14 やまさち ――A
〈やまさち〉は、カウンターのほかには四人掛けの小上がりが四卓あるだけの、こぢんまりした店である。夕食や晩酌のピークがすぎたところなのか、僕がのれんをくぐった時には、小上がりが一つとカウンターの一番奥側が二席、それぞれ二人連れらしい客で埋まっているだけだった。
カウンターの向こうに軽く会釈して、先客とは一番離れた席に座ると、店主の定春さんはおやという顔でおしぼりと水を出してくれた。
「しばらくぶりだね」
「インフルエンザにかかったり修論と卒論が締め切りだったりで、何かとばたばたしてて」
「もう、シカもイノシシも入ってきてるよ。この頃じゃ、冷凍技術も発達してきたから、夏でも十分味のいいものは手に入るけどね」
やっぱり初物は気分が違うよねえ、と笑う。そう聞くと、急に空腹感が強くなった。
壁に掛かった黒板に几帳面な字で書き込まれた日替わりメニューをじっくり吟味する。
「ししかつ定食で」
はいよっと威勢のいい応答とともに、定春さんは調理に取りかかった。僕はといえば、何とか作れる料理は鍋と味噌汁ぐらいで、ほとんどできないけれど、こうして人が料理をしているのを見るのは好きだ。定春さんは、今の僕にはとうてい手がでないような格式の高いお店で十五年も修行して独立したという。その手さばきはほれぼれするほど淀みがない。
「今年のイノシシはどうですか?」
「台風でドングリが不作気味だから、少しあっさりかな。カツ定食が一番おすすめ」
自分の選択をほめられたようで少し嬉しくなる。冷静に考えれば、料理がおいしいのは、イノシシと定春さんのおかげで、僕は何の貢献もしていないのだが。
「今期の猟は行ったかい?」
「いや、まだ。一度誘っていただいたんだけど、それこそインフルエンザのせいで仕事もたまってるわ体力も回復してないわのタイミングで、折り合いがつかなくて」
定春さんは目にも留まらぬ早さで糸のように細くキャベツを刻んで、平皿にふわっと山盛りに乗せた。千切りを作り置きしないで、オーダーの都度刻むのがこだわりだと以前に言っていた。
「そろそろ、気が気じゃないだろう? 山が呼ぶからねえ」
「呼ばれちゃうんですよね」
僕は定春さんの口調に笑ってしまった。定春さんも山に呼ばれて落ち着かなくなるタイプの人である。食材としての野生肉や山菜に興味があるのだという。
十歳ほども年上の料理人という、僕のふだんの生活ではなかなか巡り会わない人種の定春さんと知り合いになったのは、学部生の頃、たまたま気が向いて参加した狩猟関係のシンポジウムの客席で隣り合わせの席に座ったのがきっかけだった。話してみると、定春さんの店と僕の家がかなり近いことがわかり、以来、時々こうして食事をしに来ては定春さんと話すのを楽しみにしている。
「でも、今年は、呼ばれたからって、それっとばかりに飛び出すわけには行かなくて」
「なんだ、彼女さんでもできたかい」
僕は定春さんをちょっとにらんだ。
「できてない。今日そのつっこみ二回目なんですよ、みんな人のモテない不幸をからかって。
行きがかりで猫を飼うことになったんです。大家さんに頼めば餌やりくらいはしてもらえると思うけど、それにしてもちゃんと前もって頼んでからじゃないと」
「猫か! 猫でも、帰ったとき家に待っててくれるのがいるっていいもんだろう」
定春さんは破顔した。僕はうなずいた。
「こんなに気分が違うものかって、自分でもびっくりしてます。親ばかみたいだけど、うちの子めっちゃかわいいんですよ」
「そうでなくっちゃ動物を飼う資格なんてないよ。親ばか上等じゃないか」
揚げ鍋のなかのカツがたてる音が、次第にグツグツいう湿った音から、カラカラと澄んだ音に変わり始めた。定春さんはご飯と味噌汁をよそってカウンターにおいてくれた。返す手で菜箸を取り、カツを引き上げて油を切る。
僕がご飯と味噌汁を手元におろしている間に、定春さんはサクサクと小気味いい音を立てて切ったカツをキャベツの千切りの皿に載せ、ねりがらしとソースの小皿と一緒にカウンターに並べた。
大変だった一日の終わりにうってつけのスタミナメニューだ。僕は早速箸を取ると、あつあつのカツを慎重に冷ましながら食べ始めた。
◇
ちょうど食べ終わった頃、スマホがシャツのポケットでハミングするみたいに振動した。この時間だから、きっとサトカさんだ。確認すると、案の定だった。
『片づけをしていたら、家の納戸にこんなのがありました。親戚の誰かが作ったと思うんですけど』
写真は、錦鯉の絵のような作品が額に入ったものだった。綴れ織りか、刺繍だろうか。金運の象徴と言われる錦鯉だ。最近は海外でも人気が高まっていると聞くし、手工芸のテーマとしては別に不思議でもないけど、と思って画面をスクロールしていると、サトカさんからもう一言メッセージが届いた。
『なんで人面魚にしたんでしょう』
思わず二度見してしまった。本当だ。身体をくねらせる鯉の首の付け根に、彫りの深い顔立ちの男が大きく口を開けて悲鳴を上げているところのモノクローム写真にも見えるような斑文が縫いとられている。僕は忍び笑いに肩をふるわせた。
『これはひどい』
大きさもかなり大きそうだし、ずいぶん手の込んだ作品のようだった。冗談でちょこっと作れるようなものではない。
定春さんが、僕が食べ終わってカウンターに返していた食器を下げて、熱いお茶を出してくれた。僕が猫舌なのを知っていて、わざわざ熱いお茶を出してくれるのは、席を空けようと気を遣って急いで飲まなくても、ゆっくりしていけばいいよ、という定春さんのさりげない心遣いだということは、この店に長く通う内になんとなく気がついていた。僕は会釈して湯飲みを受け取った。
『推理してみましょうか。ご親戚に、ひどいジョーク好きの、おそらくパソコンがお得意な方と、手芸がお好きで資料集めは苦手な方の組み合わせがいらっしゃいませんか』
『それ、推理って言うんですか? 心当たりはありますけど』
『当たり前すぎる答えかな。どうするんですか、それ?』
『とりあえず保留です。うちでは飾るところがないけど、そのまま捨てたらバチが当たりそう』
このメッセージを、サトカさんはどこでやりとりしているんだろう。自分の部屋でのんびりしながら? それとも、リビングでお母さんとテレビでも見ながらだろうか。少しでもくつろいで、穏やかな時間だといい。このごろのサトカさんは、僕にあまり見せないようにこにこしてはいるけど、ふとした瞬間に疲れた顔をしていることが多い。家の片づけが大変なのだと言っていた。
元気が出ればいいな、と思うけど、僕にできることは多くない。少しでも笑ってもらえる何かを毎日探しているけれど、こうして僕の方が笑わせてもらうことだって多い。
また会いに行こう、と思った。














