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カナリア  作者: 藤倉楠之


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16/30

15 アイスクリーム ――S

 母の片づけ熱はいっこうにおさまらなかった。


 母が嫁いでくる前に亡くなった祖父が、空き家になっていたのを購入し、手入れして、父が子どもの頃から住んでいる古い文化住宅である。そこにあるものは、私が漠然と想像していた以上に多かった。祖母が使っていた和室は、ぎっしりものが詰め込まれた押し入れのほかに、きちんと積み上げたダンボールが壁一面を占拠していた。それ以外にも、客間にしていた部屋は、叔母夫婦が従兄たちを連れて泊まりがけで遊びに来たときに使っていたが、父が亡くなった頃には従兄たちも大きくなって部活や塾に忙しく、そんな集まりもなくなっていたため、季節家電などをしまっているうちに、次第にほぼ物置と化していた。もともと納戸として使っていた部屋は、いつからあるのかわからないようなそろいの食器や折りたたみ机、祖父が使っていたとおぼしきよくわからない品々ですでに一杯で、ものを出し入れする余地がとうになくなっていた。


 私と母は、居間と台所、それぞれの寝室だけで暮らしていたことになる。母の寝室は、父と使っていたものだったが、見るのがつらいからと祖母に頼み、父が亡くなってしばらくしてから父のものを全て運び出していた。祖母は、父が自分の本棚を置いたりして、家に仕事を持ち帰ったときなどにも使っていた小部屋に、父のものを箱に詰めてぎっしりと押し込んだ。私は高校生になるくらいの頃から、その隙間に獣道のように細いルートを確保し、ひっそりと本やCDを持ち出しては戻していた。


 家を窒息させそうな大量のものが、見えていなかった気がつかなかったというのはやはり言い訳だろう。私も母も祖母も何年もこの問題をいわば先送りにしてきたのだ。


 私は母に、二つだけ、絶対に守ってほしい条件をつけた。


 絶対に一人で片付けをしないこと。受診したとき、主治医に話して、ドクターストップがかかったらすぐに止めること。


 少しやってみてわかったのだが、この作業には想像以上に感情のエネルギーを必要とした。母の病を悪化させかねない危うさを感じたのだ。母も薄々、それは感じていたらしい。二日ほど、仕事帰りの私と祖母のものを多少片づけたあと、しばらくはエネルギーがつきたのか、日中も横になることが多かったようだった。その後、母はクリニックに行って、ドクターの『娘さんと一緒に、休日に一日当たり二時間まで、疲れたら休む』という条件付き許可をもらって、今のリズムに落ち着いた。


 私は、母とほとんど会話らしい会話もなく、呪文のように『いる? いらない? 保留?』と唱えては、そのものの身の振り方を決めていった。ほとんどが『保留』だった。それはそれでかまわない。ここで、ほとんどが『いらない』だったら、その方がリバウンドが恐ろしい。


 何があるのか知ることから始めよう。


 そう思って取り組んではきたものの、私はへとへとだった。母が動揺するかもしれない、泣き出したりしたらどうしようと気を遣い、疲れていそうな様子が見えないか気を配り、自分自身の思い出や感情がわいてきてもそれを受け流すように努める。肉体的にも精神的にも消耗が激しくて、二時間は正直私のタイムリミットでもあった。


 何でこんなことしているんだろう。今じゃなきゃだめなんだろうか。


 頭を空っぽにしたくて、片づけの後はたいてい、自分の部屋にこもってひたすらイヤホンで音楽を聞いていた。強烈なビート、たたきつけるようなギター、感情のままに叫び、むせぶような外国語のボーカル。何も考えず、ただ音に身をゆだねていればいい洋楽のハードロックだ。父が集めていたCDにはおあつらえ向きのものが多かった。


 思えば、受験の時も国試の時も、疲れていたり、しんどかったりする時はいつも、一人になって推理小説とハードロックだった。ならず者が酒やたばこや麻薬に溺れるみたいに。


 でも、それに加えて今回はもう一つ。


 やはり片づけで泥のように疲れた日曜日の午後、私は自分のベッドに丸くなり、レッド・ツェッペリンのアルバムをイヤホンで聞くともなくぼうっと聞いていた。同じくベッドの上に転がっていたスマホが寝返りを打った拍子にこつんと頬に当たった。私はそれを取り上げて、メッセージアプリを起動した。中毒者みたいに、この頃の私はこの振動を待ちかねている。まだ、新着メッセージはない。


 今週末は、彰実さんは教授の講演会の手伝いで遠方に行くと言っていた。まだ仕事中なのかもしれない。そのままアプリを閉じることができなくて、これまでのやりとりを読み返してしまった。


 昨夜は、夜少し遅めの時間にメッセージがきていた。


『教授の講演、無事に終わりました。やっと宿に戻ったところです』


 泊まりがけの仕事なのだ。この前帰り道を一緒に歩いたときに、コンピューターが苦手な教授に代わって、講演中に、プロジェクタをつないだノートパソコンを操作してスライドをスクリーンに映す担当なのだと言っていた。


『ところで先日の件、元ネタを見つけた気がします』


 スクリーンショットしたとおぼしき画像が続く。


 インターネットブラウザ上に表示されているのは錦鯉の写真だ。上から見た首の付け根にある、特徴的な斑文。


 私は、数日前に彰実さんに送る写真を撮った後、何となく自室に置きっぱなしのままにしていた日本刺繍の額装を見やった。しなやかに身をくねらせた泳ぎ姿の、鰭やしっぽの角度まで寸分違わない。また少し、笑ってしまった。昨夜はもちろん、すぐに返信した。


『ビンゴです! 彰実さん、名探偵』


『数年前にWeb上で話題になった写真らしいです。SNSに投稿されたのをサブカル系のネタサイトが拾ったのがきっかけで』


 人面魚である。


 緻密な色使いで美しく刺繍された錦鯉は、おそらく完成までには一ヶ月以上の時間と途方もない労力を費やされたものだろう。しゃれや冗談で作られたものではあるまい。とすると、これを作った人に頼まれるか何かしてモデルの錦鯉の写真を用意した人が、少々悪質ないたずらを仕掛けたのだろう、というのが私と彰実さんの読みだった。


 母が、刺繍の作者は健おじさんのご母堂だと証言していた。数年前に鬼籍に入った方だ。健おじさんは優しいけどひょうひょうとしていて、何か頼んでもすぐにはやってくれないと叔母がよくこぼしていることから考えて、ご母堂もわざわざ資料写真の用意を頼んだとは思えない。おそらく、悪気はあるけど憎めないいたずらが大好きな、従兄のどちらか、あるいは両方が犯人だろうと私は当たりをつけていた。


 彰実さんが見つけてくれた写真のおかげで、写真の出所がインターネット上の、それもサブカル系のサイトかSNSであることはほぼ間違いないとわかった。これで従兄たちの容疑はほぼ固まったといえるだろう。二人の従兄は中学生の頃からパソコンが得意で、インターネットでいろいろ調べては周囲に妙な知識をひけらかしたり、怪しいものをダウンロードしては叔母にこってり油を絞られたりしていた。どちらがやったにせよ、もう一人が無関係だったとは考えにくい。二人は実に仲の良い兄弟で、その当時も互いにいたずらを仕掛け合ったり、自分のいたずら武勇伝を自慢し合ったりしていたのだ。


 そこまで考えて私はひらめいた。


 和樹君の家に贈る出産祝いに何食わぬ顔で添えてあげよう。赤ちゃんにとっては曾祖母に当たる人が心を込めて作った縁起物の刺繍だもの。お祝いにはぴったりだ。


 和樹君はきっと苦虫を噛み潰したような表情をするだろう。サオリさんにはどこまで説明するのかな。想像するとおかしくなった。


『今の調査報告で刺繍の身の振り方が決まりました』


 説明すると、ガーン、と大げさにショックを受けた表情のスタンプが返ってきた。


『サトカさんも、結構ハードないたずらっ子ですね』


 そうだろうか。従兄とはこのくらい普通だ。


『でも、そういうの、僕はすごく好きです』


 改めて、一晩たってから読み返しても、頬が熱くなった。どうしてこういう言葉をさらっと送ってよこせるんだろう。私だけが振り回されているみたい。


 このあと、彰実さんはさらりとおやすみなさいのスタンプを送ってくれて、やりとりは終わった。


 これが今回の苦境を乗り切る、私の〈もう一つ〉だ。ほとんど毎日くれる、押し付けではないけれど少し気分が上を向くようなメッセージ。


 それを受け取るのが私の生活に欠かせない瞬間になってきていた。


 ただ、その裏で確実に増していく不安が次第に無視できなくなってきたのも、確かだった。今までは、困ったことがあっても、自分一人で立ち向かうだけだった。でも、誰かが私のことを気にかけてくれる心地よさを覚えてしまった後で、今、私の人生からその人が消えてしまったら私はどうなるんだろう。


 生まれたてのひよこが、初めて見た動くものを何でも親だと思いこんでしまう、という話を思い出す。私が雨の中で途方に暮れていたとき、お手伝いしましょうか、と初めて言ってくれた他人が彰実さんだった。だから、私の中に彼が救いの手として刷り込まれてしまったのかもしれない。実体のない何かに幻想を持っているだけなのかもしれない。そう思うと、嬉しい気持ちと同じだけ、裏で不安の水位も上がっていった。こんな風に、来ないかもしれないメッセージをただ待ちかねている自分が怖かった。


 ある日ふっと魔法が解けて、彰実さんがいなくなってしまうとしたら?


   ◇


 不意に、襖がするっと開いた。母が少しだけ顔をのぞかせる。


 さっき、母は久しぶりにアイスが食べたくなったと言ってコンビニに出かけていった。ついていった方がいいかとも思ったのだが、私も疲れすぎていたし、母自身も一人でコンビニくらいいけると言い張った。クリニックには一人で受診しているわけだし、確かに心配しすぎかと思って私は家に残った。物音には全く気がつかなかったけれど、もう戻ってきたのか。


 私はプレイヤーの停止キーを押してイヤホンを外した。


「なあに」


「ごめんなさい、ノックしたんだけど」


「音楽聴いてた。ごめんね。で、なに?」


「アイス、里ちゃんも食べるでしょう? チョコモナカ、買ってきたわよ」


 チョコモナカ。小学生の頃のお気に入りだった。


 私は重い体を叱咤して起き上がった。


「何か淹れようか」


「ありがと。手洗ってくるわね」


 台所に降りると、テーブルの上に、コンビニの袋に入ったままアイスが置かれていた。母のセレクトは抹茶味のカップアイスだ。ということは、あえて緑茶は外して、ほうじ茶にしよう。


 勝手に決めて淹れたお茶を湯呑みに注いでいると、外出支度を片付けた母が戻ってきた。


「家の片付けも疲れるわね」


 誰のせいで。反射的に怒りがわいたが、私はそれに気づかなかったことにして、急須のふたを切った。母が、何かにこだわるときには、きっと何かの意味があるのだ。私にはわからないだけで。


 こうやって急須のふたを切っておくと、二煎目がおいしいのよ。


 そういっていたのは祖母のはずだ。ふたを切る、という言い方をそのとき覚えた。ふたをずらして開け、蒸気を逃がすのだ。


 母はどさっとソファの定位置に座った。私と同じ、線の細い痩せ形の体型の母は、病を得てからさらに一回り小さくなったように見えた。髪も、以前はしょっちゅう美容院に通い、頭の形をよく引き立てるショートヘアにしていて、潔くきれいな母は幼い私の内心の自慢だった。だが、私が大学の四、五年生になった頃から、頻繁に切りそろえないといけない髪型は疲れると言って、肩につく程度の長さにととのえるようになっていた。


 思えばあのころから、調子は少しずつ悪くなっていたのかもしれない。


 でも、その頃の母は自分からは何も言わなかった。その前も。


 父が亡くなってから、母とちゃんと会話をしたことがあっただろうか。母が決めつけずに私に質問してくれたことはあっただろうか。母のこともわからなくなっていったし、自分のことも伝わらないと思ってきた。


 私は湯呑みとアイスをリビングのテーブルに運び、自分も腰を下ろした。


「もの多すぎ。お父さんもおばあちゃんもおじいちゃんも、何でこんなにため込んだんだろう」


 ぼやいてから、ぎくりとして母の顔を見た。

 母の前で父のことを話題にするのはすごく気を遣う。


 母は顔をしかめてため息をついた。


「お父さんには時間がなかったし、おばあちゃんは……趣味、かしらね」


 お父さんには時間がなかった。私は恥ずかしくなってうつむいた。その通りだ。


 母は、抹茶アイスのカップの縁をぐるっと削るようにスプーンを入れた。


 お父さんがいつも笑った食べ方だ。お母さんはせっかちだから、柔らかくなるまで待てないんだ。


 私もチョコモナカのパッケージを破り、かじった。冷たいクリームが口の中に広がった。不思議と全く甘くなかった。嫌な苦みが舌を刺激した。


 心の中で何かがはじけた。


 どうして、こんな嫌な状態になっているんだろう。


 どうして、たくさんあるはずの、母のしてくれたことではなくて、今さら、してくれなかったことばかり思い出すのだろう。そう思うのに、何かが壊れて、止まらなくなっていた。


「ねえ、お母さん」


「なに?」


「片付けって、今じゃなきゃだめなの。何を探してるの」


「何って……」


 母はたじろいだ。


「何かを探してるんでしょう。違う?」


 母を追いつめてはいけない。理性はそう忠告しているのに、私の口は止まらなかった。


「お母さんは私に言わないことばっかり。こんなに手伝ってるのに」


 母は大きく目を見開いた。次の瞬間、きっと私をにらみすえた。


「疲れてるなら、いいのよ。一人でやるから」


「そんなわけにはいかないよ! 先生との約束忘れたの」


「次に病院に行ったら、里佳に迷惑をかけなくていい方法を相談するわ」


「そういうことじゃないよ」


 頬を何かが伝っている感覚に、無意識に手で拭ってから自分が泣いているのに気がついた。やめなくては。今すぐお母さんに謝って。そう自分に言い聞かせている自分が、天井あたりから、泣いている私と怒っている母を見下ろしているような感覚に陥った。本当に今ここで起こっていることなのに、私は夢の中にいて、起こっている事態に何も手出しできないような強烈な無力感におそわれた。


「私だって、時間さえかければ自分で片付けくらいできる。何を探してるかなんて自分でもわからないけど今じゃなきゃだめなの」


「直感のお告げ? そう言われちゃったら私には何もわからない! 私にはそんなものないもの。確信も自信も何にもない! ただ振り回されてるだけだよ。私はただ、お母さんが何を分かって何を考えているのか話してほしいだけなの」


 泣いている私は叫んだ。


「お告げなんかないわ。霊感なんてそんなものない。みっこも里佳もおばあちゃんも、私を買いかぶっている。私にだって何もわからない」


 母は苦しそうだった。


「里佳だって、私に何も言ってくれないじゃない」


 いつの間にか母も泣いていた。


「さっき、コンビニの帰り、お隣の広瀬さんの奥さんに会ったのよ」


 町内でも指折りのゴシップ好き主婦だ。


「このごろ里佳ちゃん、たびたび素敵な彼氏さんに送ってもらってるじゃないって。あんな風に家のそばまできちんと送ってあげるなんて今時珍しいわねって」


 泣いている私は、頬がかっと熱くなった。キーンと耳鳴りがして、目の前が真っ赤になるような気がした。それを上から冷めた目で見ている私もいた。自分が二人いて、どちらも私だった。


「やめて!」


 泣いている私は叫んだ。


「どうして、広瀬さんが知っていること、私は知らないの? 言ってくれてもよかったじゃない。近くまで来てくれていたんだったら一言、紹介してくれたって」


「おせっかいなご近所が何よ。関係ない! 放っといてよ」


「だって、私にとっては娘のことよ。知らなくていいわけないでしょう」


「今さらなんでそんなこと言うの。今まで、私のことなんか知ろうともしなかったくせに」


 ああ、私、こんなに怒ってたんだ。見ている私は思った。


「私に何か一つでも、本気で聞いたことがあった? 何色が好きなのか。何になりたいと思ったのか。何のアイスが食べたいのか。全部勝手に決めたのはお母さんじゃない」


 母は絶句した。


「今度は、私が誰とつきあうかを決めるの? その直感で私に合うかどうか見透かすの?」


 唇も、手も、興奮のあまり震えていた。


 私は確信した。


 本当におかしくなっているのは、私の方だ。

 長い時間の中で歪み、壊れていたのはきっと私の方なんだ。


 命を削るみたいにして育ててくれた母にこんなひどい態度をとっている。


 見ている私は、泣きわめいている私に力の限り命じた。


 今すぐにここを離れて。逃げて。

 最悪の事態を引き起こす前に、早く。


 私はかろうじて靴を突っかけると、家の外に走り出た。


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ヘッダ
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フッタ

― 新着の感想 ―
[良い点] 彰実さんと里佳さん。それぞれが日常の中で儘ならない想いを抱え、葛藤している様が丁寧に描かれており、それが二人の人物像に厚みを与えているのだと感心させられました。 また、二人を取り巻く周囲の…
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