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永応斬鉄録カナコ  作者: 土井平蔵
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下総ファイア

永応斬鉄録かなこ13


陵王りょうおう


 1日降りつづいていた雪も、夜になる頃には小止みになる。

 白雪を冠した京洛の屋根屋根が、しずしずと淡い雪明りをはなっている。

 管領京兆院(けいちょういん)邸の一室。

 ようやく喜鶴きつるを寝かしつけた女官風の腰巻姿の女性が「うふふ」と微笑する。

 寝巻姿の霞修寺少将経臣かしゅうじしょうしょうつねおみが頭をさげる。

「ほんに申し訳ない。磐鳴いわなり殿にこんな事までさせてしもうて」

 磐鳴芝波(しなみ)といえば阿波・播磨・摂津に7つの城をあたえられ、5万7千石の所領を有する堂々たる三吉みよし家の宿将である。霞修寺家の1千倍はもらっているかもしれない。

 芝波はゆるく身を傾げて向きなおりながら品よく笑い、

「慣れない場所ですからね。それに喜鶴様、夕餉の膳もだいぶ残されていたようで」

「まあ……あまり上品なものに慣れておざらぬゆえな。昨晩はヒエ飯じゃった」

「ヒエ飯」

 芝波は絶句する。さも同情にえぬという風に眉をくもらせ、

「それほどお苦しい生活を……」

「あ、いやカナコ殿が作ると、不思議や、なんでも御馳走になってしまうのでおざる。白米にヒエを混ぜてですな、こう、ヤマイモをば……」

 と説明しようとした経臣だが、芝波が異様な熱心さで聞いてくるので、口を閉ざした。

「磐鳴殿は、カナコ殿のことを知っておられるようじゃが」

「はい。あの方がまだ1×……歳のころから」

 なぜか年齢のところでかるい咳払いをした。

「カナコ殿は、いったいどういう人なんでおざろ」

 芝波は意外だった。1年以上ともに生活していながらカナコは自分の素性を語らなかったのだろうか。

「まかね様は、越前の朝隈公方あさくまくぼうの姫君でございます。つまり喜鶴様とは遠いご親戚にあらせられます」

「……越前、朝隈公方の」

 経臣殿は背を丸めたまま、ぽかんと口を開けていた。カクンとうなだれながら、

「はは、道理でタダモンじゃないと思っておったよ。そんな人に肩まで揉ませてしもうて」

「いえそんなことはありません」

 今まで芝波も数多くの公家に会ったことがあるが、やたら権高いか、いつも所領の事を考えているか、腹中にみょうな陰謀をめぐらしているか、氷のごとく冷たい人が多かった。

 しかし経臣殿は淡々としてそこにいるだけ。それでいて周りをしずかに照らし、ふわりと安心させるような藹気あいきがある。おそらくカナコもそのふしぎな気に包まれながら、この1年のんびり暮らしてきたのだろう。

「その朝隈の姫と、三吉殿とは……いや、余計な詮索でしたかな」

 経臣はみずからの首筋をポンポンと打った。

「いえ……少将様は剣術の京十条流きょうじゅうじょうりゅうをごぞんじでしょう」

 京十条流とは、200年前に十条常秀(つねひで)という剣術家が創始した剣法である。柳営りゅうえい幕府の始祖尊義(たかよし)の護衛をつとめ、以後幕府の指南役となり、歴代の将軍はその京十条流を身につけたといわれる。

 朝隈公方の祖・柳営嗣久(つぐひさ)もその達人であった。しかし兄の義藤よしふじ(3代目将軍)との相続争いにやぶれ、京をのがれて越前の守護武衛(ぶえ)家に流遇りゅうぐうした。

 嗣久は越前朝隈谷(あさくまだに)という地を与えられたので朝隈氏を名乗るようになった。

 のち京洛における京十条流が途絶したことで、越前朝隈氏が正統伝承者となった。それから100年である。

「まかね様はその家の長女として生まれました」

 そのころ朝隈家は幕府にとっては「罪人」であり、正式な将軍一族とは認められていなかった。

 しかし、12年前にかの「仁承にんしょう東西の大乱」がおこる。

 管領京兆院家の与党だった越前武衛家は、戦も終盤のころ京洛から呼び寄せられ、いそぎ大軍を率いて上洛した。そのとき朝隈氏を帯同していた。

「朝隈氏に功をてさせることで、古い罪を取り消させようとする武衛家の温情によるものでしょう」

 当時の朝隈家の正嫡小太郎(乗嗣のりつぐ)はいまだ6歳の少年だったので、かわりに長姉の真鉄媛まかねひめを総大将として派遣した。

 その副将は、真鉄の傅役もりやくである冨多醒厳斎とだせいげんさい小左衛門こざえもん教親のりちかという白髪の老人。

 京十条流の達人であり、幼少のころから真鉄を鍛えあげた師範でもあった。

「それはそれは美しいものでございました」

 金襴きんらんをほどこした赤絲威あかいとおどしの鎧に、純白の長絹ちょうけんをまとい、黄金の天冠をいただいた真鉄媛の姿は、周囲に白光びゃっこうを放つがごとくだった。

 そして先代将軍満藤(みつふじ)の御前にて、戦勝祈願のための「陵王の舞」を舞ったとき、満藤はあまりの美しさに、

「天兵の舞いおりて密雲をはらうがごとし。百年の大乱たちどころに終わる」

 と絶賛し、その場で朝隈家の旧罪を取り消したという。

 以後、朝隈軍500は京洛の東方、霊然寺りょうぜんじを本営とした。カナコと貞応尼ていおうにとの関係はこのあたりからであろう。

「それから2年後のことでございます。長真ちょうしん様がまかね様と出会ったのは」


猩々(しょうじょう)


 そのころ三吉長真は足軽にすぎず、まだ22歳の青年だった。しかし京洛周辺に浮浪するまとまりのない足軽集団を統率し、1千人規模の集団を形成し、京兆院家の尖兵として市中の治安維持につとめていた。

 があるとき管領の京兆院重氏(しげうじ)(晴氏の父)の命令で、朝隈軍の幕下に組みこまれたのである。

 霊然寺境内において、床几しょうぎに泰然と腰かけた真鉄媛の前に、三吉慶之進(けいのしん)(長真)、その叔父の磐鳴全海、そして全海の娘の芝波が拝跪はいきしていた。

 ちなみに芝波はカナコより1つ年下である。

 父の全海は当時40歳。小柄だが樽のようにぶ厚い体型で、角張ったアゴにまぶしたように灰色の髭が浮いている。

「われら、もとこれ阿波の産にして」

 と鉢金はちがねを額にまき、黒い胴丸をまとった精悍せいかんな青年がいう。顔は陽に焼けてなつめのように黒い。

 内容は「我らはもと阿波公方に仕えた豪族三吉家の出自であるが、主君の滅亡とともに没落したため、京で一旗あげんものと足軽をしているにすぎない」

 決して卑しい者ではない。というものである。

 これを言うと貴人からかえって足下を見られる事も多いが、当時の風としては出自を述べるのは社交辞令のようなものだった。

 真鉄媛はそれを鋭い眼差しで、時折ゆるくうなずきながら聞いている。

 背後にはやや馬面の、白い髭をたくわえた冨多醒厳老人が控えている。

 真鉄がいう。

「あいわかりました。わが朝隈家ももとは幕府に追われ、越前に長らく逼塞ひっそくしていた家。三吉家と相似た所がございます。双方手をたずさえ、高きいさおしをたてて、ともに家名を盛り上げましょうぞ」

 カッ、カッとなたで断つような声の響きだった。神威がその全身からみなぎっている。

 百年の流遇の生活でもその威を失わない朝隈家の家風に、長真もわれならず感激して「ははーっ」と平伏した。

 で、話はこれで終わるかと思ったが、その時「珍事」がおこった。

 彼らのいる向こう、練塀ねりべいの上に、一人の人物が立っていたのである。

 真鉄だけがそれに気づいて一人ギョッとした顔をしている。

 顔がおそろしく赤い。というより赤い能面をつけていた。

 小面こおもてのように優美な顔だちだが、目と口がいかにも好色そうにニヤーッと笑み歪んでいる。いわゆる猩々とよばれる面で人間ではない。大酒飲みの類人猿で一説にオランウータンのことだともいう。

 その猩々の男は、ウキッ、ウキッいいながら綱渡りのように塀の上を歩いてくる。時折ピョンピョンはねたりする。

 柿の木の前にくると、実の一つをもぎ取り、面をはずして食らいはじめた。

 若い男だった。

 真鉄の呆気あっけにとられた顔に気づき、長真も彼女の視線の先に目をやる。その顔が猩々よりも真っ赤に染まった。

「あっ、休之助――ッ!」と立ちあがった。

「ま、まかね殿の御前であるぞ!」

「え、あ、おううっ!」と塀の上でヨタヨタしていた若者。パッと真鉄と目があった――と思った時には足をすべらせ、ズデンと地に尻もちをついていた。

「バカ者!!!」

 バシンと休之助なる若者の頭をひっぱたいたあと、長真はその襟首をつかんでズルズルと真鉄の前に引きずってきた。

 しかし休之助は悪びれている様子もない。ケラケラ笑いながら、

「なんじゃあ俺ばかりけ者にしやがって。おかげでほれほれ、オイド(尻)に青アザできてしもうた。こりゃあ治療代払ってもらわんといかんな」

「それは落っこちたお前が悪いのだろう!」と長真。

「んーにゃ。姫様があまりに美しすぎてつい足を滑らせたんじゃ。そうだ、姫様姫様」

 と若者がグイッと顔を突き出してくる。真鉄は「なんだこいつは」という目で相手を見つめ返す。

「おわびに口吸うてくれたらオイドの痛みなどどこかすっ飛んでくわ。んーーー」

 ヒョットコのように唇を突き出してくる。その横っつらに、

 ビシャッ!!!

 と平手が飛んだ。たまらず休之助はひっくり返る。真鉄は真っ赤になって立ちあがり、

「なんじゃこやつは、無礼者!」

「も、申し訳ございません、あやつは奥で控えてろと申しつけてあったのですが」

 もはや長真も全海も平身低頭するしかない。その間に休之助はスタコラ逃げていった。

 休之助は長真の実弟である。年は真鉄とおなじ。

「まかね様と休之助の出会いは、それは最悪なものでしたわ。でもその後2人は……」


真桑瓜まくわうり


「よう姫様!」

 霊然寺の高台からぼーっと京洛の街並みを眺めていた真鉄。ふりむくと休之助の姿があった。

 休之助は胸に抱えきれないほどの野菜を抱えている。黄瓜きうり(完熟させたキュウリ)だの真桑瓜だのウリ系が多い。真鉄は眉をひそめる。

「どうしたんじゃそんな仰山」

「寺の尼さんからもらったんじゃ。たくさん貰いすぎて食いきれんてさ。ホイ」

 と真鉄に真桑瓜を手渡す。そのあと「銭3枚いただきます」と休之助が手を出す。真鉄は突き返した。

「いらん」

「アハハ冗談冗談」

 ウリを割ってムシャムシャかじりながら2人は「マカネがマクワを食っとる」「キューノスケがキュウリを食っとる」などと下らないおしゃべりをしていた。

 休之助が懐から取り出したものを、カナコは覗きこむ。七福神の大黒さんの顔をした小さな彫物。

「なんじゃそれは」

「ん、根付ねつけだよ」

「根付? あの薬籠やくろうの紐につけるやつか」

 ふつう根付というのは丸いか四角いかのもので、そう精巧に彫刻するものは見たことがない。というより骨董品のように仕上げて何の意味があるのか。

「意味なんかないよ。見ておもしろいというだけ。これをこうして」

 と休之助は小刀を取り出して、その根付をカリカリと彫っていく。

「なんだヘンテコな大黒さんじゃな」と真鉄は吹き出す。

「けっこう難しいんだよ。ほら姫様もやってみな」

 言われて、真鉄はやってみたがうまく行かない。というより良し悪しの基準がわからない。

「やっぱりこういうのは素質が必要なんすよ、素質が」

「うるさい。……黙っておれ」

 真鉄はむきになってカリカリを続ける。あまり熱中してやるので、休之助は覗きこんだり、上を向いたり、寝っ転がったりしている。

「ほら、これでどうだ」

 真鉄はその大黒さんをグンと休之助の顔の前に突き出す。そのときちょっと小指が休之助の唇にふれた。あわてて手をひっこめる。

 微妙な沈黙。

 休之助はフッと笑って、

「まあまあの出来映えですな。何年か続ければ職人並みになるでしょう」

「そうか……」

 真鉄はそっぽを向いて、指先をいじっていた。

 そのとき、人の気配を感じて休之助がそっちの方へ顔をむけた。霊然寺の石階段を醒厳老人が登ってくる。

「おっとあの爺やが来たぜ。俺は退散するよ」

 休之助は立ちあがり、ぴょんと練塀の上に乗った。そして「またな」とウインクしたあと塀の向こうに消える。

 醒厳老人が真鉄のそばに立つ。真鉄はふてくされたように唇を突き出しながら、

「小左衛門、なんじゃその目は。休之助とは、ただおしゃべりをしていただけだ」

「べつに、爺は何もいっておりません」

 気がつくと、老人の背後の森に何人かの人影があるように見えた。朝隈の兵であろうか。真鉄の視線を感じると、あわてたように木の蔭に隠れてしまう。

 醒厳老人はわずかに頭を下げると、そのまま真鉄の前から立ち去った。老人は何もいわなかったが「家臣らの目がありまする」と無言で訴えていたかのようだった。

「………」

 真鉄は不機嫌そうに、しかし気が抜けたように京洛の街並みを見下ろしていた。

 ………

 そのあと真鉄と休之助は何度も戦場をともにした。何度も助けたり助けられたりをくりかえした。

 ふだんはヘンテコなやつだが、戦場での休之助は強かった。剛勇の長真、俊足の休之助、知謀の全海。その彼らを真鉄のカリスマ性がまとめあげる。

 それらがみごとに連携して、相手が10倍でも20倍でも負ける気がしなかった。

 1年もそういう日々を続けているうち、真鉄と休之助は、本人たちでもどうしようもないぐらい互いにかれあうようになっていた。

「しかしまかね様には家臣たちの目がありました。休之助へ想いを強い自制心で抑え続けていたのです。それは傍目はためから見ても痛々しいものでした」


●背中


「なんでじゃ――!」

 その夜、三吉衆の陣所で休之助の絶叫があがった。篝火かがりびを逆光にして長真の黒い影が立っている。

 その影が叫ぶ。

「わからんのか。我らは足軽。相手は将軍の御連枝ごれんしなのだ。本来ならば口もきけぬ相手。それが出来るのはひとえに真鉄殿の優しさによるもの。わきまえよ!」

「わかるか。俺はただ会いたいだけ。会って話がしたいだけなんだ。マカネだってそうだろう。それを邪魔することはたとえ将軍だろうと神仏だろうと」

「そのおかげで俺がどれだけ朝隈の面々に頭を下げたか。どれほど彼らの前で恥ずかしい思いをしたか。もし以後私事で真鉄殿と会うようなことがあれば貴様」

 ガッと休之助の胸ぐらをつかむ。その長真の胸ぐらを休之助がつかみかえす。

 あわてて止めに入る叔父の磐鳴全海。

「やめよ、慶之進。休之助もまだ若く分別もなき時ぞ。美女に恋うるは男の常じゃ。休之助もはやく兄にあやまれ」

「いやだ、俺は間違っとらん! 間違ってるのはあいつらの方さ。将軍の血筋だか知らんが威張りやがって。しょせん越前の武衛家に養われてる貧乏貴族だろうが。そんなもん最初から無ければみんな幸せだったのによ」

「まだ言うか貴様」

 鉄棍をもひしゃげるほどの怪力だが、休之助の膂力りょりょくも負けてはいなかった。

「やめよ!」

 全海が全身をもたせかけるように二人の間に割って入る。ようやく2人も胸ぐらを離した。

 スタタッと休之助は後ずさり、

「なにせうぞ、くすんで!(なんだその辛気しんき臭いツラは)」

 と叫んだ。

「この世は夢よ、ただ狂えってんだ、バカ兄ィ」

「休之助!」

 つかみかかろうと腕をのばしたが、休之助の姿はそこにない。

 長真のひろい背中を、あかあかとした火が照らしあげる。

 その背中に全海がいう。

「いつかは休之助も気づく。まかね殿も……。おぬしはその年にしては、いささか、大人すぎるのだ」

「それでも、1千人の足軽衆を率いる責任がこの双肩にはある。いや配下はどんどん増えていく。2千、3千、いやもっと。あやつにはその俺の弟としての、片腕としての自覚を持ってもらわねば困るのだ」

「あわれよの」

 全海は休之助が消えた闇にむかってつぶやく。

「あやつはただ天衣無縫に生きておる。それを兄を助けたい一念でくっついているだけ。それをわかってやれぬか」

「………」

「朝隈家のほうにはワシから詫びを入れておくよ」

 全海にはわかっていた。長真は内心はうれしいのだと。足軽の出である自分たちに何の隔心もなく向きあってくれた「貴族」は真鉄だけだった。しかも休之助を愛してくれている。そこには身分の差はない。それこそ自分たちが求めていた世界ではなかったか。


蒲公英たんぽぽ


 やがて休之助と真鉄は駆け落ちした。

 はるか眼下に志賀海しがのうみの湖面がきらめく夜明けの高原。2人を乗せた駿馬しゅんめはひたすら駆ける。東へと駆ける。

東国とうごくへ行きたい」

 ということは以前から休之助が言っていたことだった。そこで、

新笹にいざさという偉い先生から剣術を学びたい」

 という事も言っていた。

 そのあとは知らない。ただ剣で身を立て、一城を築き、幸せに暮らす。

 漠然とした目的だが、今まで周囲に流されるように、人形のように己を殺して生きてきた真鉄には、それが一本の強烈な「軸」のように思えた。あとはそれにすがるだけでいい。

 休之助の胸の中でそっと目をとざした。

 夢見るように、たゆたうように……。

「もうじき鳰津におつじゃ。そこまで出れば」

 その休之助の声が、

 待てえええぇぇぇ――!!!

 という稲妻のような咆哮ほうこうで中断された。

 見れば、後方から黒い直垂ひたたれに侍烏帽子という騎馬武者が槍をかまえて迫ってくる。

 三吉長真だった。

「くそ、もう追いついたのかよ!」

 休之助は剣を引き抜き、構えようとしたが、怒涛どとうのような突出の前に、剣はむなしく宙を舞った。

 休之助と真鉄は馬上から投げ落とされた。

 たんぽぽの綿毛がいっせいに乱れ飛んで、明け方の空を埋めつくす。

 一瞬だったがカナコはずっとその光景を覚えている。休之助を思い出すとき、たいていあの綿毛の空に舞う映像が浮かぶ。

 彼らの前に魔王のような長真の影が立ちはだかる。

 静かだが、陰々と怒りをおびた声でいう。

「休之助、この後始末、朝隈家になんと申し開きをすればよい。俺にはわからぬ」

「………」

「ただお前の首をもって行き、そのあと俺も腹を切る。それしか思いつかぬ」

 落馬した時、休之助は真鉄の身をかばったため、したたか全身を打っていた。

 ただ顔だけ上げて兄を睨みつけている。

 その休之助の前で、真鉄が大きく両手をひろげて立ちはだかる。長真が憤然ふんぜんと叫ぶ。

「まかね殿、あなたもあなただ。朝隈の家を捨てて逃げることを何とも思われぬのか。恥を知りなさい!」

「朝隈の家には弟がおる。その弟がいずれ立派に朝隈の家を継いでくれよう。たとえこの世で結ばれずとも後生ごしょうにて夫婦めおとの契りを交わせるならば本望。さあ殺しやれ!」

「なんたる痴愚ちぐを。ならば力づくでも連れ帰りますぞ!」

「待ってくれぇ――」

 そのとき叔父の磐鳴全海が、娘の芝波、そして冨多醒厳老人とともに馬で駆けつけてきた。

 全海は馬からおりて泣くように叫ぶ。

「ワシが悪いのじゃ。休之助に馬を貸したのはワシなのじゃ」

「叔父御が」

「2人が不憫でたまらなくなって、ワシはだまって2人を見逃したのじゃ。この全海にもとががあるわ。休之助を斬るならワシも斬ってくれ」

 全海は長真の前で両手をついた。醒厳老人も膝をついて、ゆっくりした声で、

「休之助は得がたき勇兵。貴殿にとっては無二の兄弟。朝隈家にはこの小左衛門がなんとか取りつくろい申すゆえ、なにとぞこのシワ面に免じて槍をひかれませい」

 長真の馬はただ行きつ戻りつ前脚をあがかせる。長真は西の空に槍をむけた。

龍衝寺りゅうしょうじ――」

「ん?」と全海は顔をあげた。

「最前線の龍衝寺城はいま三渕宮内みつぶちくない殿が守り、西国の兵15万を迎え討たんとしている。落城は時間の問題。しかしあの城を守りきれば、われら東軍にとって利すること大なり。休之助!」

「………」

「その首取るかわりに、そなた龍衝寺の宮内殿を助けに行け。そしてみごと死守してみせよ。それほどの手柄をあげれば我らも面目をほどこすであろう。どうだ」

 口外に「それだけの大功をあげれば真鉄と結ばれても朝隈家も文句はいえまい」という含みがある。

 全海も喜び勇んで、

「ならばこの全海も戦いに加わろうぞ」

「ならぬ叔父御。これは命がけの戦い。万に一つも帰れる保障はないのだ」

「その一を百にも千にもするがこの全海の真骨頂。みごと死守すれば文句はなかろう。死ぬと決まったことではないわ」

「な、ならばこの慶之進も」

「阿呆か。われらが揃って死んだら誰が足軽衆の面倒をみるんじゃ。そなたはしっかり真鉄殿を守っておれ」

 こうして真鉄はふたたび霊然寺の陣所につれもどされた。その間、醒厳老人は何もいわなかった。

 休之助との関係について家臣たちが良く思っていない事は知っている。この老人も家臣団の重鎮格の人間である。顔には出さないが思いは家臣たちと一緒なのだろう。

 けれどもし休之助が大功をあげ、三吉衆もその地位を高めれば、あるいは……。

 それだけが唯一の希望だった。それが真鉄を絶望の淵から救っていた。


●竿


 霊然寺の客間では、カナコのそばで小竹こちくがずっと端坐していた。

 まるで長年つきそった従者のようにカナコに水をやったり、包帯を取り替えたり、体を拭いたりしている。

 まるで自分の命よりも大事ななにかを守るかのように。

 さきほどまで一緒に看ていた於勝おかつもとうとう眠気に耐えられなくなり、カナコの隣に布団をしいて寝息を立てていた。

 ウトウトしていた貞応尼が顔をあげると、まだ小竹がまんじりともせずに正座を続けていた。

「小竹殿。あなたもお休みなさい。あとは婆がいたしますから」

「いえ、お構いなく庵主あんじゅ様。これがこの人にできる精一杯の恩返しですから」

 その真摯しんしすぎる瞳を見ていた貞応尼が「ホホ」と笑った。

「こうしてつくづく見ていると」

「え?」

「昔のおカナにそっくりね」

「私が、ですか」

「顔だちがどうというわけではなく、雰囲気というか、そうその目ね。それが、今じゃこんなボーッとした顔になっちゃって」

 クスクス笑いながら、愛孫をいとおしむようにカナコの頭をなでる。

「おカナがあなたを助けたのは、ただの親切心からではなくて、あなたにかつての自分を見たからではないか。そんな気がするのですよ」

「かつての自分……」

 そのとき貞応尼が「おカナには昔好きだった人がいた」と妙なことを言いはじめた。

「はじめは相手のことを嫌ってたみたいですけどね。何年も陣所をともにするうち、だんだんと好きあって……でも2人は身分が違ったのですよ」

「それは、キューノスケという人じゃありませんか」

「おや、そうそう。よくご存知。おカナから聞いたの?」

「ただ名前だけで、詳しくは」

 …………

 仁承東西の乱は「和睦」という形で終わりをつげた。

 朝隈家も東軍方から功臣として認められ、将軍の一族として安泰の将来、晴れて越前に帰国――と誰しも思っていた。

 しかし朝隈の真鉄はその後しばらく失踪していた。その3日後のことである。

「あれは風の強い夜でしてね」

 貞応尼が寝ていた竹林庵の前に、カナコが座っていたという。

 かの「白光輝く」とうたわれた真鉄媛の面影はどこにもない。血とアザにまみれ、打ちひしがれた無残な姿だった。まるで落武者であるかのような。

「尼にしてください」

 とカナコは頼んだという。もし断ればこの場にて自害せんばかりに思いつめた様子で。

 理由を尋ねたが、カナコは泣きじゃくるばかりで要領を得ない。

 やがて「休之助が死んだ」という事を言った。そして「朝隈の家を捨てた」という。

 休之助という青年が、かの龍衝寺城で戦っていたことは貞応尼も知っている。

 それが落城寸前というころ、カナコは下京しもぎょう付近で戦っていた。その時、カナコにむかって大量の矢がふり注いできた。

 それを傅役だった冨多小左衛門という老人がわが身を挺してカナコをかばったという。

 全身に矢を浴びた小左衛門。息をひきとる前、こんな事を言った。

「休之助は心情爽やかなるあっぱれな快男児。姫にふさわしき丈夫ますらおにござる。いずれ休之助も大功をあげ、ふたたび姫の前に現れることでしょう。もはや朝隈の家中だれも文句はいえぬ。爺も姫の花嫁衣装、見とうござった」

 それを聞いた時、カナコは稲妻に打たれるような衝撃を受けた。

 てっきり小左衛門は、カナコと休之助の関係を快く思っていないと思っていたのである。しかしその逆だった。老人は誰よりも2人のことを喜んでいたのである。

「―――!」

 気がついた時、家臣の制止をふりきり、馬を飛ばして龍衝寺城へむかう自分自身がいた。

(なぜ今まで気づかなかったのだろう。私もともに休之助とあの城で戦い、ともに死ぬべきだったのだ。いや共に生きるために戦うべきだったのだ――)

 …………

 それで帰ってきたらこの有様である。その間、何があったのかは知らない。みなカナコは龍衝寺城にむかったまま死んだものと思っていた。

「私は休之助を愛していました。でも朝隈家という存在がそれを許さなかった――そう思っていました。けれど一番身分というものに縛られていたのは私自身だったのです。そんなことをしている間に休之助は死んでしまった」

 だから朝隈家を捨てた。いっそ自分自身を叩き殺してしまいたい。とカナコはいう。

「まだ若いのに早まったことを」

 みずからの命を、さもなくば朝隈家の姫君という地位を捨てる。それをするにはあまりに惜しいのではないかとこの若く美しい容姿を見ていると思う。なろうと思えば将軍の正室にもなれる立場である。

 貞応尼は様子見のためにしばらくカナコと起居をともにしていた。

 それでもカナコの顔は日々暗くなっていく。

(やはり尼にするしか)

 と思っていたが、あるとき、寺の本堂内に一本の竿が置いてあることを貞応尼は思い出した。

(この子を救えるのはあの人しかいない)

 それでカナコを呼び、その竿をさし出して貞応尼は申しつけるように言った。

「これはさる東国の方が、この寺を宿所にした時に置き忘れていったもの。この竿をその人のもとまで届けてたもれ」

 それは小竹から長巻を取りあげ、後で取りに来いといったカナコの姿に重なる。

「その東国の人とはひょっとして」小竹は思いあたることがあった。

「そうそう新笹香威斎にいざさこういさいという、それは高名な剣術家の方でございますよ」

 おもしろい方でしてね、と貞応尼は吹き出しながら言う。


永応斬鉄録かなこ14


和楽わらく


 西国では斎洲さいす流、中央では京十条きょうじゅうじょう流、そして東国は神当しんとう流と俗にいわれる。

 新笹香威斎家尚にいざさこういさいいえなおはその神当流の剣術家であり、あらたに一流をたてて匝瑳神当そうさしんとう流と称した。

 もとは下総知葉ちば氏の家臣だったが、あまりの戦乱の無残さに無常を感じ、家を捨て、山里に庵をくんで剣の道にひたすら没頭した。

「剣は何のためにあるか」ということを一念に思いつづけた。

 もし2人の剣士が戦い、ともに倒れれば、それぞれの剣は無主になる。あとは土に埋もれて鉄錆になるだけである。

 しかし片方だけが生き残ったらどうか。1本の剣は守られるであろうが、もう1本はやはり土くれに帰する。

 では1本の剣で、多くの人間を守ったらどうか。

 さらには我をも殺さず、敵をも殺さずという境地に達したらどうか。

 そういう形而上けいじじょう的な修行を続けること20年目にしてついに

「剣こそは万民和楽の道」

 という極意に達した。

 どういう意味かと問われると「みんなで笑って暮らす。だからワラクだ」という。

 そのためなら剣ははじめから無くてもいい。が、それは香威斎のごとき超人的な剣技を持っていて可能である。だから修行する。

 ただ武勇を誇るため、あるいは虚名を飾るためにきた修行者を叩き返したのはそのためである。

 その新笹香威斎。心道修行のため20年前に京を訪れたことがあり、そのとき霊然寺りょうぜんじを宿所にし、親しく貞応尼ていおうにから教えを受けたという。

 例の竿はそのとき香威斎が置き忘れていったものである。

「おかしいことにその竿、中身は剣だったのですよ」

「あ……」その竿はカナコの枕元に置かれている。。

 カナコも京十条流の正統伝承者である。

 剣士を知る者は剣士しかいない、と貞応尼は思ったのである。

 香威斎ならカナコの心を少しでも汲んでやれるのではないかと。

 …………

 そんな話をしているとき、カナコがガバッと頭から布団をかぶってしまった。

 小竹があわてて布団を揺さぶる。

「カナコ殿、お気づきに。カナコ殿!」

「おほほ、この子ったら照れちゃって。あとはあなたがお話しなさい」と貞応尼。

 やがて布団の中からカナコの情けない声がした。

「もう勘弁してつかぁされ、庵主様」


●香威斎


「………」

 この朝隈真鉄あさくままかねという不意の来訪者を前に、香威斎老人はじっと書状に目を落としていた。

 そこは板の間の道場である。

 窓外にはのっぺりした畑がどこまでも広がっており、野のあちこちにこんもりとした屋敷森が散在している。

 この道場も屋敷森に囲まれていた。

 新笹香威斎。もとは一城の豪族であったという話だが、目の前にいるのは作務衣さむえをまとった、ガタイのいい作男にしか見えない。

 髭がおそろしく濃く、ほお全体をおおっており、尖端がちぢれている。

 東国人は褐色の肌をもつが、香威斎は漆黒といっていい肌つやだった。白眼がやたらギラギラしている。

 スーフー、スーフーとその巨大な鼻の穴から気体が出入りしている。

 やがて書を膝においた。

「霊然寺の様からの用件は、わかった」

 ひどいガサガサの声だった。歯の間になにかが挟まったような喋り方をする。

 背後にいる若い大男に書を手渡す。大男はうやうやしく受け取り、それを文箱ふばこにおさめた。

 香威斎の背後にはもう一人、ひょろりと痩せたキツネ目の女性が端坐している。

「で、その竿だが、その、あれだ。ズッケンは成功したわけだ」

「ズッ……実験?」とカナコは顔をあげる。

「いや、その剣はどっかに置き忘れても、いつかは元の持ち主にもどるって言い伝えがあってよ。ホントかどうか試してみたんだ」

 そこまでは鈍重ともいえるほどゆっくりした口調だったが、そのあと小声になり、早口になった。

「まァさか京から戻ってくるとは思わなかったけどヨ。それでも20年かかったけどな。でもわざわざ持ってくるなんてバッカな奴もいたもんだな。ちょっと信じられねぇ事するな。だいたいオラそれ要らねぇもの」

 ふだん話す時はゆっくりめだが、つぶやく時はブツブツブツ――と聞き取れないほど猛烈な勢いでしゃべる。

「もうわかったから。それおめぇにやる。うん」

「………」

 何のために何十日もかけてこの東国下総(しもふさ)まで来たのか。

 カナコは宙空に放りだされたような気分になる。

 カナコは剣の由来までは聞かなかったが……。

 かつて備前筬舟びぜんおさふねにいた鍛冶師が、東国の下野天妙しもつけてんみょうに移り住み、その地で採れた鉄鉱でこころみに2本の剣を打った。

 竿はそのうちの1本である。

 無銘だがそれぞれ「銀杏いちょう」「黒竿くろさお」という俗名があった。

 その兄弟剣は下総知葉氏の重宝として長らく所蔵されていたが、先代知葉胤春(たねはる)が香威斎の武徳をよみしてその2本とも下賜かしした。

 しかし刀剣にあまり頓着のなかった香威斎は、銀杏は「どっかの人」にやってしまい、黒竿もその始末である。

「手紙には、お前さんは京十条流の伝承者だとある。ならわざわざ俺から教えを受けるこたなかっぺ」

「べつに、あなたから剣術を教わろうなどとは。ただその竿を届けに……」

「竿の話はいいんだよ。何のために来たんだって聞いてんの!」

 ムスッとした顔をカナコに近づけてくる。とりつく島がないというのはこういう事を言うのだろう。

「帰ります」と立ち上がろうとしたカナコの腕を、ふっと香威斎がとらえる。

「あ、ちょっと待て、こちさ来い」

 そのままカナコを道場から庭に連れ出した。まわりは笹やぶに覆われている。

 庭先に池があった。黒い水面下でコイが泳いでいる。

 池の真ん中に小さい島があり、こちら側から島まで一本の縄がわたされていた。

「ちょっと、それ渡ってみろ」と香威斎がいう。ぼーっとしているカナコに、

「はやく渡れっつってんだよデレスケが。ほれ、ほれ!」とイラついたように急かす。

「………」

 なんで自分はここにいるんだろう。なんで自分はドヤされてるんだろう。

 カナコの頭上では東国の雲がポカンと浮かんでいる。


●笹


 香威斎に急かされるまま。カナコはピョンと縄に飛び乗った。

 そしてスルスルと縄をつたって島に辿りつき、そこにあった大岩に手をついて、ふたたびスルスルと戻ってきた。

 しゃがみこんでこの様子を見ていた香威斎。「平衡感覚はバツグンなんだよな」とか何とか言いながら立ち上がっている。

「んじゃ、まあ」

 と、しばらく考え込んでいたが、やがて例の「黒竿」を持ってきて、それをブスリと地に突き立てた。そして、

「この上に乗ってみろ」

「………」

「ほれ、はやく乗れっつってんだよ。何ボサッとしてんだか。陽が暮れっちまうよ!」

 仕方ないので、ピョンと高く飛びあがって、竿の上に立ち、しかもその上でアグラをかいてみせた。

 それを感心げに見上げている香威斎。そしてこれまた

「いやぁさすがだなぁ、京十条流の伝承者だっけ。ハーこれぐらい朝飯前か」

 と首根をさすりながら、ブツブツ言っている。

 言葉のキツさと、心底の純朴さとが混沌と入り乱れて定めがない。相手の朴訥ぼくとつさに安心していると、いきなり寸鉄すんてつ人をさすような言葉を浴びせられる。こういうのに慣れるにはだいぶ訓練が必要であろう。

 とその時、池のほとりに生えている笹の葉に香威斎は目をとめた。そのふさふさした枝葉の状態を手で確かめてから、

「じゃあ次はこれだ、これに乗ってみろ」

 カナコは閉口した。

「こんなもの、乗れるはずがなかろう!」

「乗れるはずだ。いや、理屈の上では乗れる。うん乗れる」と香威斎は頑として聞かない。で、しゃがみこんで手で「乗れ、乗れ」と急かす。

 仕方ないので、乗ろうとしたが、結果は想像どおりだった。全身を乗せるどころか腕の重みにすら耐えられない。

 カナコはいった。

「無理です」

「無理か」

 香威斎は「やっぱしな」と腕をくむ。しかしである。

 香威斎はやおらその笹葉に手をかけるや、ひょいっとその上に乗りあがり、小腰を屈めた姿勢でゆっくり腰をおろしたのである。

 カナコは目を丸くする。香威斎もびっくりしたように目を剥いていた。

「おーっ、乗れたァ、アハハァ」と驚いている。香威斎が。

 ぽかんとするカナコに、笹の上に鎮座ちんざした香威斎が得意げな顔を近づけてくる。

「どうだ、おそれ入ったか」

「はあ」

「そうかそうか、もっと畏れ入れ!」と香威斎は哄笑こうしょうした。


●下総


 下総は全地のっぺりとした地勢であり、どこを見渡しても山がない。その平べったい土地にリアス式に海が湾入し、おびただしい入江を形成している。上空から見るとマンデルブロ曲線のようにも見える。

 それゆえ陸づたいでどこかへ行くよりも船で往来したほうが便利だった。

 大農家に手をくわえた香威斎の道場も、香乃海かのうみという内海の入江をみおろす半島上にある。晴れた日にははるか水平線のあわいに、ぼんやり築芭つくば山の山容が浮かんでいるのが見えた。

 道場に通っているのは波良安五郎はらやすごろうという大男と、風祭都久夜かざまつりつくよという痩せぎすの女性だった。そのころ弟子はこの2人だけだった。

 いっぽうのカナコは道場前にある畑の仕事をさせられていたという。

 さもなくば魚釣り、山菜採り、土壁塗り、屋根のき替えなどを手伝わされ、剣をとって教わったことが一度もなかった。

 その間、道場でやっている稽古を見物する。

 そしてたまに例の「笹乗り」をためしては失敗する。

 匝瑳そうさ神当流は肩にかつぐような剣の構え方をする。

 そしてふわり、ふわりと相手の剣を受けては流し、受けては流しという動作をくりかえす。

 一度カナコは、都久夜と手合わせをしたことがあるが、まるで笹を相手にしているかのように斬撃を受け流されてしまう。たえず流動しておりクルクルと独楽こまが回っているようにも見える。

 気がついた時には喉もとに木剣の先を押しつけられている。

「だめだだめだ」と香威斎はカナコを道場から追い出してしまう。

「おめぇは見てるだけだって何度も言ってっぺ!」

 ケチ臭いのかと思えば、香威斎が安五郎に奥義を教えている様子もべつに隠すことなく見物させている。

 あるとき香威斎が、カナコの剣について都久夜に尋ねたことがある。都久夜は、

「おカナ殿はすでに十条流の極意のすべてを体得しています。その要諦ようたいは一言でいえば一撃必殺。豪宕ごうとうで強大ですが、その動きはやや古式であり、柔軟に機に応ずるには不向きかと思われます」

 と評した。香威斎はうなずく。

「あんまり余計なこと教えればかえって基がグジャグジャになるかもわからんしな。しばらくあのままでいいべ」

 それゆえ下総の思い出といえば、あの3人と野良仕事をしている記憶ばかり強いとカナコはいう。

「しかしあの日々は、これまでわらわが味わったことのなかった事ばかりだった。剣術修行よりなんぼ貴重だったかわからん」


●月と星


 そういう日々を4年も続けていたある夜。

 カナコは道場で一人座禅をくんでいた。その夜は十五夜の月夜だった。

 眼を閉ざしたまま、ゆっくり立ちあがる。

 香威斎からもらった黒竿の刀身をするすると引き抜き、ピュッと放った。それを数度くりかえす。

 肩に担ぐように剣をかまえ、身を沈める。

 カナコの周囲は漆黒の闇。

 足下からドウドウと音を立てながら、巨大な月面が迫りあがってくる。隕石孔クレーターのひとつひとつまで見えるほどだった。

 月の上には煌々(こうこう)と輝くひとつの一等星。

 その月と星の中央から、白衣をまとった美女があらわれる。

 手には巨大な宝剣が輝いている。

「………」

 カナコはただの幽体と化し、十方世界を自在に舞いながら、宝剣の美女とはげしい空中戦をくりひろげる。何万合、何億合と斬り結んだかわからぬ。

 斬りむすぶたび、空間をただよっていた小惑星がゴバッゴバッと炸裂し、塵雲ちりくもとなって流れていく。

 天蓋てんがいを蹴り、ガス星雲を突き抜け、何万光年という大星雲上を飛翔したのち、ようやくカナコは最後の一撃をその美女にくわえた。

 美女はニコリと微笑するや、おびただしい光芒こうぼうとなって弾け、暗い宇宙空間に溶けていった。

 無限の沈黙。

 カナコは目を閉ざした。

(休之助……)

 なぜかその名を思い出した。休之助はずっと香威斎の所で修行するのが夢だった。

 それを自分がかわってここに存在し、そしてついに神当流の何事かをつかんだ。そこに悲しみはない。

 まるで休之助や、磐鳴全海いわなりぜんかいや、冨多小左衛門とだこざえもん……

 懐かしい人々と再会したような気分だった。

 カナコは目をあける。

 道場から庭先に出て、笹の上にふわりと乗った。

 満月の下、笹葉の上でゆったり鎮座しながら、ふうっとゆるく吐息をつく。

 頬にはすうっと涙が流れていた。

 もはやここにいる理由はなくなった。ただあの師弟3人との生活は楽しかった。彼らと別れることは悲しい。

 カナコは笹の上からおりた。

 翌日、カナコの姿は道場から消えていた。ただ一通の書が残されている。

 その手紙をじっと読んでいた香威斎。にやりと笑って、

「あいつめ、われらが守護神月辰菩薩(げっしんぼさつ)を斬り飛ばして何の挨拶もないとは。もうここには用がねぇから京に帰るとよ」

 と手紙を都久夜に投げて渡した。

 それを読みながら都久夜がいう。

自然じねんに来て自然に去る……。おカナ殿はもはや十条流でもなく神当流でもない境地に至ったようです」

「それにしたって素っ気なさすぎらぁ」

 と香威斎は笑いながらも、鼻をすすっていた。そして、

「都久夜、おカナと戦って勝てる自信はあるかね」

「もはや私などその足下にもおよびません。おそらくおカナ殿を凌ぐ者はこの扶桑ふそうに何人もいないでしょう」

「そうかねぇ。上には上ってもんがあるんだよ。強いやつは世の中ごっちゃといる。とりわけあの……」

 と目を格子窓の外にむけた。

「おカナの黒竿と一対をなす、銀杏の持ち主。あの人にだけはおカナも敵わねぇだろうな。あれは千年に一人の天才だよ」


●帰洛


 カナコはそのまま京洛に帰り、貞応尼に東国でのことを報告した。

 以前黒屋治兵衛が「2年前にこの霊然寺界隈に現れ」と言っていたのはその時のことを指すのだろう。

 帰ってきたカナコは以前とは別人。ぼんやりした顔をして、いつも背を丸め、ボサボサの髪をボリボリかいて、たまに大口をあけて笑う。ちょっといえばだらしなくなった。

(神当流は礼儀作法にうるさい流派だと聞いていたけど)

 と貞応尼はちょっと後悔した。

(あんなに可憐な美少女だったのに)

 救いなのは以前のような重苦しさがなくなった事である。なくなりすぎてちょっと男っぽくなった気がする。

 そんな事を思いつつ「香威斎さんの所で何をしてたの」と貞応尼が聞いても、剣術の話は一コも出てこない。何をしに行ったのだろうか。

 そうでありながら、ある時、貞応尼のもとに香威斎から一通の書が送られてきた。その書にいわく。

『たしかに忘れたものを受け取りました。乾坤独歩けんこんどっぽのボケの花、独坐大雄峰どくざだいおうほうのボンのクラ、わが極意を一人でに得たり』云々と。

 一人でにというのは「こっちは何も教えてないのに勝手に極意を会得して帰っていった」という意味合いである。

 …………

 ちなみに波良安五郎はのちに波良美濃守知胤(みののかみともたね)となのり、武甲十二将の一人「鬼美濃」として剛勇をうたわれた武将になる。

 そして風祭都久夜は、のち神條一雲しんじょういちうんの親友となり、相模泰雄山(たいゆうざん)に忍者の王国を作り、風迅衆棟梁ふうじんしゅうとうりょうとして数々の伝説を残した。


●中庭


 それから3日後、カナコの体調はだいぶ回復していた。

 しかし立ちあがる時に少しばかり痛みを伴い、小竹の介添えが必要だった。

「少将殿より弱くなったげな」

 とカナコは寂しげに笑う。経臣つねおみ殿も病身だったが、沐浴もくよくかわやへ行くのにも人の手を借りたことがなかった。

 カナコは背を丸め、客間のわきにある中庭をぼんやり見ている。

 その隣には貞応尼、小竹もいた。

 小さな池と石灯籠いしどうろうがあり、そこにうすく雪が積もっている。

 溶けた雪の間からわずかに苔の地面がのぞいていた。

 背後に気配を感じ、ふりかえると於勝おかつが立っている。カナコは笑う。

「於勝殿も、こんな雪の中でじっとしてると息が詰まるんじゃないかね」

 於勝は南海のカヌー乗りである。それがここ半年ほど京洛周辺から離れていない。

「まあね。でも浪速なみはやの船乗りに聞いたら、やっぱり沖は荒れてるってさ。どうなってるのかね最近」

 といっても不満な様子はない。京洛での環境はひどく水に適っているようだし、沖にさえ出なければ陸づたいに四国、九州まで行ける。

 なにより以前虎麿(とらまろ)から言われたことがひっかかっている。

 神宮寺の宝のことである。

(あれってひょっとして……)

 そっとカナコの横顔をうかがう。彼女の頬には膏薬こうやくがベタベタ貼ってある。

 視線に気づいてカナコが「?」と振りむいた。

「うーん……」カクンとうなだれる於勝。

 しかし黙っていても仕方ないので、正直に虎麿の話を打ち明けた。

「神宮寺の宝?」

「そう、私はてっきりどこかに秘密の入口があって、どっかに金銀財宝が眠ってるんじゃないかと思ってたんだよ。でも虎麿が言ってた宝ってのは、喜鶴きつるのことじゃないかって」

 ヨソの国の人間には一銭の価値もない。しかし扶桑ふそう中の大名が千金を積んでも惜しくない宝。

「それは柳営りゅうえい将軍の血筋じゃないか……ヨソの国からしたらタダの人だろ。一銭の価値もないってのは言いすぎだけど」

「それを西国さいごく方が狙っていたと」

 あるいは経臣殿もはじめから喜鶴の血筋の事を知っていたフシがある。

「喜鶴様のことでございます」といった芝波しなみに対して、経臣はあまりあらがいもせず管領邸に同道している。

 まるでこういう日が来ることは覚悟していたかのように。

 カナコは拳で左手をパシ、パシと打ちつけた。ぎゅっと右拳をにぎる。

 その手にポタポタとしずくが落ちる。

 その背がかすかに震えていた。

 貞応尼がいう。

「おカナにそんなに大事に思われて、少将殿や喜鶴殿は幸せ者ですね。でもなぜあなたは神宮寺をそんなに気にいったんでしょう」

「必要とされたからです――」とカナコは声を震わせながら言った。

 経臣殿があの村に転居する時、カナコは手伝いとして霊然寺から遣わされた。

 そのころ屋敷の裏手はぼうぼうの草やぶだった。

「あの草やぶはほっといていいよ」と経臣はいったが、やはり見栄えが悪いので、カナコは草を刈ってあげた。

 経臣殿は喜んでカナコに謝礼しようとしたが、あきらかに貧乏所帯。そうとう苦しい中から切りつめてのことだろう。

 だからカナコはその謝礼を断り、

「そのかわり、あそこの離れ屋を1日借りとうござる」

 翌日は東の空地の草やぶを刈った。また1日離れを借りた。

 次の日は、崖下のやぶを刈った。3日かかった。だから3日離れを借りた。

 その崖下の空地を農園にし、通路を作り、ガケを補強するため石垣を築き、防風の笹やぶを立て、厠をつくり、あいまに喜鶴の遊び相手をし、経臣殿の肩をもみ……

 そんなことをしている間に、家族同然になっていた。

「もう、ここに骨をうずめよう。ここで少将殿や喜鶴たちと一生暮らそう。小竹殿や、於勝殿や、権十、茂助もくわわって……なのに……なのに……」

 涙声で最後は聞き取れなかった。

 こんなにカナコが落ち込んでいるのを見たのは、休之助が死んだ時以来である。

 しかしあの時とは違うのは、まるで悪ガキが叱られてしょげ返っているような感じなのである。

 女らしさは失ったかもしれないが、今のカナコには別な可愛げがある。後ろからギュッと抱きしめて頭をヨシヨシしたくなる衝動にかられる。

 そんな今のカナコを救うことは、貞応尼にはあまり造作もなかった。

 もらい泣きしそうになりながら、あくまでりんとした声で、

「おカナ、まるでこれで終わりであるかのような。あなたのやる事はまだ終わっていませんよ」

「庵主様……」と鼻水にまみれた顔をあげる。

「あなたのやるべき事はひとつ。少将殿や喜鶴殿がいつでも帰ってきてもいいように、しっかり屋敷を守ること。それだけです」

 単純なことに、それだけでカナコは元気を取り戻していた。


●帰宅


 翌日、霊然寺を辞したカナコは、小竹に介添えされながら寺近くの用水路まで歩いていった。

 そこに於勝のカヌーが停まっている。

 その用水路をずっと南へくだるとそのまま神宮寺村に行けるのである。カナコは船酔い体質なのでカヌーには乗ったことがないが、この時はやむなく村まで運んでもらう事にした。

 3人をのせた舟は、すーっと音もなくすべり出す。

「乗らず嫌いであったな。便利じゃ」とカナコは喜んでいた。

「京洛から神宮寺まで歩かずに行けるとは」

 ふと、舟の中にたくさん木の棒が積んであることに気づいた。

「これは何ぞや」

「ん、波が荒れた時に使うのさ」と櫓をこぎながら船尾の於勝がいう。

井形いがたに組んでね。舟の上に乗せるわけ」

 浮きも何もないが、それだけで舟は安定するという。いわゆるアウトリガーである。ふしぎなことに10メートルを超える大波が来ても横転しない。

 もちろんそんな大波の日は沖まで出ないが。

 やがて神宮寺の少将屋敷の前についた。3人はおりる。於勝はカヌーをガッと脇にはさみこみ、持ちあげて入口脇の森まで運んでいった。

 3人は、ゆっくり残雪の坂道をのぼっていく。

「ん!?」

 カナコたちは顔をあげた。屋敷の母屋の雨戸がすべて開け放たれている。

 屋内の襖はむざんに破られ、あるいは蹴倒されていた。

 濡れ縁にはおびただしい足跡がある。

「ぞ、賊――!?」と於勝がすっとんきょうな声をあげた。

 昨日カヌーを取りに戻った時は何事もなかったはずである。

 その濡れ縁に、茂助もすけがぼんやり座っているのが見える。

 カナコたちの姿を見るや、立ちあがって、

「あ、あんたたち、今までどこ行ってたんだよ――!」

 と悲鳴のような声をあげた。

「見ろ、こんな荒らされて。あんたたちはおろか、少将様や喜鶴様もいないし。俺ぁもう心配で心配で」

 憔悴しょうすいしきったように地にへたりこんでしまった。

「すまんすまん」あくまでカナコの声は穏やかだった。茂助を助け起こすと、庭先に倒れていた雨戸を持ちあげ、縁側えんがわめなおしている。

 盗むといってこの屋敷にはロクなものは置いていない。屋敷さえ無事ならそれでよかった。

「ひょっとして玖機八幡衆くきはちまんしゅうのやつらが」と於勝。

「そうかねぇ」と別の雨戸を嵌めなおしながらカナコはいう。

「喜鶴が管領邸に連れ去られたことは、玖機の衆も気づいているだろう。ならここに用はないはずじゃ」

「ならただの盗賊」

 そのとき、一足はやく屋敷に入っていた小竹が庭に戻ってきた。彼女愛用の甲冑と長巻は無事だったらしい。盗賊ならまっさきに盗んでいくはずである。

「じゃあ誰が」といった於勝の頭上からいきなり「人」が降ってきた。

 ふわり庭先に降りたつと、「人」はニヤリと微笑した。

 於勝が目を見開いて叫ぶ。

「と、虎麿――!?」


●穴


 左目に眼帯をした黒い装束の女。

 頭の後ろには索縄さくじょうのような三つ編みの髪が1本垂れている。

 玖機八幡衆棟梁。実穀院じっこくいんの虎麿。

 茂助などは妖怪でも見たかのように声を失っている。

 虎麿がいう。

霞修寺かしゅうじの喜鶴。この子が将軍の血を引いてることは家系図を見ればわかることさ。西国方にもくわしい奴がいるんだよ。丹治比龍寿たじひりゅうじゅという坊やがね。私も喜鶴を狙ってたが、管領に先を越されちまったってわけさ」

「じゃあ屋敷を荒らしたのは誰だね」

「知らないねぇ。ただこれだけは言える。神宮寺のお宝ってのは喜鶴だけじゃなくて、他にもあるってことさ」

 針のように鋭い眼を、じろりとカナコに向ける。

「あんたこの家の雇い人だね。どこかに隠し扉みたいな所はないかね」

「………」それは以前於勝にも聞かれたことである。そんなものは無い――と言おうとしたが「おおっ」と思い出した。

 虎麿がクスリと笑った。

「やっぱりあるみたいだねぇ」

 屋敷裏の空地にそれはある。以前ここの草やぶを刈ったことは書いた。そのとき地面に大きな穴が開いているのを見つけたのである。

 古井戸かと思ったが底には水は溜まっていない。それで掘り進んでみたが、岩盤が邪魔して掘り進めなかった。

 それで喜鶴が落っこちでもしたら大変だと思って土で埋めてしまったのである。それっきりその穴のことは忘れていた。

「岩盤じゃない。それこそ扉さ」

 一同その「井戸跡」の前までやってきたが、その穴はすでに何者かに掘り返されていた。底の岩盤は抜かれており、暗い空洞からひょうひょうと生温かい風が流れてくる。

 その空洞を見下ろしながら虎麿がいう。

「やられたね。賊はすでにお宝を持ち去った後だよ」

「で、なんなんだい。そのお宝ってのは」と於勝。

 吐羅刹とらせつ――

「ふふ、この国がひっくり返るシロモンさ。今に、大変なことになるよ……ってアンタなにやってんだい!」

 虎麿の背後で、カナコがクワでどんどん穴を埋めていた。お宝がない以上、この穴はもはや生活上の障害でしかない。


永応斬鉄録かなこ15


悩乱のうらん


 永応4年2月24日。その日も降雪であった。

 野洲義国やすよしくにの軍勢3万5千と、南山城の一揆勢10万による攻防は一進一退をつづけていた。

 野洲軍が多奈倉村を制圧し、一揆の本営・不動城の手前まであと一歩まで迫ったかと思えば、後方の田名布たなぶ衆が渡河をはじめて後方をおびやかし、それに気を取られていると南の木栖川きすがわ村からも打って出る。

 渡河をして南岸の村々を制圧しようとすると、北岸にいる味方が手薄になり、不動城の一揆勢がどっと突いてくる。

 それゆえ野洲軍は、南山城の中心にある多奈倉村を取ったり、手放したりをくりかえしだった。

 わずか数里ばかりの行軍が永遠の遠さのように思われた。

「大和衆からの返事はまだか」

 とんとんとん! と扇子でせわしげに絵地図を打ちながら野洲義国が叫ぶ。

 大和国にいる橋尾氏、阿知あち氏、古内ふるうち氏、筒依つつい氏などに再三にわたる援軍要請をしているが、彼らからは色よい返事がない。彼らは中立に近い立場を保っているが、先年の三吉長真みよしちょうしんによる伊出氏討伐の際、その怪物的な勇猛ぶりを目撃しており、以来三吉寄りの姿勢をとっている。

「近江の六斯ろっかく京国きょうごくはいかがした。ちっとも動く気配がないではないか!」

 というのは最初からわかっていたことである。彼らはあくまで京洛への牽制として動いてもらっているにすぎず、それ以上のことをさせるのは野洲家の実力では無理だった。

 しかし六斯・京国の両軍はいまだ武装を解いていない。それが義国にみょうな期待を抱かせるのである。

 持つだけに彼らの静観の姿勢が歯がゆくてならない。

 すでに2ヶ月の長滞陣であり、兵糧の心配もあった。この時代、この国の人間は、兵站へいたんという観念をまだ知らない。

 地図をむんずとつかみ、それをクシャクシャと口に入れながら、

「退けぬ、なんとしてもここは退けぬ……ブフッ(咳き込み)」

 ここで京洛で逃げかえれば野洲家の威信は失墜する。おそらく三吉長真の下風に立つことになるかもしれぬ。

「各方面に分散していた軍を、すべて……」

 地図をくわえたまま、義国が立ちあがる。

「この多奈倉に結集せよ。火が出るほどの勢いでもって不動城を落とす!」

 家臣の一人が諫言する。

「し、しかしそうすれば各方面の一揆勢が後方を突いてきましょう。そうなれば我ら袋のネズミとなり甚大な被害が」

 と言っていた家臣の顔に、唾液まみれの地図が飛んできた。

「やかましい、もう被害がどうのと言ってる場合かッ。たとえ、たとえぇこの義国一人となろうとォ、やつら、やつらァ一人残らず皆殺しだァァァ!!」


あかね


 もし野洲義国の言ったとおり野洲軍の全軍が一丸となってあたれば、不動城は一瞬で陥落したであろう。

 しかしその不動城も一揆軍によって逆包囲され、野洲軍にも壊滅に近い被害が出たかもしれない。それぐらい義国は追いつめられていた。

 そのとき予想外のことがおこる。

 上空には重苦しい暗雲がかかり、そこから撒き散らすような勢いで雪がおりてくる。

 しかし西天の方は雲がきれて、そこだけ毒々しいほどの茜色に染まっている。

 その茜色の天を背景に、一軍の群れが影絵のように野洲軍に近づいてくるのである。

「な、なんだあやつらは」

 それを遠くから望見する義国。

 彼らは明らかに騎馬武者だった。頭にはさまざまな鍬形くわがたがほどこされた兜をいただき、手には槍をたかだかと捧げている。

 それが千、万という数で地平線を埋めつくしているのである。

「な、なんだ、何者だあやつらは。敵か、味方か……。後方からの伝令は!」

「わかりません。後方からの伝令はいまだ」

 やがてその一群の中から、牛のツノのような鍬形をいただいた武者の影が一騎、悠然と駒を進ませてきた。

 それをじーっと見ていた義国の禿頭とくとうからダラダラと汗が流れる。

「みみみみよし、ちょちょーしん……」

 聞けい、野洲の衆よ――!!!

 大気をふるわせる大音声だいおんじょうがあたりにとどろく。

「われこそは三吉大膳大夫長真みよしだいぜんだゆうながざねである。われらは管領京兆院晴氏けいちょういんはるうじ様の命を受け、野洲義国の成敗に参った。手向かう者はすべて逆賊として討伐するによって左様心得よ。まず一刻の猶予をあたえん」

「なにを、なにを言うとるかぁ」

 泡を喰ったように義国は馬に飛びのり、三吉長真まで声がとどく距離まで接近した。

 そして金切り声をあげる。

「長真、この軍勢は何事ぞ。我らは将軍藤氏公を奉じた正規軍であるぞ。それを逆賊とは気でもふれたか! おぬしこそ何の権限あってかく兵馬を揃えたるか。わたくしに兵を動かしたるは重大な……!」

 しかし長真はこたえず、ゆっくり駒をもどらせた。

 かわって、長烏帽子をかぶり源平武者のような甲冑に身をつつんだ貴人がゆっくり馬を進ませてきた。

 義国の顔面がみるみず土気つちけ色になる。

 管領京兆院晴氏――


●京兆院の政変


 義国の顔色を見て、晴氏はふふっと笑い、

洞賢入道どうけんにゅうどう、しばらく見ぬうちにだいぶ顔色が悪くなったな。長き戦場暮らしでだいぶやつれたようじゃ」

「宰相殿、これは何のマネでござるか」

「あれほどの大膳の大声が聞こえなかったようじゃ。そなたを討つ」

「何のために。その大義名分は、われに何のとがあらんや!」

「ほほぅ、大義、咎……そうさな」と考えるそぶりをして、

「まず禁裏御料きんりごりょうを横領せる罪。典厩てんきゅう家と私闘せる罪。大軍をもって京洛市民をおびやかせし罪。そして私憤でもって無辜むこの百姓を殺戮さつりくせる罪。まだあるわ」

 寺社造営に関わる不正、南丹波における羽多野はたの氏との抗争、近江の大名を勝手に動かしたこと、おのれの裁量で幕閣の人事に手をくわえたことなど、あげればキリがない。

 それを黙って聞いている義国。

 ふるえる指で、晴氏の背後にいる軍勢を指さし、

「そ、それより、なにより、そもそも、その軍勢は一体……」

 見れば管領方の軍勢は1万、いやそれ以上ある。京洛には3千の常備軍しかいなかったはずである。

 晴氏はあくまで血色のいい顔で言う。

「伏美の大荒野はあれでも使い勝手がよくてな。兵を隠すにはうってつけなのだ。宇陀うだからわずか2里先に軍勢が潜んでいたこと、さすがに気づかなかったようだな」

「それでも、それでも……」

 こちらの兵は3万5千。相手はわずかに1万。

 もはや一揆勢など打ち捨てて、一直線に管領軍を撃破し、そのまま京洛を制圧する。

 それしか義国にはできない、というよりそれが最善の策だった。

 しかし晴氏は、腰の采配をとりあげ、義国の背後にある山をすっと差ししめした。

 義国は背後に顔をふりむける。

 野洲軍の拠る多奈倉村の北東、えんえんと連なる山岳地帯に、おびただしい軍旗の群れが居並んでいるのが見える。その数は管領軍のそれを凌いでいる。

「あ、あの軍勢は……」

「近江の六斯殿、そして京国殿の軍勢、しめて1万7千じゃ。彼らも我が意に賛同して加勢してくれた」

「そんなはずは。我らは将軍藤氏公を奉じているのだ。そんな我らに」

「洞賢、言い忘れておったがな、我らも将軍を奉じているのだ」

「は?」

「つまり我らも"正規軍"なのだ。これでわかったか」

 ………

 よく戦国時代は「仁承にんしょうの乱」をもって端緒はじめとするというのが後年の歴史学の通説であり、一般の常識だった。

 しかし近年では晴氏が「我らも正規軍なのだ」と言葉を発した瞬間をもって、戦国時代の開幕だとする説が有力になっている。

 この事件を『京兆院の政変』と呼ぶ。

 管領にある者(つまり下の者)が、おのれの都合で将軍(つまり上の者)をとりかえた。つまり下剋上である。

 下剋上という現象は、それまで散発的にあったとしても一時的な現象にとどまる事が多かった。

 しかしこの京兆院の政変の影響は巨大であり、この事件を境に下剋上の風潮が全国にひろがっていくのである。皮肉なことにその影響は各地に「戦国大名」という新興勢力を誕生させ、かつ幕府自体を弱体化させる原因にもなった。

 義国がとっさに理解できなかったのは当然であった。


●光と闇


「そ、そんな、そんなバカな……」

 いかに管領・六斯・京国・一揆勢に挟撃され、さらに不意を突かれたとはいえ、野洲軍の崩壊はあまりにも早かった。

 というより三吉長真率いる阿波黒騎衆あわこっきしゅうの強さは何なのか。

 いやそもそも三吉長真とは何者なのか。

 その長真はただ一騎、ぐるりと10体の鉄獅子に取りかこまれていた。

 長真がその剛槍『聖護院しょうごいん』をふりまわすたびに、1両100貫目はする鉄獅子が粉微塵こなみじんに吹き飛ばされていく。

 そこに山麒麟やまきりんの威容がせまる。

 口から火槍かそうをはなち、胴体に開いた無数の穴からは槍がのび、さらに矢が飛び出してくる。

 しかし長真は、鉄獅子の一体をぶすりと槍玉にあげるや、山麒麟めがけて突進してきた。

 その鉄獅子に火槍が直撃、爆発したが、長真は微動だにしない。

 燃えあがる鉄獅子を、山麒麟の胴に叩きつける。

 山麒麟の右前脚が折れ、ガクンと斜めに傾むいた。

 せりあがった山麒麟の首の根っこを剛槍で殴りつけると、高さ6メートルもある頭部がぐらりとかしぐ。

 さらに殴りつけると、頭部はバリバリという裂音とともに倒壊した。

 たまらず山麒麟の胴体にひそんでいた弓兵や修験者らが「ぎゃああ」と逃げ散っていく。

「はわわバケモノ」

 義国は腰を抜かしながら、ようやく愛馬の胴にしがみつき、乗りあがろうとしたが、すでに周囲は黒い甲冑の武者たちで取りかこまれていた。

 黒騎士たちの間を割って、牛角の兜をいただいた長真がゆっくり近づいてくる。

 長真がギロリと義国を見下ろす。

「将軍藤氏公はいずれにおわすや」

「へ、へへ……危険な戦場に公方くぼう様を置いておくバカがあると思うか。さる安全な場所にお移りいただいておるわ」

「そはいずれぞ」

浪速なみはやの津」

(まさか因幡本国に送るつもりか――)と思ったが、因幡まで行くのにわざわざ航路をとる必要はない。

 義国はいう。

「新たに立てられた将軍とはさしずめ霞修寺かしゅうじ家の喜鶴きつるであろう。しかし喜鶴はしょせん母方の血筋にすぎず。藤氏公こそは先代満藤(みつふじ)公の唯一の忘れ形見。正統な御嫡子ごちゃくしである。しなが違うわ、品が!」

「……まあいい。あとは宰相殿の面前でゆっくり講釈せよ。捕えい!」

「寄るな下郎!!」

 血を吐くような絶叫とともに剣を抜きはなつ義国。ニタリと笑みを浮かべる。

「うぬの下風に立つぐらいならこの洞賢、いさぎよく死を選ぶ。最期に教えてやろう。藤氏公の向かわれた地は多羅ノ津(たらのつ)よ。今ごろ藤氏公を乗せた船は、浪速の津からはるか西国さいごくへと船出しておろう」

「多羅ノ津――き、貴様」

 長真の顔が驚愕に染まった。

 義国は悪鬼のような形相で哄笑こうしょうする。

「ワハハ、ワシを出し抜いたつもりか京兆院晴氏。将軍藤氏公をむかえた西国方こそ正統な幕府軍。前の仁承の大乱にまさる大軍がこの京洛に押し寄せてこよう。この洞賢のおそろしさ、そのとき死をもって知るがいい!」

 そう言うや、義国は剣でおのが肚を一文字にかっさばいた。口から噴水のように血を吐きながらゲラゲラ笑っていた。

 どうっと白い雪に仰向けに倒れ、鮮血が拡がっていくが、なお笑い声はやまぬ。

 それが止んだ。

 その上になお雪が降りかかる。

(ひとつの時代が終わり)

 放心したように義国のむくろを見つめる長真。

(もうひとつの、別な時代がくる。それは光か、はたまた……)

 西天はいまだ鈍い夕闇の光がわだかまっている。


●かき餅


「なに藤氏公が――!」

 陣所で床几に腰かけ、かき餅を食っていた京兆院晴氏の手がとまった。

 ぼーっと長真を見据えている。

「いかがなさいますか」

「さ、探せ」

「しかしすでに藤氏公は浪速の津を出ておるとか」

「いいから追え!」

 手にした餅を投げ捨てると、かぶっていた長烏帽子をつかみとって、頭をボリボリかきはじめた。

「おのれ義国。そこまで手を打っていたとは。ちと見くびっておったわあの古狸め」

「しかしこちらにも喜鶴様がございます」

「品が違うわ、品が!」と義国と似たような事を言った。

「むこうは正嫡、こちらは外戚がいせき筋じゃ。クソッ」

 長烏帽子を投げ捨てる。

 喜鶴はあくまで野洲討伐にあたっての一時的な近隣諸国への牽制にすぎなかった。

 そのあと義国から将軍藤氏をとりかえし、そのあと喜鶴は実家にもどすか僧籍にやるつもりでいた。

「しかし仕方がない。喜鶴は正式な将軍にしなければなるまい、が……」

 正式な将軍にするには朝廷の認可がいる。しかし後華苑ごかぞの帝はこの「将軍取り替え」事件にまた痛憤を発し、とても会えるどころではない。

大極殿だいごくでんの修復……公家領を……宮廷工作……)

 色々と思案をめぐらすが良い案が出ない。なにしろ金は野洲討伐の一件で使いはたしている。

 となればこの国に2人の将軍がいることになる。いずれ仁承の時にまさる大乱がおこるかもしれない。

 その時、伝令が馳せ飛んできた。晴氏はのっそり顔をあげる。

「何事じゃ」

「六斯・京国の連合軍が南下を続けております。それに応じ、大和の豪族衆も北上を開始しているとの由」

「なにィ!」と怒号をあげる長真。

 しかし晴氏のほうは冷淡だった。

「そうか」と答えたきりぼんやりしている。

「な、なぜお止めなさらぬ。彼らの行動を黙過するおつもりか」

「そう、黙過。する」と別なかき餅をとって、かぶりついていた。

 周辺の大名たちは、領内に一揆が波及することをおそれている。それゆえの侵攻である。というよりそれが管領方に加勢する条件の1つに含まれていた。

 しかしその話は長真は聞かされていない。なおも食い下がった。

「百姓たちは管領からの援軍が来たとよろこび武装を解いているはず。その彼らを見殺しになさるのか」

「そなたの声はちと大きい。もそっと小さい声で」

「いや言わせていただく。そもそも百姓たちとは前々から協定を結び、一揆については誰の咎人も出さぬ、管領家は一揆衆に一切手を出さぬと約束してあったはず。それを反故ほごになさるのか」

「だから管領家は一切手を出さぬ。出すのは六斯・京国、あと大和の面々よ。約束はしかと守っている。それと」

 晴氏は長真をゆびさした。

「三吉の軍勢もそれに加わってもいい。私はこのまま京に帰る」

 その指をぴちゃぴちゃしゃぶっていた。

「………」

 まただ、と思った。この感じ。

 サッと突き放される感じ。放り出されてポツネンと立ちつくしている感じ。

 晴氏は長真をここまで引き立ててくれた恩人でもあり、しかも自分に持っていないものを多く持っているという点で尊敬している。

 が、たまに理解が追いつかず、追いつかぬばかりか、放り出されて無残な気分になる事が多い。

(これが中世的な貴族というものだ)

 とハッキリ認識しているわけではないが、たまに別な生き物を見ているような気分になる。下剋上の先駆者だという晴氏でさえいまだ中世的貴族の気分の中にいる。

 やがて長真は晴氏の前から退出した。その顔は怒りのため寒風の中でもギラギラと汗ばんでいた。

 そこへ甲冑に陣羽織姿の磐鳴芝波いわなりしなみが駆けよってくる。

「どうなさいました長真様、その汗は」

「芝波……そなたは京へ帰れ」

「何ゆえでございます!」

「そなたは経臣つねおみ殿や喜鶴様の相手をしてやってくれ。くだらん戦になる」

 それだけ言い捨てて闇の中に消えてしまった。


●不動城


 ごうごうと農家のならびが燃えさかっていた。

 山麓はすべて赤い炎で覆いつくされ、億兆という火の粉が天に舞いあがる。

 それを山上の不動城から茫然と見下ろしている田名布六蔵。

「なぜじゃ……なぜ管領様はわれらを攻める。せっかく管領様がようやく援軍をさしむけてくださったと喜んでいたものを」

「くそっ、われらはたばかられたんじゃ!」

 隣にいた馬崎権十郎うまさきごんじゅうろうが錆び槍をふりまわして叫ぶ。

「やはり武家は武家。やつらはもとから信用ならなかったんじゃ。やはり百姓だけの力でやればよかったんじゃ。地獄に落ちやがれサムライども!」

 城壁の上から石を放りなげる。

 やがてどやどやと百姓の一群が駆けつけてきた。

「だめじゃ、とても防ぎきれんわ。他の衆はみな村にもどってしまって人数が足らん。いずれここにも敵が攻めのぼってこよう」

「六蔵殿もはよう落ちなされ!」

 言われて、六蔵は百姓衆に守られながら、脱出口として定められた山道にむかった。

 しかし山道の入口に、一人の男が立ちふさがっていた。

 その水干すいかん姿の牛若丸のような男。麓の炎に照らされて、光のない目でニヤーッと笑う。

 六蔵が「あっ」と声をあげる。

五百住いおずみ様。これは一体いかなる事でございます。管領家はなぜ我らを」

「うぬらの役目は終わりじゃ百姓ども。どこへなりと失せろ。だが六蔵、そなたは一揆の中心人物。そなただけはここで死んでもらう」

 と、そのとき今まで六蔵を守っていた百姓たちが空高く飛び、五百住弾正(だんじょう)のまわりを取り囲んだ。

 その手には刀やら、鎖やら、分銅つきの鎌などを持っている。

 その一人が六蔵にむかって叫ぶ。

「六蔵殿、はようお逃げなされ、ここは我らが食いとめる。田名布村にいる総四郎殿と落ちあいなされ!」

 弾正がピクンと眉尻をあげる。

「そなたら一揆衆にまぎれこんでいた透波すっぱじゃな。一揆を長期化させ、管領家を疲弊させんとの目論見もくろみであろう。しかしな」

 ピュピュッと空を斬る音とともに、透波の一人が喉笛から血を吹いて倒れた。

 弾正の両手には針のような刺突剣が輝いている。

「そなたらごときでは時間稼ぎにもならんのよ」

「お、おのれっ」

 透波たちはおのおの手にした得物えものを投げつける。

 鎖やら鎌、分銅、手裏剣などがいっせいに弾正目がけて飛来してきた。

 弾正はゆっくり両腕を交差させたあと、

「キャッ!!!」

 と短い奇声を発して両腕を大きく広げた。

 その直後、透波たちがバタバタ倒れていく。彼らの眉間にはおのれが投げた手裏剣、分銅が食いこみ、あるいは鎌で喉を断ち切られていた。

「読めたわ、そなたらの技は斎洲さいす流。とすれば所属は玖機八幡くきはちまん衆。そして依頼主は西国の山宝殿滋持さんぽうでんしげもちと見た。……といってももう死んでおるがな」

 くるりと弾正が向きなおった――と思った時には弾正の姿はヒュッと六蔵の眼前に迫り、直後に元の位置にもどっていた。

「う、うぐっ」と六蔵はガクリと両膝をついた。

 あまりに一瞬の出来事に、脇で槍を構えていた権十郎は「な、なんだ」と事態をのみこめずにいる。

 その数秒後、腹から血を流してうずくまっている六蔵にようやく気づく権十郎。

「あーーっ、六蔵殿ォ?! お、おのれ、よくも――」

 槍をふりあげ、ダダダッと駆けよってくる権十郎。その穂先をかるくいなしながら、

「ほー百姓にもこれほどの使い手がいたとは。さっきの透波よりよほど使えるかもしれん」

「なにをごちゃごちゃ言ってけっかる。うぬの動きなんぞカナコに比べたら――」

 と槍を振り下す権十郎。しかし弾正はクルクルまわした剣で穂先を絡めとり、大きく投げあげてしまった。

 弾正はクスーッと苦笑する。

「比べたら、なんだ」

「あれ?」ぽかんと両手を見つめる権十郎。

 そのとき、

「待てぇぇぇぇ!!!」

 という叫び声で戦いは中断された。

 一人の若武者がこちらへ剣を構えながら駆け寄ってくる。

 権十郎があわてて叫ぶ。

「総さん! 来てはならん、こいつは――」

「ほう田名布の総四郎か。一揆の若衆組の首魁しゅかい。ここで父もろともあの世に送ってくれるわ」

 ドカッと権十郎を蹴倒したあと、右手の剣をくるんと持ちなおし、それを総四郎に投げつける弾正。

 一直線に総四郎の眉間に飛来する。

 その刺突剣が

(カキン)

 という虚しい音ともに弾きかえされた。

「えっ、また――!?」

 弾正の右膝がカクンと崩れた。


●四人


「またあの森の妖怪か!!」

 とあたりを見回す弾正。あの時以来、弾正はちょっとした恐怖症になっている。

「いや違う……」

 駆け寄ってくる総四郎のむこうから一騎、覆面をした騎士が駆けつけてくる。

「あれは神條一雲しんじょういちうんとかいう」

 総四郎は田名布村を守備していたはずである。これほど早く不動城に駆けつけたということは一雲に馬で運んでもらったのだろう。

 一雲は短弓をたずさえており、それで刺突剣を射落としたのである。それはいい。

 一雲のあるところつねにあの「妖怪」がある。

(またアレが現れたら面倒だな。ここは一旦退くか)

 チッと舌打ちしたあと、後ろ飛びに森の中に消えた。

「お父!!」

「六蔵殿!!」

 そろって六蔵に駆けつける総四郎、そして小竹ノ君(こちくのきみ)

 六蔵を抱き起こした権十郎などは、涙を流しすぎてやや虚脱している。

 六蔵は苦しげに喘ぎながら「残念だ。残念だ」と繰り返していた。そして小竹の手を握りしめて何度も頭を下げた。

「我らの力およばず、申し訳ござらぬ。もし我らの企てが成功し、この南山城に強き国を作ることができたならば、典厩家の再興にもお役に立てたかもしれませぬものを」

「なにを申されますか!」小竹は泣きながら、父によく似た六蔵の手を握りかえす。

「私こそあなたがたからたくさんの事を学びました。礼を申すのはこちらの方です」

 小竹は父が戦死した時、その死を看取ることができなかった。天はそれを哀れんで、彼女の心残りを今こうして果たさせてくれているのではないか。その思いが彼女の悲しみを深くしていた。

「総四郎、この方は典厩家の姫君、小竹ノ君と申される方。ゆえあって我らのために助太刀くださり、これまで数々のお骨折りをいただいた。その御恩ゆめ忘れてはならぬ」

「はい、はい……」

「武家を追い出し、百姓たちがみずからの国を作る。その思いは、頼りなげではあったが、形あるものとしてこの地上に存在した。しかし武家の力は……あまりにも強大であった。我らは、早すぎたのかもしれぬ」

 しかし……と総四郎、小竹の手をそれぞれ握った。

「どんな形でもいい。どんなに時がかかってもいい。我らの行ないをムダに終わらせてはならぬ。いつか、いつか……そなたたちが……」

 そのまま六蔵はガクリと肩を落として動かなくなった。

「―――!!」

 赤くゆらめく炎を背景に、影絵のような4人の姿がいつまで佇んでいた。

 こうして8ヶ月にもおよんだ南山城の土一揆は終焉をむかえた。

 しかしそれは始まりでもあった。


童形どうぎょう


 海沿いに、扶桑には似つかわしくないほど壮麗な城が建っていた。

 屋根の四方は上にはねあがり、白壁、朱塗りの柱が見え、いたるところに大陸風の唐草文様が彩られている。

 その城の本丸、御殿にかこまれた広大な庭先に、いくつもの丸太が並べられている。

 すべての丸太には鉄芯がぐるぐるに巻かれて補強されている。鉄柱といっていい。

 上半身裸の壮漢が、槍をたずさえて鉄柱の前に立つ。

 眉濃く、アゴは長く頑丈そうであり、槍をたわませるたび、上腕筋や胸筋がびっびっと引き締まる。

 いかにも天下を一呑いちどんせんばかりに自信にみなぎった瞳。

 その右頬には顔の半分をおおうほど巨大な傷痕がある。

「でああああっ!!」

 鋭い気合とともに槍を旋回させる。鉄柱のひとつが3つに叩き折られた。

「どああああっ!!」

 さらに別な柱も輪切りにされている。こちらは4つにされている。

 しかし不思議な槍であった。柄は細いが、穂先がまな板のように広く、しかも先は尖っている。野球のホームベースのようでもある。

 幅広の穂先には6つの穴が開いており、橙色の玉と、紫色の玉がはまっていた。あとは空洞である。

「うむ、京洛からこれほど離れていてもこの威力。すさまじいものよ」

 と男は槍を見上げながらほれぼれと言う。

「この槍は京に近づけば近づくほど威力を増すという。ならば京洛市中で戦った時はどうなるのか……想像もつかん」

 ふつうに話しているのに叫んでいるかのように声が大きい。密談のできないタイプである。

 そのとき、御殿の廊下を、一人の少年がするすると絹ずれの音を立てながら歩いてきた。

 薄緑色の水干をまとっており、まげはまだ童形。13、4の少年であろうか。

 全体的に少女のように見えるが、キリリと濃い眉と、意志の強そうな瞳が、かろうじてその性別をしめしていた。

 その少年がついっと廊下に端坐する。それに気づいて男が振りかえった。

「どうした龍寿りゅうじゅ。京洛からの報告か」

「野洲義国が敗死したそうです。将軍藤氏公がこの周防まで向かっているとの由」

「情けなし――」と男はつばきを飛ばして吐き捨てる。

「野洲といい遊狭ゆさといい主従そろって腰抜けよ。数年は粘るかと思っておったが。他には」

「神宮寺の吐羅刹とらせつが何者かに奪われたそうです」

「……やはり神宮寺にあったか。まあいずれはワシが力ずくでも手に入れてみせるわ。他に」

「これにございます」

 と、龍寿なる少年は袂からひとつの玉を取り出した。それはホライズンブルーに輝く蒼い玉だった。

「旧管領家の重臣上屋素秀(かみやもとひで)が日ごろから携帯していたものだそうです。古文書にある『然童子ぜんどうじ』の玉に相違ありません」

「こやつ――」と男は少年に近づいてきて、

「なぜそういうことを先に言わぬか!」

 とその額にデコピンを喰らわせた。少年は額をさすっている。

「でかしたと虎麿とらまろに申し伝えよ。3万石はおろか8万石は堅いとな」

 男は玉を手でクルクルともてあそんだあと、槍の穂先にある穴のひとつにカチンとめこんだ。

 ブウウゥゥン――

 と槍が一瞬輝き、わずかに変形したように見えた。

「おお、さっきより軽くなった気がする。どれ」

 男は槍をふりまわす。その勢いは激しさをまし、庭の土ボコリをまきあげ、そのまま上空へ飛んでいきそうな速度だった。

「でああああああっ!!!」

 槍を薙ぎおろすと、鉄柱は根元から吹き飛ばされ、空中に舞いあがったところをさらに斬撃が叩きこまれる。

 ドスンと落ちた鉄柱は、その衝撃でバラバラに弾け飛んだ。

 都合3本の柱が同様の結果になる。

「ふ、ふふ……すばらしい、すばらしい威力だ」

 男の右ほおの古傷がピクリとひきつった。

「この槍さえあれば、この山宝殿滋持さんぽうでんしげもちの顔に傷をつけた男……あの三吉長真ですら赤子も同然。あやつだけはこの世に塵も残らぬほど叩きのめしてくれるわ」


永応斬鉄録かなこ16


●塩釜


 永応4年3月12日、その日は雨であった。

 降雨によって黒く染めあげられた柳営りゅうえい将軍府(花の御所)の板葺いたぶきの大屋根が、京洛の街衢がいくの北方にたたずんでいる。

 そのむこうは標高300メートルの比室ひむろ山が灰色にけぶる。

 御所の一室。病床から身をおこして、霞修寺経臣かしゅうじのつねおみはぼんやり雨音を聞いていた。

 さきほどまで木彫りの馬で遊んでいた喜鶴きつるも、遊び飽きたのか、隣の畳の部屋で布団もしかずにクークー寝ていた。

 まだ仮とはいえ、自分が将軍になったことも知らないかのように。

 経臣は「よっこら」と言いながら立ちあがり、うつぶせで寝ている喜鶴の上に、みずからの上衣をかけてやる。

 そのとき、ぽとりと末広すえひろの扇子が落ちた。

 しゃがみこみながら、扇子をわずかに広げる。

 そこには「浦の松原」の墨絵がある。空には上弦の月がかかっている。

 絵の左下に「可祢」とあり「鐵」の朱印がされていた。かつてカナコがたわむれに描いたものである。

「………」

  浦さびしくも荒れはつる

  あとの世までもしおじみて

  おいの波も帰るやらん

  あら昔恋しや……

「あら昔、恋しや」

 その部分だけ2度くりかえしたあと、経臣は心なしか肩を落としたようにジッとしていた。

 その背中にあたりの雨音が沁みこんでいく。

「失礼いたします」

 ふと女性の声がひびく。わずかに開けられたふすまの向こうに、薄紫色の小袖をまとった磐鳴芝波いわなりしなみの姿があった。

「ああ芝波殿か」経臣はニコリと笑みを浮かべる。

 そのあと2人は対座したまま言葉を交わしていた。

「それは『とおる』の塩釜でございすね」

「お恥ずかしい。麿まろは融ほどの美男ではおらざぬものを」と経臣は首を垂れる。

「いいえ、神錆かんさびたよき御声でございます」

 と言ってから、芝波はそっと気づかうように、

「神宮寺が恋しゅうございますか」

「あの地を離れてからわずか2ヶ月。しかし、なにやら遠い昔のことのようにて」

 経臣は遠い目をする。

「2年足らずであったが、神宮寺六軒での生活は楽しかった。人生の最後にあのようなご褒美があろうとは……。カナコ殿がいなければ、麿などとうに死んでいたかもわかりませぬ」

「最後などと」

「いや自分のこと。そう長くは無いのはわかっておざる……。ところで」

 と経臣はしんみりしすぎている事に気づいて、話題を変えた。

小竹こちく殿のことでおざるが」

 野洲義国やすよしくにの死により、滅亡した典厩てんきゅう家の残党が何人か京洛にもどっているという。いずれは形だけでも典急家の復興がなるはずである。

 しかし相模本国はいまだ豪族たちが割拠しており、帰国はできそうもない。

 芝波が微笑しつついう。

「そのうち幕府からも神宮寺村の小竹殿へ、京洛召喚の使者が送られるはずです」

「ああ、それはよい話でおざる」

 と何度もうなずいてから、経臣はふと寂しげな目をした。

「また一人、あの屋敷から人が減ることになる。カナコ殿も寂しかろうな」

 芝波は経臣殿とこうして話しあっている時が一番好きである。

 カナコが今までどこで何をしていたのか、何を考えていたのかが、経臣という人に触れるだけで、わかる気がするのである。

(まかね様があんなにお怒りになって管領邸まで追われてきた理由も……)

 もしこういう父子と1年も暮らし、それが拉致らっし去られたら芝波も同じことをするであろう。

「そうそう、この扇の絵も」

 と腰の扇子を取ろうとした経臣の手がとまった。その手が震えている。

「? どうなさいました少将様」

「………」

 ぶるぶると全身を震わせたあと、経臣はガバッと床に両手をつき、数度咳き込んだ。そのたび床に血がひろがる。

「少将様!」

 芝波はあわてて経臣殿の背中をさすり、あたりを見回して、

「どなたか、御典医を、どなたか!」

「いや大事おざらん……大事おざらんよ」

 と経臣はゆるくうなずきつつ、床に落ちた扇の墨絵を見て、

「ハハ、カナコ殿が描いてくれた絵が、汚れてしまった」

 そのあと気を失ってしまった。


●山小屋


 そのころ神宮寺村といえば、ウソのように平穏であった。

 幕府は伊佐長盛いさながもりという人物を南山城の守護代とし、不動城においたが、あくまでお飾りにすぎない。その領域のほとんどは周辺大名の支配下にあった。

 村々には代官がおかれ、厳しい監視体制が敷かれた。一揆方の幹部級のものは捕えられ、ことごとく首を打たれた。

 それでいてどういうわけか神宮寺村だけは、何度か巡検の武士が見廻りにきた以外、なんの音沙汰もないのである。

 巡検の武士も心なしか遠慮しているようにも見えた。

 カナコたちはふしぎがったが、於勝おかつだけは

「そうか喜鶴が将軍様だからか」

 とすぐに推察していた。いわゆる岡目八目である。

 しかしカナコたちは知らなかったが、磐鳴芝波が裏で手をまわして、あの村だけは幕府役人も手を出さぬようにしていたのである。

 ということでカナコたちはごく普段どおりに生活している。

「これでよし、と」

 竹の皮にたくさん握り飯を包みこんだあと、於勝はそれを持ちあげて、後ろを振り返った。背後のカマドではカナコが汁物を作っていた。

 於勝はキョロキョロしながら、

「小竹さんはどこ行ったかね。これ小竹さんに持っていってほしいんだけど」

「小竹殿ならお手水ちょうずでないかね。このわらわが持っていって進ぜる」

「だめだめ、小竹さんじゃないと」

「ああ、なるほど」

 カナコは察してカクリと肩を落とした。

 そのとき小竹がしゃなりと澄ました顔で台所にあらわれる。

 於勝が声をかける。

「小竹さん。悪いけどこれ墨染山の2人のトコまで届けてほしいんだけど」

「どうして私が……」

「ちょっと私は京洛に所用があってね。急ぎの用なんだよ。頼むよ」

「ならカナコ殿が」

「わらわは持病のギックリ腰がはなはだしく」

 とカナコはとんとんと腰を叩く。

「………」

 小竹は2人の意図をだいたい察している。

 於勝から竹皮の包みを受け取り、汁物の入った鍋をさげ、屋敷裏に出た。そこから墨染山につづく山道に入る。

 山道をしばらく行くと、わずかに森がひらけ、そこに小さな板屋が建っている。むかし木樵きこりが物置に使っていた小屋であろう。

 その小屋の戸は開かれ、中で3人の男がなにやら話しこんでいた。

 名嶋茂助なじまもすけ馬崎権十郎うまさきごんじゅうろう、そして田名布総四郎たなぶそうしろうである。

 小竹の姿を見ると、権十郎は外に出てきて、彼女の前でパッと平伏した。

「これはおタケ……じゃなくて小竹ノ君様。このようなむさくるしき苫屋とまやに」

 むさくるしいというより、この小屋は山の泉に沐浴もくよくにきた時、いつも小竹が脱衣所として使っている小屋である。

「よしてください、そんな。差し入れです」

 そういって小屋の中に竹の包みと鍋をおろし、小腰をかがめたあと、立ち去ろうとする。

 権十郎があわてて留める。

「あいやしばらくしばらく。そのまま、そのまま」

 なぜか茂助の襟首をつかんで、小屋から出てきた。

「我らは家に器物うつわものを取りに戻りますゆえ、小竹様はそのままそのまま」

「え、器物ならたくさんあるって」という茂助の頭にゲンコツが飛んでくる。

「やかましいこの薄らトンカチ! えへへ、まったくモノのアワレもわからん野郎で。行くぞ茂助」

 そういって、茂助を引っぱってダダダと麓への道を走り去っていった。

 権十郎はそのまま夕刻になるまで帰らなかった。

 あとには小竹、そして総四郎だけが残される。

 一揆の終息後、権十郎と総四郎はこの小屋に棲んでいる。一揆に参加した一般の農民らにはお咎めはなかったが、2人は若衆組のリーダー格的な存在である。見つかれば処刑される可能性もあった。

 南山城の守護代になった伊佐長盛という幕府役人は良心的な人物で、周辺の大名にも罪人の追捕ついぶをゆるめるように働きかけているという。それゆえ権十郎たちがこの山中に潜んでいるのもそんな長いことではないだろう。

 そして小竹と総四郎が相思いあい、常ならぬ仲になるのも長いことではあるまい、とカナコたちは(無責任に)思っている。

 この山中で2人は何を話しあっていたのか。それは誰も知らない。


●流言


 そのころ京洛では妙な噂が流れていた。

「西国方が攻めのぼってくるらしい」という噂である。

 だがそれだけなら妙というにはあたらぬ。いつかは来ることであり、さらに将軍藤氏が西国に逃れたともいう。やがて西国方はその将軍を旗印として上洛してくるであろう。

 が、それに付随して龍衝寺りゅうしょうじ城についての噂がささやかれているのである。

「龍衝寺城は管領家に見殺しにされたそうな」

 龍衝寺城の陥落によって、それまで優勢だった東軍方は一転して守勢に立たされ、西軍方との和睦を余議なくされた。世人はみなそう思っていた。

 しかし、

「西軍も東軍もあのころ長い戦乱で疲れ果てていた。両者は和睦を望んでいた。なのに龍衝寺の兵だけはそれに反対してなお抗戦の構えでいた。だから邪魔になったんじゃ」

「城主の三渕宮内みつぶちくない殿は、さきの管領重氏殿にえらく可愛がられていた。それを重氏の子の晴氏殿が嫉妬したらしい」

 西軍、東軍、そして朝廷による3者合議の結果、ある刺客が龍衝寺城に送りこまれた。その一人の刺客によって龍衝寺城の兵800人は全滅した。

 そこまではさすがの京洛市民も「そんな強いやつがいるかい」と笑って取り合わなかった。

「それはともあれ今の三吉みよし殿の栄華も、その龍衝寺城を守って死んだ叔父や弟御の犠牲があってこそよ」

 酒店でガラガラ声を放っている男。土佐安とさやす仁右衛門にえもん。かつて一揆衆に傭兵として参加していた足軽である。

 彼のまわりを数名の町人がとり囲んで話を聞いている。

 やがて大通りのむこうから見廻りの役人が近づいてくるのに気づいて、土佐安はパッと立ちあがり「おいオヤジ、代はここに置いとくぜ」と店を後にした。

 やがて裏路地に滑りこんでいく。

 路地の塀にもたれ、腕をくんでいる遊女風の女性がいる。左目に眼帯をしていた。

 実穀院じっこくいん虎麿とらまろである。

「土佐安、御苦労だったね」

 と土佐安にいくばくかの銭を渡したあと、塀から背をはなした。

「あとは五条のほうも頼むよ」

 土佐安は玖機八幡くきはちまん衆ではない。一揆衆の中でひとり龍衝寺の話を自慢げにしている男がいるのを見つけ「これは役に立つ」と思って使っているのである。

 やがて土佐安の姿が路地裏から吐き出され、大通りの人込みの中に消えていった。

 遅れて、大通りに出てくる虎麿。両手を袖に入れながら、しなしなとあたりを見回している。

 その虎麿に

「おい――」

 と声をかけてくる男があった。


●蛇


 桃色の水干すいかんをまとい、垂れた前髪のむこうから、細い目でジトッと見据えてくる青侍あおざむらい風の男。

 口元はゆるく笑みに歪んでいる。

「そなた、あの男の連れか」

 五百住弾正武久いおすみだんじょうたけひさ

「おやけっこうな美男ですねぇ旦那。あいつとは何の縁もありませんよ。それよりあたいと遊ばないかい」

 虎麿はくねっと腰をくねらせ、弾正にすりよっていく。

 弾正は彼女の頬をそっとつかみ、細い眼を近づけてくる。

「ここで立ち話もなんだ、来い」

 くいっと路地裏にあごをむける。言われて、虎麿も「旦那も好きだねぇ」という風に鼻で笑いながら路地裏に入った。

 路地裏をふさぐようにして、逆光の弾正の影がいう。

「あやつは土佐安の仁右衛門、一揆衆で見たことがある。近ごろ龍衝寺城にまつわる噂を流しているらしいな。女、狙いはなんだ」

「ふん、何のことでござんしょ」

「とぼけるな、さっき酒店で話を聞いた。それで土佐安の跡をつけたら、そなたが路地から出てきた。いくら渡した」

「しつこいお人だね。知らないって言ってる――」

 ブンッと虎麿の姿が消えた。

 ふたたび現れた時、弾正から数間も先に立っていた。小袖の肩口がわずかに裂けている。

 キラリと2本の刺突剣がきらめく。

「やはりわが一撃をかわすとは。玖機八幡衆か」

「……ほう、そこまで見破っているとはあんたもただの牛若丸じゃなさそうだねぇ」

 虎麿はまとっていた小袖を脱ぎ捨て、黒い装束をあらわす。背中の鞘からゆっくり剣を引き抜く。

 ヒュンと前に構えた時、剣が一瞬のび、ふたたび戻ったように見えた。

「ほう唐剣か。珍奇な」

「ただの唐剣だと思ったら痛い目見るよ」

 シャッ、シャッと剣を突き出す。とっさに身をひねってかわす弾正。

 かわしたはずだが、瞬間、剣はぶるんとのたうち、弾正の胸先をわずかにえぐった。

 血が噴き出す。

「な、なんだ今の動きは!?」

「ただの剣じゃないって言ってるだろ!」

 弾正は聞いたことがある。内部に法力で動くカラクリが蔵されている唐剣があるという。鉄獅子の一種である。

 名は蘭蛇刀らんじゃとう

 さらに虎麿は剣をはなった。剣は二つにわかれ、さらに四つにわかれ、それがグワッと蛇の口のように拡大した。

 細い眼をカッと見開く弾正。

「チャアアアアアアア―――!!!」

 ガガガガガッと連続突きで相手の剣を弾きかえす。4つの剣尖はふたたび1つになり、今度は地を這うように弾正の足元に迫る。

はやい――!)

 蛇のように軌跡を描きつつ、剣が弾正のまわりを円形にとりかこむ。

 ふたたび剣は4つになり、高く上空へせりあがって弾正の周囲を回転しはじめた。弾正はかごの鳥のようになる。

「ふふ、よく凌いだね。でも芙山聖台ふざんせいたいの陣からは逃れられないよ」

 キチキチキチと鋭い金属音を発しながら周囲を回転する剣。そのむこうで弾正はブスッと重い目をしている。

「いささか油断した。これほどの使い手……おぬし玖機八幡衆の頭だな。ひょっとして斎洲幻薫さいすげんくんの直弟子か」

「だから何だっていうんだい」

 斎洲幻薫。玖機八幡衆の前首領である。一般には斎洲流武術の開祖としての名前の方が高く、倭寇の頭という事実はあまり知られていない。

「だがな」

 腰を落とし、ゆらりと双剣を構える弾正。

「蛇ごときの毒で死ぬ弾正ではない。今こそ斎洲流をも膝下しっかにくだして我が天下最強となってくれる」

「ケッ、そのザマで何を偉そうに。なますになっちまいな――」

 剣をもつ手に気をこめる虎麿。

 しかし弾正はふたたび双剣を突き出し、カカカカカッと蛇剣のひとつひとつを正確に射抜いていく。しかし弾正のまとっている桃色の水干もズタズタに裂かれていく。

 やがて弾正は構えを解いて、だらりと両腕をさげた。パァンと刺突剣が粉々に飛び散る。

 虎麿はほくそ笑んだ。

「なんだい、諦めたのかい」

「ふん」

 弾正はニヤリと笑うと、回転する剣にみずからの右腕をさしだした。

 蛇剣は無数の穴をあけられて、バラバラと砂糖菓子のように崩れていく。

 虎麿の右目が見開かれる。

「なん、だと……」

「ふん、芙山聖台の陣、なかなか楽しい趣向であった。だが私の剣も使いものにならん。ここは勝負は預けることとしよう。また会うこともあろう眼帯の女」

 ボロボロの水干姿のまま弾正はその路地を後にした。

 それを茫然と見送る虎麿。

(なんてやつだ、蘭蛇刀が破られるとは……この世にはまだあんなやつが。ん?)

 弾正の立ち去ったあとの路上に、きらりと光るものがある。

 拾い上げてみると、それは黄色く輝くひとつの玉。

「これは一体……まさか」


●明王


 永応の世をさること700年前。

 そのころ一望の田園地帯にすぎなかった山城盆地に隕鉄いんてつが落下した。

 幸いにして湿地帯に落ちたので、周辺の被害は少なかった。

 直径はおよそ3メートル。

 湿地帯に落ちたそれは、夜なお五色ごしきの光を放ち、あたりを昼のごとく照らしていたという。

 そのころ大和寧楽(なら)よりこの山城に遷都しようとしていた鑑武かんむ帝はこれを「奇瑞きずい」とし、人足をこぞってその隕鉄を削りとり、一本の槍を造った。

 その槍は「太玄明王たいげんみょうおう」と名づけられた。

 しかし鑑武帝が試みにその槍を一振りしたところ、たちまち大風がおこり、そのころ建設中だった新都の大半を吹き飛ばしてしまった。遷都は中止された。

 そこで帝は、法術師として名高い河内祇園山かわちぎおんやま命燕みょうえん上人を招き、相談した。

 命燕上人はいう。

「かの太玄明王の槍は強い魔力を帯びております。そして隕鉄本体に近づくほどにその魔力を増し、やがて力は無限に近くなります。それゆえ槍から魔力を抜き取らねばなりません。さすればかの槍は国家鎮護(ちんご)の名宝となりましょう」

 命燕上人は6つの玉にその槍の魔力を封印した。

 これらの玉を、京洛を囲むように各寺社に封印する。

 坤迦羅こんから(橙)永岡ながおか龍衝寺

 精多迦せいたか(黄)河内祇園山

 然童子ぜんどうじ浅葱あさぎ洛北一丈寺らくほくいちじょうじ

 吐羅刹とらせつ(深紅)伏美ふせみ神宮寺

 剣護法けんごほう群青ぐんじょう)比室龍雲寺

 優婆羅うばら(紫)雄山おやま八幡宮

 太玄明王の槍は、洛西の蘭山らんざんに安置された。

 隕鉄本体の所在は不明。

 その後、新都は北東部に建設されることになり、現在の位置に落ちついた。その護力によるものかは知らぬがその都は以後1千年にわたって続くことになる。

 しかし長年の間に、それらの魔石の中には権力者、僧侶、陰陽師などに利用され、あるいは寺院が廃寺になったりして、所在が不明になってしまったものもあった。

 というより永応のころには、その槍がかつて存在していたことも忘却せられ、ただ一部の好事家こうずかだけが知る事実になっていた。

 虎麿が拾ったのは、河内祇園山に封印されているはずの魔石精多迦だった。


●船団


 どぉぉぉん、どぉぉぉん

 その重低音が、かすみなす大海原に響きわたる。

 そのあとに

 シャン

 という鈴の音が響く。

 どーーん、どーーん、シャン

 どーーん、どーーん、シャン

 もうもうと雲のわきあがる水平線上から、音の発生源が近づいてくる。

 巨大な船。

 長さ30メートル、幅12メートル。その周囲は6メートルほどの板壁でかこまれている。

 船からは100挺ほどの櫓がのび、太鼓と鈴の音にあわせてさかんに波をかいている。

 船の中央には神社の拝殿のような建物がっており、将校級の居住スペースがある。

 いわゆる安宅船あたけぶねである。

 それらがほぼ1キロほどの間隔でえんえんと洋上をつらなっている。30隻はあろうか。

 それに関船せきぶねという中型艦、小早こはやという小型艇が無数に随走している。

 かつての海賊たちはこの船団の威容を見ると、京と地方の差を見せつけられ、

「さすがは幕府軍、われらのかなう相手ではなし」

 と戦わずに降伏したものだが、今この船団は西から来る。

 船には三宝殿さんぽうでん家の家紋が染め抜かれた旗がひるがえっていた。

 永応4年4月15日。

 将軍藤氏を迎えた西国方はついに上洛を開始する。その数15万。

 その数は西上するごとに増えていくであろう。

 その前哨ぜんしょう戦として、安芸の名門武甲(ぶこう)氏がその攻撃を受けた。

 安芸武甲氏は管領方の大名であり、たびたび三宝殿家と抗争をくりかえし、管領方にとっては一種フタのような役割を果たしていた。

 しかし将軍藤氏をむかえて「幕府軍」になった三宝殿軍に対し、武甲方の家臣の中にはこれに寝返る者が続出した。武甲軍の士気はガタ落ちになる。

 そこへ陸路・海路から西軍15万が侵攻を開始し、武甲方の支城群はまたたくまに陥落した。

 ドドドドドド――

 馬蹄の音か、地を掃く砂嵐の音か。あたりを轟音がおしつつむ。

 その砂風の中、白銀の甲冑、白銀の大兜を身につけた騎馬武者が、巨大な槍をたずさえて迫ってくる。

 顔の右半分には巨大な傷痕。

 西国軍総大将・山宝殿滋持(しげもち)

 その眼前には武甲氏の居城銀嶺(ぎんりょう)城が、天空高く立ちはだかっている

 そこへ、滋持に馬を寄せてくる梨子打烏帽子なしうちえぼしの少年武者があった。

 滋持がいらだたしげに声をあげる。

龍寿りゅうじゅ、銀嶺城はいまだ落ちぬか。何をグズグズしておるか先鋒は!」

「敵の総帥武甲信光(ぶこうのぶみつ)殿は知勇すぐれた老練の名将。兵の士気も高く、容易に抜くことはできません。先鋒の陶藤晴房すえとうはるふさ殿では荷が重いかと思われます」

 多治比たじひ龍寿。よわい14。北安芸地方の小領主だが、その無尽蔵な知識を滋持に買われ、その側近となっている。

 京洛工作の責任者であり、玖機八幡衆も実質この少年の支配で動いている。

 見た目は怜悧れいりな風貌だが、声はのんびりしてして緊張感がない。

「ふん。だがワシが直々に来たからには1日で終わらせてくれるわ」

「いえ、1日もかからぬと思います」

「どういうことだ」

 龍寿はだまって懐からひとつの玉を取り出した。黄色い玉。

「虎麿さんから送られてきたものです。魔石精多迦……そもそもこの精多迦は河内祇園山の命燕上人が」

 チッと滋持は舌打ちする。いつも肝心なことを後回しにし、さらに注釈をつけるのは龍寿のクセである。

「能書きはいい。さっさと付けよ!」

 ぬっと槍の穂先を龍寿に近づける。6つ開いた穴にはすでに3つの玉が装填されている。開いた穴ひとつに、龍寿は玉をカチンとはめ込んだ。

 滋持の手の中でブウウゥンと槍が輝き、カキン、カキンと音を立てて変形した。穂先がいくぶん長くなり、それが3つに分かれ、三叉さんさ槍になる。巨大化するほどに軽量化するという不思議な槍である。

「おっ、おお、三つ又になった。よし、よし」

 滋持はうれしそうに槍を突きあげ、グルングルンと片腕で槍を振り回しはじめる。それを、

「うおりゃあああああ!!!」

 という胴声どうごえとともに突き出した。

 槍からブワッと衝撃波が飛ぶ。それは山上で霞をはらんだ銀嶺城めがけて飛んでいき、やぐらの屋根にグワンと直撃していた。

 遠目からでも屋根瓦が落ち、壁が剥がれ落ちるのが見えた。

「ワハハ、命中じゃ。大陸の火龍砲かりゅうほうよりも威力絶大であろう。もういっちょじゃ」

 それを数度もくりかえすと櫓はボロボロになり、塀は吹き飛ばされ、その向こうで兵らが右往左往しているのが見える。

「あと2つ。あと2つじゃ。魔石がすべて揃えば、もはや15万の大軍も不要、将軍すらもいらぬ。ワシはこの国の王……いや神にすらなれるのだ!!」

 銀嶺城はその日のうちに陥落した。


●栄光


「なに、そんな噂が」

 三吉長真はじっとその家臣の折烏帽子を見つめていた。その家臣が顔をあげる。

「西国方が流した流言にすぎません。おそらく宰相殿と長真公を離間りかんさせる策かと」

 例の龍衝寺城についての噂である。

 この男、曽合凌為そごうりょうい。もとは長真と敵対した讃岐の豪族であったが、長真に降伏してからはその剛毅沈着ごうきちんちゃくさを買われて三吉家重臣となっている。

「いや、よく知らせてくれた……」

 じつはこの噂が立ってから1ヶ月がたっている。その間、家臣たちは長真に遠慮をして口をつぐんでいた。

 龍衝寺城がたった一人の老人によって全滅したというのはどうにも信じがたい。長真ですらそれをやれる自信がない。

 しかしそれ以前の「管領家によって見殺しにされた」というのは信憑しんぴょう性がありすぎた。たしかにあの城が陥落してから東軍方でも和平案が優勢となり、気がついたら和睦の会談がもたれ、その直後西軍が引きあげていったのである。まるで東西が事前に打ち合わせしていたかのように。

 しかし管領となったばかりの京兆院晴氏けいちょういんはるうじは涙を流して「かの龍衝寺城の城兵たちこそ救国の勇士。無二の忠臣」と賞し、足軽頭の三吉長真をみずからの幕下にくわえ、以後重用した。

 いまや長真は阿波・摂津・播磨・讃岐4ヶ国の太守たいしゅ、百万石の所領、3万の兵力を有する管領家筆頭重臣である。

 それらの栄光が、一転して巨大な質量をおびて長真にのしかかってくる。

(三吉長真、そんなことも知らずに今や百万石の太守。い気なものよ)

 口さがない京人や公家などはそんな蔭口を言っているのかもしれない。いや幕閣の同僚たちでさえ。

(たとえそれが真実であったとしても)

 ふと、磐鳴全海いわなりぜんかい、そして休之助の顔が浮かんだ。

 彼らのまわりには、今まで三吉家のために死んだ将兵らの姿もある。

 彼らは闇の中、天上からさした光に照らされながら、さびしげに微笑していた。

 長真の栄光を喜びつつ、自分たちはそこに参加できないさびしさ。そして微笑。

(俺はここまで来た。いやもっと昇りつめてみせる。それが彼らへの最大の鎮魂と信ずればこそ。管領家に対する忠誠は変わらぬ)

 が、なぜか神宮寺村にいる真鉄媛まかねひめ、すなわちカナコの顔が浮かんだ。

 休之助が死んでからカナコはどういう風に生きてきたのか。心の支柱を失ってからどこをどう彷徨ほうこうしてきたのか。

 しかし経臣と喜鶴を追って管領邸に飛び込んできたカナコの双眸そうぼうには――たしかに心のり所を見つけ、それを守ろうとする強さに満ちていた。

 長真は2度もそれを奪ってしまった。

(俺は……)

 バァン――

 両手で床を打った。おのれが一個の竜巻のようになり、それが巨大になるたびに、周囲の大事な人たちを不幸にしていく。彼らの不幸の上にいまの嚇々(かくかく)たる栄光がある。

 光の中の全海、休之助、旧臣たちの姿が闇に消えていく。

 バァンとさらに打った。

(皆の者……まかね殿……俺は……!!)

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