魔神トランス
永応斬鉄録かなこ17
●壬賀茂川
「終わった……なにもかも」
壬賀茂川のほとりにしゃがみこみ、ぼんやり斐陽の山々を見つめながら、五百住弾正は虚脱したようにつぶやいた。
懐に入れておいたはずの魔石精多迦がなくなっている。虎麿と戦っている途中で落としたのだろう。
「なんのために今まで」
その視線を、ひたひたと流れる壬賀茂の川面に漂わせる。
彼は河内祇園山城の主になるつもりでいた。理由がある。
「俺はかの命燕上人の直系の子孫なのだ。その俺があの城主になることは当然」
命燕上人が祇園山に棲んでいた法術師であることは前述した。
遊狭家と一揆勢とを激しく噛みあわせ、両者が壊滅的に疲弊したところを、弾正が祇園山城に君臨する。そして豊かな射上盆地を支配する。
それが当初の目的だった。そのために一人奔走してきた。
それがことごとく失敗した。
いま祇園山は木沢宗景なる管領派の大名が支配している。
三吉長真はどこかに5万石の所領を約束してくれたが、彼の欲するものはそんなものではない。祇園山の城主になれば30万石は堅いであろう。
しかも今まで祇園山麓の一神官家にすぎなかった五百住家。あの城の主になることは先祖伝来の悲願でもあった。
「いや……まだ望みはある」
祇園山には魔石精多迦が封印されていた。
その城が一揆勢によって陥落したあと、弾正はひそかに城内に入りこみ、ある石室にて魔石を発見した。
この魔石を管領家にでも売り込めば、オカルト好きな京兆院晴氏は狂喜するだろう。祇園山ぐらいポンと呉れるかもしれなかった。
その夢も潰えた。
(だが……)
ギラリとした目をあげ、身も重たげに立ちあがる。
「諦めんぞ――!!」
いきなり大声をあげたので、川をくだる船頭が「おおっ」とおどろいて川に落ちそうになっていた。「この餓鬼ッ」と罵声を浴びせてくる。
「諦めん……諦めんぞ……」
じゃり、じゃりと小石をひきずる音を立てながら、弾正はとぼとぼ河原を歩いていった。
五百住弾正。のちに松長弾正武秀となのり、祇園山を拠点として河内一円に絶大な勢力を築き、清洲天摩の攻撃を受けて、天守に満載した火薬とともに壮烈な爆死をとげた一世の梟雄。
その在りし日の姿。
●みかん
西国軍17万の軍勢は、陸路、海路から京洛めざして東上していた。
海路の総大将は山宝殿義隆(滋持の従弟)率いる5万7千。
その大船団の威容の前に、瀬戸ノ海の海賊衆はつぎつぎに降伏。さもなければその絨毯式の船団によって一瞬で蹂躙される。
陸路は山宝殿滋持の12万の大軍。その脇には参謀多治比龍寿。
その後方には将軍柳営藤氏を乗せた輿がゆっくりとつづく。
この短兵急なほどの快進撃は、
「管領方はいま野洲義国を滅ぼし、土一揆を鎮定したばかり。その力は一時的に弱まっております。勢いを回復する前に攻めるべきです」
という龍寿の進言によるものである。しかし彼は後悔していた。
案に相違してその進撃はあまりにも早すぎるのである。龍寿が不安になるほどだった。
敵方の豪族たちは20万の大軍を前に、戦わずに降伏してくるのである。簡単に降伏する者は簡単に寝返りやすい。
「せめて後方が追いつくまで滞陣あるべきです」
と龍寿が進言しても、魔槍・太玄明王の力にとりつかれた山宝殿滋持は聞く耳をもたない。
さらに東へ東へと攻略の駒を進めていた。
そのあとをアルカイックスマイルの将軍藤氏がしずしずと続く。
(それにしても)
と龍寿は思う。藤氏についてである。自分とさして年が違わないという。
話しかけても「そうか」「よきにせよ」「そのように」しか言わない。3つしか語彙がない。
攻城戦の時もどこを見ているのかわからない目で、ぼんやり道ばたの菜の花を眺めていたりする。
龍寿も「お前は何を考えているかわからん」と滋持に叱られる事があるが、この藤氏はそれ以上だった。カラクリ人形を造ってもじゅうぶん晴氏の代役になるだろう。
似た者同士、ということで龍寿は藤氏の相手をさせられている。もちろん龍寿には心外この上ない。
その藤氏がめずらしく自分から話題を切りだしてきたことがあり、龍寿はのけぞるほどに驚いたものである。
「喜鶴」という東国方の将軍についてである。
これまで多くの傀儡将軍が立てられ、そのつど暗殺されたり、戦死したり、僧籍に入れられたりして、京洛に柳営家の血はほとんど絶えてしまった。
残っている家は常陸滸河公方、下総御弓公方、越前朝隈公方など遠方の地にいる。
そのため藤氏は親戚というものをよく知らない。
「喜鶴殿は神宮寺村という所にいたそうだ」
(神宮寺、ん?)
龍寿は思い出した。魔石吐羅刹の封印地として推定されていた地である。
「幼きころ母に死なれ、以後はカナコという刀自に育てられたそうだ」
刀自というのは中年女性の敬称だが、藤氏にはそう伝わっているらしい。
それだけで藤氏は何やら慕わしげな顔をするのである。そのあとフフッと笑い、例のアルカイックスマイルを保つだけである。
「自分にも親戚というものがある」
それがうれしい。でも政治的な思惑で敵味方になっている。だが何の力もない自分にはどうしようもない。という意味での「フフッ」であろう。
(カナコ刀自……)
胸中でその名を反芻する。
「若様――」
このとき龍寿の脳裏に、布を頭にまいた桂包の婦人の顔が浮かぶ。
それを思い出すときつねに、婦人はキラキラと放射する朝の陽光を背にしていた。
「若様、毎日朝陽を拝みなされ。朝陽を飲みなされ。さすればオテント様は若様を守り導いてくださいましょう」
龍寿も幼きころに父母に死に別れ、その後兄にひきとられたが、その兄も戦死してしまった。
以後は柘御方という婦人に引き取られ、育てられた。
「御方様はまだ若い身の上であるにもかかわらず、どこにも再嫁せず、幼い私をあわれんで養ってくださった」
「そのころの私は柘御方にすがるように生きていた」
と後年、龍寿は当時を述懐する。
そのカナコ刀自の話を聞いたとき、柘御方の事を思い出したのである。そのとたん悲しくて仕方がなくなり、涙が落ちそうになるのを必死にこらえていた。
しかし藤氏はそんな龍寿の事情など知らないから、ぽーっと例の微笑を向けてきて、
「召されよ」
と温州ミカンをひとつ龍寿の膝にのせた。
●軍議
「西国軍の進撃は思いのほか迅速」
とその報告の武者はいう。
「瀬戸ノ海をほぼ制圧し、伊予、讃岐の沿岸諸城はことごとく陥落。陸路でも――」
すでに播磨国境付近に迫ってきているという。播磨は三吉長真の領国であるが、その地域は諸豪族にわかれて三吉家の威令はゆきとどかず、防塁としての効果は見込めそうにない。
「ぜひとも京洛より大軍をくり出し、播磨に布陣してこれを迎え討たんにしかず」
と三吉長真は言うのだが、京兆院晴氏はウンとはいわない。
「そうなると京洛が手薄になる。さすれば近江の大名がそのスキを突いてくる恐れがある」
近江の六斯・京国の両家はいちおう管領派の体を装っているが、その内実は中立であり、つまり日和見である。
勝ち馬に乗り、戦後は「勝者側」として論功行賞の席につくのが彼らの通例であった。
「ならば京洛などを打ち捨てて」
と言いそうになるのをかろうじて抑える。京洛を捨てて全軍一丸となって敵にあたり包囲殲滅する捨身の戦法。それがもっとも有効な戦法といえたが、こちらも壊滅の恐れがある。
それは野洲義国が南山城の不動城でやろうとしていた「故事」に倣うことになる。あの禿頭を思い出して長真は沈黙する。
結局長真の要求は2つだけ通った。
管領派の大名に援軍を要請する。
狭隘な大環田津をおさえ、和泉方面への道を封じる。
2つ目はいいとして、各大名は援軍要請にどれほど応じるであろうか。もはや7年前とは事情が違っている。
管領家にはすでに往年の権勢はない。しかも各大名とも泥沼の内紛に落ちこんでおり、とてもヨソに手をまわす余裕がない。
その最大動員兵力を試算してみると、
「8万5千……」
諸将は息を呑む。以前の数は最盛時で18万人だった。その半分もない。
その数を聞いても、
「ふん」
と晴氏は鼻で笑っていた。いつものように紙に幾何学模様を描いている。
やがて顔をあげ、
「そういえば典厩の小竹ノ君のことであるが」
と全然関係ないことを言い出した。
(こんな時にそのような話を)
長真はこめかみに青筋を浮かべながら、「はっ……」と両拳を床につける。
「そろそろ小竹殿を京洛の旧屋敷にもどるべく取り計らうように……。そういえば小竹殿は喜鶴公とおなじ村に住んでいたそうだな」
「左様で」
「なんなら喜鶴公の侍講(教育係)として招いてもよい。小竹殿は文武にすぐれた婦人であるとか」
「おお、それは……」
長真の鉄面皮が一時にゆるんだ。小竹が来れば喜鶴や経臣殿も喜ぶであろう。
なにより経臣殿が吐血してから、芝波まで日々やつれきって仕方がない。彼女も三吉軍の一角をになう精鋭である。来たるべき戦いに支障が出るだろう。
「ふむ、こんな所でよいか」
ふと、晴氏は幾何学模様が描かれた紙を、ふわりと床にひろげ、じーっと見下ろしていた。
そこには格子状に細かい直線が描かれ、その中心に丸が描かれている。
紙面の至る地点から、中心にむかって赤い直線が走っている。
長真が聞く。
「それは何でござる」
「ふむ、万経万緯、真円図」
ちょっと言い淀んだのは、今思いついたネーミングだからだろう。
ころり、とその図面に玉を転がした。それはダークブルーに鈍く輝く玉。
すなわち比室山に封印されている魔石剣護法であるが、むろん長真にはわからない。
晴氏はその図面にむかって指で九字を切り、指先を口元におしつけて、
「オンセンエンシャテンドウ、オンセンエンシャテンドウ……」
と囁くように呪を唱える。一瞬、幾何学模様がボウッと青く輝いたように見えた。
「いずれこれが京洛の地を守ってくれよう。まあ今に見ているがいい」
晴氏はふうっと肩を落としたあと、ボリボリと首根をかいていた。
●遺臣
磐鳴芝波がこの神宮寺の屋敷に来る。どうも小竹に関することらしい。
ということで屋敷の面々はそのつもりで待っていたが、現れた芝波は「ヘンテコ」だった。
「まかね様!!」
いきなりカナコに抱きつき、ひとしきり涙を流したかと思えば、
「これが神宮寺のお屋敷!」
と、はじめて見たかのように大農家のような藁ぶき屋根を見上げ、屋敷のまわりを一巡して帰ってくる。ちなみに彼女がここに来るのは二度目である。
しかもあそこに馬小屋、あそこに石垣、あそこにサウナ風呂、崖の下にカナコ農園があるなどといっては「ああ!」と声をあげて驚いている。驚くことでもない。
「草やぶの空地をここまで整地したのですね。すばらしいものです」
誉められて、カナコは脇で「ニヘヘ」と笑っているだけである。なんで誉められてるのかもわからない。
芝波は毎日のように経臣から屋敷のことを聞かされ、脳内で屋敷像を思い描いていたのである。
その想像図と実地とを符号させて弾けるように喜んでいるのである。
カナコがいう。
「ところで、芝波よ。小竹殿のことで来たんであろ」
「あ、そうそう、小竹殿!」
ようやく用事を思い出し、小竹に向きなおる。
「すぐに京洛の屋敷におもどりください。旧臣の方々もお待ちかねです」
旧臣なんてものがいたのか、と今さらながら小竹は思う。
彼らは近江や伊賀の山中に隠れ、農家の下働きなどをして糊口をしのいでいたという。京洛にもどっているのは有竹、荒城、田目、山仲、阿良川など数名の武士である。馬廻役だった有竹兵衛以外は知らぬ名である。よほど身分の低い家臣らであろう。
ほかの家臣たちは帰農したり、他家に再仕官してしまっているという。
「でも京洛の屋敷は焼き討ちにあい、焼け野原になったと聞いておりますが」
「左様でございます。しかし旧臣の方々が屋敷跡に仮小屋をもうけております。しばらくそこでお住まいいただき、本屋敷の再建のほうは追々」
「はあ……」
そのとき、屋敷の中から狩衣の武士が2人吐き出された。頭には折烏帽子をかぶっていた。
誰あろう馬崎権十郎、そして田名布総四郎である。
「なんだこれ痒いな、かゆかゆかゆ!」
烏帽子にかぶりなれていない権十郎は大騒ぎしている。それに大刀をさした姿は「串にさした芋頭のようじゃな」とカナコは大笑いしている。
じつは昨夜カナコが、この2人を「典厩家旧臣」という体にして、京洛に住まわる提案していたのである。
「山小屋にずっと棲んでいるわけにもいくまい」というのが表向きの理由である。
が、小竹と総四郎が一緒にいられるように仕組んだカナコの計略でもあった。
やがて小袖姿に鎧櫃を背負い、長巻を手ばさんだ小竹が、芝波の用意したまだら馬にまたがって庭先に立つ。
その両脇には権十郎と総四郎が控える。
於勝も手伝いで京洛まで同道することになった。
馬上の小竹をぼんやり見上げるカナコ。
「………」
カナコは何もいわない。小竹が一揆に出かける時、いつも見送っていた時そのままに、とひょーとした目で見上げている。
たまりかねて於勝が代わりに言った。
「ま、また会えるんだし。どうせまたここに来るんだし」
「あ、はい」小竹はあわてて於勝にうなずき返す。
やがて芝波に先導されて、小竹たちは街道につづく坂道を下りていった。
あとに残されるカナコ、茂助。
カナコはニュッと唇を突き出したあと、カクン、カクンと首を振っていた。
爪先で庭の土を掻いている。
茂助がいう。
「一緒に行かなくてよかったのかい。せめて途中まで見送るとかさ。留守番なら俺がしといてやるけど」
「いらんいらん。どうせ小竹殿とはまた会えるんだし。なんならそもじが一緒に行けばよかった」
「この時間に京まで行ったら、宮口に戻るころには夜になっとるわ」
「そうかい」
カッと手鼻をかんでいた。そのあとグジャグジャと鼻をこする。
(なんだ泣いてんじゃないか)
茂助はあきれ顔をする。
どういうワケかカナコはあまり京洛に行きたがらない。なのに京洛とは縁のない土地へ行く気もない。微妙なバランスでこの神宮寺にいる。そんな気がする。
そのとき足元を、さあっと湿った風が吹きぬけ、茂助は「うへっ」と鳥肌をたてた。
見れば上空に黒い雲がかかっている。
「雨が来そうだね。小竹さんたち笠持ってたっけ。俺もそろそろ帰るわ」
「う、うん、今日はご苦労さん」
カナコはそう声をかけたあと、上空を見上げる。
黒い雲がどんどん西から流れてくる。
●魔王
黒い雲が上空を覆いつくし、濁流のように東へ東へと流れる。
昼なお漆黒に染まった地上を、ガカッと一瞬の雷光が染めあげる。そのたび、
キラッ、キラッ
とおびただしい兜の鍬形、馬の飾り、槍の穂先を反射する。
黒々とした人馬の群れも、雲とおなじく東へ、東へと流れてゆく。
播磨を制圧した西国方の陸戦隊12万の軍勢が、摂津の明司津あたりを東上していた。このあたりは三吉軍の影響の強い地域であり、諸豪族も頑強な抵抗を示しているが、孤立無援のまま開城、敗走、あるいは壮絶な討死を遂げている。
(なんだろうあの雲は……)
多治比龍寿は馬上から空を見上げた。黒雲はここ3日上空を去らず、どうどうと流れて尽きることがない。
しかも黒雲を突き破るように、ひとつの妖星が不気味な輝きを放っていた。それはたえず五色に変化しているように見える。
その輝きは京洛に近づくにつれ強くなる気がする。
「あんな星は今まで見たことがない」
星辰図で確認してもあの位置に巨星があるなど載っておらず、載っていれば記憶力のいい龍寿は生涯忘れないだろう。
その龍寿の背後から、ゆらりゆらりと魔神の影が近づいてくる。
ピカッと閃光に照らされ、その武者の姿が白く浮かびあがる。その全身からはボウッと深紫色の霊光が立ちのぼっている。
山宝殿滋持。
「大玄明王の槍が星の輝きを受けて打ち震えておるわ」
地獄の底から湧きあがるような声をあげ、すうっと巨大な三叉槍を天に突き出す。パチパチと槍から細かい放電がおこる。
「あの星こそは我をこの国の王として迎えんがための瑞兆の星」
何やら声が2重になって聞こえる。形相まで変わっている気がする。
(まさか槍の魔力に――)
龍寿のほおに汗が流れる。強大な魔力をもつ呪物を長く所持していると、しだいにその精神は侵され、魔神化する事があるという。
しかしそればかりではない。滋持にはある一個の強烈な憎悪がある。
「あと一歩、あと一歩。三吉長真、あやつの素っ首を、我が前に……」
…………
仁承東西の乱が勃発した13年前、滋持は父・宗禅入道の副将格として上洛軍に参加していた。
「周防の鬼若」として常勝不敗を誇り、その武勇をみこんで宗禅入道も東軍との決戦を決意したほどである。
滋持率いる軍勢は敵方の雄山八幡宮を奪い、さらに最大の要衝龍衝寺城をも奪取した。
それまで龍衝寺城の存在によって守られていた蘭山の寺院群は、たちまち滋持軍の蹂躙するところとなり、その宝物庫は略奪の対象となった。
これらの軍事行動の結果、滋持は2つの魔石、そして巨大な槍を手に入れた。当時の滋持はその槍の正体を知らず、ただの戦利品として扱っていた。
蘭山の略奪を知った後華苑帝は烈火のごとく怒った。
「かの山は鎮護国家の神槍・太玄明王がおさめられた聖山である。これを西軍に奪われたるは東軍敗亡の凶兆である」
その怒りをなぜか新管領の京兆院晴氏にむけたという。そのことが以後、朝廷と管領家がしっくり行かなくなる最初の原因となった。
やがて滋持は、東軍方から現れた一騎の武者、その男が放った槍のただ一撃で、顔面に巨大な傷を刻まれ、瀕死の重傷を負ってしまう。
そのころ長い戦いに疲れていた宗禅入道は、滋持の負傷を聞くや戦意を完全に失ってしまい、ついに東軍方との和睦を決意する。
そして西国に引きあげたその年に、宗禅はさながら燃えつきるように死去した。
(あの屈辱――)
ぼうっと滋持の両眼が赤い色に染まる。
その眼前、大環田津にいたる山上に湧然と軍旗が群がりあらわれる。
管領方の軍勢1万5千。
総大将は三吉長真が股肱ともたのむ曽合凌為。
●避難
応永4年5月08日。
神宮寺村の少将屋敷。
その丘の下、木栖川街道を、三々五々と人がゆく。
みな南へ、南へ。
大八車を引く者、馬に乗るもの、風呂敷包み、櫃を背負う者、家族連れ、あるいは公家の牛車まで見える。
「この京洛まで西国方がなだれこんでくるそうな」
その噂が、彼らを京洛の外へと避難させていた。
「大環田を守っていた三吉軍が負けたそうな」
という噂もある。おそらく西国は陸路より広大な和泉平野に乱入し、海路からも続々と沿岸に上陸していることだろう。
そのころ西国軍は20万という規模に膨れあがっていた。
街道をゆくひとびとを丘の上から見下ろしながら、カナコは腕をくんだままジッとしている。
(なんだかカナコさんの様子がおかしい)ことに於勝は気づいている。
いつも日課にしている畑仕事もせず、根付も彫らず、ただ丘のへりに立って、黒い西の空を睨みつけているのである。
そして思いついたように庭先で居合の稽古をしている。今まで見たこともないような気迫で。
汗びっちょりになると、水甕に桶をつっこみ、ザブッと頭からかぶる。また素振りをつづける。
それを半日も続けているかと思えば、今度は黒鹿毛に乗ってどこかに駆け去っていく。そして半刻(1時間)もすると帰ってくる。
於勝は意外だったが、カナコの乗馬術は水際立っており、その堂々とした手綱さばきは見ていて感動するほどだった。
(カナコさんってあんなにカッコ良かったんだ)と惚れ直すほどである。
まさかのまさかと思うが、カナコは
「西軍と戦う気なの」
「え?」
カナコは横で寝ている於勝に顔をむけた。彼女らは大広間に2つ布団をならべて寝ている。
カナコはカカカッとは笑って、
「え、ま、まぁさか」
「じゃあなんで」
「うーん……」
今のカナコはただの庶民である。西軍がこの一帯を支配したところで、その領民となって以前どおり暮らすだけだった。戦う理由がない。
カナコは頭の下に両手を敷き、天井の梁を見つめながら言う。
「西軍という言葉を聞くと、どうにも思い出してな。わらわが真鉄と名乗っていたころを……。これはどうしようもない。自分でもよくわからんのだ」
「お姫様、かぁ」
於勝は布団の中でグーンと伸びをした。
「小竹さんもお姫様にもどるのか……。そういえばさ、なんで小竹さんはお姫様なのに、あんなに一揆にこだわってたんだろ。ほっときゃよかったのに」
「……わらわは東国に行くまで土というものを触ったことがなかった。それと同じさ」
「え、どゆこと??」
「小竹殿は京洛に来て、はじめて百姓たちの声というものを聞いた。驚いたであろうな。東国の百姓たちは文字がないからのう。ただサムライにおびえて年貢を収奪されるだけの存在じゃ。声なんて上げたら首刎ねられようわ」
カナコが土というものに触れ、そこからあらゆるものが生育するという驚き。
小竹がはじめて百姓の声に触れ、しかも彼らが武家を追い出して自治国家を作ってしまうという驚き。
その驚きは似たようなものかもしれないとカナコはいう。
「いつか小竹殿は答えを見出すであろうよ。今の彼女には総四郎がいるからのう」
そのままカナコは寝息を立てて眠ってしまった。
●玉石
「そうか……凌為でも支えきれなかったか」
その報告を受けつつ、長真は静かにつぶやいた。使いの武者がいう。
「今まで見たこともない雲霞のごとき大軍。しかも総大将の山宝殿滋持はふしぎな槍を持ち、近づく者は小砂利のごとくに吹き飛ばされ」
(小砂利のごとく……)という表現に長真は引っかかったが、使者はただ見たままを報告しただけにすぎない。
それにしても敵の進撃はあまりにも速い。各地の大名に派遣した上洛催促の使者が、まだ帰ってきてすらいないのである。
「それで凌為は」
「曽合殿はそのまま和泉から撤退し、この京洛に引き返しております」
「そうか、よかった」
曽合凌為は得がたき名将である。彼がいるだけで今後の展開がだいぶ有利になる。
本来ならば和泉方面の守備は三吉長真があたるべきだった。しかし晴氏は
「そなたは京洛防衛の要、この地より一歩も動いてはならぬ」
と厳しく禁足している。
それに和泉が制圧されたと聞いても、晴氏はあまり驚いた様子もないのである。彼にはまだ何らかの秘策があるのかもしれなかった。土壇場で奇計をひねり出し、形勢を一気に逆転してしまう晴氏を、長真は何度も目の当たりにしている。
(あの人は世の常の人ではない)
それゆえに尊敬してきた。今はその一念にすがるしかない。
…………
そのころ管領邸の一室。
京兆院晴氏は、数人の修験者・僧侶とおぼしき者たちと対座していた。
絵地図を広げ、なにやら密談している。しかし声は聞き取れない。
やがて晴氏が僧侶の一人に地図を預けると、彼らはその部屋から出ていった。
あとには晴氏だけが残される。
ふと、枯山水の庭先に目をやる。白い玉石が流紋をなし、あちこちに島のように岩が配されている。
白塗の塀ぎわにある岩のひとつに目をとめる晴氏。
(あそこに先ほどまで庭師がいたと思ったが)
扇子でぽりぽりと眉じりを掻く。ゆっくり振り返り、背後にある佩剣に手をのばした。
濡れ縁に出ると、パッと水流に飛びこむように流紋の庭に飛びこみ、ジャリジャリと小石を蹴たてて岩のひとつに向かう。
岩の前で立ち止まる。その岩に声をかけた。
「そこの――」
ひゅん、ひゅん、と剣を2度払った。
大岩に亀裂が走り、それが3つに割れた。おそるべき手並みだった。彼が剣の達人であるという事実は長真ですら知らない。
岩の向こうに庭師の姿をした男が一人。
「そなた、何をしておる」
「……いえ、ただ庭の手入れを」
男は屈みこんだまま、こちらも見ずに応える。
「ふん、これほどの剣技を前にすれば、たいていの下郎ならば肝をつぶす。しかしそなたはさして驚いた様子もない。よほど心胆を練った者。おおかた西国方の間者であろう」
「………」
すっと庭師が懐に手を入れようとする。その瞬間を見逃さず、晴氏は抜き打ちにその男を真っ向から斬りさげた。
「う、ぐっ」
男はそのまま枯山水の上に倒れ、白い玉石の上に鮮血をひろげていく。右手には紐のついた竹筒が握られていた。
「ふん、爆死するつもりだったか」
晴氏の手の剣がキラリときらめく。
それはおそろしく長く、そして黄色みを帯びた剣。
血を吸った刀身が、急にドス黒く染まっていく。
晴氏はブルブルブルッと腕をふるわせ、ガシャリと剣を取り落とした。
「うぬううう、またしても!」
見れば右手の甲にも黒く血管が走り、それが腕にまで拡がっていく。
「ぬ、お、おのれ……!」
晴氏は右腕をおさえながら、よた、よた、と歩いていたが、やがてガクリと両膝をついた。
黒い血管はしだいに白くなっていき、元にもどっていく。
全身汗で濡れた晴氏は、大きく息をあえがせながら、地に落ちた黄色い剣を見つめる。
「銀杏……いや、虎擲掣電の太刀よ」
乾ききった、しかし悲しみを含んだ声で、剣にむかって語りかける晴氏。
「そなたはいつになったら、この私を主として認めてくれるのだ……いつになったら」
永応斬鉄録かなこ18
●手分
永応4年5月18日。
摂津和泉をその領域下におさめた山宝殿滋持率いる西軍20万は、いよいよ与菟川をさかのぼって京洛への侵攻を開始する。
この地に入ってからわずか10日でしかない。多治比龍寿はせめて1ヶ月の準備は欲しかったが、
「遅い」
という滋持の一言で一蹴された。
「ならば軍を3手にわけ、京洛を3方から攻めたてましょう」
摂津平野は京洛にむかうにつれてすぼまってゆき、雄山八幡宮のあたりでもっとも狭くなる。いわゆる山城口。
管領方は必ずここに軍勢を置いているはずである。
そこを越えると山城盆地があり、越えてすぐに龍衝寺城がある。ここでも激戦が予想された。
しかし20万もの大軍が展開できる地勢ではない。それゆえ分散する必要がある。
1つ目は河内から入って南から北上する河内道。
2つ目は山道をこえ丹波から東上する丹波道。
「3つ目はこの本軍です」
前2者が京洛に迫れば、山城口を守っている管領軍も浮き足立つだろう。
「そなたらしいな」
と滋持はせせら笑う。山をも砕く力を得た滋持にすれば、いずれの案も小手先の芸にすぎない。
(冗談じゃない……)
龍寿は内心でため息をつく。
彼の上洛の目的はただに京洛の制圧、そして滋持の補佐ではない。
文化の中心地、情報集積地としての京洛をこの目で見てみたかった。神社仏閣などはその文化の結晶である。
できうることなら兵器学・法術の第一人者である京兆院晴氏にも会って話がしてみたかった。
それを滋持のごとき蛮力で吹き飛ばされてしまっては、龍寿の上洛の目的はほとんど意味を失ってしまう。
(なるべく被害は最小限におさえなければならない)
被害といっても敵方のである。
…………
「敵はかならずや兵を3つに分け、3方より攻めかかってくる」
と予想していたのは京兆院晴氏であった。
丹波の亀ヶ窪には三吉軍の宿老磐鳴芝波。それに丹波の名門羽田野晴康の軍がくわわり兵力6千。
河内の祇園山城にはこれも三吉軍の名将曽合凌為。それに城主木沢宗景がしたがい兵力8千。
山城口には薬師元数の軍勢。兵力は2万。
京洛の入口たる下京地区には、実質的な総司令官である三吉長真1万5千が守る。
この配置には諸将もいぶかしんだ。
羽田野といい木沢といい守護代格の大名であり、かたや磐鳴・曽合ともに陪臣格にすぎない。
しかも一角を守るにしては兵力が少なすぎるのである。
しかし今は非常時である。もはや中世的なしくみで動いていては10万の兵を配置しても用をなさない。曽合・磐鳴の両者であれば寡兵よく戦うであろう。
さらに晴氏はいう。
「山城口の本隊は、敵の攻撃が激しい場合、すみやかに後方へ撤退する」
それに将の一人が異を唱える。
「そうなれば敵の本隊がこの山城盆地へ殺到してきましょう」
「そうなるな」
その後退の仕方は、西軍をなるべく伏美の大荒野に誘い込むようにする。
じつは伏美・宇陀の大荒野に、いま猛烈な勢いで突貫工事が行われていることを諸将は知っている。
ほぼ半里(2キロ)ごとに櫓を立て、あちこちに柵をもうけ、盛土を築いている。
しかし意味はわからない。
それをやらせている晴氏本人どう説明していいのかわからない。
ともかくあの大荒野に西軍を引きこみたいらしい。
(鉄獅子だけで西軍20万を殲滅させる)
などといったら諸将はあきれるか、敵方に寝返ってしまうだろう。
だから黙っていた。
晴氏の前には「万経万緯真円図」が広げられている。
●手紙
「なんなんだろあれ」
神宮寺屋敷の丘の上から、はるか伏美の大荒野を遠望しながら於勝がいう。
空にはなお黒い雲がかかっている。
それでも野づらにたくさん簡素な物見櫓が立っているのが見える。そのまわりを人足たちが右往左往していた。
防衛施設にしては貧相であり、なのに数が多い。2メートルほどの高さの土塁を築いてはいるが、あんなものは於勝でもひとっ飛びで越えられそうである。
於勝の背後で剣の素振りをしているカナコがいう。
「京兆院晴氏は奇態なる男。あやつのやることはよくわからん」
「け、けい」
於勝は舌をもつらせる。ふつう庶民は晴氏を「管領様」というが、カナコはフルネームで呼ぶ。
カナコは腰を据え、ひゅっひゅっと剣を抜き、一回転して、片手で持った剣を逆さに構える。
「いアァァ――ッ!!!」
びっくりするほどの気合の声をあげ、大きく前方に飛びこんで2度剣を振りおろす。そのあと左拳でカチンと右手首を打ち、くるんと剣をまわして鞘におさめる。
カナコがこれほど声をあげて稽古するのは初めて見る。
於勝の目から見ても、以前のカナコより数段強くなっている気がする。
ひょっとしたらカナコはもともと恐ろしく強かったのが、最近弱くなってただけではないのか。と於勝は思ったりする。
実は昨日、カナコに手紙があった。差出人は霞修寺経臣。
「越前朝隈民部少輔殿姉君」とある。えらく事々しい。
「まかね殿を神宮寺六軒村の荘官とし」
とあった。荘官というのは公家領に実地に住んで、京住まいの公家のかわりに所領の管理一切をする、いわば代官である。
「家屋敷の一切をまかね殿に譲渡する」
そこまで読んでいたカナコ。やおら書状を引き裂こうとした。
それをあわてて於勝が取りあげる。
「な、なーにやってんだろこの人は!」
「返されよ、か、かえっ」
なお書状を奪おうとするカナコの手を、於勝はペンペンと叩く。
「せっかく少将様が書いてくれたのに!」
「真鉄などという人間はもはやこの世に存在せぬ。こんなものは無効じゃ!」
「だめだよ。あんただって言ってたじゃないか。西軍という言葉を聞くと真鉄だったころの自分を思い出すって。あんたはどこで何をやろうが、一生まかねなんだよ!」
「………」
伸ばしていた手を、ドスンと床に置いた。くるりと背を向けてアグラをくんだ。
そういう手紙を書いたということは、経臣殿はもう神宮寺に戻るアテはないと言っているようなものだった。
ならば経臣父子がいつでも帰ってきてもいいように屋敷を守ってきた自分はなんなのか。
「この屋敷は少将殿のものだ。喜鶴のものだ。他の誰のものでもない。たとえ少将殿がそれを望もうと、わらわは認めぬ。さもなければここから出ていく」
於勝はふうっと肩をおとし、書状のシワをなおしながら言う。
「じゃあ、手紙でそう書いたら、少将様に。カナコさんがいなくなったら、この屋敷はあばら屋になっちゃうけどね。崖下の農園だって……」
「………」
カナコは背を丸めたまま、カリカリと爪で床を掻いていた。たまに鼻をすすりあげている。
(なんだかカナコさん近ごろ泣いてばかりだな)
こんな泣き虫だとは思わなかった。西軍が来るということでやや感情的になっており、さらに小竹も去ってそれに拍車をかけている。これで自分もいなくなったらどうなるのだろう。
(このまま黒鹿毛にのって西軍に突っこんで行ってしまうような)
そんな不安もある。
背を丸めたカナコが、なにやら手の届かない所へ行ってしまうような錯覚をおぼえ……両手をのばし、カナコの肩をつかんだ。
くるりと振り返ったカナコ。しょんぼりとした目で鼻水をたらしていた。
於勝がニッコリ笑っていう。
「たまには霊然寺の庵主様のところに遊びにいったら。こないだのお礼も兼ねてさ!」
「う、うん……」
結局書状は於勝が預かることになった。
●降伏
京兆院晴氏の計略はみごとにあたった。
丹波亀ヶ窪を守備していた磐鳴芝波はわずか6千の兵で、山路より進入してきた2万の西国軍に奇襲をしかけ、そのまま山奥へと後退させた。
さらに河内祇園山を攻略していた3万の大軍も、曽合凌為による頑強な守備の前に攻めあぐね、和泉方面に後退して態勢を立てなおしているという。
そして山城口の雄山八幡宮を守っていた薬師元数も、その地を捨てて後退をはじめている。
そのあとを12万の西国軍が追撃する。
「あれは驕兵の陣かもしれません。突出をゆるめてください!」
機敏に龍寿は判断し、滋持に進言するが、滋持はなお槍を舞わして「進め進め」の檄を飛ばす。
「何を言うか。見よ、京洛防衛の要というべき龍衝寺城。管領方は再建すらしておらぬばかりか一兵も置いておらぬ」
たしかに龍衝寺城は廃城になったまま防塁としての役目を果たしていなかった。あそこに堅城を築かれたら往年の惨禍がくりかえされたことであろう。
(それほど管領家は衰えているのか)
と龍寿は思ったが、なにやら引っかかるものがあった。
12万の大軍は、自然と鶴翼に広がりはじめ、ひろい伏美の野へと延展していく。
もうもうと砂嵐がわく大荒野。
それを見て三宝殿滋持は哄笑をあげる。
「われらが10年前に焼きはらい、土砂で埋めた田畑も、いまだ再開墾もせずに放置しておる。見つべし管領家の凋落! ここから京洛までは指呼の間ぞ!」
それに和して全軍がオオオオッと鯨波の声をあげる。
そのとき、砂嵐の中、前方より数騎の馬影がこちらへ駆けつけてくるのが見える。彼らは狩衣姿であり武装をしていなかった。
「お待ちくだされ、お待ちくだされ!」
先頭にいる痩せた男が袖をふって叫んでいる。
「それがしは香斉長基と申すもの。お待ちくだされ!」
やがて男は馬から転げ落ちるように下馬し、滋持の馬前で這いつくばった。
滋持は眠そうな目をむける。
「香斉長基、知らん名だ」
「な、何言ってるんですか――」龍寿は呆気にとられる。
「管領家3羽烏の一人、香斉長基殿。京洛で第一級の要人ですよ!」
「その香斉ナニガシが何の用だ」
巨大な三叉槍をその男の眼前に突き出す。
長基は冷汗をたらしながら、
「こ、降伏に参ったのでございます」
「降伏」
くるんと槍をまわし、その柄でぐいっと長基のあごを持ち上げる。
「うぬがごとき小虫一匹が降伏したところで何の利にもならぬ。それがために怒涛のごとき西国軍の歩みをとどめたるか。くだらん。この場にて――」
「お、お待ちくだされ!」
震える手で、懐に手を入れる長基。深紅に輝く玉を取り出した。
龍寿の目が見開かれる。
「それは魔石吐羅刹!」
京兆院晴氏が「たとえ1国と引き換えにしても」と欲しがっていたという吐羅刹。
長基は手の者を使ってこの石を先に入手し、それを晴氏に売りこんで歓心を買うつもりでいた。
すなわち神宮寺の屋敷を荒らし、石室を掘り返したのは長基の手の者だったのである。
それがここへきて急に気が変わった。
(いっそ西国方に売りこめば、京洛陥落後も諸侯の地位は約束されよう)
それでこの顛末である。
滋持はチャッと槍をひいた。
「ふん、ただの小虫ではないようだな。よかろう」
滋持が目で指図すると、龍寿は下馬し、長基から魔石を受け取った。
「付けよ」
龍寿にむかって槍を突き出す滋持。しかし龍寿は石を装填するのをためらっている。
「どうしたさっさと付けよ!」
「は……」
龍寿はやや震える指先で、槍にあいた6つの穴に、吐羅刹をはめ込んだ。
残りはあと1つ……。
ガガガガガ
硬質な金属音とともに鳴動する槍。おもわず取り落とすほどの振動だった。
滋持はその剛腕で振動を抑えつけながら、槍をゆっくり目の前にかかげ持つ。
「うむむ、これまでにない槍の反応。これは……」
ジャキジャキーンと三叉の穂先が高くのび、ついでカクカクカクと何重にも折り曲がっていく。
両側の2つの穂先もいくぶん長くなり、両側へ張り出して、三日月のような形状になる。
ちょうど「玄」という字をいくつも上に重ねたような姿。
それを言葉もなく見上げる滋持。そして龍寿。
「御大将、前方になにやら防塁のようなものが――」
武者の一人が叫ぶ。
はるか京洛の上空には五色に輝くひとつの妖星。
その星の下では砂嵐が渦巻いているが、それが徐々に薄くなり、地上の様子を明らかにする。
野づらのあちこちに木組みの櫓が立っているのが見えた。
吹けば飛ぶような木柵、土塁もあった。それも無数といっていいほどに。
●秘策
「なんだあれは」
と滋持は、地に這いつくばったままの長基に顔をむけた。
「わかりません。ただ管領殿は「秘策あり」とだけで」
「秘策だと」
そのとき地震があった。ゴゴゴゴゴという低い地鳴りである。それがずっと続いている。
前方、荒野を覆いつくす櫓の群れのあたりから、それはゆっくり地上から湧いてきている。
巨大な影。
「山麒麟――!」
ほぼ1キロほどの間隔で、山麒麟の巨体が地から湧いてきているのである。
そればかりではない。鬼山車という兵器もその両側に控えていた。
高さは10メートル。鉄の壁のごときもの。その前面は鉄板で覆われ、10個もの巨大な鉄杭が飛び出ている。
その巨体を城壁にぶつけ、鉄杭を食いこませたところを、鬼山車の後部にある大階段から兵がのぼってゆき、城内に乱入する。本来は攻城用の兵器である。
そればかりではなかった。
「あんなに鉄獅子が」
目視だけで3百体はいるだろう。京兆院晴氏がはじめて鉄獅子の国産化と大量生産に成功した人物であるということは龍寿も知っている。
しかし本来鉄獅子は補助的なものであり「それ」だけで構成された編成など見たことがない。
(晴氏殿は追いつめられている)と龍寿は思った。
あれほど大量の鉄獅子を動かすには大量の法術師を必要とする。それらが組織的に動くためには法術師同士の連絡が不可欠であり、狼煙ていどの通信手段でそれをやる事は不可能にちかい。
そして法力の届く有効半径も限られていた。
1里も駆ければ鉄獅子は突出力を失い、あとは無力化して破壊されるだけである。
鉄獅子を捨てゴマにして京洛から脱出する気ではないか……。
「ワハハ、これは好個の馳走なり!」
太玄明王を振りあげて大声をあげる滋持。
「あの鉄塊どもにて新しく生まれ変わりし太玄明王の斬れ味を試してくれん。いざ進め者ども。山宝殿滋持はここにあるぞ!」
ぶわっと滋持のまわりに旋風がわきおこり、彼のまわりを白い光が包みこむ。彼のゆくところだけ砂嵐が避けて吹いている。
それにつれて12万の大軍も動いた。
(来たか――)
管領邸の薄暗い一室で、ゆっくり顔をあげる京兆院晴氏。
その顔は、万経万緯真円図から放たれる蒼い光で染めあげられている。
幾何学模様の中心に、煌々と輝くひとつの玉。
「この京兆院晴氏の10年来の秘策、あやつらに前代未聞の戦いを見せてくれよう」
すっと図面に手をかざした。
●つづら
そのころ京洛の東郊、霊然寺あたりは閑散としていた。
門前町の住民たちは洛外へ避難しており、街なみはゴーストタウンのように静まり返っている。そこへひょうひょうと黒い砂風が吹く。
「帝もすでに洛北の比室龍雲寺のほうに蒙塵あそばされているとか」
霊然寺の客間で、貞応尼は麦湯をさしだしながら言った。
その前にはカナコ、於勝、そして黒屋治兵衛の巨体があった。
治兵衛は頭にハチマキ、タスキがけという弁慶のような姿をしている。
蒙塵とは天子が都の外に避難することをさすが文字通り「塵をかぶる」の避難だった。ともかく砂風がひどい。
「管領殿はどうなさるおつもりなのか」
京兆院晴氏はいまだ管領邸にとどまっており、何やかやと指示を与えているという。まだ戦い勝つ気でいるのか。
下京あたりには、敵の市中乱入にそなえ三吉長真の軍勢1万5千が守っていた。
「慶之進(長真)ならやすやすと負けはせんよ」
ぐいっと麦湯をあおりながらカナコは不機嫌そうにいう。
「しかしよくて3日であろう」
相手は12万の軍勢。それに他方面に向けていた軍勢も合流すれば、いかな長真でも支えきれまい。
あとは丹波か近江に敗走し、そこで京洛奪回の時を待つ。しかしそれも長くは続かないだろう。あとは旋風のように暴れまわったあげく消滅するしかない。
「その時はどうするの」
と貞応尼はいう。京洛が陥落した時である。その時は貞応尼を背負って斐陽山中へ逃れ、戦乱がしずまったら帰ってくる。と漠然と思っている。
「私のことは良いのですよ。お寺の奥に逃げこめば兵士らも登ってこないでしょうし。それに知り合いが多いから頼る辺には困りません。それより喜鶴殿の事です」
「………」
本来なら将軍も帝と同じように洛外へ避難させているべきだった。しかし喜鶴はまだ将軍府にとどめ置かれたままだという。
よほど管領晴氏は勝つ自信があるのか。ただ放っておかれているのか。
「山宝殿の滋持殿はたいそう御気性の激しい方だと聞いております。捕えた喜鶴殿をそのままにしておくでしょうか」
まるでカナコの心中を見透かすような声だった。
(どうせドサクサに紛れて奪いかえすつもりでしょ)と言っている気がする。
カナコもそのつもりで、来たくない京洛まで来た。のかもしれない。
それは自分の中でもボンヤリしていたが、貞応尼の言葉で結晶化してしまった。
「ふふふ、ひさびさに腕が鳴るな」
と言ったのは弁慶姿の黒屋治兵衛だった。彼は彼なりの完全武装をしている。家の柱に使う角材まで持ってきている。何かあったらそれを振りまわすためである。
本当は貞応尼の護衛をするつもりで来たが、話が変わったらしく、喜鶴奪回の加勢をする気でいる。鉄獅子の一体ぐらいその怪力でねじ伏せてしまうかもしれなかった。
そこまで聞いていた貞応尼はオホホと笑い、
「ちょっとお待ちなさいね」
と言いながら、どこかに去っていった。
残されたカナコたちはポカンとする。
やがて戻ってきた貞応尼は、大きな葛籠を重そうに抱えている。
治兵衛は腰を浮かせながら、
「葛籠なら私が運びましたものを」
「あ、いえいえ、これくらい……はいどっこいしょ」
ドスンと葛籠をおいた。ポンとフタを取った。
中には白い絹衣。金色に輝く天冠。赤絲威の胸当て。
そして迦楼羅という伝説の神鳥をかたどった伎楽面。
「こ、これは」
カナコは泣きそうな瞳でそれらを見つめている。貞応尼はニコニコと笑っている。
「いつかこんな日が来るんじゃないかってね、取っておいたんです」
カナコはだまって衣を取りだし、それを掲げ見た。それは真鉄媛と名乗っていたころ着ていた純白の武衣。
その衣の向こうから、兵らの声、刀槍の音、馬のいななきが響いてくる気がする。
さまざまな記憶が去来し、カナコは武衣を抱きしめ、顔を伏せてかすかに震えていた。
貞応尼は言った。
「おカナ、これを出したのはね、この一戦があなたの最後の戦いになると思ったからです。この戦いが終わったら、あなたの長かった彷徨の日々も終わるはずです。あとは好きにお生きなさい」
「は、はっ……」
カナコは床に這いつくばった。その床にニューンと鼻水が垂れる。
●対局
戦いはすでに始まっていた。
(52:18。54:20)
暗い管領邸の一室。
京兆院晴氏は幾何学模様の格子のひとつに指をあて、それを右斜上に少しずらす。
上は南、右は西である。
すると荒野のその地点に置かれていた鉄獅子が、急にガクンと始動しはじめ、晴氏の指示どおりに走り出す。
前の数値は現在位置であり、後の数値は移動先をしめす。つまり西南に2コマ(100メートル)動けという指示である。
(37:10。消滅)
つまりその地点の鉄獅子が破壊されたことを示す。
(65:65。64:65。鬼)
鬼山車を1コマ(50メートル)後退させる。
ふしぎなことに晴氏から鉄獅子たちまで10キロ以上離れている。いかに強力な法術師でも法力は届かないはずである。
しかし晴氏は管領邸から南方4キロ、かつて羅生門があったあたりに中継局たる物見櫓を築いた。ここには20名の法術師が詰める。
ついで京洛からずっと宇陀のあたりまで碁盤状にきっかり2キロ間隔で櫓を築いている。各櫓には10人の法術師をおいた。
それらはすべてあわせて24ヶ所ある。通信役の術士が管領邸と情報を授受し、起動役の術士が鉄獅子たちを動かしているのである。
が、それだけ設備が膨大になると均一に命令を行き渡らせることが難しくなる。
魔石剣護法
魔石は槍に装填しないかぎりただの宝石にすぎないが、晴氏はその石から直接魔力を抽出することに成功したのである。
その絶大な魔力を利用した「法力の需給調整」そして「通信網をもちいた鉄獅子操作」という、かねてから構想していた腹案を実現させようとした。
その計画は重臣上屋素秀が実際に推進していたが、素秀が謎の死をとげたため(妙心寺観能事件)しばらく中断されていた。さらに彼が所持していた魔石然童子が失われたことも大きかった。
それが1年をかけて、ようやく日の目を見ることになった。
鉄獅子たちはさながら将棋のコマのように動く。
「なんで、なんで鉄獅子があんなに流動的に動くんだよ!」
鉄獅子たちに追い立てられている自軍の兵らを、多治比龍寿は驚愕の目で見つめている。彼は管領晴氏を甘く見ていた。鉄獅子は捨てゴマではない。
鉄獅子のみでわれらを殲滅するつもりだ――
あの櫓の意味も、京洛の南方が今まで再開墾されずに放置されていたのかもわかった。
「この大荒野は壮大な盤面だ!」
一事の目的のためにこれほど民衆に負担を強いている計画というのも古今例を聞かない。まるで百姓に恨みでもあるかのような。
戦慄とも感動とも軽蔑ともつかぬ感情が龍寿の中に湧きあがる。
京洛にはすさまじい人がいる。
もしかの太玄明王の槍がなかったら、西国軍はこの大荒野に白骨をさらしていたかもしれない。
山宝殿滋持のゆくところ、その槍が放った衝撃波で鉄獅子は吹き飛ばされ、鬼山車は倒壊し、山麒麟は炎をまいて燃えあがる。
そのあとを西国方の兵馬がドロドロと続く。
「45:33。消滅」
「44:33。消滅」
「43:33。消滅」
「42:33。鬼。消滅」
「41:33。山。消滅」
「40:33。消滅」
(おのれ、化け物か――)
晴氏は思わず両手をつき、図面に顔を近づけた。縦軸33のライン上のみ光点がプツプツ消滅していく。その33を中心として他のライン上の光点も徐々に消滅していく。
さかんに手を動かして頽勢を挽回する晴氏。鉄獅子ばかりでなく敵兵をうまく利用することで滋持の突出をおさえてしまう。
滋持の動きが止まったように緩慢になる。
(よし、このまま持久戦に持ちこめば勝て――ん?)
開始2時間目にして敵の動きが変わった。
あるライン上の敵を退けたと思ったら、今度は別な地点の敵が突出してくる。
敵は有機的に動いてとどまることがない。それは縦軸33のライン上の滋持を援護するように動きはじめる。
(どういうことだ。敵の強さは太玄明王だけではない。誰か知恵者でもいるのか)
腕前としていえば晴氏を棋聖だとすれば、相手は初段ぐらいである。それでも敵方の反則的な「王将」が障碍となり有効な手を打てぬ。
やがて処理が追いつかなくなってくる。ぽたぽたとアゴから汗が落ちる。
幾何学模様の半分ほどはすでに光を失っている。
…………
開始4時間目にして、晴氏は両手を膝においた。
その顔はすでに汗が干上がり、生気を失っている。
「太玄明王の力はこれほどであったか……とても、勝てぬ」
もし相手がただの人間だけであったら100%勝てたであろう。しかし相手はすでに「魔神」だった。
幾何学模様から放たれる蒼い光が、徐々に光を失っていき、やがて一室は完全な闇に閉ざされる。
10年にわたって構想してきた大計画がわずか4時間で消滅した。
永応斬鉄録かなこ19
●庭園
京洛の南郊では戦があったともいう。無かったともいう。よくわからない。
なにしろ京洛を守っている三吉長真の軍勢は動いた様子がない。
昼すぎまではごうごうと砂嵐が吹きまくっていたが、午後2時を過ぎたころ風は止み、暗い天はシンと静寂が支配する。
一転してあたりは湿潤になる。夕暮れには雨になるかもしれない。
花の御所、すなわち柳営将軍府。庭園に面した一室。
この御所は10年前になかば焼けおち、主殿は再建されたばかりだという。数寄物だった先代満藤のころとは違い、あまり細部の造作に手をかけていないせいか、宏壮なわりに無機的な印象を受ける。一種施設的である。
その部屋では病床の霞修寺経臣が、ある女性に介添えされながら立ちあがっていた。
女性は褐色の肌であり、薄紅の小袖に、赤い上衣を腰にまいた、いわゆる腰巻姿をしている。
典厩の小竹ノ君だった。
「大丈夫大丈夫、一人でも起きられるよ」
やや皺枯れた経臣は、小竹の手をおさえて歩きはじめる。まだ37歳であるはずだが、すでに老人のように痩せこけた風貌になっていた。
以前は起きあがれないほど病状が悪化していたが、小竹が喜鶴の侍講として来てから、わずかに元気を取りもどしている。
小竹も教育係としてだけではなく、経臣の身のまわりの世話をしたり、村での話をしたり、喜鶴の遊び相手をしている。
経臣殿はたまに濡れ縁にすわって無機的な庭園をぼんやり眺めている。
あまり手入れされていない芝生のあちこちに、申しわけ程度に丸い植樹が植わっている。ゴルフ場にあるような池もある。その向こうは黒い山稜。鉛色の天。
背後の部屋では、カナコが彫った根付でうれしそうに遊ぶ喜鶴の姿があった。
鶴だの亀だの獅子だのをコマに見たてて、将棋のように畳の上でならべている。
「あんなに喜鶴さんよろこんで」
経臣の隣にすわった小竹が振りかえりながら言う。
「神宮寺の匂いでもするんでおざろ。この御所に来てからあの村のものに触れる機会は何もなかったからのう」
はじめは出された食事もあまり食べなかった喜鶴だが、小竹が来てから「まあよく食うよ」と経臣は笑う。
「ん……おお」
ふと見ると、庭園の一角に狩衣の武士2人が跪いていた。馬崎権十郎、そして田名布総四郎である。
経臣殿の視線に気づくと、権十郎はパッと地に両手をつき、
「おいたわしや、おいたわしや……」
ポタポタ涙を落としていた。
以前の経臣も痩せぎすだったが、今は老人のようでもある。
遠くからニコニコと見やりながら、経臣は(よう来た、よう来た)と頷いてやる。権十郎は腕で目をおおって嗚咽しはじめる。
「見た目より悪くはないんだがね。すこし大袈裟だよ」
経臣殿はそう苦笑したあと、やや声をひそめる。
「権十の隣にいるのは総四郎と申されたな。なかなかの美男じゃ」
そういうと心なしか小竹のほおが染まったように見えた。
総四郎はいま名をあらため神條総雲と名乗っている。小竹の変名を拝領したのである。
(なるほど、カナコ殿は……)
ちらりと小竹に目をむける。小竹は以前より大人び、美しくなっている気がする。その理由の何割かは総四郎が負っているのかもしれない。
(まったく自分の事は棚にあげて)
やがて寝室にもどろうとする経臣。そこへ、
どやどやどや――
という荒々しい足音が湧きおこり、庭にいた権十郎と総四郎が「な、なんだ!?」と立ちあがっていた。
●須磨
花の御所の庭園の中へ、槍をかざした何十人もの足軽たちが乱入してくる。
薄暗くてよく見えないが、いずれもガラの悪そうな面体、装束をしていた。むかしの権十郎のようでもある。
「うわっ、たたっ!」
権十郎は袖を舞わしてトトッとのけぞったあと、濡れ縁にむかって駆け寄ってくる。
経臣をかばうように腰の剣に手をかけ、怒鳴り声をあげる。
「な、なんじゃいうぬらは、どこの足軽衆じゃい! 頭出てこい頭!」
しかし応答はない。ただ「ゲヘヘ」「ウヒヒ」と汚らしい笑みを浮かべているだけである。
総四郎が叫ぶ。
「ここは公方様のおわす天下の御所であるぞ。それを知っての慮外狼藉であるか。かたがた、出あい候え、曲者でござる!」
下手な武士より凛冽とした声だった。
屋敷の奥へ声をかけたが、奥からは誰も出てこない。ふたたび叫ぶ。
「出あい候え!」
九重の――
ぎっ、ぎっ、ぎっ
はるか濡れ縁の彼方から、板床を踏みしめる音とともに、黒い影がゆっくり近づいてくる。頭には長烏帽子をかぶっている。
右手には、わずかに広げられた扇をかかげ持つ。
雲居を出でて、行く月の
南にめぐる小車の……
波ここもとや須磨の浦
一の谷にも着きにけり
「一の谷にも着きにけり……」
ひた、と経臣らのいる手前で立ち止まる影。
その時落雷があった。ピカリと相手の姿が浮かびあがる。
老人であった。
いや、小尉という老人の能面。あごには細く、白い髭が垂れる。
その能面がゆっくり横へスライドし、相手の面貌をあらわにする。
「そ、そこもとは……」
経臣の額に汗が流れる。
京兆院晴氏――
いきなり現れた、この国の実質的な「王」を前にして、一同気を奪われたかのように動けない。
晴氏はやや虚脱したように言う。
「おひさしぶりですな、霞修寺の少将殿」
「なにをしに参られたか」
経臣の声にやや険があった。これほど人に嫌悪感をあらわにする経臣もめずらしい。
「もはや京洛における防衛力は喪失した。三吉大膳ですら敵を支えきれまい。晴氏の最後の一手を発動する時がきた」
「最後の一手……」
「少将殿、一緒にお出でいただこう。喜鶴公もご一緒にて」
「京洛から脱出なさるつもりか……。遅きに失してはおらぬか」
喜鶴ならもっと早くに脱出させておくべきではなかったか。と経臣はいう。
「お待ちください!」小竹がかばうように経臣の前に立つ。
「ならばこれらの足軽は何でございますか。ただ喜鶴公をお連れするならば、このような者たちは必要ないはず。このことは三吉様にもお伝えしているのですか」
「それでは遅いのだ!」と晴氏は気だるげに叫ぶ。
「敵はすぐそこまで迫っている。そこで何やかやと議論していれば、かならずや抗戦派が反対してくる。その間に敵の大軍はたちまち市中に雪崩こんでこよう」
「ならば京洛を守っている三吉軍を見捨てて、自分だけ逃げる気ですか。管領として恥ずるところはございませぬか!」
「………」
闇の中、しばらく晴氏は沈黙していた。
やがてソロリと腰の剣を抜いた。
長剣銀杏――虎擲掣電の太刀。
「私はこれほど美しく、気高く、そして切れ味のすばらしい剣を他に見たことがない。まさに剣中の王。だが」
ドカッと経臣を蹴倒した。「なにを!」と小竹たちが経臣を取りかこむ。
「7年だ。京蔵馬流の極意をつかみ、岩をも両断する技法を身につけた私でさえ、この剣は私を主とは認めなかった! なぜだ!」
「………」
いったい何を言い出すのだろう。一同ただ茫然と晴氏を見つめるしかない。
晴氏も「俺は何を言ってるんだ」という風にフウッと肩を落とした。
「見るがいい」
さっと剣を庭先にいる足軽たちに向ける晴氏。
足軽たちの間から、縄を打たれた公卿風の老人2人が突き出される。
彼らを見て、経臣はヨタヨタと廊下を這いながら、
「あなたがたは、関白様! そして清房殿!」
すなわち霊然寺の貞応尼の実弟であり、帝の側近をつとめる関白土御門通宣。
そして霞修寺家の本家にあたる霞修寺堂上家の権中納言清房である。
2人の老公家は「す、すまぬ経臣……」と無念そうに顔を伏せている。
剣を肩にかつぎながら晴氏は言う。
「もはや問答は無用にしてもらう。逆らえばあの2人の命も、喜鶴公の安全も保障できぬ。さあ参れ!」
●総雲
そのころ京洛の1里(4キロ)南郊にまで迫っているという西国軍15万。
だが見たところ目だった動きはなかった。
ただ、あちこちからもうもうと黒煙があがっている。
三吉軍1万5千は、京洛の南端、烏間大路と七条通りがまじわった地点にいる。
300年前はここも市街域だったが、永応のころには野のあちこちに民家があるだけの、都の最果てにすぎない。
ここからはるか15キロ南の雄山八幡山まで一望の大荒野になる。
たった今までその「盤面上」で鉄獅子たちが15万の大軍を相手に4時間以上も戦うのを見た。
このときはじめて諸将は管領晴氏の凄まじさを目の当たりにした。
(ひょっとしたら一兵も失うことなく西軍を撃退できるのではないか)
しかしその期待も束の間だった。あたりから一切の音響がやみ、ただ重苦しい沈黙と湿気だけが覆っている。
態勢を立て直した西国軍は即時にこの市街へ乱入してくるだろう。
(それにしても宰相殿は)
牛のツノの黒い兜をいただいた長真は、管領邸のある北方に目をむけた。
晴氏からは何も言ってこない。
徹底抗戦するならそれもいい。逃亡する気なら全然かまわない。自分はそれに従うだけである。
(また我らは放っておかれているのか)
またあの「感じ」が湧きおこってくる。放り出されてポツネンとしている感じ。
(まあいつものことか……)
そのときである。
「おーい、おーぅい……!」
三吉軍の駐屯する北方、はるか烏間大路の彼方より、馬で馳せつけてくる狩衣姿の若武者があった。
男は負傷をしており、額から血を流していた。
さきほどまで花の御所にいた田名布総四郎である。
「それがしは典厩家の家臣、神條総雲と申す者。至急、長真様におとりつぎ願いたい!」
すぐさま甲冑姿の長真が馬を寄せてきた。
「それがしが長真にござる。典厩家の御家中の方が何用にござる」
「将軍喜鶴公が、宰相殿の手によりいずこかへ御動座あそばされました。そのこと長真様のお耳に入れんものと」
「してその手傷は」
「宰相殿はあまた足軽どもを雇い、乱暴狼藉の所業あり、われら止むをえず抵抗したものでございます」
「なに乱暴狼藉」
長真は思考を停止したように総四郎を見つめる。ただ将軍を移すだけのことに、なぜそれほどの強硬手段が必要なのか。結局晴氏の考えている事はわからない。
「喜鶴公はいずれに」
「それが、皆目……」総四郎は申し訳なさげに首をふる。
(やはり京洛から逃亡するつもりか)と思った。ついで肩を落とした。
(終わったな……)
「ならば我らも丹波方面へ退き、芝波の軍勢と合流せん。源弥!」
と長真は、嘉川源弥という若い将校を呼んだ。
「そなたが後退の指揮を取れ」と馬首を北へと向ける長真。
「殿、いずこへ!」
「俺にはやり残したことがある。なに、すぐに合流する。しかと頼んだぞ源弥」
●天兵
長真は馬を北へと走らせる。そのあとを総四郎がつづく。
とりあえず管領邸に行けば喜鶴がいるかもしれないと思った。
しかし管領邸はモヌケの殻だった。猫の子一匹いない。この撤退の素早さはみごとという他ない。
ついですぐ300メートル先にある花の御所へ向かう。
その途上、ひろい十字路にさしかかった時、東方から来た一騎の武者とぶつかりそうになった。
「おおっ、どうっ!」
長真は機敏に手綱をひき、ぱっと相手から離れる。
何げなく相手に視線を向けた時、
「―――」
凍りついたように動けなくなった。相手の騎士も同様にこちらを見つめている。
(こんな時に俺は……幻でも見ているのか)
相手は白い衣をまとい、衣の下には目にも鮮やかな深紅の鎧を帯びている。
顔には迦楼羅という鳥面の仮面をかぶり、頭上にはキラキラと輝く天冠を戴いている。
それがみごとな黒鹿毛にうちまたがった姿は、まさに「天上から舞いおりた天兵」としか思えなかった。
相手の「名」を言おうとする長真。ただ唇だけがパクパクとあがいている。
その長真にむかって、迦楼羅の騎士が叱咤の声ををかけてきた。
「慶之進、その阿呆面をひっさげてどこへ行くつもりか!」
「あ――っ」
いま長真をその名で呼ぶ人間はこの世にたった一人しかいない。
長真は感極まったように顔を振っていたが、やがて雄壮な声をほとばしらせる。
「喜鶴公を、さる御方へ送り届けんがために、花の御所へ!!」
「そ、そうか……」
騎士は湿ったような声を漏らした。
「ならば、慶之進。わらわに遅れまいぞ!」
イヤァァァ――と掛け声するどく黒鹿毛を走らせる。
長真もハハハとうち笑い「ハヤァァ!」と馬に一鞭あてた。
長真はやがて仮面の騎士に追いつき、あい併んで走る。
チラリ、と騎士が顔をむけてくる。
(思い出すな)
(左様。何も変わってはおりません。あのころのまま。何も)
(ふん、こちとらいいかげん小娘でもないわい。おぬしとていいおっさんじゃろが)
一瞬だが、そんな声無きやりとりがあった。
やがて2人の前方に、花の御所の巨大な屋根が近づいてくる。
その屋根の下から、小脇に長巻をたずさえた小竹が歩いてくるのが見えた。彼女もやや負傷していた。
●騎士
急にあらわれた3人の騎士を、小竹は放心したように見上げている。
「あ、あなたがたは。総四郎殿、この方はひょっとして」
甲冑の精悍な武者がわずかに頭を下げる。
「三吉長真にござる。管領邸にて一度。それよりお怪我が」
「いえ、かすり傷です。それより喜鶴公が」
喜鶴たちを乗せた牛車はひとまず管領邸の方にむかったという。
そのあとを馬崎権十郎が追いかけていったという。
長真は残念そうに首をふる。
「しかし管領邸には、誰も」
「そ、そうですか。ならばどこに……」
それより小竹は、長真の脇にいる白衣の女武者に気を取られている。
仮面をつけているため誰かはわからない。
三吉軍の女武者といえば磐鳴芝波がいる。しかし芝波とは印象が違う。しかも彼女はいま丹波にいるはずである。
(まさか――)
小竹は口元をおさえてぶるぶると震え出した。
騎士が乗っている馬はまぎれもなく、自分もかつて毎日のように乗っていたあの黒鹿毛ではないか。見誤るはずがなかった。
相手の騎士はだまったまま小竹に顔をむけていたが、
「コチ……」
何か言おうとした時「違う違う!」と権十郎が叫びながら走ってくるのが見えた。
「管領邸じゃない。あいつら南だ、南へ行った!」
「南だと!」
「管領邸を素通りしてそのまま南へ行った。南は西軍でごったがえしてるのに何考えてんだか」
長真は瞬時に悟った。
西軍に降伏するつもりではないか。
(そうかそれで)
晴氏は長真に妨害されると思い、この強硬手段に出たのだろう。
が、もはや晴氏が降伏するしないはどうでもよかった。懸念はただ喜鶴だけであり、彼がこの場にいるのはそれ以外の理由ではない。
「牛車ならそう遠くへは行っておりますまい。追いましょう」
長真に言われて、騎士はコクリと頷く。馬を走らせようとするそこへ、
「カナコ殿!」
という声で騎士は馬をとどめた。小竹の両目からは涙が溢れそうになっている。
「あなたは、カナコ殿でしょ。どうして」
「小竹殿」
騎士を乗せた黒鹿毛はタタッ、タタッと後ろに下がり、そのあと身をひるがえして長真の後を追った。
それに遅れて、小竹のもとへ2騎の人馬が駆けつけてくる。彼らも痩せ馬に乗っていた。
それを見て小竹が驚きの声をあげる。
「お、於勝さん!?」
「あー小竹さァん、会いたかったよー!」
その大柄な女性は馬から飛びおり、小竹の体を抱きあげてグルングルンと回った。
「じゃあやっぱりさっきの人は」
「カナコさんだよ。気づかなかったのかい」
「お面かぶってたから」
「ははぁ、きっと照れてんのさ。めずらしくオメカシしてるから」
「すごく綺麗だった。あれが本当の、朝隈の真鉄の姿」
小竹はやや涙ぐんでいる。まさかこの目で見られる日が来ようとは。
ハチマキ姿の黒屋治兵衛がブウンと角材を一旋しながら、
「おいゆっくりしている暇はあるまい。はやくおカナたちを追わんと」
「そうそう積もる話は後でゆっくりと。小竹さん、乗った乗った」
抱きあげた小竹を馬の背にのせ、於勝もその後ろにのった。そしてカナコたちを追う。そのあとを治兵衛もつづく。
「バカヤロ、なんでワシだけ置いていくかァ!」
そのあとを権十郎が脛をあげて猛然と追いかけてくる。彼は馬は必要なさそうだった。
●追跡
長真、カナコ、総四郎を乗せた馬はある十字路から南へ折れた。
商家に挟まれた幅24メートルの大路がずっと南へ、南へ。
その途中、典厩家の屋敷、書店の五条千鵬堂、もと霞修寺経臣が住んでいた屋敷跡の空き地を通りすぎる。
やがてはるか前方に数台の牛車を連ねた行列が見てとれた。あと1キロもすれば京洛の市外へ出てしまう。
「あれか――」
さらに追う3つの馬影。
その行列のそばまで接近したとき、右手の柳の蔭から「フラリ」と吐き出される一つの人影があった。
大路の真ん中で立つ。
「なんだあやつは――」
長真は思わず手綱をひいた。
「何者だ、そこをどけ!」
「………」
相手は応えない。ただ右手にした剣をゆらりと突き出してくる。
黄色みをおびた、おそろしく長い剣。
顔には小尉という老人の仮面をおびる。
その全身からもゆらゆらと金色の気が立ちのぼっているようにも見えた。
「止むをえん。ここは力づくでも――」
と剛槍聖護院を振りあげようとする長真。
「やめよ慶之進!!!」
カナコが絶叫をあげる。長真は振り返る。
カナコは仮面の奥からじっと相手を見つめている。何やら様子が変だった。
「そやつは尋常一様な相手ではない。そなたでも死ぬかもしれん。うかつに手を出すでない」
呆気にとられる長真。見ればカナコは馬から降りてしまっている。
腰にさした鞘から、ゆっくり黒い刀身を引き抜き、小尉の男にむけた。
あい対かいあう銀杏・黒竿の兄弟剣。
カナコの息づかいが荒くなっている。剣を持つ腕もわずかに震えていた。怒りなのか、恐怖なのか。あるいは激しい喜びなのか。
ともかくカナコの様子が尋常ではない。
長真はハッと気づくものがあり、ギラリと相手に目を向けた。
「その小尉の面。一人の老人が龍衝寺城を陥落させたというのは、まさかこやつが」
「慶之進! ここはわらわに任せて、そなたは牛車を追え!」
「し、しかし」
「こやつだけはわらわだけで相手をさせてくれ。間に合わなくなる!」
見れば牛車ははるか500メートル先まで遠ざかっていた。どうやら追撃者に気づいて歩みを速めているらしい。
長真はその牛車と、小尉の男を交互に見ていたが、ついに牛車を追おうとした。しかし、
ふわり
小尉が腰を沈めた瞬間、その全身がいくつもの残像を流しながらスススッと横へスライドした。
長真の前をふさぐように立つ。剣をかつぐように構え、右足を踏みこみ、束の底で、
どすん
と馬の首に重い一撃をくわえた。馬はすさまじい嘶きをあげ、竿立ちになったあと、どっと横倒しになった。
とっさに長真は宙を飛び、着地する。
馬は泡を吹いてブルブル痙攣している。
「馬が――」と気をとられる長真に、カナコがいう。
「足で走っても追いつく。はやく牛車を追え!」
長真は槍を取りなおし、それを頭上でゆっくり回転する。
剣を肩にかついだカナコもじり、じりと相手に接近する。
すでに牛車は見えなくなっている。
●追憶
「おおおおおおっ!!」
「いアアァァァァ!!」
同時に、カナコと長真は、小尉の男にむかって飛びかかっていった。
それに対して男はぼんやり突っ立っている。
ふたたびスススッと残像を流しながら身を引いた。
「な、なんだ」
不意に危険を感じ、長真は槍を引いた。一瞬、足元が崩れ、ふわりと宙に投げ出されたような錯覚に陥ったのである。
カナコも同様だった。彼女は言う。
「ふふ、引いて正解だったな」
バアァン
と足元の路上が裂け、小石を飛ばした。幅1センチほどの亀裂がざっくり走っている。
同時に長真の左肩をおおっていた大袖の板がドサリと落ちた。長真の背筋に悪寒が走る。もしあのまま前進していたら左腕を切断されていただろう。
カナコがいう。
「だから言ったろう、こやつは尋常ではない」
「そうか、油断していた」
長真はふたたび槍を構えなおす。
「ならば街中ではあるが、この長真の戦場の槍、ひとつ馳走してくれよう」
長真が槍を突き出す。小尉の眼前すれすれまで迫った穂先が、フッと消えた。
「―――!!」
男に何百、何千という穂先が襲う。
男はそれをヌタッ、ヌタッとした粘りのある剣さばきで受け流していく。
そこへカナコの斬撃。
スーッと男の姿が消え、その一撃は空を斬った。むかいにあった柳の木がザザーッと枝葉を薙いで倒れる。
気づいた時、男はカナコの背後にいた。
「後ろ!」と長真が叫ぶ。
しかしカナコは慌てる風もなく、ドシンと大きな尻を突き出した。それを2度繰り返すと、男はヨタヨタと体勢をくずす。ヘンテコな攻撃だがかなり効果があった。
「今じゃ、慶之進、追え!」
「お、おおっ」
すかさず長真は徒歩で駆け出していく。それを総四郎が馬で追い「長真様、これへ!」とみずからは馬から飛びおりた。
そのあと馬で駆けていく長真。
追おうとする小尉の前に、カナコが大きく手を広げて立ちふさがる。
「どこへ行く、そなたの相手はここじゃ」
「………!」
「わらわを覚えておろう。龍衝寺城」
燃えあがる龍衝寺城。
その炎を背にして、剣をぶらさげて歩いてくる小尉面の男。
その衣は、おびただしい男たちの返り血で濡れている。
「あの時の光景、いまだに夢に見るわ」
「………」
「そなたはずっと、何度も、いつでも、わらわの目の前に現れる。見たくなくても、忘れようとしても、許そうとしても!」
カナコの声がほとんど泣くようになっている。
●雷電
やがて小竹、於勝たちも馬で追いついてきた。
「カナコ殿!」「カナコさん!」
「来てはならん――」
カナコは絶叫を上げる。
「来てはならん。退っていてくれ!」
ひゅうっと生ぬるい風が足元を吹き抜けた。おそろしく湿度が高い。
カリカリと剣から細かい放電が起こっているのは雷雲が上空にあるからだろう。
その剣を、カナコは片手殴りで横に払う。小尉は剣を振りおろす。
パッとフラッシュを焚いたような閃光。
すり上げる。叩き落とす。薙ぎおろす。さがりつつ胴を狙う。身をひねってかわす。
何十、何百という金属の音が空でかちあう。
あわい血のしぶきが華のように散る。
小竹は細かい体の震えとともにそれを見つめている。
(こんな、こんな恐ろしいものだったのか)
達人同士の真剣勝負とは。
次元がちがう。とても、近づけない。
なおもカナコは叫ぶ。
「あの夢を見るたび何度死のうと思ったかわからん。何度おのれの運命に絶望したかわからん。しかし少将殿、喜鶴、権十、茂助、総四郎、芝波、小竹殿、於勝殿、庵主様、黒屋治兵衛、コイサイ先生!!」
名を呼ぶたび轟然とカナコは剣を叩きつける。
あまりに連続した剛剣の前に、男はややのけぞったようになる。
「たくさん心を呉れた。返しきれないほどの心を。おかげで7年も生きながらえておる。そしてふたたびそなたの前に立っている。ああ、そうじゃ」
ガキンッ
かちあった兄弟の剣がカチカチと震え、青い火花が弾ける。
「そなたがいなければわからなかった。あの時のことがなければ、一生気づかなかった!! そなたが教えてくれたのじゃ!!!」
一閃。二閃。
両者の肩先から、パッと同時に血が噴き出した。
小尉は「ふうっ!」と声をもらしてヨタヨタとよろけた。
いっぽうのカナコもガクリと片膝をつく。しかし肩を怒らせながらなおも言う。
「なんじゃ、今の一撃は。獲ろうと思えば、いくらでもこの命獲れたはずじゃ。なんじゃ今の一撃は!」
「………」
「わらわの心臓はここじゃ! 首はここじゃ!」
どすんと自らの左胸を叩き、そのあと首根をパシンと打つ。
この鬼の気迫に――男はやや気圧されたようになる。
迦楼羅面からのぞくカナコの両眼があわく碧色に光っていたからでもある。
ふらふらと立ちあがり、腰を屈めた姿勢で、肩にかつぐように剣を構えるカナコ。
それをじっと見つめている小尉面の男。
みずからも剣を右肩にかつぎ、ゆっくり身を沈めた。
それを見ていた於勝が心中でポツリとつぶやいた。
(カナコさんと同じ構え。あの人は一体)
●結末
双方は前進した。銀杏、そして黒竿の兄弟剣が激突する。
激突する瞬間、無数の突きが炸裂したように見えたが、於勝ですら8手以上を見ることができなかった。
一瞬の閃光。
あたりの商家がガタガタッと音を立て、屋内で何かが割れる音がした。
小竹たちが目をあけた時、片膝をついたカナコ、そしてその前に立つ小尉の姿があった。
カナコの右肩に銀杏の刀身がわずかに食いこみ、純白の衣は血で濡れていた。
しかしカナコはガッシリと相手の手首をつかんでいる。
かたやカナコの黒竿の切っ先も、わずかに小尉の腹に食いこんでいた。
彼女の手首も、小尉の手につかまれていた。
「あい、うち……」
於勝が虚脱したような声をもらす。
そのとき、パキ、パキという音がした。
カナコがかぶっていた迦楼羅面の中心に亀裂が走ってゆき、二つに分かれた。
カナコの顔があきらかになる。
ついで、小尉の面も同様に亀裂が走り、それも2つに分かれた。
その顔を見た於勝と小竹は「ぎゃああっ」と悲鳴をあげた。
「ふう、ふう、ふう」
口から血を流し、しかし瞳におだやかな色を浮かべたその男。
ニッコリと満足そうに笑う。
「電光の突き。とても見えなかった……。みごとだ、カナコ殿!」
霞修寺少将経臣――……
カナコの顔は影がさしてよく見えない。
経臣は苦しげに喘いだあと、ごほっと血を吐き、ふらりと倒れそうになる。
カナコはパッと両手を広げ、その痩せ衰えた体を抱きとめる。
軽い……真綿のように軽い。
経臣の骨張った背中を撫でながら、カナコが静かにいう。
「なぜ、なぜじゃ、少将殿」
「これでいい、これでいいんじゃ」
「なぜじゃ……」
「そこもとの大事な人を……休之助殿を……麿はこの手にかけてしまったのであろう」
「なぜ……」
「麿も、若き日に新笹香威斎先生より剣を学んだ者。死ぬなら剣士として死にたかった。カナコ殿と戦い死ぬるならば本望。これで、カナコ殿も、だれも恨むことはない。悪夢に苦しむこともない。これで……」
ガクリと経臣は力を失った。
カナコはきつく経臣を抱きしめ、ブルブルと全身を震わせ、天を仰いで、
「なにゆえじゃあああああああああ―――!!!」
と咆哮をあげた。その後みずからも経臣に折り重なるように気を失ってしまった。
その二人の上に沛然と雨が降りそそぐ。