序 雨の街で ――A
最初に目に飛び込んできたのは、街灯の光の中に沈んだ、レモンの柄の傘だった。大きくて、シックな柄は、けして子ども用には見えない。それが、地面に触れんばかりに低い位置で傾いていたのが目を引いたのだ。
誰もが傘を傾け、足早に歩いていく街の中、止まったままの傘。
何をしているんだろう。
ちょっとした好奇心だった。
通りすぎざまに少しだけ振り返ると、華奢な体格の若い女性だった。カナリア色のスカートの裾がわずかに地面に触れ、雨水を吸い込んでいるのも気にせず、家の隙間の狭い空間を覗きこむようにしている。思い詰めたような横顔が、気になった。
「あの……何か、落とされたんですか」
彼女はぎょっとしたようにこちらを振り返り、仰ぎ見た。夜道を運転していたとき、道路の真ん中に飛び出してきて立ちすくんだ鹿の目をなぜか連想した。
「お手伝いしましょうか」
自分の口をついて出た言葉に自分でも驚いた。雨の夕方、全く見知らぬ若い女性に声をかけるなんて。これではまるで……不審者だ。
だが、断られるか嫌がられるととっさに思った僕の予想に反して、彼女は肩の力をふっとぬき、泣きそうにくしゃっと顔をゆがめた。
「あの……猫が」
「猫ですか?」
「ここにいるんです。怪我してるんですけど、怯えて出てこなくなっちゃって」
見てください、というしぐさで身体を引いた彼女に釣り込まれるように、僕は先ほどまで彼女がしゃがみこんでいた場所に身を屈めた。
二軒の家がほとんど軒をふれあうように建っている間の、大人の体格では片腕をさしこむのがやっとのスペースに、薄汚れたタオルをまるめたようなかたまりが見えた。
にゃあ、という鳴き声が聞こえて、やっとそのかたまりが猫だと認識できた。
「おいで」
狭い隙間に差し込んだ腕の、手のひらを上に向けて、できるだけ低い声で呼んでみた。猫は、肩を強ばらせるように身を後ろに引いた。だが、そのままの姿勢で待ってみると、また、にゃあ、にゃあ、と声をあげはじめた。まだ子猫のようだった。
無理に手を伸ばせば、さらに後ろに下がってしまうだろう。といって、この後さらに雨がひどくなると伝えていた天気予報を思い起こせば、このままほうっておいて帰るという選択肢もとりにくかった。
僕は、若い女性を振り返った。
「参りましたね」
「そうなんです。あの……すみません、まきこんでしまって」
「あなたの猫ですか?」
「いいえ。この辺りで、何度か見かけた野良の母猫が連れていた一匹のような気がします。でも、待っていても母猫もぜんぜん迎えにこなくって」
野良か。汚れっぷりと怯えっぷりにも説明がつく。
ふわり、と空気が動いて、彼女も僕のとなりに再びしゃがみこんだ。キンモクセイのような甘酸っぱい香りが一瞬鼻腔をかすめた。
「見えにくいんですけど、後ろ足を怪我してるみたいなんです。歩き方がおかしいので、あれっと思って、声をかけたらここに入り込んでしまって。母猫が迎えに来るかもしれないと思って一度は離れたんですが、どうしても気になって買い物の後でまた来てみたら、ずっとここで鳴いてたみたいで」
「引っ張り出すには、奥過ぎますね」
「どうしたらいいんだろう」
彼女は独り言のように呟くと、下唇を軽くかんだ。長いまつげがほおにかかる。
きれいな人だと思った。
この人はどれだけ長い間、こうしていたんだろうか。彼女の細い指は寒さのためかわずかに震えていた。
「なんとかしましょう」
思わず言った僕を、あの鹿のような大きな瞳で彼女はじっと見つめた。
後から思えば、僕のとる道はそこできまっていたのかもしれない。
「あ、あれが使えるかも」
きょとんと首をかしげた彼女をよそに、僕は傘を下に置くと、背負っていたリュックサックを開けた。
彼女はなにも言わず一歩歩み寄り、自分の傘を差しかけてくれた。また、あの花の香りがした。
深呼吸したい衝動を抑えて、僕はリュックサックのなかを探った。もともと、たいしてものが入っているわけではない。目当てのものはすぐ手に触れた。
「これ、試してみましょう」
昼食用にコンビニで買って食べきれず、封も切らずに入れてきたものだ。
「チーズ、ですか?」
「燻製ほたて風味。腹が減ってれば、寄ってくるかも」
スティック状の、細く裂けるタイプのチーズだ。僕は封を開け、四分の一ほどを裂いて彼女に差し出した。
「あなたのほうが、うまくいくかもしれない」
彼女はうなずいて受け取った。僕はかわりに、傘を彼女の手から取った。
スカートを膝の下にたくしこむようにしゃがんだ彼女は、小さくちぎったチーズを手のひらにのせ、隙間に腕を差し込んだ。
「おいで。ほら。……お腹、空いてるでしょう」
低く歌うような調子で呼び掛ける。彼女が濡れないように傾けた傘の柄を握りしめ、僕も知らぬ間に息を詰めていた。少し強くなり始めた雨が肩を濡らす。
「食べました」
張りつめた声で言うと、彼女は左手に持っていた残りのチーズから、また小さくちぎって右手にのせた。先程より、少し浅く差し入れて待つ。
「おいで。出ておいで」
にゃあ。まるで返事をするようなタイミングで子猫が鳴く。
「食べてます」
ささやくような声で言い、彼女は少しずつチーズを与えていった。差し出すペースがだんだん早まっていく。
「次のチーズ、ください」
猫から目を離さないまま、彼女はこちらに手を伸ばした。手間を減らそうと、彼女が手のひらにのせていたくらいの大きさにちぎっていたチーズをのせる。指先と手のひらがわずかにふれた。
心臓が、はねた。
中学生じゃあるまいし、一瞬手が触れたくらいで。
自分を諌める内言とは裏腹に、喉元まで暴れる心臓はなかなかおさまらなかった。
きゅっと一つに結んだ長い髪のかげにちらりとのぞくうなじが、夕闇に白くうかんだ。思わず目をそらした。
猫は、完全に隙間から出てきて、彼女の手に頭を擦り付けていた。
「つかまえた! いい子ね」
彼女は猫の脇から両手を差し入れ、すくうように持ち上げると、胸元に抱き寄せて立ち上がった。デニムジャケットの中に着た、街灯の明かりではグレーか紺かもわからないセーターが濡れるのも構わず、しっかりと猫を抱えている。
「ありがとうございます」
心の底から安堵したように、顔全体をほころばせた。闇の底に、白い花が咲いたようだった。
「いえ、僕はなにも」
とたんにうまく動かなくなった口をごまかすように、僕はリュックサックのなかに再度手を突っ込んだ。
「あの、タオル」
ぶっきらぼうな口調に自分でも面食らってしまう。朝、まだ天気が崩れていなかったので、通勤ルートを帰りにランニングしようと思って入れていたのだ。
「古いもので悪いですが。そのままじゃ、猫も冷えるし、セーターが。捨ててかまわないですから」
「いいんですか?」
彼女はおずおずと受けとると、猫の身体を器用にくるんだ。
「この後、どうするんですか?」
何気なく尋ねると、ぱっと顔を上げた彼女と一瞬目があった。途方にくれたようにすぐその視線はうつむいた。
「怪我していますから、病院に連れていって……その後はまだ」
「飼えないんですか」
視線を落としたまま、こくりとうなずいた。
「家族が、生き物を飼うのを嫌がるんです。説得はできないと思います」
動物病院で里親を探してもらえないか、聞いてみるつもりだと彼女は付け加えた。
「僕が連れて帰りましょうか」
なぜそんな一言が言えたのか、自分でもわからない。彼女はぽかんとして僕を見上げた。一瞬の後に、自分の発した一言の重大性に気がついた。だが、ここで撤回はできない。僕は最大限、平静を装った。
「大丈夫なんですか」
「独り暮らしですから、誰に気兼ねも要らない。古い下宿屋で、店子はもう僕だけなんです。大家のじいさんは、自分も室内犬を飼っているし、僕が出たら下宿屋は畳んで取り壊すと言ってるから、許可はもらえると思います」
何でこんな言わなくてもいいことばかり並べているのか。自分でもバカみたいだと思った。あぶくのように浮かんでくるどうでもいい言葉を噛み潰すように口を引き結ぶと、自分に言い聞かせるように大きくうなずいた。
「大丈夫です」
彼女の大きな瞳が、まっすぐに僕の目をのぞきこんでいる。
「病院にも、連れていきます」
「……では」
彼女は壊れ物を捧げるように、そっと腕の中の包みを差し出した。受けとるとき、また指先が触れた。
今度は、心臓は鼓動を変えなかった。その時点でもう、これ以上ないほどドクドクと、激しく打っていたからだ。
こうして僕は猫を飼うことになった。














