13 コーヒーブレイク ――A
世の中には二つの人種がいる。会議が好きな人間と、会議が嫌いな人間だ。
断然後者の僕は、参加していた学内委員会がようやく終わって、ゾンビのような足取りで研究室へと戻った。学生支援に関する委員会なので、こんなことでもなければ顔と名前も一致しなかったであろう他学部の面々と顔を合わせることになる。今年度、委員長を務めることになった工学部の教授は、明らかに前者だ。どうしてこの議題でこんなに話が長くなるのか分からない、というテーマをいくつも議論したあげく、結論は何も出ずに終わった。会議そのものを愛していて、意識的にか無意識下でかは分からないけれど、長引かせることに快感を覚えているとしか思えない。
今日はこれが長引くのが分かっていたから、サトカさんと待ち合わせもできなかった。恨むよ、鈴木教授。
サトカさんとは、ピヨの寝床を買いに行った日の後から、お互いの仕事帰りに週に一、二度待ち合わせては家の近くまで送っていくようになった。もう、三、四回は一緒に歩いたはずだ。少し前進した、と思う。でも、何かにびっくりしたら、野生の鹿みたいに大きく跳躍してどこかに逃げ去ってしまうのでは、というイメージが拭いきれず、僕はそれより踏み込んだ行動にはなかなか進めないでいた。
修論生は先週の終わり、卒論生は今週の頭に、教授がうちの研究室の学生に独自に課した一次締め切りを迎え、全員が何とか初校を提出していた。この後は各担当教員が内容に目を通し、大きな破綻がないか確認してから、学生本人が指摘された細かい修正を加えて、仕上がった論文を簡易製本して学部の教務課に提出することになる。正式な口頭試問は年が明けてからだが、担当教員が提出前に目を通していることもあり、この試問で落第になることはまずない。神谷さんも、質問紙調査の統計処理と分析を須藤さんの全面サポートで何とかこなし、まず卒業には漕ぎ着けられそうな原稿を持ってきていた。
研究室としては大きな山場を越えたことになる。
さすがにこの時期、居残って作業している物好きはいるまい。
そう思って戻ってきたのに、院生室には皓々と明かりが灯っていた。最後の人が消し忘れている可能性もあるな、と思って、一応ノックして覗いてみた。
「誰かいる?」
「はい。委員会、終わったんですか?」
須藤さんだった。大きな作業テーブルに、フィールドワークで集めたとおぼしき資料を広げて、ノートパソコンで何やら入力作業の真っ最中である。
「やっとね。ついこないだ修論卒論の大波を乗り越えたばっかりなのに、もう居残り作業? 熱心だねえ」
「何言ってんですか」
冷たい目でじろりとにらまれてしまった。
「その修論卒論のおかげで、時間も空間もまるで自由に使えなかったんですよ。自分の研究が全然進んでません。ここから巻き返さないと」
正論である。反論の余地もない。頑張ってね、とだけ言ってさっさと帰ろうとすると、呼び止められた。
「ちょうど休憩しようと思っていたタイミングなんです。コーヒー飲んでいきますか? 一杯も二杯も手間は同じですから」
めがねの奥の目が鋭い。これは、暗に『お話があります』というやつだ。
須藤さんには逆らえない。僕は一杯だけ、お相伴にあずかることにした。
向かいの助教室に委員会のファイルを片付けて(このご時世に紙媒体の資料が配布されるあたり、心底イケてない会議だと思う)、自分用に置いているマグカップと、非常事態用にデスクの引き出しに常備しているちょっといいチョコレートを持って戻った。須藤さんは卒業生の誰かがおいていった古いコーヒーメーカーに水と豆をセットしてスイッチを入れたところだった。簡単にインスタントで済ますメンバーも多いし、僕も自分でやるならそちらの陣営なのだが、須藤さんはレギュラーコーヒー原理主義者なのである。いただけるのであれば、もちろん僕もおいしいコーヒーに異論はない。
僕は須藤さんの斜め向かいに座り、チョコレートの箱を開けると、須藤さんと自分の真ん中くらいに置いた。
「お茶請けにどうぞ」
ありがとうございます、と言うと、須藤さんはみじんの遠慮もなく、一つとって個包装をはがし、口に放りこんだ。コーヒーメーカーがお湯を少しずつ吐き出す音と共に、芳しい香りが漂い始める。僕もチョコレートを口に入れた。濃厚なカカオの香りが、次第に強くなってくるコーヒーの香りと鼻孔で混ざり合う。
チョコレートを先に飲み下し、口火を切ったのは須藤さんだった。
「冗談抜きで、今度の学会、どうなさるんですか。エントリーするなら、そろそろ梗概の骨組みくらいできてないと厳しいですよ」
別に私の知ったことではないですけど、と辛辣な口調で言いながら須藤さんは立ち上がり、水を完全に吐き出し終えたコーヒーメーカーのスイッチを切ってガラスのサーバーを取り上げた。僕のと須藤さんの、二つ並べたカップに丁寧につぎ分けていく。
「うん。そうだよね」
僕は曖昧な口調で言って、渡されたカップを両手で包んだ。厚手の陶器が、熱い中身でじんわりと温まっていく感覚が指先に心地良い。須藤さんは舌が灼けそうなコーヒーをかまわず口に運んだ。
「研究会でもしばらく、プレゼンしてないですよね。教授も心配してました」
「須藤さんは学会に出すの?」
「出します。吉見さん、スランプですか?」
歯に衣を着せないとはこのことである。逸らしたつもりの話題も即、軌道修正されてしまった。
須藤さんと僕は二学年差で、院生同士としてのつきあいの方が長い。彼女がここで先輩から卒論のデータ処理の手ほどきを受けたり、書いてきた先行研究のまとめをボコボコに指導されたりしていたとき、僕は後ろのパソコンでひいこら言いながら修論の文章の下書きをしていた、いわば戦友のような間柄である。
もっともその頃から、須藤さんはやたら切れ者で、当時まだ学部生の須藤さんの反撃に撃沈した院生も一人ではなかったように記憶している。この長いつきあいの間に、彼女に僕の手の内はほとんど読まれていると見なしていいだろう。
僕は観念した。
「そういうことになるかもなあ」
するっと言ってしまうと、なんだかほっとした。
「いつから外に出してないですか」
「プレゼンとかの形でってこと? いつだろう」
記憶を振り返ってみて、われながら驚いた。就職してからこっち、身内や若手同士の勉強会でさえも発表していなかった。
院生も博士課程の上の方の学年になれば、今の須藤さんのように学部生の面倒を見たりして、研究室の運営にかなり主体的に関わっていくようになる。ましてや満期で単位を取得し終わって、研究を続けながら就職先を探す、オーバードクターと呼ばれる立場になればなおのことだ。だから、僕自身、オーバードクターから助教になってみるまでは、そんなに大きく生活は変わらないだろうと思っていたのだ。
だが、院生は授業料を納める立場、就職してしまえば給料をいただく立場である。のしかかってくる雑務も責任も、それまでの比ではなかった。考えてみれば当たり前の話なのだが。そんな生活の変化に適応するのに必死で、研究の進捗を自分でしっかり振り返ってみる余裕がなかったのかもしれない。
「もう一年くらいになるかも」
「今年の前半はそれどころではありませんでしたしね」
須藤さんは二つ目のチョコレートを手に取った。彼女が他人の弱音に共感めいたことを言っているのは初めて聞いた気がして、僕は驚いた。もうちょっとガツンと怒られるかと思っていたのだ。
「でも、フィールドには行っているでしょう?」
「細々とだけどね。猟期に入っているから、またお誘いがかかる頃なんだ」
僕の研究協力者のみなさんは、出身の岡山から伝手をたどったせいで、西日本に集中している。お声がかかれば、週末に急遽、数時間かけて往復することになる。サラリーマンと兼業の方も多いので、土日中心な点はありがたかったが。
「じゃあ、材料はたまっていってますよね。棚卸しして整理していかないと、パンクしちゃいますよ。どこが引っかかっているんですか」
「なんていうかなあ。面白くないっていうか」
「まさか、無気力ですか。私も学生生活長いですから、何人か調子を崩して引きこもったり療養に入ったりした知り合いもいましたし、確かに一か月くらい前の吉見さんはちょっと心配な様子だと思ってましたけど」
学生支援の委員会でもたびたび議題にあがるのが、精神的に調子を崩して大学に出てこられなくなる学生のことだ。スチューデント・アパシーという名称自体はかなり以前から提唱されてきたが、近年では件数も対応の難しさも増していると、心理学研究科の教授でもあるカウンセリングセンター長がさっきの会議で力説していた。
「そう? 自分では普通だったけど」
「ぼんやりしてたり、ゼミでのつっこみに切れがなかったりはしてましたよ。疲れてるのかな、と思ってました。最近はまたちゃんと冴えてると思ってましたけど、見立て違いでしたか」
心配しているというわりには、えぐりこんでくる。
「アパシーっぽいやつではない、と思う。自分ではよくわかんないけど。生活全体が面白くないとかではなくて」
ちらっと、サトカさんの顔が思い浮かんだ。楽しみなことはちゃんとある。
「自分ではフィールドに行くと面白いと思って見るし聞くんだよ。だけど、持って帰ってくると、素材に圧倒されてしまうというか、人様が読んだり聞いたりして面白いとか意味があるって思ってもらえるようなものにできる自信がなくなって」
「で、目の前の雑用に追い立てられているうちに後回し、ってことですか」
「そう言うと身も蓋もないけど」
シンプルですけど根が深そうですね、と須藤さんはため息をついた。
「たぶん、嫌でも気に入らなくても、一旦アウトプットしないと、どうにもならないんじゃないですか。生意気を言うようですけど」
「いや、本当にその通りなんだろうと思うよ。心配してくれてありがとう」
僕は神妙に言うと、やっと冷めてきたコーヒーを口に含んだ。
須藤さんはそんな僕を見て、軽く口の端を釣り上げた。
「猫はお元気ですか」
「おかげさまで」
元気なんてもんではない。古くなってきていたとはいえ、我が家のカーテンはピヨが強引によじ登るため、ずたぼろである。
「じゃあ、彼女さんは?」
僕はほとんど飲み込みかかっていたコーヒーをわずかに気管に吸い込んでしまい、むせて激しい空咳に襲われた。
「ええとあの、何の話ですか」
しわがれ声で問い返した。思わず敬語になってしまう。
「何って、一か月前くらいからやたらスマホをちゃんとチェックするようになったじゃないですか。置き忘れもなくなったし。以前は、院生の間でも、吉見さんはフィールドに行くと圏外だし、学内にいても不携帯だし、スマホ文化に完全に取り残されてるおじいちゃん扱いだったんですよ。連絡が来るかもしれない大事な方ができたんじゃないんですか。ぼけっとした様子が一応シャープに持ち直したのもそのころだし。インフルエンザでしっかり骨休めしたせいか、それとも猫のせいかとも思いましたけど、猫はスマホ使いませんものねえ」
須藤さんは涼しい顔で微笑んだ。
「ノーコメント」
歯ぎしりしながらささやかに抵抗すると、思いがけず須藤さんは心配そうな顔になった。
「まずい関係じゃないでしょうね。これまでお世話になってますから、何を伺っても秘密だけは厳守しますよ」
「まずいって?」
「そうですね、例えば……」
須藤さんは考え込むように天井を見上げた。
「学部生だと、コンプライアンス関係でなにかとややこしいことになりますね。高校生以下でしたら、悪くすると青少年保護育成条例違反。さもなくば不倫。反社会的団体の方。不法滞在の外国人。ストーカー。他にも挙げますか」
めまいがする。
「須藤さん、僕のことなんだと思っているんだ……」
「別に何も。ごく普通の人が状況によっては思いも寄らないトラブルに巻き込まれるのが世の理ですから。どんなことに巡りあっていてもそれで驚いたりはしません。……それで、どうなんですか」
「ご心配には及びません。そんなん、ありえない」
余計なことは言わないように口を引き結ぶと、須藤さんはクロムのめがねのブリッジを軽く指で押し上げた。
「ですよね。私も本気でそんなことを想定していた訳じゃありません。どちらかといえば、お相手の方は何の問題もないのに吉見さんがウダウダ考えすぎて、最終的に不成立になるパターンの方が想像つきます」
「……ノーコメント!」
須藤さんはからからと笑った。
「やっぱりそっちが図星でしたか。まだ目はあるんでしょう? もういい歳なんですから、あんまり石橋を叩いていないで渡った方がいいですよ」
とんだ誘導尋問である。これ以上ぼろが出るとまずい。僕がコーヒーの礼を言ってそそくさと帰ろうとすると、須藤さんも立ち上がった。
「待って下さい。そんな話をしようとしてお引き止めしたんではないんです」
「じゃあ、何」
「私、春からパリに留学することにしました。学会には戻ってきて参加しますけど」
晴天の霹靂ともいえる発言に僕はぽかんとした。パリ? 留学?
「どういうこと?」
「結婚する相手がパリに本社のある市場調査の企業に研究職として就職することが決まりまして。一緒に行って、いったん語学学校に通ってから、大学院受験をしようかと」
言っていることの後半のほとんどは耳に入ってこなかった。最初にとんでもない爆弾が仕込まれていたせいだ。
「須藤さんが結婚?」
「何か問題でも」
「いやそんなことはないけど、誰と? 僕の知ってる人?」
彼女は、よく若手有志の勉強会で顔を合わせる他大学の研究者の名前を挙げた。
「付き合ってたの? 知らなかった」
「わざわざ言いふらすことでもありませんし」
ここでようやく、事態の理解が追いついてきた。まず最初に言わなければいけなかった一言があったはずだ。
「それは本当におめでとう。研究室は寂しくなるけど」
「ずっといるわけにもいきませんから」
長いご縁ですから、研究室では吉見さんに一番にご報告したかったんです、と彼女は微笑んだ。
合理的であることを一番に重んじる須藤さんが、これほど非合理的なことを言うのを僕は初めて聞いた。ご縁? 一番に報告?
お相手のカレは、僕が気づいていなかっただけで、〈火だるま〉の須藤さんにこんな笑顔をさせるだけの力量を持った御仁だったようだ。
僕はちらっとチョコレートの箱をみた。もう後一つしか残っていない。僕は二つしか食べていないのだが。黙ってそのまま置いていくことにした。
結婚祝いに、いいチョコレートを探そう、と、心の片隅にメモした。
◇
このまま徹夜で作業をするという須藤さんに、戸締まりに気をつけるように声をかけて僕は院生室をでた。暗い廊下は、非常口の方向を示す緑色のランプと、窓から入る街灯の明かりで昼間とは全く違う空間に見えた。僕の好きな景色の一つだ。
容赦ない須藤面談の情報量は、僕の疲れた脳には多すぎた。何となく、一人になるのが嫌で、僕はいったん帰宅してピヨの世話をした後、なじみの店に久し振りに夕食をとりに行くことに決めた。もう、狩猟肉も食べられる頃だろう。
ふと、サトカさんはどうしているかな、と思った。夕ご飯に何を食べただろう。もう、家でゆっくりしている頃だろうか。














