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カナリア  作者: 藤倉楠之


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13/30

12 みっこおばちゃん ――S

 晩秋の陽が暮れるのは早い。帰りついたのは、夕闇がかなり濃くなった頃だった。


 結局三駅分を歩き通して、ふくらはぎと足の裏に重だるく心地よい疲労を感じながら、私は家の玄関に辿り着いた。振り返ると、路地の入り口まで送ってくれた彰実さんが肩のあたりまで軽く手を挙げて合図してくれた。私が会釈を返すと、くるりと踵を返して去っていった。


 道すがら、何度か、電車に乗りますか、と聞いてくれたのだが、そのたびに私は断った。駅にたどり着いたら、きっと少し現実に近づいて、つないでいた手を離すことになるだろう。そう思うと、夢から覚めてしまうのがもったいないような気がしたのだ。

 まだ少しぼうっとしているのか、疲れも相まって、足元は雲を踏むようにふわふわと心もとない。


 しかしそんな気分は、ただいま、と声をかけながら玄関を開けた瞬間に吹き飛んだ。


「里ちゃん、おかえりー!」


 聞き慣れた、からっとした大声が居間から飛んできた。たたきには、来客の靴が一足。


「みっこおばちゃん? 来てたの?」


 障子を開けると、ソファの定位置に母が、ローテーブルの横に叔母が陣取っていた。テーブルの上には叔母が持ってきたのであろう最中と、普段使っている茶器が広げられている。


「ついさっきよ。あ、そのワンピース懐かしい! 着てくれたのね。それに、そのバッグも」


 母の妹だけあって叔母もめざとい人だった。もっとも、叔母には母の直感的な勘の良さというより、現実的で緻密な観察眼があるような印象だったが。


「おかえりなさい」


 母も微笑んだ。やっぱり、調子がいいみたい。


 私が荷物を置いて手を洗い、自分の湯呑みを持って居間に戻ると、勝手知ったるよその家で、叔母がお茶を淹れかえていて、注いでくれた。


「里ちゃんは今日どこに行ってたの?」


 叔母の質問に、私はさっきまでいたショッピングモールの名前を挙げた。


「友達の買い物につきあってた」


「お友達?」


 珍しく母が私の話に興味を示した。体調を崩してから滅多になかったことだ。いや、思い返せばその前から……父が亡くなってからかもしれない。私は何となく緊張して答えた。


「最近仕事関係で知り合ったの。ヨシミさんっていうんだけど、猫飼い始めたばかりで、いるものが多かったから手伝いに」


 嘘ではない。少々ミスリードがあるのも事実だが。


「それより、みっこおばちゃんはどうして寄ってくれたの? 今日来るって知ってたらもっと早く帰ってきたのに」


「そう、それ!」


 叔母の声のトーンが一段跳ねた。


「聞いて里ちゃん、三人目の孫は、ついに! 女の子でしたー」


「和樹くんとこ? もう生まれたの?」


 母よりも結婚が早かった叔母の息子は二人とも私より年上で、既婚である。上の従兄にももう二人男の子がいて、下の従兄にも女の子が産まれたことで、叔母は還暦を迎える前にすでに三人の孫がいるおばあちゃんになったというわけだ。


「そうなの!」


 叔母はテーブルの上から自分のスマホを取り上げた。見て見て、と写真を表示させてから、渡してくれた。


「わあ、かわいい!」


 真っ赤な顔の小さくて華奢な赤ちゃんが、病院のベビーベッドとおぼしきプラスチックの枠の中で、バスタオルの上に横になっている。ひじとひざをきゅっと曲げた姿勢が、いかにも新生児ちゃんで愛くるしい。


「美人でしょう、サオリちゃん似なのよ。鼻筋が通ってるもの。和樹の鷲鼻に似なくてよかったわ。目もぱっちりしてるしまつげも長いのよー、やっぱり女の子ねぇ」


 ……赤ちゃんに美人とかあるものだろうか? 正直、この写真では美人度どころか男女の違いもわからない。身内にとっては、赤ちゃんはみんなかわいい、ということではすまないものなんだろうか。


「本当にかわいい。おめでとうございます。いつ生まれたの?」


 私は無難にコメントして、スマホを叔母に返した。

 一つ最中を取ってかじると、澄んだ甘みが口いっぱいに広がった。自分でもすっかり忘れていたのだが、結局昼ご飯もほとんど喉を通らなかった上に、長い距離を歩いたせいで、かなり空腹だったらしい。


「一昨日の明け方にね。退院は今度の木曜日だって」


「和樹くんのマンションに帰るの?」


「ううん。サオリちゃんの実家でひと月、お世話になって、一か月健診が済んだらこっちのマンションに戻ってくるって。サオリちゃんのパパが車で病院まで迎えに来てくれるそうよ」


 サオリさんのご実家は、車で一時間半程度のところにある。電車だと路線が遠回りになるので、二時間くらい。だから、病院にいるうちに一度顔を見に行ったのだという。


「戻ってきたら、近いから困ったときには私がまず手助けする事になると思うんだけど、まずは向こうのジジババ孝行で一緒に過ごしてくるってわけ」


 初孫だしね、と付け足して叔母は相好を崩した。


「俊樹のところも、保育園が見つかって、春からユキちゃんが仕事復帰なんだって。ばあちゃんはフォロー頑張らないと、よ」


 小さいころ、盆や正月には会って一緒に遊んでもらっていた従兄たちの人生はどんどん先に進んでいる。私はなんだかまぶしいような思いで聞いていた。


 あのころ、この部屋で従兄たちとポーカーや七並べをやっている間、父と健おじさんはよくお酒を飲みながら囲碁や世間話に盛り上がっていた。碁敵だったのだ。母と叔母は台所と居間を行ったり来たりしながらおしゃべりに夢中になっていた。祖母はコンロの前に番人のように陣取って、私や従兄たちがのぞきに行くと、こっそり煮豆や揚げ物の味見をさせてくれたものだ。


 そんなこと、つい今まで思い出してもみなかった。不思議なものだ。


「健おじさんは? 病院行かなかったの?」


「パスポートの更新があって、病院から直接そっちに行ったの。そう、そのことで姉さんに聞かなきゃと思ってきたのよ」


「何を?」


 母が先を促した。母の前の最中は封も開けられず手つかずである。もともと甘いものは好きなので、今日はあまり食欲がないのかもしれない。


「健さんね、四月からタイに赴任が決まりそうなのよ。大きいプロジェクトが動いてるんだって。でも、俊樹のとこも和樹のとこも、これから大変でしょ。定年までの二年間だし、今回は、単身赴任で行ってもらおうかなあって。私、辛い食べもの健さんほど得意じゃないしね」


「そう。二人がいいんなら、それがいいんじゃない」


 母はうなずいた。


「そうよね! 良かった、姉さんがそう言ってくれて。姉さんの直感は間違いないもの」


「そんなことないわよ」


 母は少し居心地が悪そうに座り直した。


 叔母はそんな母の様子にはあまり気を止めず、窓の外に目をやって慌てたように膝立ちになった。


「やだ、真っ暗じゃない、こんな時間? 健さんもうきっと家で待ってるわ、急がないと」


 嵐のように手荷物をまとめ、コートを羽織ると、また来るわね、という挨拶もそこそこに帰っていった。


 叔母が帰ると、急に静かになり、家の中が妙にがらんと広くなったような気がした。存在感の大きい人である。母は盆に茶器をまとめると、物憂げに立ち上がって台所の流しに向かった。


「みっこが来ると明るくなっていいけど、ちょっと疲れたわね」


 母はほとんど聞き役だった。とはいえ、体調を崩してからは普段ほとんど外に出ない生活をしている。私も昼間は仕事で留守にするため、母は、今日はたぶん普段の一週間分以上の言葉を発したに違いない。


「里ちゃん、最中を二つ、お仏壇にあげてくれる? みっこったら、自分で食べたかったものだから、形ばかり供えてから、すぐ下ろして広げちゃったのよ。それは別にいいんだけど、このお店、おばあちゃんが好きだったところだから」


 わざわざ、姉の亡くなった姑の好きだった店に立ち寄って最中を買ってくるのも、自分が食べたくてすぐ開けてしまうのも、いかにも叔母らしい。人がよくて開けっぴろげな気性なのだ。


 私は仏壇の高坏に最中を一つずつ載せると、居ずまいをととのえて手を合わせた。


 お父さん、おばあちゃん。


 そこまで心の中で唱えてから、はたと、なんて呼びかけよう、と考えた。


 このところ、お母さんの病気を治してください、と、ずっと祈ってきた。でも、何か違うのではないかと思ったのだ。


 彰実さんに話したからかもしれない。それとも、このごろ、自分がなんだか前と違って変だからかもしれない。


 でも、言葉にならなかった。


 ちゃんと考えるから、見ていてね、と呟いた。


  ◇


 彰実さんからは、夜が更けてからメッセージが来た。


『猫ベッド、気に入ってもらえたようです』


 彰実さんがさんざん迷ってピヨさんのために選んだのは、ふかふかしたクッションがかまくらのように縫い合わされた、ドーム型のベッドだったはずだ。寝床は今日から使ってもいいんだから、と一度は配送を頼んだ荷物から取り出して、バッグに入れていた。さすがピヨさんにめろめろだ、と妙な感動を覚えたのではっきり覚えている。

 かまくらの開口部からちょこんと顔を出して得意げにしているピヨさんを想像した。


 だが、メッセージの後ろに、なぜかため息のアイコンがついている。私は画面をフリックして続きを表示させ、写真が目に飛び込んできた瞬間に吹き出した。


 ピヨさんは思った通り得意満面だ。予想と違ったのはその居場所。ドームの上にどかっと座り込んで、かまくらを完全におわん状に潰して、してやったりの顔でくつろいでいる。


『せっかくかまくらを選んだのに台無し』


 大笑いのアイコンと一緒に返信した。


『気に入って座ってくれただけでもよしとすべきかも知れません』


 猫を飼う人には、打たれ強さが不可欠らしい。


 私は自分のベッドの上で、疲れた足を長く伸ばした。枕元の小机に置いた文庫本が目に留まった。


『そういえば、アイリッシュの〈幻の女〉、やっぱり父の本棚にありました。お貸ししましょうか』


 サスペンスミステリーの古典で、今日、会話に上がっていたものだ。必読とあちこちの書評で見かけながら、手に取る機会がなくて未読なのだと彰実さんは言っていた。私は、読後感がすごかった印象だけはありながら、図書館で借りて読んだものか父の本棚から出したものか記憶が曖昧だった。父の蔵書はとにかく数が多いので、何があるのか到底覚えきれない。風呂の後、二階にあがる前に確認したら、わりとすぐに見つかりはしたのだが。父の、持ちものを抱え込む性格は、祖母譲りだったのだなあと、そんな共通点も改めてふと意識した。


『いいんですか。大事なものでしょう。お母さんは気になさいませんか』


『母は、父の本棚には手を触れませんから。お貸しするだけなら大丈夫です』


 高校時代も、友人に頼まれて、クリスティやクイーンは貸していた。


『では、お言葉に甘えさせて下さい。大事に読みます。ピヨには触らせません』


 もし今面と向かって会話していたら、さぞかし真剣な顔で言っているんだろうな、と想像して、私は甘酸っぱいような気持ちになった。


 ピヨさんに触られて困るものの取り扱いは、この頃の彰実さんの生活の中心課題なんだろう。叱ってわかる相手ではないから、自分の生活を変えるしかない。突然懐に転がり込んできた命の責任に、怒りも不平もなく、当たり前のこととして引き受け対応しているというのは、本当は途方もなくすごいことだ。


 ピヨさんを引き取ったのがこの人で本当によかった。


『次、お会いした時にお渡ししますね』


 何気なくそう返事してから、あ、と思った。


 次って?


 でも、送信したメッセージは取り消せない。


『いつがいいでしょうね。次の次の週末は教授の講演の手伝いで遠方に行かなくちゃいけないんですが』


 ものすごく当たり前みたいに返ってきた。肩すかしを食らったような気分だ。


 来週でも、と入力しかけて、私は顔をしかめた。母の捜し物。今日はつきあわなかったが、あまり放ってもおけない。今度の水曜日と日曜日くらい、空けておかないとまずいだろう。


『来週はちょっと難しいです。先になっちゃいますね』


『お休みが無理なら、お仕事が終わるの、何時くらいですか?』


『カウンターの片づけがあるから、よほど患者さんが殺到しない限りは、六時四十五分すぎくらいです。でも、母が待っているので、食事は家でとらないと』


『そんなにたくさん時間をいただけないことは承知の上です。でも、お店の近くで待ち合わせて、お家まで歩いて送っていくぐらいはいいですか?』


 ちょっと強引な設定だ、と他の人が相手ならきっと思っていただろう。


 本人も、打たれ強くて空気を読まないんです、と言っていたな。


 でも、嫌な気はぜんぜんしなかった。そんな少しの時間だけでも、また一緒に歩けることも、一緒に歩きたいと思ってもらえているらしい、ということも嬉しかった。無理をして合わせてくれているんだろうか、と思うと申し訳なかったし、もう一度会ったら、私の魔法は解けなくても、彰実さんの魔法は解けてしまうかもしれない、という不安は心の隅っこにずっとあったけれど、その不安には背を向けて見ないことにした。


 こんないいことがずっと続くわけないとしても、少しの間だけ、夢を見るくらい、あってもいいんじゃないか、と思ったのだ。


 私の出勤日で、彰実さんが六時半に大学を出られる日を確認して、お店の向かいにあるコンビニで待ち合わせることにした。


 それまでに、〈幻の女〉は再読しておこう、と、私は文庫本に手を伸ばした。


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