竹槍ファンタジー
永応斬鉄録かなこ10
●芝波
そのころ五百住弾正は、静観している。
なにやら活気だつ一揆勢の様子を。
瓢箪の酒をあおりながら。
あまり愉快そうではない。
山上にある妙顕城の城壁のへりに座りながら、ぺっと唾をはいた。落ちた唾は眼下の森に吸いこまれていく。
(俺は何をしている)
ほんの2ヶ月前まで、彼は大和伊出氏の配下として一城の主だった。その伊出氏を裏切り、今は三吉長真の配下となっている。
降将という負い目があるといいながら、まるで透波のように一揆の様子をうかがい、山中を飛びまわり、あるいは妖怪に襲われ、今はこうして酒を喰らっている。
概観すると鳥獣戯画のカエルやウサギのように忙しなく、滑稽なものに見えるにちがいない。
その五百住弾正の背後に、すっと立った人影。
弾正はそちらに顔を向けようとしたが、すぐに眼下の森に目をおろした。
「あんたかい」
「昼間から酒を喰らってるのか。ヒマな仁だな」
女性の声だった。ひどく知的で冴えた響きがある。
「任務の方がおろそかになっては困るな」
「ふん」と弾正は瓢箪をあげてラッパ飲みする。
「あんたこそ、いざ戦になれば1500の兵を任される一方の勇であろう。なのに今は使い走りみたいな事させられてる。ヒマはお互い様さ」
「これも来たるべき日に備えての雌伏。のようなものさ。それに――」
じゃりっと弾正の傍らに立つ。長身の女性である。
「足軽時代が長かったものでな。野駆けをしていると当時を思い出す」
髪が腰にとどくほど長い。黒糸威の鎧をまとい、白い陣羽織をゆったりと羽織っていた。
女性はその黒くよく輝く瞳を、弾正にむける。
「一揆勢の動きは」
「見てのとおりさ」と城の本丸のほうへアゴをあげ、
「なんか知らぬが、やる気マンマンでおわすわ、土民様がたは」
「2度の戦いでだいぶ場馴れしてきたのであろう」
「フン、だとしたら「後始末」が大変ですな、芝波殿」
「………」
芝波と呼ばれた女性はくるりと背をむける。その彼女に声をかける弾正。
「どうも土民どものまわりでウロチョロしてるのは、我らだけではなさそうだな」
「どういう事だ」
「得体のしれぬ透波どもが右往左往しておるわ。おおかた西国方に雇われたものであろうが」
「わからん。北近江の京国、伊勢の喜多、南近江の六斯、美濃の多岐、駿河の今出河、そして滸河の公方……枚挙にいとまがないわ」
「アハハ、京兆院家も前途多難ですな」
「ともあれ、透波どもは一揆を扇動しているだけであろう。それは我らの意図と一致する。なんならそやつらと共同して事にあたってくれてもいい」
「で、その暁には」と弾正が酔眼を向けた時には、女性の姿はなかった。
城壁下ですでに馬上の人となっている。弾正を見上げながらつぶやくように、
「一番得体がしれぬのはおぬしだよ」
「え? 何か申されたか」
「いや、何でもない。また来る」
馬蹄の音も高らかに森の中をはしる街道を駆け去っていった。
●闖入
その夜、河内の山野に大風が吹き荒れた。
祇園山頂にある望楼のむれは大風の中、心ぼそげに林立している。城内のいたる所におかれた篝火も、風にあおられて城壁にさまざまな陰影を映し出す。
ガタタッ
と板に岩が落ちかかるような音が響いた。居室で酒をあおっていた遊狭高教は、
「やかましいっ!」
と野太いのどを震わせて怒鳴った。外で兵士らが騒いでると思ったのだろう。
ふたたび静かになる。
高教はふうっと熱い吐息をはいたあと、手酌で盃に酒をつぐ。
その盃を口に運ぼうとした手が、とまった。
目の前に人が立っている。それも公家のような装束をした男が。
公家風の男はしずかに袖をひるがえし、音もなく座る。
高教は身をのりだし、じーっと孔があくほど相手のキツネのような白面を睨みすえる。
「誰かと思えば五百住家の八郎丸か」
「ごぶさたしております」
五百住弾正はその細い目を笑ませて、ついっと両手をついた。
「遊狭の伯父上」
「なにが伯父上。もはやそなたとは何のつながりもないわ」と高教は吐き捨てたあと、
「どうやって忍び入った」
「この祇園山はわが勝手知ったる庭のごときもの。しかもこの大風。ひそかに入りこむのに何の造作もござらぬ」
「にしては血の匂いがするわ」
くんくんと鼻をならす高教。おそらく番兵の何人かをその手にかけているのだろう。
この五百住弾正は、遊狭高教にとっては妹の子、つまり甥にあたる。
もともと五百住家は射上地方の矢鏡神社の神官家であり、この地の守護総領家の家臣として遊狭家とは同格だった。
しかし五百住家は総領氏にあくまで忠誠を誓っていたため、遊狭高教による総領氏追放の過程で没落してしまっている。弾正はその家の8男坊だった。
「何をしにきた。総領家の仇をとりにワシの命を狙いに参ったか」
「いえ総領家はもとより守護の器にあらず。没落したのはただ理のしからしむる所。下剋上は今の世のならいにござれば」
「用件をいえ、あいかわらずもったいぶった物言いをするやつ」
「よもや伯父上は降伏などお考えではござらんでしょうな」
「……何を」
「たしかに農民どもは2度の戦いで練度を高め、その士気はまさに天を衝く勢い。しかししょせんは野犬の群れにひとしい。いかに田名布の六蔵といえど全体を強固にまとめあげていくだけの器量は持ちません。六蔵をこころよしとせぬ者もあまたござる」
それゆえ次の戦いではなるべく城外には出ず、祇園山の天嶮を生かしつつ、兵を小出しにして突出し、徐々に一揆勢の数を減じていくが上策。と弾正はいう。
「さすれば因幡に拠る野洲義国殿もいずれ救援の大軍をさしむけてくる。せめて1月」
「1月……」
「そう、1月辛抱なさいませ」
それを聞いて、高教は盃をおき、膝をさすったり、天井を見上げたりしている。
やがて、
「やはりそなたの言葉は信用ならぬ」といった。
「そなた先には伊出殿の厚い信任を受けながらこれ裏切り、今は管領家に仕えている。管領家に仕えていながら政敵の野洲に利するような事を抜かす。妖言もここまでくると滑稽じゃわ」
「ならばこのまま城を捨ててお逃げなさいますか」
と言った瞬間、高教の剛刀が空を切った。しかしそこに弾正の姿はない。
高教は叫ぶように言う。
「30年じゃ! 16歳の初陣以来、20年をかけてようやく手にしたこの祇園山。そしてさらに10年をかけてかくも壮麗堅固なる要塞にしあげた。そのころ生まれてすらいなかった小倅が何をわかったような事を抜かすか!」
ふたたび剛刀が薙がれる。目の前の板戸が横にまっぷたつにされ、ドタドタとすさまじい音を立てて倒れた。
野外からは、大風の中、弾正の高笑いが鳴り響いている。
「頑迷なる御人じゃ。ならばその城とともに焼かれて死ぬがよろしかろう」
●小尉
古い、さびれた寺院が建っている。まわりはぼうぼうの草藪。
本堂の瓦はほとんど落ち、戸はやぶれ、堂内には経文やら仏像やら、さまざまな仏具が、泥にまみれて散乱していた。
いかにも血なまぐさい戦場跡を連想させる光景だが、まわりに遺体らしきものは一つもない。
しかしその本堂の階に、一人の男が背をむけて立っていた。
男は純白の素襖をまとい、頭に長烏帽子をのせていた。髷はもとどりを解き、髪がざんばらに腰まで垂れている。
ただ、その純白の素襖は……返り血なのか……ところどころ赤銅色に汚れている。
やがて男はゆっくり振り返った。老人であった。
しかしよく見れば顔に「小尉」という能面をかぶっているだけだった。老人のしわがれた顔であり、あごには細い白髭が垂れる。まるで能楽師のような姿。
その小尉がおごそかな声を発する。
(娘、まだ生きておりしか)
そういうや、小尉は右の袖をふりあげ、手にした剣を天にさしむける。
おそろしく長く、細く、やや黄色をおびた剣。
(わが剣は死出の道標。千々に乱れたる混沌の裁定者。そなたもまたあの)
老人の背後の堂内に、一人の若者の姿が浮かびあがる。若者は血にまみれた姿で床に倒れ伏していた。
(小冠者とともに冥界へ逝くがよい)
ヒュカッと剣閃が視界をおおう。
剣は光ごとく速く、いかな神眼をえた兵法者でさえかわすことは不可能であろう。
「―――!!!」
カッと目を見開くカナコ。
彼女は、少将屋敷の離れの土間で寝ていた。全身汗まみれのまま。
まだ短すぎる夏の気配がただよう昼下がり。彼女のわきでは仔猫が腹を見せながら心地よさげに眠っていた。
●千金
(またあの夢を)
カナコは顎の汗をぬぐいながら、彫りかけの根付が土間に放ってあるのを見る。
さきほど、あまりにも退屈すぎて眠ってしまったのである。
といっても彼女にはやる事がたくさんある。喜鶴の子守り、畑仕事、屋敷の掃除、水汲み、洗濯、魚釣り、山菜採り云々。
しかしどうも目の前の作業に集中できない。楽しくない。
「小竹殿」
背を丸めながら、ぽつんとカナコはつぶやいた。
小竹はまたも馬にのって屋敷を留守にしている。その間、小竹のことが頭の中から離れなくなり、何をしても手につかなくなる。
それで気づいた時には自分も一揆へ出かけてしまう。
しかし於勝はそれを快く思っていない。だから屋敷でボーッとしている。
しかし於勝も近ごろ妙であった。
カナコが話しかけても何かに気を取られている事が多い。
(まさか於勝殿もこの屋敷から出ていってしまうんじゃなかろうな)
於勝も扶桑中の海を航海しているカヌー乗りである。いつまでもこの神宮寺村にいるわけではない。それは仕方がない。
が、そうなれば今まで以上の地獄であろう。
(まさか2人の存在がこれほど大きくなってしまったとは)
カナコはわきで寝ていた仔猫をギュッと抱きしめて、じっとしていた。
そのカナコに、夕餉のとき於勝がこんな話をしたことがある。
「この神宮寺ってさ」
「え?」
「むかしは何だったんだい。お寺かなんかあったとか」
「………?」カナコはボリボリと頭をかく。
少将経臣殿にも尋ねてみたが、経臣も薄髭をなでながら「さあねえ」というばかり。
「やっぱり神宮寺っていうぐらいだからお寺でもあったんだろうねぇ。なんでそんな事」
「いや……」於勝はちょっと考えこむような目をして、すぐ、
「あ、ほら、カナコさん石垣作りしてるでしょ。その時に、なんか、秘密の入口~みたいなのが見つかったりとか」
「秘密の入口」
そういえば裏の墨染山にはたくさん宝石のようなものが落ちている。得体のしれない土の隆起もある。探せば秘密の入口もあるかもしれない。
「墨染山の宝石か」あまり於勝は納得していない。
「たしかに綺麗なもんだが、千金の値がつくようなシロモンじゃないねぇ」
「あの、それが」
「いやなんでもないよ。ただ聞いてみただけ!」
あわててコイの煮つけに箸をつけた。
経臣殿とカナコは「?」と首をかしげながらふたたび箸を動かす。
カナコはコイの身をほぐして「あーん」と喜鶴の口に運んでいる。
もぐもぐ咀嚼する喜鶴の頭をなでなでしながら、最後にパシンと叩く。もぐもぐする喜鶴の頬をさわさわ撫でながら、最後はぴしゃっとひっぱたく。
それを何度もくりかえす。
わきで経臣殿が「およしよ」と苦笑しながら酒を呑んでいる。
彼らはこんな調子で1年以上暮らしてきたのに違いない。
そんな様子を見ながら、於勝は、
(そうか。この人たちにとってはこれが千金を積んでも惜しくない"宝"なんだ。大丈夫、誰が何をしようと、私がこの宝を守ってみせるよ)
もちろん先日、虎麿にいわれた事が頭にあったのである。
●戦況
永応3年も9月になった。
祇園山の遊狭方はあちこちの豪族に救援の使いを出していたが、各地の豪族も思うように動けなかった。
近江の京国氏、六斯氏の2大名からは「兵糧を送る」という返事だけで米の一粒だに送られてこない。
大和の橋尾氏、阿知氏、古内氏、筒依氏などの諸豪は、一揆の勢力域と隣接しているため、相互に使者を送っても途中で農民たちに捕えられてしまう事が多い。
あるいは一揆勢の実力をはかりかねて二の足を踏んでいる段階なのかもしれない。
それはいいのだが、反対の西側、つまり和泉・紀州方面におくった使者も帰ってこない事が多いのである。こちらは一揆の勢力圏には含まれていないはずである。
「あるいは和泉でも一揆に呼応する農民がいるのでは」
という声が城内でささやかれ始める。
「やはり田を焼き払ったのがいけなかったのかもしれん」
という声もあった。あの一件で、射上盆地はおろか周辺の非一揆圏の農民たちも遊狭への印象を悪くしたであろう。
この段にいたりようやく「ここはひとまず祇園山を捨て、和泉方面に退去し、そこで野洲の援軍を待つ」という論が遊狭の家中で出始めた。
しかし和泉国は管領京兆院家の所領が多い。そして三吉長真はたえず「和泉阪井を直轄地にせよ」と京兆院晴氏に進言し、年々阪井商人への影響力を強めているという。
そして一番重要なのは、
(管領家は遊狭を救う気がまったくない)
という事だった。
「この祇園山を捨てて――」
と高教は怒気を込めて立ちあがる。手には剛刀が輝いている。
「いずくにか我らの立つ場所やあらん。ひとたび農民どもに奪われたらこの城を取り返すことは永久にできぬであろう。ただ死守一念あるのみ。異論ある者は前に出よ!」
その剛刀で大広間の柱のひとつを両断してしまった。
家臣一同沈黙した。
●鼓舞
永応3年9月5日におこなわれた第3次祇園山城の戦いは、遊狭方の籠城という意外な出だしで始まった。
また先のように麓に布陣して白兵戦をしかけてくると思っていた一揆勢は肩透かしをくった。
ただ祇園山のふもとの田にワラワラ雲集しながら、なすことなく城を見上げている。
「弱ったな」
田名布の六蔵は首をふった。
「平地での戦いにそなえてこちらも万全の準備をしてきたものを、ああ籠城されては」
かといって力攻めに攻めれば第1次の時のように甚大な被害が出るであろう。農民代表たちも「獣道をさがして搦手から攻める」とか「山向こうにも軍勢を展開して」などと荒唐無稽なことをいう。
山向こうまで行くには南から大きく迂回するか、あるいは山越えという手段がある。
前者は時間がかかるし、途中で他の大名を刺激する恐れがある。
後者は超人的な脚力が必要だった。辿りついたとしても、もはや戦うだけの気力を失い、そこを襲われたら終わりである。
六蔵も多少は古今の兵書に目を通したことはあるが、具体的な攻城戦についてはどこにも書かれておらず、そこは素人と変わらなかった。
さて、どうしたものか。と思案しているそこへ、
「おお、騎士様じゃ――」
という声がして、六蔵はそちらへ顔をむけた。
一揆勢からやや離れたところの街道上に、ひらひらと白いマントをそよがせた馬上の人があった。
騎士はまるで「われここにあり」と衆を鼓舞するかのように、馬をとめ、一揆勢の目に全身をさらしていた。
一揆勢はやんやの喝采でそれに応える。
(そうじゃ――)
六蔵の中ではじけるものがあった。気がついた時には駆け出していた。
それに気づいて子の総四郎も後につづく。
「神條様!」
騎士の馬前にいたるや、六蔵は地にガバッと両手をついた。背後でも総四郎がおなじく拝跪している。
「―――!」
六蔵の顔を見たとき、騎士は――小竹は稲妻に撃たれたかのように目を見開いた。しかもかすかに震えている。なぜかは知らない。
そんな彼女の驚愕をよそに、六蔵は言葉をつづける。
「お願いでございます。どうかしばし我らの陣営に加わり、愚かなる我らにお知恵を授けてくださいませ。我らにはどうしてもあの城を落とす手立てが見つかりませぬ」
六蔵は地に額をおしつけて懇願した。ならって総四郎も「お頼うもうします」と深く叩頭する。
「………」
小竹はかつて六蔵を救出した事はあるが、顔まではっきりは見なかった。しかし眼前にいる六蔵の顔をつくづく見ていると、なにやら死んだ父(典厩政長)に似ている事に気づいたのである。声質まで似ている気がする。
じっと地にはいつくばった父子を前にするうち、小竹もしだいに亡父に平伏されているような気分になって「わかりました」といった。
「いまだアヤメ(摂理)知らぬ若輩の知恵にすぎませぬが、それでよろしければ」
●軍議
といっても小竹は攻城戦の経験などない。ごく簡単に描かれた城の絵図面を前にしても、何の案も出てこない。鉄の塊を前にして、木槌で「これを砕け」と言われているようなものだった。
(こんな時、あの人なら……)
ふと、神宮寺村にいる"あの人"の事を思った。アグラをくんで、口にくわえた笹葉でシーハーしながら「わらわなら、ここをこうして」と虹のように持論を展開するだろう。
しかし小竹は首をふってその妄想を打ち消した。
スッと絵図面のある一点を指さす。
「祇園山の西には、和泉へむかう道がのびています」
まわりにいる農民代表たちも固唾をのんで聞いている。
「我らはただ東側より激しく攻め立てるだけで十分です。戦意をくじかれた遊狭方はかならず西へ逃げます」
「そこを襲うのでござるか」と六蔵。しかし小竹は首をふった。
「いえ、城兵たちはそのまま逃がしてください。我らの目的はなにも敵を殲滅することではありません。祇園山を奪うことです」
簡単なことだが、農民たちははじめて気づいたように「ああ」と声をあげていた。城攻めなど血みどろの肉弾戦をへなければ成しえないという先入観があった。
第1次戦の苦い経験をへた総四郎がいう。
「ならばどう攻めたらいいのでしょう。以前ひどい目にあってございます」
「後方の南山城から戸板と鉄鍋、丸太、そして土嚢をできるだけ多く集めてください。足りなければ付近の農家に頼んで借りましょう」
その戸板、鉄鍋、土嚢をもった者たちを前衛に立たせて、頭上からの矢や投石に備えるという。
そして強肩な者をえらんで投石兵とし、前衛の背後にいて城内に石の雨をふらせる。
投石隊の背後には弓手をおき、石よりさらに遠くへと射かける。
その進み方は「一寸、地を得るがごとく」と小竹は表現する。
やがて城内から兵が殺到してくるだろうが、土嚢をおいて防塁をつくり相手の前進をはばむ。そこへさらに石や矢を打ちこむ。
それでも前進してくる敵があらば、竹槍で槍ぶすまをつくって串刺しにする。
鉄獅子は丸太をぶつけて転倒させ、岩や斧で破壊する。
「それゆえ城攻めの先鋒は1万人で十分です。それ以上の人数になると狭い谷道で渋滞をきたすのみ。残りの者は、合図があるまで麓で待機しておいてください」
みな感嘆して声もなく聞いている。
それにしても――と小竹は思う。
なぜこうもスラスラと言葉が出てきたのだろうか。
あるいは神宮寺村の生活の中で、カナコの所作や思考などに接しているうちに、知らず知らず軍略めいたものが身についてきたのだろうか。
「………?」
小竹は、農民代表の中で、ひとりジーーーッと強烈すぎる視線を送ってくる大男に気づいた。
緑と黒のまだらの布を頭に捲いている。
神宮寺村の馬崎権十郎である。彼は首をひねりながら「どっかで……どっかで……」とぶつぶつ呟いている。
覆面をしているとはいえ小竹の正体に気づかない権十郎もかなり鈍い部類に入る。
小竹の脳裏に、カナコにのされて気を失っている権十郎の姿が浮かんだ。一種偉大な「教材」である。
(そうそう、権十殿にも感謝しないとね)
●決戦
戦いは翌朝の9月6日に行われ、その日のうちに終わった。
石と矢による多段攻撃はみごとに奏功し、じょじょに城兵の抵抗力を奪っていった。
突出してくる城兵には槍ぶすまを作って応戦し、鉄獅子には2頭の馬にひかせた丸太をブチ当てて対応する。
転倒した鉄獅子に、斧やクワ、岩をもった農民たちが殺到して、ボカボカと殴りつけて破壊してしまう。
しかしさすが強悍で知られた遊狭兵だけあって、押し返してはさっと退くという運動をくりかえし、これにより一揆先鋒にも3百人もの被害を出し、戦いは夜になっても続いた。
しかし手ごたえを感じていた小竹は、なおも声をからして「行け! 退くな! 行け!」と督励する。彼女の背後からは10数万の農民らが鯨波の声をあげて迫ってくる。彼らは手に手にタイマツをもち、おびただしい光の洪水となって山麓で渦をまいている。いかな歴戦で知られた城兵たちもこの光景には恐怖した。
「逃げよ!」
と命じたのは、他でもない遊狭高教であった。恐怖にかられた城兵らは我先に西へ、西へと逃亡した。暗闇の中、足をすべらせて谷底へ落ちる者が続出した。
逃亡する前に城兵らが放ったものか、祇園山城の美々しい楼閣群が炎をまいて燃えあがる。標高1千メートルにあるその巨大な篝火は、燈台のように射上盆地すべてを照らし出した。
「燃えておる……燃えておるぞ!」
その炎に照らされながら、農民たちは歓呼の声をあげ、タイマツを振りあげる。
しかし彼らは見た。
燃えあがる炎を背に、こちらへしずしずと駒を歩ませてくる一人の武将を。
その人物を見て、六蔵が震えながら歩み寄っていく。
「遊狭の殿様……」
しかし武将は黙ったまま、じっと六蔵を見下ろしていた。
竹槍をかまえた農民たちがザッと武将を取り囲む。
六蔵があわてて叫ぶ。
「待て、手出しはならぬ。みな退け! 退け!」
と彼らを制してから、六蔵はその将の前で平伏した。
遊狭高教は鷹揚に声をかける。
「田名布の六蔵か」
「はっ。殿様、どうかこのままお立ち退きくださいませ。我らは殺戮が目的ではありません。そして今回の騒動、ただ不幸ななりゆきにてこうなったにすぎません」
「………」
「このきっかけとなった開墾地での殺人事件、そして遊狭様から遣わされ、これも無残に殺されたお侍たち。どう考えても、不自然な点がたくさんございます。我らを仲違いさせんとする心悪しかる者のしわざとしか考えられませぬ」
「それはワシも考えた。しかしそれだけではない気がする。それ以上の、もっと大きな時代のうねり……ワシもよくわからんがな」
高教は虚脱したような笑みをもらすと、ゆっくり槍を構えた。その穂先に六蔵の顔がある。しかし六蔵は殺されてもいいという風に、まっすぐ高教を見上げていた。
その槍の穂先に、カッと矢が突き立った。矢の飛んできた方向に目をやると、馬上、短弓を構えた小竹の姿があった。
高教は槍先から矢を引き抜いて、小竹に向きなおった。
「そなたか、波岡谷の騎士というのは」
小竹は目を伏せ、しずかに言う。
「遊狭様、戦いは終わりました。城兵もぶじ逃げ終わりましてございます。あなた様もこのままお退きとりあそばせ」
しかし高教は応えず、頭上で槍を旋回させている。そして言った。
「そういえば六蔵は政長殿に似ておるな」
「………!」
「やはり小竹ノ君か」
「あっ!」と気づいた時、小竹は馬から撥ね飛ばされ、地面に振り落とされていた。あまりに速く、重い一撃に、受け身すら取ることができなかった。
高教の個人的戦闘力は三吉長真に匹敵するともいわれる。
その頭上に高教の影がせまる。
「典厩の小竹よ、わが死出の道連れとなるか」
ブウンと重い音を発しつつ槍がおろされる。小竹は死を覚悟した。
しかしその槍は
バァアアアァアァァン
と耳触りな金属音とともに弾き飛ばされ、宙で回転したあと、ドスと田に突き立った。
●武士
「………」
沈黙があたりを覆っている。小竹は何をどうしたのか。農民たちはただ茫然と事のなりゆきを見守っている。
しかし小竹は何もしていない。何もせぬまま剛槍は宙へと弾き飛ばされたのである。
「どこぞに邪魔がいるようだな」と高教が目を据えたままいう。
小竹はキョロキョロあたりを見回していたが、ある草藪に目をとめると、そこにむかって歩いていった。
そこには人がすっぽり隠れるほど背の高いカヤが茂っている。
小竹は長巻を八双にかまえると、カヤをザッと斜め上から斬り下ろした。
カヤの向こうに、人が立っていた。口には笹をくわえている。
顔はすっぽり網代笠で隠れていた。
小竹はすべてを悟った。
この人が誰で、なぜここにいるのかも。
カナコが疲れたように離れの土間でへばっていた理由も。
ちょっと笠をあげて、その人は場が悪そうにニカッと笑う。
「や、やあ、小竹殿」
「助太刀無用――!!!」
叩きつけるような、裂帛の咆哮。
小竹は、ガッ、ガッ、ガッと長巻の石突で3度地をついた。
「あの、しかしながら」
「助太刀無用――!!!」
見れば小竹は震えていた。カナコが茂助の馬を連れてきた時、屋敷の坂道で見せたあの時の瞳のままに。
ガッ、ガッ、ガッとさらに石突で地をつく。何度も突く。
今にも涙が溢れんばかりの、強烈で、美しい瞳のまま。しかし涙を強い自制で抑えているかのように。
「………」
カナコは笠で顔を隠した。そして小竹に背をむけながら、寂しげに言った。
「小竹殿。戦とは……一人でするものではない。ちょっとぐらい、頼ってくれてもよいのだ」
「わかっております。でもあなたに頼ったら全部うまく行ってしまうような気がして。なんでも思い通りになるような気がして。それが、それがイヤなのです!」
「………」
カナコは何も言わず、身をかがめるように闇の中に消えていった。それを見送りながら、小竹の両目からは滂沱の涙があふれていた。
(ごめんなさい、カナコ殿)
そんな小竹の様子を見つめていた高教が、ふいに笑い声を発した。
「あっはっは、これはいい。典厩の小竹、そして朝隈の真鉄とは。縁とは奇なるものだな」
「え、朝隈?」
「小竹ノ君よ、そなたもまた重き宿命を負って生まれてきた身の上。これからさらにつらく厳しい運命が待ちうけているであろう」
高教は燃えあがる祇園山城に顔をむけた。
「あの城はわが人生のすべてを捧げた最高傑作。燃えている。もはや悔いはない」
そういうや、高教は剣でみずからの胸を刺し貫いた。鮮血が吹き出す。そのまま馬上かを滑り、背中から地に落ちた。
小竹はすぐさま高教を抱え起こした。
「なんという、なんという事を、遊狭様!」
「小竹よ。典厩政長殿はまことの武士であった。成り上がりのワシにも隔てなく目をかけてくださった。わが命でそなたの重き運命を少しでも軽くすることができるならば、いくらでも呉れてやるわ」
といってから、小竹の頬に大きな手をかざし、
「ふっ……美しい瞳よ……祇園山の絢爛も及ばぬわ」
そのまま高教は事切れてしまった。
六蔵はガクリと地に膝をついた。
「やはりこの御方を敵として憎んだのは誤りだった。まことの侍でおわした。誰が……誰が……」
静謐のごとき悲しみがあたりを包む。
永応斬鉄録かなこ11
●酒宴
田名布郷の北郊、木栖川沿いにある慈源院の本堂内は、農民の若衆でごったがえしていた。
於勝が2つの大岩をもらった例の寺院である。
境内のまんなかで焚火が燃えあがり、それを囲んで若者たちが酒をくみかわしながらワイワイ笑いあっている。
馬崎権十郎も彼らに酒をついだり、つがれたりの応酬で全身真っ赤になっていた。
彼らの一人が声を張りあげる。
「まさかああもあっけなく落ちるとは!」
祇園山城のことである。
「かの神條一雲の神謀、まさに大楠公(200年前の英雄)のごとしだな」
「いやいやこれもすべて日ごろの団結のたまもの。いかな神條様の知謀ありといえども、みなの団結なくしては生きぬものぞ」
「というより、我らいささか遊狭の勇猛を買いかぶっていたのかもしれん」
それを、若衆の代表格である田名布総四郎は黙って聞いている。
彼は遊狭高教のみごとな最期を父六蔵から聞かされていた。「戦わでの人と戦いたり」と六蔵は涙ながらに言う。
それゆえ遊狭を悪しざまにいう意見にはただ笑って受け流している。
そのとき、本堂の濡れ縁で酒をあおっていた、ややガラの悪そうな男が、嘲笑をまじえた声をあげた。ひどいガラガラ声だった。
「げにも情けない。遊狭高教めは武士の風上にもおけぬやつ。犬コロでさえ気概はあるものぞ」
この男、一揆衆に参加している流れの足軽(傭兵)である。土佐安の仁右衛門という。近ごろこういう人間が多く一揆衆に入りこみ、戦の経験者であることを鼻にかけて威張り散らしている。
「かの龍衝寺城を見よ。かの者たちはわずか8百の城兵で、15万の大軍を迎え討ち、しかも1月にわたって支えきった。しかるに遊狭は8千の兵を持ちながら、たった1日の戦いで敗亡した」
だから情けないという。
というよりわずか1日で戦いが終わってしまったので、傭兵たちの稼ぎ口がなくなってしまった不満もあるのだろう。
「いいえ1日ではございません」
と、その土佐安に酒をつぎながら、総四郎はいった。
「その前に我ら2度の大敗を喫しております。こちらは10万以上の人数であるにもかかわらずです。ところであなた様は龍衝寺城と何か関わりのある御方で?」
「関わりというか……城攻めに加わったことがある。あの龍衝寺城の城兵こそ扶桑一の勇士。俺はあれほど強い男たちを見たことがない」
城将は三渕宮内少輔晴武という人物で、京兆院晴氏にとっては親族にあたる。幕府における名門の一人であるが、径行直情な性格で知られ、奉公衆として幕府軍の一翼を担っていた。
その副将は磐鳴全海という足軽あがりの人物で、実質的な指揮はこの全海がとっていた。ちなみに全海は三吉長真の叔父にあたる。
その全海の指揮と、城兵の鬼神のごとき働きで、敵兵を一歩も城に近づけなかったという。
「その城が、なぜ落ちたのでしょう」と総四郎。
「それがふしぎよ。話によるとな」と土佐安はやや声をひそめて、
「たった一人の老人によって、その城は落ちたそうじゃ」
「一人の老人……」
「よくは知らんが、西国方の大軍がその城へ突入した時、そこには斬り殺された8百人の城兵と、その老人が立っていたそうじゃ」
「そんな強い人がこの世に」
しかし戦場にはそういう伝説じみた話がたえずつきまとう。その話もそういう伝説の類かもしれんがと土佐安はいう。
城兵1人1人が鬼神なのに、それを8百人も相手にする老人は「神」でしかない。にわかには信じがたい話だった。
「まあ今の三吉長真の栄華は、その全海殿の犠牲の上に立っているようなもの。いかに彼らの活躍が絶大であったかが知れようものだ」
●東国
酒盛りをつづける若者たち。そこへ平服姿の田名布六蔵があらわれ、一同話すのをやめて六蔵に平伏した。
「いやそのままそのまま」
と六蔵はかるく手でおさえてから、
「1月後、宇陀平乗院において庄屋衆の会合が開かれることになった。総四郎」
「はい」
「おぬしも出席するといい。そして宇陀は権十郎殿の近在であったな」
「は……? はっ!」
まさか自分の名が呼ばれるとは思わなかったので、権十郎は這いつくばったまま泡を食ったように飛んできた。
「権十郎殿は伏美一帯の若衆組を管掌していただくことになる。あなたも会合にお出でいただきたい」
「お、俺なんぞでよろしいので」
「むろんじゃ。権十郎殿のこれまでの活躍、それにすら見合わぬほどじゃ。それに総四郎にとっては無二の友。これからも総四郎と相携えて事にあたってくだされよ」
「は、ははーっ!!!」
権十郎は地に頭をこすりつけて歓喜の涙を流す。
と、そのとき六蔵の背後に2人の娘がいることに総四郎は気づいた。
1人は宇陀でも評判の美女と知られた「お紺」という娘。
そして1人は頭にすっぽり頬かむりをし、タスキがけをした女性だった。
2人は盆にどっさりのせた麦の握り飯を、甲斐甲斐しく若衆にくばりはじめる。
(………?)
総四郎は、頬かむりの女性の顔を見てぼんやりしていた。褐色の肌をしており、目がらんらんと輝いている。
(ひょっとして一雲様?)
褐色の肌をもつのは東国人の証である。というより柳営将軍の始祖尊義ももとは東国人だったが、200年ちかい京暮らしで子孫はだんだんと肌からその色素を減じていった。
そして近年、傭兵として東国から流れてくる者も多く、褐色の肌はめずらしいものではなくなっている。
ぼんやりする総四郎を見て、六蔵が声をかける。
「どうした総四郎」
「いや、あのお方……」
「東国のお人じゃ」
それだけ言って立ち去ろうとする。総四郎があわてて呼び止める。
「ま、待ってください。あの方は新條様ではありませぬか。今回最大の功労者ともいうべき御方。なぜあのような事を」
「ご本人がそうしたいと申されるからじゃ。それ以上の理由はない」
その六蔵の声色に、総四郎はなにやら引っかかるものがあった。
「ひょっとしてお父は、あの方の正体を知っているのでは」
「お前がそれを知ったところでどうにもならん。それともお主はあの方に惚れておるのか」
冗談でいったつもりだが、総四郎は「そんな事はありません」と否定しながら、明らかにうろたえの色があった。六蔵は瞠目する。
「忘れよ」
そう言い捨てて、六蔵は去っていった。その後をお紺と小竹(らしき女性)も続く。
そこへフラフラと酔眼をひっさげて権十郎が歩いてきた。
総四郎の肩にみずからの肘をのせて、
「おー? あれはおタケさんじゃねぇか、なんでこんな所」
「ご、権さんはあの人のことを知ってるのか!?」
「おーおー、ありゃあ少将屋敷ンとこのおタケさんよ。下働きとして一揆に協力してたのか。いや殊勝殊勝。カナコのやつに爪の垢でも……」
「教えてくれ、どうかあの人のことを、詳しく!」
●宇陀会議
永応3年10月19日、宇陀平乗院における農民代表会議。
そこでは以下の掟が定められた。
領内からすべての武家領主を追い出すべきこと。
荒蕪地の再開墾を最優先すべきこと。
通行のさまたげとなる関所は全廃すべきこと。
武家に奪われた寺社・公家の荘園はもとの所有者に返還すべきこと。
ほか入会地や水利に関する条項もあった。
集まった代表たちは一味神水してその掟に違背なきことを誓った。
農民たちは自覚していなかったかもしれないが、これは支配者を追放してみずから政権を樹立した、扶桑最初の庶民による「革命」だった。というよりこれ以後、民衆は権力者によって強固に支配されたため市民革命は1例も存在しない。
ある公家もこの事件を「古今未曾有」と衝撃とともに日記に書き残している。
しかし管領・京兆院晴氏はこの事態を静観していた。兵の1人も動かしていない。
管領家が裏で一揆を支援していたことは、一揆方の幹部クラスなら誰でも知っている。それゆえ互いに刺激しないかぎり敵対関係になることはなかった。
そして南山城・河内には管領家の所領はなく、ここが分離独立したところで何にも腹は痛まない。むしろ野洲家の所領が多かったため、一揆の存続は野洲義国の勢力を削ぐことにつながる。
さらに4条目の「公家・寺社領の所有者への返還」は朝廷内で好印象をもって迎えられ、ひそかに答礼の勅使が一揆方に派遣されたという噂もある。ということは一揆勢は「賊軍」ではなくなったことになる。
遊狭救援のため兵を進めようとしていた野洲義国も、この報に接して挙兵を見合わせ、陰々とぶきみな沈黙を続けていた。
●犬ビエ
そのころカナコはヒエを採っていた。
神宮寺村の西側にえんえんと広がる褐色の大荒野。そこにはカヤやススキなど雑草が生えまくっているが、馬の飼料になるマグサや、野生のイヌビエの群生もある。
そのヒエの穂を刈り取り、どっさり肩にかつぎながら少将屋敷にもどってくるカナコ。
ヒエは貧乏人の食べ物というイメージを古来から持たれてきたが、実は栄養価が高く、白米にまぜて食うと節約になるという事をカナコは知っている。
そのヒエ飯に摺ったヤマイモをかけ、刻んだネギを散らした「ネギとろろ汁」がカナコの大の好物だった。おかず抜きで5杯も6杯もいける。
少将屋敷の森が近づいてきたところで、街道の南からワイワイしゃべくりあいながら、2人の人間がやってくるのが見える。
於勝、そして宮口村の茂助である。2人は懐に抱えきれないぐらいの餅を持っている。
「おーい」於勝が手をあげる。手には丸い餅があった。
「あとで焼くからさ。すぐにカナコさんもおいでよ」
2人は宇陀平乗院で開かれた農民代表会議に見学に行ったのである。そのとき餅を振る舞われたらしい。
於勝はそのまま屋敷への坂をのぼっていった。カナコはヒエを天日干しするため、屋敷下の畑へとむかっていく。茂助もその後につづく。
「ところでカナコ姐さん。あの黒鹿毛はどうしてるかね」
「あっ、おう、元気じゃ。役に立っとる!」
「ヒエなら馬に運ばせたらよかろうに」
「バカな、あのような俊馬にそんなことさせられるかい」
と言ったものの、例の馬は留守だった。小竹が乗っていったままここ3日帰ってこないのである。平乗院で給仕の手伝いでもしているのだろう。
それで話をそらした。
「で、権十には会ったのかね」
「まあね……」
「そもじは一揆出なかったもんだから、さぞイヤミでも言われたんじゃないかね」
「いや権兄はそんな人じゃないよ。この餅だって権兄がもってけもってけと呉れたもんじゃ。あの人は加減を知らぬからな」
と茂助は苦笑している。
(ほーぅ)とカナコは感心した。乱暴なやつだがそういう優しさはあるらしい。だから茂助も幼少のころから権十郎の後にくっついて歩いてるのだろう。
「お、帰ってきた」
畑下の街道を、カッポカッポと蹄の音を響かせて、小袖姿の小竹がやってきた。
チラリとカナコを見上げる。
カナコはニッと白い歯をみせる。
小竹はちょっと頭を下げ、そのまま崖下を横切り、屋敷への坂道をのぼっていった。
なんてことのないやり取りだったが、茂助は妙な感じに気づいてる。小竹がなんとなくよそよそしい。
「あんたら、なんかあったのかい」
「なんで。なんもないわ」
地に広げた茣蓙に犬ビエの束をひろげながらカナコは応える。
「ならいいけどな」
丸太に腰をかけて、茂助はぼんやり空を見上げていた。彼もこのところ権十郎とみょうな距離を感じているらしい。
なにやら権十郎が偉くなって、遠いところへ行ってしまったような……。
そんな茂助にカナコが声をかける。
「茂助ぇ、晩は一緒にモチ食ってけや」
●勅使
その数日後、神宮寺屋敷の庭先に、白い装束に鳥烏帽子をかぶった、いかにも神社の神人らしき男が立っていた。
男は「権中納言様からの使いでござる」といい、少将経臣に手紙だけを残して去った。
カナコが手紙の内容を問うと、経臣は
「10日後に御勅使が来るので支度しとけってさ」
と事もなげにいう。於勝は咳き込んだ。
「ご勅使っ…って、あの天子様のお使いかい」
「そうだよ」
「なななんでこの屋敷に」
「なんでも所領のことで話があるそうな。なんじゃろな、また削られるんかい」
そういって桐の箪笥にその手紙をしまい、その話はそれきりだった。
どうも少将経臣という人は権威とか身分とかになりふり構わない所がある。天子の使者だと聞いても「あ、そ」だけで済んでしまうし、カナコとか権十郎とかの"下々"の者ともふつうに談笑している。
かといって「左近衛少将」という肩書を重苦しく思っているフシもない。あるとき知り合いの公家から
「近ごろ公家の間では関所を持つのが流行っているので、そなたもマネしたらよろし」
と言われて、ちょっとその気になったが、カナコに「天下の往来に柵をたてるなんぞ後生の触りじゃ」とニベもなく反対されたので、それきりになっている。
「まあカナコ殿の言ったとおりにしてよかったよ」と経臣はいう。
今回の平乗院における一揆の条文の中に「関所撤廃」の1条があり、さっそくそれが実施されている。
農民たちの手によって各地の関所は破壊され、関所の番をしていた雇い人たちはひどい目にあってるらしい。それこそ後生の触りである。
ともかく御勅使が来るというのでカナコたちは庭を掃き清め、屋敷内の清掃をし、いろいろなご馳走を用意しているうちに、10日がたった。
やがて来た。牛車が1台。それに5名の駕輿丁といわれる車引きの下官。そして見聞役の青侍2騎。
勅使にしては軽い行列だが、駕輿丁たちは京洛市民の中ではちょっとした「権威者」なので、彼らがいるだけである程度の威圧になる。
牛車にのっている正使は青蓮権少納言氏連という人物である。どうも経臣とは知り合いらしい。
「本来ならばその方がじかに内裏へ参内するところ、病の身ゆえ、格別の沙汰をもって当屋敷に勅使が遣わされることになった」
「ははっ、鴻恩、身にあまり……」と衣冠束帯した経臣が頭を下げる。
ひさびさに着こんだ官服がやたらかさばった感がある。
「霞修寺左近衛少将経臣には今度50石のご加増あり。つつしんで拝命せよ」
と形式上の口上をのべ、経臣に書と地券を授ける。その後2人はべちゃくちゃ談笑していた。もっぱら京にいたころの暮しとか、公家仲間の話である。
しかし半刻(1時間)もしないうちに「では次の場所がありますので」と氏連は辞儀をし、カナコからいくばくかの"袖の下"を受け取ったあと、そうそうに屋敷を去ってしまった。「格別の沙汰」とか言いつつ、1人であちこちの荘園をまわっているらしい。
これで霞修寺家の所領が200石になった。
しかし半済という新たなしくみで、収穫の50%は一揆衆にとられてしまう。残りは100石。しかも不作なので実収だいたい70石ぐらいである。
それでも今まで50石前後で細々やってきたので20石の増収になる。
「増えたって使い道ないよ」
と経臣はあまり嬉しそうではない。自分は病の身であるし、趣味といっても本を買うぐらいである。
それで今までどおりの暮らしをしていた。
カナコがいう。
「しかしなんで急に増えたんでござろ」
「一揆と関係があるんじゃないかね。武家に取られてた公家領を返せってやつ。といっても麿のところはそんな武家に取られてた場所はなかったけどね」
「ははぁ」
カナコは思いあたるフシがあった。たぶん権十郎の力によるものに違いない。彼はいまや一揆衆の準幹部クラスである。ひょっとしたらまだ霞修寺家の青侍になる「野望」を捨ていない可能性もある。
あるいは祇園山城で活躍した小竹の存在も大きいのかもしれない。
当の小竹は、台所で勅使に出すはずだったご馳走のあまりものをモサモサ食べている。
●上洛
因幡に拠る野洲義国は、たびたび京洛の管領家から使者を受けていた。
「上洛せよ」
という督促の使者である。そのたび義国は使者を突き返している。
義国は本拠地で軍備をととのえ、あるいは鉄獅子を大量に購入している。むろん南山城の農民政権打倒のためである。そして遊狭高教の弔い合戦という意味もある。
しかし世間の中には「あるいは野洲家は京洛を狙っているのではないか」と疑うむきもあり、それは管領家も同様なのだろう。それゆえ野洲家の思惑をはかりかねて上洛を促しているのに違いない。
しかし永応3年12月2日。
それまで再三にわたる上洛督促を無視していた義国だったが、急に「上洛する」と触れを出し、3万5千という軍勢をもって山陰道を東上した。
これに対して京洛には3千の常備軍しかない。
さらに悪いことに、野洲軍の動きと呼応するように、近江の京国・六斯連合軍1万7千も近江の鳰津まで進出してきているという。つまり京洛は東西から大軍を受けている形になる。
やがて1千にも足らない手勢を引きつれ、甲冑に身をつつんだ三吉長真は、京洛の西方、鬘野方面までむかった。
その鬘野にはすでに野を覆いつくす軍兵が布陣を完了している。このまま号令一下すれば京洛は1日で灰燼と帰するであろう。
やがて法体に鎧を着込んだ禿頭の野洲義国が現れる。じろりと長真に目をやり、ふんと鼻でせせら笑う。
「来い来いとうるさいので来てやったわ。ついでに近江の京国殿、六斯殿も同道でな」
「この京を灰にするおつもりか」
「まさか……ワシはただ宰相殿と面会するだけ。そのために何度も使いを寄越したのであろうが」
「それだけならばこのような軍勢は必要ないはず。兵を退かれよ!」
「これらの軍勢は知ってのとおり、かの遊狭高教を討ちはたした一揆勢の懲罰のための軍。他意はござらぬ。ささ、道をあけられよ」
「どきません」
どすんと槍の石突で地を突いた。義国のところまで地響きするような重い槍である。あれで一撃すれば築地塀も粉々に吹き飛ぶであろう。
槍の名は『聖護院』という。どういう由来かと聞かれると長真はただ「大根」と答えるだけである。聖護院大根のことだろう。
ここで押し問答しても日が暮れると思ったのか、義国も折れた。
「わかった。京洛へは直属の兵2千だけで参ろう。ただしワシに何かあれば、わかっておるな」
この3万5千の兵がまたたくまに京洛へ乱入するであろう。
●花の御所
やがて義国と管領京兆院晴氏は、柳営将軍府において対面した。
京兆院晴氏は、あくまでゆったりした表情でいう。
「変わりないようじゃな、入道」
「お変わりになったといえば宰相殿、いささかおやつれになったようで」
見れば晴氏の顔面はやや土気色だった。目の下にもかすかに隈があるようにも見える。
「まあ色々あってな。南山城の件といい」
ふうっと鼻息をついて、庭の枯山水に目をやる。玉石は陽に照らされて白く輝き、大広間の天井画まで白く染めあげている。
その疲労の様子を、表情のない眼でそっと窺いながら、義国は内心ほくそ笑む。
ほたほたと愛想のいい声で、
「それがし、宰相殿の心労をすこしでも軽くせんと参ったのでございます」
一揆鎮定――
それが今回上洛の目的でありそれ以外ではない。
「いささかも将軍や宰相殿に害意のあるわけではござらん。世人はそこのところを誤解しているようで」
「わかっている。しかし見てのとおり京洛にはわずかの手勢しかおらぬ。しかも三吉長真の兵は、いま讃岐や備前の戦いで足止めを食っている。一揆に兵力をまわす余裕がない」
「そのようで……」
と言ってから、義国はすり、すり、とにじり寄ってきて、そっと囁くように、
「一揆のことは万事この洞賢(義国)にお任せあれ」
「おお、入道がやってくれるか」
「そのかわり、将軍藤氏公をしばしの間お借りしたく」
「藤氏公を……」
「左様。なんでも一揆勢は、内々に帝からのお墨付きを得ているとか。これでは朝廷から追討の綸旨を取りつけることは難しゅうございます。しかもあなたは帝から嫌われている」
「わかっている」
「そのため藤氏公をわれらの旗頭とすれば、一揆勢へのじゅうぶんな牽制となります。四囲の大名たちも協力するでしょう。いかがでしょう」
「……わかった。入道の思うようにせよ」
もはや煩わしいといった具合に、なんでもウンウンと頷いた。もはや万策尽きたという風に。
しかし将軍を義国に渡すということは、管領家を管領家たらしめていた権威を譲渡するという意味である。将軍あらばこそ管領家は各地の大名に号令することができたのである。
しかしその事が判断できぬぐらい晴氏は心身耗弱している。と義国は見た。
(やはり京育ちの貴公子。これが限界か)
義国は内心満足であった。晴氏がこんな器量であれば、ゆくゆく将軍の権威を後ろ盾にその首根っこをおさえつけ、いずれは自分が管領になることができるかもしれない。
やがて義国は去った。
そのあとにはぐったりとうなだれる晴氏の姿。
ゆら、ゆら、と揺れていた右手の扇子が、ぽとりと落ちた。
晴氏の背後には、濡れた布巾を捧げもった三吉長真の姿があった。
長真から布巾を受け取り、それでゴシゴシと顔を拭きはじめる晴氏。
布巾むこうからは、つやの良い、いつもの白面が現われる。
「ふふ、こんな墨と土の化粧ごときでうまうま信じおった。義国のやつめ」
みずからの頬をなでたあと、ピシと叩いた。
「さて、これから忙しくなるな」
●山稜
「おおお」
神宮寺の少将屋敷のある丘の上から、その炎の群れがありありと夕闇の空に浮かびあがる。
伏美の荒野をはさんだはるか蘭山のあたりは、残照を背景に、ずっと南の浪速の方まで黒い山稜が続いている。
その麓から中腹にかけて、おびただしい松明の火で満たされているのが見える。それらが大気の揺らぎでチラチラと細かい明滅を呈している。
野洲軍があの一帯に駐屯しているのである。
一種おそろしげな光景であるが、6歳になったばかりの喜鶴は「きれーきれー」とはしゃいで見ていた。
しかし戦嫌いの於勝などは「縁起でもない、あんなもん見ちゃだめですよ」と喜鶴を屋敷の奥に連れていってしまう。
大広間の濡れ縁に腰かけてこの光景を見ていた経臣殿が、
「また戦がはじまるのかいな」
ボワッと声をもらした。
「もし一揆方が敗れたらどうなるのでおざろ。権十もタダではすむまい」
もし一揆勢が敗れたら、戦後、関係者の詮議が厳しくなるであろう。この屋敷にも兵らが乗りこんでくるかもしれない。
隣で座っていたカナコがいう。
「まあ権十郎なら大丈夫じゃろ。あいつは殺しても死なぬやつゆえ。ただ問題は」
ここの所領のことだという。50石加増の話はパーになるかもしれない。
「そうかい。短い夢じゃったな」
と諦観ぎみにつぶやく経臣殿だが、あまり惜しそうな感じはない。だいたい物欲というものをどこかに置き忘れたような人である。
そのとき、
「あの、ちょっと」
と袖をひかれている事に気づいて、カナコは振り返った。小竹である。
「なにか」
「ちょっとお話が……」と何やら経臣を気づかうように、小竹はカナコを連れ出そうとする。
カナコは立ちあがった。
やがて屋敷裏の、薪を積んである場所まで来た時、小竹はいった。
「遊狭様が最期に言っておられたのですが」
「何と」
「あなたを見て、朝隈の真鉄……とか」
「………」
まさか自分の話だとは思わずに、カナコは目を丸くしていた。
頭をボリボリと掻き、積んである薪の一つを手にとって、それをゆるく振りまわす。
「あなたの名前でしょう、まかねとは」
「なんじゃ、河内殿は覚えておったのか。これは迂闊じゃったな」
カナコは薪を放った。ゴロンと鈍い音が響く。
そのあと崖下の農園を見下ろしたまま、ずっと黙っていた。
たまりかねて小竹がいう。
「あなたは」
「神宮寺村のカナコじゃよ。それ以上でもそれ以下でも……ない」
「おからかいになっては。私とて朝隈という名がなんであるかぐらい――」
小竹の知っているかぎり、朝隈といえば越前の朝隈家しかいない。柳営将軍の親族家である。
いちおう越前守護の武衛家の庇護下にあるが、従5位下の官位を有し「朝隈公方」として武衛家と同等以上の格式を有している。
カナコはその姫君ということになる。
しかしカナコはいう。
「6年前にマカネなる女子は死んだ。おそらく河内殿はその者と勘違いしたのであろう。世には自分と似たものが何人かおるというでな」
そのまま屋敷の土間に入っていこうとする。
土間に入る前、ふと足をとめて、「風呂、先に入ったらどうだね」といった。
近ごろカナコは風呂小屋(当時はサウナ式)というのを東の空地に作ったのである。みずから手足を舞わして手製のサウナ風呂を作ってしまう姫君など聞いたことがない。
永応斬鉄録かなこ12
●曇天
永応3年12月16日、鬘野に駐屯していた野洲軍3万5千が南へと動きはじめた。
話によると14歳の将軍・柳営藤氏が総大将として立てられているともいう。いわゆる「親征軍」に変化したわけである。
もうじきこの京洛にも大雪が降りはじめる。空には墨を溶いたような鉛色の雲がかかっていた。
凍るような風がひょうひょうと吹きわたる伏美の大荒野。
そこで冬越えのためのカヤを刈っていたカナコは、鎌を動かしていた手をとめ、はるか大行軍の様子をボーッと眺めている。
ふと、一揆方に参加している馬崎権十郎のことを思った。
(今度は3万5千、しかも相手は老練の野洲義国じゃ。格が違うわ)
が、考えたところで仕方がない。
一揆勢の兵力は15万もあるのである。以前より各段に強くなっているともいう。そう簡単には敗れまい……とは思う。
(負けたところで、あちこち逃げまわって、何年かしたらひょっこり帰ってくるであろ)
ざっとカヤの束を肩にかつぎあげた。
それから3日もせぬうちに、南の宇陀のほうから白い煙があがるのが見えた。
「宇陀平乗院が攻撃を受けたそうな」
と村人たちは話し合っている。
「寺の鳳凰堂は大丈夫じゃろうか」
「平乗院を守っていた者たちも心配じゃ」
話によると平乗院を守っていた一揆勢は5百人ほど。3万5千という大軍を前にして、「こりゃ多勢に無勢」とさっさと逃げていったらしい。
あの白煙は野洲兵らの炊煙であるとのことだった。
一揆方は由緒ある宇陀平乗院の大伽藍が焼け落ちるのを惜しみ、また京洛近くで交戦状態になるのを避け、宇陀にはわずかな兵しか置いていなかった。田名布六蔵の判断であろう。
「野洲義国はその平乗院を本営にするという話であるげな」
平乗院を拠点にして順次、南山城の各村を制圧していくという段取りであるらしい。
いっぽう一揆勢もすさま各村に使いを派し、頭数をかきあつめた。
かねてから召集の段取りを決めておいただけに、人数の集まりはすばやく、たちまち10万の規模に膨れあがる。
しかし10万人を超えたあたりから頭打ちになった。
「近江や伊賀の農民たちは参加できぬらしい」
近江鳰津に進出している南近江の大名六斯氏はいまだ武装を解いておらず、一揆に参加しようとする領内の農民を見つけ次第捕えているという。どの大名も領内に土一揆が波及するのを極度に恐れていた。フランス革命の波及をおそれ、対仏大同盟を結成したヨーロッパ諸国の動向とおなじである。
また南山城の農民の中にも参加をためらう者も増えている。一揆があるていど成功したのでこれ以上の戦いは無益だと思っているのだろう。もとは被治者であり、非戦闘員である農民にすぎない。
いっぽう宇陀平乗院に駐屯した野洲軍はそれからしばらく動きを見せなかった。
曇天にちらほらと白い粉雪が舞いはじめる。
●激突
それからしばらく小竹ノ君は多忙だった。
一揆勢の本営として定められた不動城と、少将屋敷とを馬で行き来する生活を続けていた。
不動城まで行くには宇陀を通らねばならないが、宇陀は野洲軍で充満しているため、山道を通らねばならない。
それゆえ今までは日帰りできたのが、それも叶わなくなっている。
やがて宇陀の南、多奈倉村あたりに一揆勢3万が進出してきた。
応じて、
「前進させよ」
野洲義国が命をくだすとともに、平乗院に駐屯していた2万の兵が、一揆軍の1里(4キロ)手前まで前進した。
その2万を2手にわけ、東と南に備えさせる。
木栖川をはさんだ南岸に田名布郷がある。
そこを落とせば河内への道が開ける。しかしそこには1万ほどの一揆軍が守っていた。一揆方の総帥田名布六蔵が治める村であるため、その1万が最強の主力といっていい。
しかし義国はかまわず前方の一揆勢にむかって前進を命じた。そして槍を打ちあっての交戦状態となる。
装備におとる一揆勢はおされはじめた。
このとき対岸に控えていた田名布衆1万が渡河をはじめた。しかし義国は、2手にわけていた一方の軍勢を川にむかって進発させ、矢や石などを投げて敵の渡河をはばんだ。
やがて野洲方より山麒麟が出現し、口からドウドウと火の矢を放つにおよんで、田名布衆にもひるみが見えはじめ、渡河をあきらめて後退した。
「退け」
と野洲義国は命じた。優勢でありながら退去を命じたのは、一揆勢の守りが予想以上に堅かったからである。
じりじりと全軍を後退させる。しかし後退する野洲軍に被害はなく、猛攻する一揆軍におびただしい死者を出した。
この段になって一揆方もようやく兵を退かせた。
「なんじゃ幻術のようじゃ」
と野洲の戦いぶりに農民たちは目を白黒させている。先に戦った遊狭高教とは何枚も格が違うらしい。
野洲義国も手ごたえを感じつつ、ふたたび宇陀平乗院にもどった。その間、東方の山間部にある田和良郷を制圧している。
今まで神宮寺から田和良の山道をとおって一揆勢と合流していた小竹だが、その道を断たれてしまった。
それゆえ彼女はむなしく神宮寺村にとどまっている事が多くなった。
こうして長い、あまりにも長かった永応3年が暮れようとしていた。
●被衣
永応4年1月25日。その日は大雪であった。
その間にも神宮寺六軒からほんの数里先で、野洲軍と一揆軍が一進一退の攻防が続いているらしい。しかし噂として話に聞くだけにすぎない。
あくまで神宮寺六軒は平和であった。
さらさら、と音がするほどの降雪の中を、その騎馬の一群が木栖川街道を南進してくる。
その馬影のむれがある森の前でとまった。
「………」
もうもうと人馬の白い吐息が風に流れる。
彼らの先頭にいた、被衣をかぶった女性が顔をあげ、森の上にある屋敷に目をやる。
白い陣羽織の下に、薄紫色の小袖をまとい、男物のような袴をはいている。
目を細めて丘を見つめたあと、背後の騎兵らに、
「源弥、小七、そなたのみ私と共にまいれ。後の者はここにて待機せよ」
と命じ、馬から降りて丘の上につづく道をのぼりはじめる。そのあとを源弥と小七なる武士も続く。
やがて丘の上にいたる。
庭はうすい雪で覆われている。その向こうに大農家のような藁ぶきの屋敷があった。
静かである。
天はどんよりと暗く、地は雪のため明るいという状態であるためか、あたりは舞台セットの中にいるような奇妙な明度感だった。
(ここか……)
被衣の女性が、意外そうにあたりを見回す。
(公家の屋敷と聞いていたが)
ふたたび歩き出そうとした時、ガラリと戸の開く音がした。
彼らの右手にある粗末な小屋から、これまた粗末な格好をした"男"が出てきたのである。ひどいボサボサ髪だった。
寒そうに綿入れのドテラを着こんでいる。
被衣の女性がやや慌てたような、しかしあくまで冷静な声をかける。
「この屋敷の方でございますか」
「どちらさんで」
驚いたことに女性の声だった。しかもよく見れば美人といっていい部類に入る容姿だった。あまりざっかけない姿なので男だと思ったのである。
「あ、私は……」と名乗ろうとした被衣の女性。
相手の顔を見つめているうち、じっと動けなくなった。
するりと被衣が落ちる。
そこには長髪の女性の姿があった。
まわりの白い雪化粧の風景に比して、目に痛いほどの漆黒の長髪をしている。
二重瞼の下に黒い瞳がきらきらとよく光っている。
「………」相手も寒そうに手を袖に入れながら、三白眼でじーっとその女性を見つめていたが、やがてつぶやくように、
「芝波か――」
といった。
芝波という女性の瞳からぽろりと涙が落ちる。
「私は夢を見ているのか……真鉄様」
●再会
「………」
2人の女は、見つめあったまま雪の中で立ちつくしている。
芝波の目からはとめどなく涙があふれている。
カナコは眼をパチパチさせながら、困ったように、
「あの、その、一体」
そのとき母屋の雨戸がカラリと開き、寝巻姿の男が顔を出した。
公家のような風貌で、薄髭がはえ、小柄でひょろりとした体型である。
寒そうに腕をさすりながら、
「カナコ殿、だれとしゃべっているのかね。こんな雪の中」
芝波は涙を拭いながら、すぐその公家風の男に向き直り、雪の中で片膝をついた。
「霞修寺の少将、経臣様でございますね」
「いかにも」
「私は三吉長真配下、磐鳴芝波ともうします。まことに急な事ではございますが、我らとともに管領邸まで御同道いただきます」
「管領邸? なんで」
経臣とカナコはポカンと口をあけた。芝波は続ける。
「それは管領邸についてから追々説明いたします。牛車も用意してあります」
「そうは言われてもね。今日は寒いし。だいたい事情もよくわからんのに」
「ご令息の喜鶴様に関わることでございます。それだけ言えばおわかりでしょう」
「………」
「喜鶴様もぜひお連れください」
「ちょ、ちょっと待て」とカナコが芝波の肩をつかむ。
「いきなり来て、病人連れ出して、ばかりか喜鶴もだと。理由を言え!」
「それは、まかね様といえども申せません。申し訳ありません」
「理由もわからんのにそんな事できるか。管領だか何だか知らんが失礼だろう!」
芝波の胸ぐらをつかむカナコに、経臣は「まあまあ」と軽く手で制し、
「すぐ用意するので、しばし待たれよ」
と奥へ引っ込んでしまった。
カナコは芝波をはなし、腕をくんだまま背を向けてしまう。
芝波も立ちあがり、瞳を潤ませながら言う。
「お元気そうで何よりです。あなた様が生きておられるという噂は聞きました」
「……なんじゃ、そんな噂が立っとるのかい。京人もたいがいな暇人ぞろいじゃな」
カナコはイライラと膝を動かしながら、腕をさすったり、鼻をつまんだりしている。
この騒ぎに、屋敷にいた小竹や於勝も外へ出てきた。
不意の、それもあまりに存在感のありすぎる来訪の美女を、やや遠巻きにして眺めている。
やがて水干に長烏帽子という簡単な礼服をまとって、経臣が外に出てきた。右腕には子の喜鶴を抱えている。
彼らの前にはすでに牛車が据えられていた。
「おもう様、どこ行くの」という喜鶴に「管領邸というトコじゃよ」と経臣は応えている。
「―――!」
カナコは歩み寄って喜鶴の手を握った。
なぜかこのまま2人と一生会えないのではないか――という予感が彼女を感傷的にさせていた。
喜鶴も「カナコ……」と不安そうな目をしている。
経臣はそっと頷きながら、
「カナコ殿。心配おざらぬよ。すぐに帰ってくる。すぐに」
とカナコをなだめつつ、喜鶴とともに牛車に乗りこんでいく。
やがて牛車が坂道をゆっくりとおりていく。それに遅れて歩いていく芝波。
くるりとカナコに振りかえり「なにとぞ見送りだけに留めておいてください」と目礼し、みずからも去った。
「………」
カナコは雪の中、いつまでも立ちつくしていた。
●風雪
囲炉裏の炭がパチンと爆ぜた。
小竹、於勝、カナコは、黙ったまま囲炉裏のあかあかと焼けた炭を見つめている。
「管領邸か……一体なんだって」と於勝がいう。
「あの女性は三吉長真様の配下でしたね。芝波とか。なにやらカナコ殿を知っているような風情でしたが」と小竹。
「………」
カナコは膝を抱え、下唇を突き出したまま、ゆらゆら全身を動かしている。やがて言った。
「ちょっとした、昔の知り合いさ」
「泣いておられましたが」と小竹がいうと、カナコは背をむけてゴロリと横になった。
ただ経臣の知人の招きで出かけるならカナコもこんなにイライラはしない。しかし経臣は病人である。しかも喜鶴まで連れ出すとなれば、相手が知人だろうとカナコは断固として阻止するだろう。
しかし今度の招待者はキナ臭い噂のただよう管領京兆院晴氏。しかも三吉長真の従妹であり長真の懐刀である磐鳴芝波である。それも拉し去るように経臣父子を連れ去った。
「糞!」
ドスンと拳で板床を打った。
「何を考えていやる慶之進!」
ふたたびドスンと床板を打つ。
「………?」
於勝と小竹は顔を見合わせるしかない。
ムクリとカナコが身を起こした。目が尋常でないほど焦燥に満ちている。
「ど、どうしたんだいカナコさん」と於勝。
「追う」
「え?」
「2人を追う!」
「追うったってもう」おそらく騎馬の一群は京洛のはずれまで差し掛かってるだろう。
が、カナコはすでに雪のふる庭へ飛び出し、離れに飛びこんでいた。
網代笠をかぶり、蓑をまとい、肩に竿をかついだカナコが出てくる。歩いているが風のような速さで坂道をおりていく。
「私たちも」と小竹と於勝も出かける準備をした。
……………
歩く。
歩く。
とにかく歩いた。
ようやく伏美あたりでカナコに追いついた小竹と於勝もほとんど息があがっている。
空は暗いぐらいの曇天。見渡すかぎりの雪原。風は乱れたち、渦をまくように雪が降りてくる。
そこをひたすら歩く。
やがて京洛の街並みが眼前にあらわれ、それが大きくなり、視界を覆いはじめる。
木栖川街道は瓦町通りと名をかえ、沿道は町屋で埋めつくされる。
以前行ったことのある霊然寺の東ヶ峰を右手に見ながら、えんえん瓦町通りを北上する。先の大戦で焼かれたまま再建されていない寺院、神社、貴人の邸宅などの脇を通りすぎつつ。
管領邸は京洛の北(上京地区)、いわゆる官舎街にある。そこだけきれいに舗装された道。ずうっと白っぽい築地塀がつづく。
いた。
騎馬の一群がいままさに管領邸の正門をくぐろうとしている。
「喜鶴――!!!」
カナコは駆け出していた。
あわてて、正門の両脇に控えていた守衛の侍たちが「ろ、狼藉者じゃ!」と立ち上がる。
「どけぇ!!!」
群がってくる守衛たちをつかんでは投げ、つかんでは投げしながら、経臣と喜鶴を乗せた牛車に突き進んでいくカナコ。
流れで、小竹と於勝も加勢せざるを得ない。
この騒ぎを聞きつけ、馬上の芝波があわてて駆けつけてくる。
「まかね様! まさかここまで追ってこられたのですか」
カナコは背後からつかみかかってきた武士の襟首を後ろ手につかむや「ぬおおおお!!!」と咆哮とともに投げ飛ばしていた。まるで野獣であった。
「お待ちなさい! 皆の者! 退がりなさい! まかね様!」
芝波は馬から降り、カナコをおさえようとしたが。
バァァン!!!
と強烈な平手をくらって、やや右斜にのけぞった。カナコは叫ぶ。
「少将殿を連れて帰るんじゃ! 喜鶴はどこにもやらんぞ! 喜鶴――!!!」
●慶之進
あまりのカナコの狂乱ぶりに、今まで加勢していた小竹や於勝も、一転して抑える側にまわらざるを得ない。
そこへ――
管領邸の奥から、狩衣に鳥烏帽子をかぶった、総身これ鋼といった壮漢が、しずしずと音もなく現れた。
男のまわりだけ漆黒の真空に包まれているような静寂の気。
猛禽のような眼光をギラリとカナコに据える。
於勝に羽交い締めにされたカナコも、狂獣のような眼を男にむける。
しばらくカナコを見つめたあと、男が口をひらく。
「ほんとうに、まかね殿なのか」
「慶之進」
「何をしに参られた」
「知れたこと、少将殿と喜鶴を連れ戻す」
「何のために」
「何のため? そなたらこそ何で2人を連れ去った!」
「連れ去るなど……ただ丁重にお迎えしただけ。ご案じめさるな。少将殿と喜鶴様の安全はこの長真が命にかえて保障いたす」
「喜鶴"様"じゃと」
カナコはじっと考えるように眼を伏せた。その眼をあげて言う。
「やはり何やらキナ臭いわ。喜鶴は連れて帰る」
「それはなりません!」
「ならば力づくでも奪って帰るわ」
「ならばあなた様を……ここで成敗しなければなりません」
長真は腰の大刀をゆっくり引き抜き、カナコにむけて構えた。
●衝撃
右足をひいて半身にかまえ、左手で大ぶりな剣を突き出した長真。
あくまで表情を消した顔でいう。
「まさかこのような再会になるとは……残念です」
「………」
「朝隈の真鉄はずっと昔に死んだ。ならばここにいるのは管領邸に乱入した狼藉者にすぎず。斬り捨てられても文句はいえぬはず」
「全海殿を殺し、休之助を殺し、そしてわらわをもその手にかけるか。どれほど血塗れた道、唾棄すべき道よ。ヘドが出る」
「拙者は以前の慶之進ではない! 三吉大膳大夫長真。いかに唾棄されようが、果たさねばならぬ事、守らねばならぬものが数多くある。喜鶴様をお迎えする事もそのひとつ。その大義の前ではあなたの我儘など塵芥にひとしい」
長真は手にした長剣でゆるく大きな円を描く。
その剣尖がピタリと頭上で止まった。
「―――!!!」
カナコはとっさに、小竹と於勝を両脇へ突き飛ばした。
直後、暴風のような衝撃がカナコの周囲を突き抜けた。
かぶっていた網代笠が粉々に吹き飛ぶ。
背後にあった正門の屋根瓦すべてがわずかに浮き、落ちてグワンとすさまじい音を立てた。
カナコのこめかみからアゴにかけて鮮血が滴っている。
「腕をあげられたな真鉄殿。これだけで並みの者なら五体をズタズタにされている」
長真はなおも剣尖で弧を描いている。
カナコも竿から黒い刀身を引き抜いた。
蟠龍墨水の太刀――
長真はちょっと眼を止めた。
「ほう、佩剣を変えられたか。黒い刀身……まるで下野天妙のごとき地肌。見たこともない剣だ」
「言え、喜鶴はいったい何者なのじゃ。なぜそれほど管領が欲する」
「喜鶴様の血筋にござる」
「血筋」
「喜鶴様の母上の血筋をたどっていくと、真鉄殿。あなたの先祖である柳営嗣久公の姉君である量樹院様に行きつくのです。すなわちあなたにとって遠いご親戚でもあるのです。これでおわかりでござろう」
●桜川
しずかに雪は降りつづいている。鉛色の空は瀟殺として暗い。
「わからん……そなたら、一体……」
いやカナコはすべてを悟った。自分も似たような境遇に生まれた。誰よりも喜鶴の立場を理解できた。
が、これまで勢力争いにやぶれた将軍の末路はどんなであったか。これまで無数の傀儡将軍が立てられ、そのまま闇に葬られた人間のどれほど多きか。
あるいは自分もそうなりかけた一人なのかもしれない。
どっとカナコの両眼から滝のように涙がほとばしる。
「喜鶴は……わらわどっ、とぼに!」
「………?」
「わらわど、一緒に、神宮寺六軒に、帰るんじゃああああぁぁ――!!!」
彼女は業炎を捲くような勢いで長真に飛びかかっていた。
「やむを得ぬ」
長真も前進した。
両者は真っ向からぶつかり、サッと飛び下がった。
刹那、幾十幾百という剣波があたりに流れる。
飛び散った剣波は、瓦を飛ばし、玉砂利をえぐり、築地塀に裂傷をつくり、松の枝を薙ぎさらっていく。
見ていた武士たちは悲鳴をあげて逃げ散った。
「なるほど、強い。いや強くなったというべきか。以前とは別人……しかし」
長真は剣を構えなおす。
「激情にかられた剣ではこの長真を倒すことはできません」
ふっと剣を突き出す。
一瞬、長真の剣が2つにも3つにも見えた。
剣の一つを弾き返した、と思った時にはすでに別の剣が目の前にある。
それが5つ、6つと増えていき、やがて無限になって、消えた。
それらを剣で凌いでいたカナコだが、しのぎ切れなかった衝撃が、
ドウッ、ドウッ
と全身を突き抜けていく。そのたびカナコの体が前傾になったり、のけぞったりする。
やがて受け身もとれなくなった所を、流星雨のような突きが殺到し、彼女はひとつあまさず喰らってしまった。
「ガアアアアアアッ!!!」
獣のような絶叫をあげて宙に投げ出され、血を捲きながら
ドチャッ――
とむなしく地に落下するカナコ。於勝と小竹があわてて駆け寄っていく。
「カナコ殿! カナコ殿!」
カナコの体を抱えて絶叫する小竹。揺さぶったり、頬をさすったりするが、カナコは目を閉ざしたまま動かない。
於勝も力なく地にしゃがみこんでいる。
「なんだってんだ。カナコさんが手も足も出ないなんて。あんなバケモノが」
じゃり、じゃりと地を踏む音を立てて、長真が歩み寄ってくる。
小竹と於勝は身構えた。
しかし長真の声色はあくまで静かだった。
「あなたは小竹ノ君ですな」
「………」
「心配なさらずともよい、急所は外してござる。すぐに手当てをすれば息を吹き返しましょう。まかね殿は、今は神宮寺六軒におられるのですな」
「はい」
「いずれ伺うこともあるやもしれず、また互いの誤解を解く日もありましょう。小竹殿、あなたも御身を大切に。今日はこのままお引き取りください」
そのまま長真は管領邸の奥へと消えていく。
芝波も名残惜しそうにカナコを見つめていたが、すぐに長真の後を追った。
長真に追いついた時、芝波はある異変に気づいた。
「ちょ、長真様!」
「……おう、これは」
狩衣をまとった胸元に血がにじんでいた。
見れば、地面にうすくつもった雪に、鮮々と血の雫が落ちている。それらはまるで桜の花びらのようにも見える。
それらを信じがたい眼で見つめる芝波。
「まさか長真様に手傷を負わせる人間がいるとは」
「いや……」
このとき長真の脳裏に、ある能の一節がよみがえった。
尋ぬる子の名も桜子にて
またこの川も桜川の……
人買いに連れ去られた我が子をもとめ、九州日向の地から、はるばる東国の常陸へと旅をつづけた母。
川に落ちた桜の花びらを見ているうちに物狂いとなるが、その後母と子は再会をはたす。
その母と、カナコの姿が重なった。
「恐るべきものだな……。われらが想像する以上に恐ろしい人になったのかもしれぬ真鉄殿は」
●客間
京洛の東、東ヶ峰のへりにたたずむ霊然寺の堂宇のむれ。
「こちらです、庵主様、どうか足下にお気をつけあそばせ」
雪のふる竹林の小蹊を、小人のように小さな老尼が、若い尼僧に先導されて歩いていた。やや慌てている風情である。
霊然寺の貞応尼である。
やがて寺の本堂脇にある、大広間のある建物に入っていく。中では尼僧たちが「大変大変」とオロオロしている。
貞応尼を見ると「あ、庵主様、こちらこちら」とその手をひき、どやどやと行列をつくって廊下を歩いていく。
やがて8畳の客間に貞応尼が入っていく。そこには黒屋治兵衛と2人の娘が、部屋の真ん中にしかれた布団をかこむように座っていた。
布団にはカナコが眠っている。
「まあまあ何てこと」と貞応尼はしゃがみこみ、カナコの額をなでた。
ところどころ包帯で手当てをしている。
「申し訳ございません!」と黒屋治兵衛がその巨体を屈して平伏する。
「運ぶ所はここしか思いつかなかったものですから!」
2人の娘はいうまでもなく小竹と於勝である。
気を失ったカナコを手当てしようと管領邸を出たが、さてどこで手当てをしたものか――宿を借りるか、あるいは神宮寺まで戻るか、と思案していたところ、小竹は鍛冶師の「黒屋治兵衛」を思い出したのである。
で、治兵衛の店へカナコを運びこんだが、黒屋は手狭であり、治療もろくにできない。で治兵衛は霊然寺を思い出した――という流れである。
「いいのです、おカナはこの霊然寺にとって所縁の深い人。これも仏のお導きです」
といってから、貞応尼は手当ての見事なのに感心し、
「これは誰の」
「あ、それは、私が」と於勝が応える。
「おカナのお友達?」
そういわれて、於勝と小竹はそれぞれ自己紹介した。
それを黙って聞いていた黒屋治兵衛がふいに、貞応尼ににじり寄り「ちょっと、お人払いを」といった。
貞応尼はいぶかしみながら「さあさあ、おカナの事は心配ありません。それぞれの部屋におもどりなさい」と見物の尼僧たちを下がらせた。
やがて客間にはその5人だけになる。
治兵衛がいう。
「このおタケなる人は、かの相模典厩家の姫君、小竹ノ君と申される方です。ゆえあって神宮寺のおカナとともに住んでおります」
「まあまあ典厩家の……それは今まで御苦労なことでしたろう」
そのあと小竹や於勝から、今までの神宮寺村でのことや一揆の話などを聞いた。
やや身をのりだし、興味深く聞いている貞応尼。とりわけ小竹がはじめてカナコに出会った時のことを感銘深く聞いている。
「なるほど長巻をね、取り上げてね、後で取りに来いと。ホホホ」
なにやらおかしくて仕方ないという風である。何をそんなに可笑しいのかと治兵衛が問うと、貞応尼は袖で口を覆いながら、
「だってずっと昔、私も似たようなことをおカナにしたんですもの。まだこの子がまかねと名乗っていたころにね」