9 コーディネート ――S
吉見さんと買い物に行く日が迫ってくるにつれ、私は焦っていた。
仕事に着ていくような服しか持っていない。というか、そもそも、何を着たらいいのだろう?
寝る前や昼休みにインターネットで検索してみたりもしたけど、どうもぴんと来ない。派手におしゃれするのも違う気がするし、といって、気が抜けたような服装で行くのも嫌だった。
水曜日の休みに、買い物に行くつもりだったのだ。
駅ビルのファッションフロアを一回りすれば、なんとかアイデアも浮かぶかもしれない。今の流行なんてよくわからないけど、街の女の子がどんな服を着ているか見れば、少しはましな選択ができるかもしれない。しばらく、洋服は買っていなかったので、後にも使えそうなものなら、一枚くらい買ったって構わないだろう。
でも、母の片づけを手伝った結果、とてもそんな気力はなくなってしまった。
母はやはり何かを探しているようだった。だが、聞いてもはぐらかして教えてくれない。私は母の出したものを整理して、壊れたり傷んだりして捨てるしかないものや、この先もどうにも使いそうにないものを処分に回し、判断に迷うものをまとめて、防虫剤や除湿剤を取り替えながらしまいなおす作業に忙殺された。
翌日と翌々日は仕事で遅くなり、今日はもう土曜日である。
閉店間際の駅ビルになんとか駆け込んで、試着をする時間すらなかったが、とりあえずざっと売り場を見てまわり、いくつかの店で見たものと雰囲気が似ていた、手持ちのニットワンピースを着ることに一応決めた。ケーブル柄の編み込み模様が全体に入った、みっこおばちゃんがおさがりでくれたものだ。
みっこおばちゃんは、奮発して買ったのに、男の子育児に追われて何回も着られないうちに、似合わない年になってしまったのよ、と笑っていた。叔母は背も高く、骨格がしっかりした体格で、このワンピースを颯爽とまとっている写真もアルバムで見たことがある。小柄で線の細い自分ではうまく着こなせないと思ってはいたのだが、温かそうな雰囲気が気に入って手放せないでいた。
ところが、今日、店であらためて売られている洋服を見ると、どのマネキンも、小さな子がお姉さんの服を借りたようにだぶっとしたサイズのものを、服の中で体が泳ぐような着こなしをしている。流行は変わるものである。なんだ、じゃああれでいいじゃないか、というわけだ。
帰宅し、食事も風呂も済ませて自分の部屋に戻ると、温かみのある白い毛糸のワンピースを出して、ハンガーを通し、鴨居にひっかけてみた。もちろん、そんなに組み合わせる選択肢があるわけでもない。上着は季節を考えれば春先に買った淡いグレーのフード付きジャケットくらいしかないだろう。マネキンに従えば、多分、黒のタイツを合わせればいいはず。それだけは、駅ビルの靴下ショップでギリギリで買うことができた。
組み合わせてみて、私はため息をついた。
ショッピングだから、歩き回る覚悟で行かないといけない。靴は結局スニーカーだろう。
でも、なんとなく寂しい。これでいいのかな。
こういう分野になると、全く自信が持てない。大学生のころは、周りにおしゃれな友達が何人かいて、時々買い物に付き合うと、自分の買い物のついでにああでもない、こうでもないと私にも試着をさせては、似合うものを教えてくれた。でも、地元で就職してしまえば、結局、家と職場を往復する日々だ。職場では私服の上にカラー白衣(店長はそう呼ぶのだが、なんて矛盾した言葉だろう、と時々思う)を羽織ってしまうので、そこそこちゃんとした服装なら別に何でも構わない。結果私はファッションにはさっぱり疎い生活を送ることになっていた。余計にお金を使うこともないし、今まではそれで別に構わなかったのだが。
前日の夜では、友達にアドバイスを求めるのも難しい。
これまたみっこおばちゃんが何かのついでに買ってくれた、スマホと小さめのお財布しか入らないようなショルダーバッグも、ハンガーの肩にかけてみた。母と叔母がよく私に着せたがる、明るいイエローのものだ。どういう場面で使うのかよくわからなかったが、仕事向きでもないしパーティーフォーマルでもないなら、休日のお出かけに使うしかない。これだと、メイクポーチやハンドタオルは別のバッグに入れることになる。
気をつけて街の女の子たちを観察してみると、やっぱり、小さめのバッグの子はシンプルな布のサブバッグを持っていることが多かった。
バッグの黄色がちぐはぐな気もする。でも、普段仕事に持っていっている、いかにもビジネス用のA4書類が入る大きさのレザートートも不自然だ。
不意に、ふすまをとんとんとノックする音がして、私は驚いて振り返った。
「なあに」
声をかけると、細く開けたふすまの隙間から、母がおずおずと顔をのぞかせた。母が二階の私の部屋まで上がってくるのは数年ぶりのことだった。
「明日のことなんだけど……」
母の視線が、鴨居にかけられたハンガーに泳ぐ。
「出かけるの?」
「早めにお昼食べて、午後からだけど。何かあるの?」
別にやましいことがあるわけでもないのに、いたずらを見つかったような気分になって、必要以上に声がとがってしまった。
「用がなかったら、納戸の片付けを一緒にやってもらおうと思っただけ」
「今度でいい?」
母は頷いたが、少しがっかりした様子だった。罪悪感がのどの奥の方でちりちりと痛んだが、私はあえて表情を動かさなかった。ほとんど初めてした、ささやかな反抗だった。
だが、内心はパニックで何も考えられなかった。後から思えば、反抗している自分に自分が一番驚き、焦っていたのだと思う。母に心労をかけてはいけない。なのに、フォローも、謝罪も、何の言葉も浮かんでこない。
「おやすみなさい」
母は静かにふすまをしめた。
私は無意識にこめていた肩の力を抜いた。苛立ちと後悔が交互に押し寄せてくる。目を閉じて深呼吸を繰り返した。
大丈夫。大丈夫。何かが壊れてしまった訳じゃない。休みの日に出掛けるのだってはじめてじゃない。予定を言い忘れていたことだって。就職もしたいい大人が、自分で自分の休日の過ごし方を決めるのに、何一つ悪いことなんてない。母だって怒っているわけではない。
でも、母の頼みをあんな風にきつい口調で断って、謝りもしない自分の振る舞いが、一番の戸惑いの対象だった。自分で自分がよくわからなくなっていた。
ベッドの前の床で足を抱え込んで座り、おでこを膝にくっつけたまま、何もできず放心状態のまま、どのくらいの時間が経っていたのだろう。
ふいにデスクの上で充電器につないでいたスマホが、蜜蜂が羽ばたくような音をたてた。
メッセージの着信を示すグリーンのランプがまたたく。私は何も考えられないまま、無意識に手にとってメッセージを開いた。吉見さんのアイコン、ピヨさんの得意気な見上げ顔に、知らず、顔がほころんだ。
『ちょっとトイレに行ってたすきに、やられました』
写真が続いて表示される。思わず吹き出してしまった。
ピヨさんが、吉見さんの定位置であろう座布団にちゃっかり座って、ノートパソコンのキーボードに前足をのせている。文書作成アプリとおぼしき画面には意味不明の文字列がびっしり。これは、盛大に『やられました』の光景だ。
一度笑い始めたら、今度は止まらなくなってしまった。声を殺して肩を震わせていると、涙が溢れてきた。
私、変だ。どうかしてる。
でも、ひたすら笑って、ぽろぽろこぼれていた涙が自然に止まったら、なんだか、妙にからりとすっきりした気持ちになった。笑うのが久しぶりだと、この頃思っていたけれど、涙を流したのもかなり久しぶりだったような気がした。
おばあちゃんが亡くなったときも悲しくて悲しくて仕方なかったのに、ほとんど泣いていない。悲しすぎて泣けなかったのかもしれない。
『ピヨさんは、お仕事をお手伝いしようとしてるんですか』
大笑いのスタンプを添えて送ると、すぐ返ってきた。
『ひたすらパソコンの邪魔をするので、さっきまで、穴の空いちゃった靴下をおもちゃがわりに結んで投げてやってたんです。すごく喜んだのはいいんですけど、エンドレスで持ってきては投げさせるんで、まったく仕事がはかどりません』
『遊んでいる途中に吉見さんがトイレにいったんなら、これはピヨさんの腹いせかもしれませんね』
『恩返しよりは腹いせでしょうね……』
ため息のスタンプとともに返ってくる。そうは言っても、吉見さんはこの可愛い暴君にめろめろなのだ。
『データ、大丈夫なんですか?』
『大丈夫です。ほとんど二行おきくらいにちょこちょこセーブする癖がつきました、ここ半月で』
なるほど。たしかに、キーボードの上に座ってみたり、マウスを操作する手にタックルを掛けたりと、これまで聞いている範囲だけでもピヨさんはやんちゃに過ごしているらしい。自衛せざるをえないだろう。
『明日、お会いできるのが楽しみです』
不意に送られてきた文面にどきっとした。送ろうか、送ったら重い感じかな、と思って迷っていた文面そのままだったからだ。立て続けに、おやすみなさい、のスタンプが届く。
『私もです』
短く返しておやすみなさいのスタンプを添えた。
もう少しやりとりしたいな、と思うくらいのところで、こうやって吉見さんとのメッセージはするりと終わる。忙しいのか、こちらに気を遣ってくれているのか。聞きたいことは色々あったけれど、詮索するようで何となく気が引けて、世間話のついでに吉見さんの方から質問されたことを尋ね返すくらいしかできなかった。
明日はもっといろいろ話せるだろう。
明日は、普段の引っ込み思案をやめてちゃんと顔を上げていよう、と気合いを入れ直した。
◇
翌朝、階下に降りていくと、コーヒーのいい香りがした。
「おはよう」
できるだけ普通の調子で言うと、母はちょうどスイッチが切れたコーヒーメーカーからサーバーを取り出して振り返った。
「おはよう。カップ出してくれる?」
うん、と返事をして、いつものカップを食器棚から取り出した。特に緊張した様子もない母に拍子抜けした。
休日はお弁当を作らないので、朝食もあるものでごく簡単に済ませる。今日はトーストとカフェオレだけだった。ちょうどよかった。おかずなんか用意したって、緊張で喉を通らなかっただろう。
トーストもほとんど強引にカフェオレで流し込み、食卓を片づけていると、一足早く食べ終えていた母が、祖母の和室から何かを持って戻ってきた。
「今日出かけるのに着ていくように、あのニットワンピースとバッグを出してたんでしょう?」
「うん」
「これが合うと思う。どっちでも」
母が紙袋から取り出したのは、紺の地に水彩画のようなラフなタッチで淡い黄色の待宵草が散らしてあるスカーフと、グレーがかったベージュのごく薄い毛織物のストールだった。カシミアだろうか。
「昨日の夜、あのコーディネートを見たときに、これを片づけの途中でおばあちゃんのクローゼットで見たのを思い出したの」
私は呆気にとられて母を見ていた。母が怪訝そうに私の顔を見る。
「お母さん、変なこと言った? もちろん、好みじゃなければどちらもつけなくてもいいのよ」
「ううん。そうじゃなくて」
私は言葉を探した。
「こういうの、すごく久し振りだと思って。小学生の頃、朝、私が自分で選んだ服装にちょこっと付け足すの、よくあったよね」
「中学校からは制服だったし、私も仕事を始めてからは朝そんな余裕はとてもなかったからね」
母は懐かしそうな顔をした。
「それに、六年生くらいのころにはもう、里ちゃん、そういうの嫌そうにしていたし」
「そうだった?」
私はきょとんとした。母の「ちょい足し」はヘアピンだったり、カーディガンだったり、靴下の取り替えだったり、本当にちょっとしたことだったのだが、魔法のように服装があか抜けたし、友達にもいつもほめられた。お母さんは魔女のように何でも見抜いているのではないかと思うくらいだった。
「ああ」
そこまで考えて、思い出した。何でも見抜かれているような気になって、それが嫌で、母のつけたピンを通学路で外してポケットに入れてしまったり、肌寒い日に『暑いから邪魔になるだけだ』と言い張って、季節を先取りしたアウターを拒否したことはあった。
なんだ。小学生の私、割と反抗していたのか。
「里ちゃんの髪や肌の色、おばあちゃんの若い頃に似てる。大事にしまってあった服や小物、あなたに似合いそうな色のものばかりよ」
デザインはもちろんレトロもいいところだけど、と言いながら母はスカーフを畳んだ。
目の後ろがつんと痛んで、あわてて瞬きをした。情緒不安定な自分に戸惑った。
本当に具合がおかしいのは、誰なんだろう。私の方なのだろうか。母を心配するそぶりでごまかしてきただけなのだろうか。
不意に浮かんだ自問に、足元の地面がぐらりと揺れる気がして、私はその問いを心の奥底深くに押し込んだ。














