16 家出娘 ――S
逃げるように家を飛び出してから、どのくらい歩いていただろうか。
とっさのことで、上着もスマホもお財布も家に置いてきてしまったが、すぐに取りに帰る気には到底なれなかった。
家の近所はとにかく離れて、午後の陽射しの中、ふと思いついた散歩を楽しんでいるかのように、あてもなく街をさまよった。さっきまで、上から見下ろしていた冷めた自分が、今度は、船や飛行機のオートパイロットモードみたいに、周りから目立たないように身体を動かしているらした。泣きつかれた自分は、呆然として何もできず、どこかに座り込んで膝を抱えているような気分だった。
だが、気の早い冬の陽はあっという間に傾こうとしていた。気温はどんどん下がってくる。いくら歩き続けていても、身体は冷えてきて、指がかじかんだ。寒くて辛い、という感覚は不思議となかったが、こわばって身体がうまく動かなくなってくる感じはあった。そろそろ、このセーターにデニムという軽装では、町中で変に思われてしまう、と、冷静な自分も警告し始めた。
どうしていいかわからず、夢中で歩きつづけるうち、まったくいつもの行動範囲ではないはずの住宅街で、ふと、あたりの景色に見覚えがあるような気がしてきた。
その曲がり角。いつか不安な気持ちで曲がった気がする。あやふやな記憶をなぞるように角を曲がると、古い二階建ての集合住宅のような建物が目に飛び込んできた。ふつうのアパートともちょっと違うし、いわゆる長屋でもない。
ようやく思い出した。前に来たときと時間が違いすぎたせいで、気づくのに時間がかかったのだ。
彰実さんの部屋がある下宿屋さんだ。個人経営の小規模な学生寮だったのだが、もう何年も前、大家さんの奥さんが亡くなったのを機に、新しい入居者を募集するのをやめてしまったのだ、と聞いた。
藁にもすがる思いで階段を登り、一つだけ、色褪せたネームプレートがかかった部屋のブザーを押した。
応答はなかった。
そのはずだ。昨日から泊まりがけで遠方に出かけると言っていた。まだ帰ってきてはいないだろう。
私はドアに背中をつけると、崩れるようにその場に座り込んだ。寒さと疲れがようやく逃げつづけた私の肩をつかまえた。急に震えが止まらなくなり、膝に力が入らなくなった。泣いていた私と冷めていた私が、やっと重なって、いつもの一人の私に戻ってきたような気がした。辛い、という感覚が殴り付けるようなリアリティで戻ってきた。
今どうしたらいいんだろう。
考えても何もまとまらない。私は途方にくれて、そこに座り込んでいた。
日が暮れはじめて、あたりが次第にオレンジ色になってきた頃、階段の方から静かな足音が聞こえた。歩きながら鍵をどこかから取り出しているのか、金属のこすれあうような音も聞こえる。
私は、疲れと寒さで鉛のように重たく感じる頭を上げて、音のする方に向けた。
もうすっかり目になじんだ人影が現れる。背が高くて肩幅はあるけど、やせていて、すこし猫背の歩き方。驚いたように足を止めて、こちらをじっと覗きこんだ。
「サトカさん?!」
次の瞬間、二部屋分の長さの廊下を四歩くらいの大股で駆け寄ってきて、彰実さんは私の前に膝をついた。
「どうしたんですか」
「……」
なにか言おうと思ったけれど、何も言えなくて、私は子どもみたいにしゃくりあげた。
ほっとしたのか、悲しいのか、自分でもわからなかった。
彰実さんは少し困ったように、でも、なぜだか微笑んで、私の両手をとった。
「うわっ冷た! ……とりあえず、中に入ってお茶でも飲みませんか」
私が何度かうなずくと、手を引いて立たせてくれながら、彼は冗談めかした口調で言った。
「散らかってる……というか、荒れてるかもしれないけど、びっくりしないでくださいね」
いつもの彰実さんだ。私は、もう一つうなずいた。泣き笑いみたいではあったけど、少しだけ、微笑えた。
私を、多分、彰実さんのいつも座っている位置であろう座卓の前に座らせて、エアコンのスイッチをいれると、彰実さんはクローゼットの扉を開けた。
「シーズン終わりにクリーニング出して、まだそのままのやつですから、エアコン効いてくるまで使ってください」
アウトドアウェアのようなくすんだオレンジ色の化繊のジャケットをとりだすと、肩に掛けてくれた。裏がモコモコしたフリースで、ふんわり軽いのに暖かい。私はどうしていいかわからず、されるがままになっていた。
彰実さんはそこで、「すみません、少しだけ」と言いながら部屋を出ていった。戸惑いながらも座っていると、次第に震えが収まって周りの様子を見る余裕ができてきた。
この前来たときも思ったけれど、本が多い部屋だ。壁際にぎっしり本の入った大きな本棚がある。以前は入りきらずに床に積まれた本があったと思うが、今はその場所にダンボール箱がいくつか積まれている。本棚と反対側の壁に付けて置かれた座卓の上にはノートパソコン。本以外のものは対照的に少ない。座卓の横の窓際には畳んだ布団らしいものに布がかけてある。
その向こうの窓に何気なく目をやって驚いた。ずたずたのぼろ布が垂れ下がっている様子は、きちんと本が詰め込まれた本棚や、よけいなものが出ていない座卓の上と比べると異様だった。なんだろう。かつてカーテンだったもの、のようだけれど。薬を届けに来たときはこんな様子ではなかったと思う。覚えていないけれど、これを見逃すわけはない。
ドアの開閉音がした。
「うわ、ちょっと待てピヨ」
慌てたような彰実さんの声と同時に、茶色がかったグレーの塊が、台所と玄関があるスペースから、少し開いていた磨り硝子の障子をすり抜けて飛び込んできた。
「サトカさん気を付けて! 暴れ猫です」
事態が飲み込めず、硬直している私の前をつむじ風のように通り抜けたグレーの塊は、そのまま、窓際に突進すると、ぼろ布を一気によじ登った。
ピヨさんだ。
天井近くまで登ったピヨさんは、そのままジャンプして、本棚の横に積まれていたダンボール箱の上に飛び乗ると、さらにその横の本棚の上に飛び上がった。少し顔を覗かせて、にゃあ、と鳴く。一瞬の出来事だった。
「すみません」
一歩遅れて入ってきた彰実さんは、困ったように首筋に手をやった。
「少し家を空ける時間が長いとへそを曲げちゃって、しばらく下りてこないんです」
ぶつかったりしてませんか、と案じてくれたので、私は首を横に振った。ずたぼろカーテン事件の犯人はピヨさんらしい。こんなことを繰り返していたら、確かにぼろぼろになるだろう。
「コーヒーでいいですか? インスタントですけど。手を洗ったりしたければ、トイレと洗面所は玄関の横です」
ようやく体が温まってきて、無様に転んだりせずに歩けそうな気がしてきたので、お言葉に甘えてトイレを借り、手を洗った。
鏡の中の自分は幽霊のように青ざめて見えた。外出する予定ではなかったから、ろくにメイクもしていない。頬は乾いた涙で汚れている。ひどい状態だった。私は冷たい水で手早く顔を洗うと、これだけはポケットに入っていたハンカチで手と顔を拭いた。手ぐしで髪をざっと整えたら、今できることはもうなかった。
おずおずと硝子障子を開けて居室に戻ると、彰実さんは座卓のノートパソコンをどけて、マグカップを二つ並べたところだった。
「そこ、どうぞ」
座布団を敷いてあるところを示し、自分はカップを持って布をかけた布団とおぼしき山に腰を下ろす。私も手を伸ばしてカップを取った。両手で包み込むように持つと、熱が陶器を伝わって、じんわりと指が暖められていく。
「何かありましたか」
沈黙を先に破ったのは彰実さんだった。
私は口を開いて、何か言おうと思ったけれど、言葉に詰まってまた閉じた。
どう言えばいいんだろう。何が起こっていたんだろう。
彰実さんはそれ以上何も言わなかった。黙って、慎重にカップの中身を吹いて冷まし、ほんの少しだけ口に含んだ。
私が何でもないですと言えば、この人はきっとそのまま受け止めてくれるだろう。言いたくないと言えば、そうですか、と言うだろう。直感的にそう思った。
でも、それは正しくない気がした。私の話に耳を傾けてくれている彰実さんに取るべき態度ではないと思った。
私はしばらく考えて考え抜いて、やっと浮かんできた言葉をすくい取るように声に出した。
「お母さんとケンカしたんです」
彰実さんは呆気にとられたような顔をした。
「ケンカ、ですか」
「はい。ひどいことを言ってしまいました」
「そりゃまた、なんで」
「なんで……なんでなんだろう。自分でもおかしいと思うくらい、この頃、怒りっぽいんです」
「そうなんですか? じゃあ、よくケンカするんですか?」
「しないです。全然。してこなかった」
「いつもはしないケンカをするほど、今日は何にそんなに怒っていたんですか?」
「教えてくれなかったんです」
「何を?」
「何を探しているのか。何かを探してるとしか思えないんです。見つからないからずっと片づけをしているようにしか。でも、それが何なのか教えてくれなくて」
「それで怒ったんですか?」
「はい」
ふうん、と彰実さんはため息のように頷いた。批判も同情も分析もなく、ただそのままを聞いてくれたような気がして、私は知らず詰めていた息をはきだした。
「そうしたら、母も怒って。私も母に言ってないことがあるって」
言いさして私は言葉に詰まった。頬が熱くなる。
言えない。この先は。顔も見られない。
「それで、言い争いになって、飛び出してきちゃったんです」
「上着もなしに、ですか」
彰実さんの声は少し笑いを含んでいた。でも、いやな感じはしなかった。
「はい。それどころか、スマホもお財布もなしです。何考えてたんだろう」
今になってみると、本当に理解できない。
「困りましたね。それでここに?」
「……はい。ご迷惑をおかけしてしまって、すみません」
背後で動くものを感じて振り返ると、ピヨさんが降りてきていた。にゃあ、と鳴いて私の腕に頭をこすりつける。私が耳の下を指の腹で掻いてやると、ゴロゴロとのどを鳴らしながら背中を床に着けて、お腹を撫でるように要求してきた。
「ピヨは大喜びですよ。僕も、他ではなくここに来てくれたのは嬉しかった」
顔を上げると、彰実さんは目元を和ませてこちらを見ていた。
「ピヨ、清造さんには絶対にお腹を触らせないんです」
「清造さん?」
「大家のじいさんです」
毎日昼ご飯をもらってるのに、この対応の差は何でしょうね、と笑う。
私は恐る恐るピヨさんのお腹をなでた。腹の部分だけ生えている白い毛はふかふかで長く、指先が埋まるほどだった。ピヨさんは私の撫で方が足りないとばかりにその場でじたばたとのたうった。もう少し指先に力を入れてわしわしと撫でてやると、うっとりしたように体を伸ばした。指に触れる生き物の肌と、その下の躍動する筋肉の質感がたまらなくいとおしかった。
「さて、どうしますか。何も持たずに飛び出したんなら、お母さんはご心配でしょう」
私は唇をかんだ。わかっている。でも、まだ母の顔は見たくなかった。どんな顔をして帰ればいいか、わからなかったから。
と言って、ここで彰実さんに迷惑をかけつづけるわけにもいかない。
私が答えあぐねていると、彰実さんはふいに自分のカップを持って立ち上がった。
「ご飯食べに行きましょう」
カップを片づけながら言う。
「一階の廊下に公衆電話があります。テレホンカード、余ってるやつがありますから、それでご自宅に電話してはどうですか。食事したら、ちゃんと送っていきますから」
「あの、でも、お財布も持ってないし、これ以上ご迷惑をかけるわけには」
「どのみち、そのうち食事にはお誘いしたかったんです。事前にお願いすれば、大丈夫かなって思ってましたから。僕がお誘いするんですから今日は僕に持たせてください。どうせその様子ならすぐには帰れないんでしょう? なら、ここでコーヒー飲んでるより、外に出てちゃんとしたもの食べた方が健全です。それに、僕はお腹が空いた」
本棚の一番下についていた引き出しをガサガサと探って、彰実さんは紅葉の風景写真がプリントされたカードを引っ張り出すと、私の手のひらに押しつけた。
「使い方分かりますよね? まさかそこまでジェネレーションギャップがあるとは思いたくないんですが」
「そのくらいわかります! 私の歳だってご存知でしょう」
からかうような口調についつい口答えすると、彰実さんは笑った。
「今日のサトカさんは反抗期の家出娘ですから、推定十六歳ってとこかな」
悔しいが、確かに的を射ている。子どもじみた行動をしたと思う。
でもやっぱり悔しかったので言い返した。
「私が十六歳なら、彰実さんに未成年を連れ歩かせて犯罪者にしてはいけませんから、帰らないと」
「一本取られましたね」
彰実さんは首の後ろをちょっと触って苦笑した。それから、幾分まじめな顔になって私の目をじっと見つめた。その目の奥にほんの少し、不安そうな影がよぎったように見えた。
「一人で食事するのは味気なくて嫌なんです。一緒に来ていただけますか?」
私はうなずいた。














