな風に迷いがなくて優雅だった。


 サトカさんが自分の分をよそって座り直すのを待って、食べましょうと声をかけた。


 笹打ちのねぎを箸で口元に運んで、熱いので少しさましながら、僕は彼女の様子をそれとなく伺った。口に合うといいんだけど。


「いただきます」


 手を合わせて小さな声で言うと、彼女は箸をとった。僕の方をちらりと見る。


「熱いですか?」


 猫舌仲間である。


「少し」


 彼女は白菜を少しつまんで、警戒しながら口に入れた。伏し目がちに噛んで、ふっと頬をほころばせる。


「……おいしい」


 僕もほっとして顔がゆるんだ。


「よかった」


「やっぱり豚に似てますけど、だしのうまみが、豚より濃い気がします。脂の味も」


 彼女は肉も口に入れた。噛んで飲み込む仕草に、つい見とれてしまった。


「初めて食べましたけど、こんなにおいしいんですね」


「でしょう? ここのは特においしいんです」


 自分の手柄でもないのに、誇りに胸が膨らむような気持ちになった。急に空腹感が強くなって、僕は自分の小鉢を手に取った。


「冷めすぎない方がいいです。どんどん食べましょう」


 僕の方が一足早く食べ終わった。自分でお代わりをよそって、彼女の方を見ると小鉢が空いている。


「よそいますよ」


 お玉を持ったまま左手を伸ばすと、サトカさんはためらった。人にしてもらうのに慣れていない、というように見えたので、僕はおどけて言った。


「できますよ。よそうだけですから。サトカさんほどきれいにはできませんけど」


 おずおずと差し出された小鉢に、色々具が入るようによそってから尋ねた。


「何か食べたいのありますか」


「もう十分です、ありがとうございます」


 と言いかけて、視線が鍋に泳いだのを僕は見逃さなかった。差し出しかけた小鉢を引っ込めてもう一度尋ねる。


「どれ?」


「……あの、あれは?」


「生麩だ。さっき取りませんでした?」


 すかさずすくって追加した。


「生麩、食べたことないです。すき焼きやおでんのちくわ麩は好きなんですけど」


「じゃあ、絶対おいしいですよ。新しい食べ物、気になる方ですか?」


「一度はチャレンジしたいです。それで苦手だってわかることもなくはないんですけど」


「僕もです。食べてみて合わなければ諦めもつくんですけど、食べないままだと未練が残りますよね」


 彼女は受け取った小鉢から、紅葉の形に型抜きされた柔らかい塊を口に入れた。目を閉じて味わう。


「これ、好きです」


 お目が高い。臭みがなくて味が濃いイノシシの肉がこの鍋の主役なら、出汁をしっかり含んだ麩は裏番長だと僕も思う。


 僕にとっても、人生で一番おいしいぼたん鍋だった。我ながら単純だと思うけれど、食事の味は誰とそれを共有しているかで全然違う。定春さんと話しながらカウンターで食べる定食も、研究仲間と一緒に食べる一品料理ももちろんおいしかったけれど。


 サトカさんも、僕が最初に思っていたよりしっかり食べていた。細いから、鳥が餌をついばむくらいしか食べないんじゃないかと心配していたけれど、杞憂だったらしい。聞くだけでもハードな生活を送ってきたみたいだから、ちゃんと食べないともたないと思う。そういう健康さや強さが垣間見られた気がした。


 食べ終わって、定春さんが淹れてくれたお茶を飲んでから、あまり遅くならないうちに、店を出た。

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