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永応斬鉄録カナコ  作者: 土井平蔵
3/7

土一揆ストーム

永応斬鉄録かなこ07


一味神水いちみしんすい


 管領家

 という言葉を聞いて農民たちは殺気立ったが、しかしこの国最大の権威でもある。

 かろうじてこの謎の闖入ちんにゅう者に襲いかかる衝動をおさえていた。

 しかも五百住弾正武久いおすみだんじょうたけひさといえば、大和伊出氏に仕え、浪人の境遇から一城の主にまで立身した人物とも知られている。いまは伊出氏を裏切って三吉長真みよしちょうしんの手先だという。

(これがあの五百住弾正か。どんなやつかと思うたに……)

 ちょうど珍獣を見たような目で、この牛若丸のようなヤサ男を見ていた。

(女のようではないか)

 その意外さに一同気を抜かれている。

 やがてその五百住弾正が、彼らの上座に立ち、袖をひるがえしてフワリと座った。

「一同、座られよ」

 言われて、農民代表たちは顔を見合わせていたが、しぶしぶといった風に座った。

 やがて一人が口を開く。

「その管領家の御使者がわれらに何の御用で」

 明らかに険のある声だった。その背後には無数の目がある。どれも殺気に濁った色をしている。

 弾正は手をあげて言った。

「お待ちください。あなたがたは勘違いをしておられる」

「何の、勘違いでござるか」

「私はなにもあなたがたを捕えにきたわけではない。ご覧のとおり弾正ただ一人である。さらに密偵に来たのなら、わざわざあなたがたの前に現れるはずもない」

「………」

「そして管領殿におかれましても然り。今回のあなたがたの義挙、それを誰よりも喜ばれているのは他でもない、管領京兆院晴氏けいちょういんはるうじ様であらせられる」

 声ならざるざわめきがおこる。晴氏も彼らにとっては敵の一人、いや悪の首魁しゅかいともいうべき存在ではないか。

(そんな懐柔には乗るか――)

 彼らの全身からはそんな無言の反発が漂っていた。

「管領殿は、この京洛周辺の荒地化に対し、だれよりも心を痛めておいででした。さぞ百姓たちは苦労していることだろうと」

 弾正の口説くぜつが哀調を帯びはじめる。

「それゆえ再開墾に対し一〇万(がん)からの資金を用意しておられました」

「一〇万貫!」

「しかしかの遊狭高教ゆさたかのりめは、野洲やす家の重臣筆頭としてその権力は絶大。虎の威を借りての、やりたい放題の、し放題。どこからか一〇万貫の話を聞き出すや、そっくり横領して、おのが懐にしようと目論んだのです」

「しかしご存知のとおり、今の管領家にはなんの力もありません。野洲や遊狭の力の前にはただ隠忍、涙を飲んで看過するしかないのです」

「それゆえあなたがたの義挙を耳にするや、涙を流して喜ばれ、ああ、天はやはり正義を見放さず、いまこそ傲慢なる遊狭めに鉄槌をくだす機会であると」

 しまいに弾正は指で目じりを拭くマネをした。

 やがて農民たちがざわめき出す。

「許せぬ、遊狭高教……」

「管領様がそれほどお苦しい立場であったとはのう」

「ああ、我らあやまてり。そんなお方を今まで目の仇にしていたとは。無知は罪じゃ」

 そのざわめきを、目を細めて聞いていた弾正が、たたみかけるように言った。

「これをご覧ぜよ」

 腰に下げていた巾着袋を、ずしんと床においた。紐をといて中身を明らかにする。

 みっちり黄金の粒であった。

 農民たちは這いつくばるようにして、山吹色に輝く金属塊を見つめている。

「これはまず当座の費用」

 と弾正は前置きしてから、

「管領殿は、再開墾にあてるはずだった一〇万貫の費用を、全額あなたがたの義挙に使っていただく御所存にございます。そして今回の騒動に対して、誰一人として咎人とがにんは出さぬ、ばかりか1年後には徳政令を出すご内意であらせられる」

「徳政令!」

 おおお……と一同に喜悦の色が流れる。徳政令とはすべての負債を帳消しにするという命令である。いわば一時しのぎ、人気取りの政策であって、発令後、土倉どそうや質屋などは金利を上げたり、容易に金を貸さなくなったりしたためかえって農民の生活は苦しくなった。

 弾正はいう。

「しかし約束してくだされ。管領殿があなたがたを援助している事は決して他言無用と。もしこのことが野洲の耳に漏れれば、管領殿は今まで以上に苦しい……」

「わかっております! わかっております!」

 農民の一人が身をかがめ、手でおさえるように言う。

「よいか者ども、このこと決して人に語るでない。もし違えれば、燈明とうみょうの祭神の名において成敗する!」

「管領様の後押しを得ればもう天下に怖いものはない。いざ決行ぞ!」

「一味神水して誓いを立てん。盃をもて!」

「オオッ――」

 立ちあがる農民たちを見て、うむ、うむと涙ぐみながら弾正はうなずき、

「ならば一味神水の音頭取り、この弾正めにお任せ願えぬか」


●大物


 永応3年も8月になった。

 例年なら盛夏であり、頭上にはカンカン照りの太陽が輝いているはずだが、天はうすい膜をはったような霧が立ちこめ、どことなく春先のぼんやりした陽気に似ている。

 パコン、パコン、と桶の音を響かせて、畑に水をまくカナコ。

 その畑の下のあぜ道を、なにやらドタドタと駆けまわる音がする。

(また権十郎か)

 と思い放っておいたが、またドタドタという音がする。複数の人間が走りまわっているらしい。

(なんだろ)

 と思って丘の下を見ると、今まで見たことのない人間が村の入口に集まって何やら話しあっていた。彼らは他村の衆らしい。

 やがて一軒の農家から駆け出てきた見知らぬ若者に、カナコが声をかける。

「あんたどこの衆かや、何かあったかや」

田和良たわらちゅーとこの四郎八しろはちちゅーもんじゃ。一揆じゃ!」

「一揆……」

「参加する人間を募ってるとこじゃ。ちょうどいい。もしあんたもこころざしがあらば……」

 と男はカナコの豊かな胸に気づいてちょっと口をつぐみ、

「まあ女子でも、志あるものは参加せい。サムライどもに一泡吹かせるんじゃ!」

 とさっさと立ち去ってしまった。

(やっぱり起こるのか)

 カナコは茫然ぼうぜんと他村の衆の様子を眺める。と、馬崎うまさき屋敷の大屋根から、槍をかつぎ、大股びらきの権十郎ごんじゅうろうが出てくるのが見えた。

「やあやあ同士同士」

 と鷹揚おうように手をあげている。農民たちは権十郎を見るとペコペコ頭を下げながら「あんたが来てくれれば百人力じゃ」と騒ぎあっている。どうやらその筋では有名人らしい。

 やがて権十郎は祭り上げられるような形で裸馬に乗せられ、足軽に守られた侍大将のようにドヤドヤと南のほうへ去っていく。

 それを見送りながら、

「死ぬなよー」

 という声をカナコは掛けてやった。

 …………

「なに、権十が……」

 その夜、夕餉のときに少将経臣(つねおみ)が盃をおいて、いった。

 彼の前ではカナコが背をまるめて奈良漬をかじっている。

「なんで止めなかったのかね」

「止められる雰囲気じゃなかったわい。止めたって聞くやつかよ。祭礼の山車だしにのせられた京人形のごとくであったわ」

 愉快そうに吸い物を吸っている。

「バカな……権十が死んだら馬崎の家は絶えるであろうに」

「家の盛衰興亡は時の運。その時はその時じゃ。まあ権十は何度か戦場の空気を吸ってござる。ちょっと危なくなったらスタコラ逃げ帰ってくるでござろ」

 わきで聞いていた於勝おかつがいう。

「で一揆があったらこの村はどうなるのかね。危なくないかね」

「幕府軍もうかつには手を出さないであろう。百姓は国のもといというのがタテマエじゃから」

 とカナコはゴロンと横になり、

「それに権十は「大物」らしいからの。権十の村に百姓たちも乱暴はしないであろう」

 股ぐらをかこうとする手を、於勝に機敏にシバかれる。

「………。ごちそうさまでした」

 今まで静かに夕餉をとっていた小竹が、そっと箸をおいたあと、そのまま台所へ食器を運んでいく。

 あまりに静かすぎて誰も気づかなかったが、カナコだけは三白眼のままボーッとそれを見送っていた。


●永応の土一揆


 かくして

 永応3年8月6日黎明れいめい、日の出にもまだ早き薄闇の中を、松明の群れが一路、ある山上の城にむかって進んでいく。

 城は不動城。遊狭家の一門宿老・遊狭長門守ゆさながとのかみが城主である。一揆の発生にそなえすでに1千人ほどの兵が詰めていたが、殺到する一揆軍によりたちまち落城した。

 ついで不動城の支城群も瞬く間に落とされ、挙兵時わずか3千人に満たなかった一揆軍も、行軍するにつれ、6千、9千と倍々に膨れあがっていく。

 そして夕暮れ、ようやく不動城周辺の支城が陥落したところで、その数は2万5千にもなっていた。明日にはもっと増えるであろう。

 もちろんその快進撃の影には、五百住弾正の存在があったことは言うまでもない。てんでバラバラな農民の群衆を、弾正はごく簡単ながらも秩序立て、一見みごとなの隊列にしてしまうのである。

「次は妙顕みょうけん城じゃ!」

 翌日、一揆軍は今度は西方の妙顕城に向かう。ここも遊狭氏の重臣・八角備後やすみびんごが守っていたが半日で陥落した。八角軍は城から打って出たものの、雲霞うんかのごとき一揆軍に圧倒され、たちまち城に逃げ返り、ついに城を捨てて逃亡した。

 一揆軍は5万にも膨れあがっている。おそらく馬崎権十郎もこのあたりから参加していただろう。

 ときに遊狭高教の本拠はこの南山城にはない。隣国の河内かわち国、祇園山ぎおんやまという山岳地帯にある。

 人質をとっているため農民たちの挙兵はまだ長引くと思っていたため、遊狭方は対応が遅れた。しかも一揆勢の異様な急拡大である。

「ええ、幕府に救援要請の使者を!」

 そう命じてから、高教は人質の庄屋の数人を引き出し、2千の手勢をつけて城から送り出した。解放ではなく、一揆勢の前で首をはねる風をよそおい、その快進撃を鈍らせるためである。

 その中には田名布たなぶの六蔵の姿もあった。


●急雲


 黒い雲の塊がどんどん東へ走る。風もいくぶん湿っている。

「こりゃ一雨来そうだね」

 於勝の声が、少将屋敷の庭先で湧いた。於勝はボンヤリ空を見上げている。

 離れの土間にべたっと座り、鶴の根付ねつけを彫っていたカナコはユラユラと立ちあがり、母屋の雨戸をガタピシと閉めはじめる。

 昼過ぎになってから小雨が降りはじめ、すぐ雨足は強くなった。

 こういう日はカナコはたいてい根付を彫るか、寝ているかしている。

 仕上がった鶴の彫物に漆がけをしようとし、壺にさした筆を取ったが、筆先がやや乾いていた。どうも漆が切れているらしい。

「………」

 カナコはボリボリ頭を掻いたあと、土間に茣蓙ござをしいて、そのままグースカ寝てしまった。

 それから何時がたったのか。

「カナコさん、カナコさん……」

 と肩をゆすられている事に気づいて、カナコは目をさました。

 見れば於勝の顔があった。何やら深刻げな顔をしている。

「なんだね、もう夕餉かや」

「あのね……」

 小竹の姿がないという。

 だけならこんな深刻な顔をすることはあるまい。と寝なおそうとしたが、

「小竹さんの長巻ながまきも、鎧も無いんだよ」

 と聞いて、カナコはゆっくり身を起こした。例のごとく、彼女の上で寝ていた猫たちが逃げ散っていく。

「鎧なんか着こんでどこ行ったんだろうねぇ……まさかのまさかだけど」

「一揆」の話題を耳にするたび、小竹がボーッと遠くを見るような目をする……ことを於勝は気づいていた。むろんカナコも気づいている。

 が、なぜ小竹はそんなに「一揆」に反応するのかまでは知らない。

 カナコはしばらく腕をくんで考え込んでいたが、パッと立ちあがり、壁に立てかけてあった竿(中身は太刀)を取った。

「………」

 が、すぐに竿をもどし、茣蓙に座りなおした。キョトンとする於勝。

「どうしたんだい。探さないのかい」

「いや……小竹殿のことなら、心配あるまい。うん、大丈夫大丈夫」

 といって寝なおそうとするカナコの肩を、於勝はその大きな手でつかんで、

「そろそろ夕餉だよ!」

「は」

 結局その夜、小竹は戻らなかった。


●若武者


 翌日、束山つかやま市来太郎左いちきたろうざを大将とする1万3千の一揆勢が、むしろ旗を掲げて、河内方面の波岡なみおかあたりを進んでいた。

 このあたりは山あいにあり、雲をはらんだ渓谷の間に、街道がずっと山奥まで続いている。

 この一帯は遊狭氏の支配が強く、領民たちも容易に一揆には参加せず、一揆勢のムシロ旗を見ると家を捨てて逃げ散ってしまう。

「よいよい追うことはない。彼らもまた我らと同じ天下の百姓。いずれ我らの志が通じて参加してくれる日もあろう」

 それを遠くから望見する馬崎権十郎は得意げだった。彼は戦場働きを経験しているというその一時だけで50人からの部隊を任されていた。

 しかしその隣に、弟分の茂助もすけの姿はない。体力に自信のない茂助は「俺が参加するとかえって迷惑になる」といって参加しなかった。

 というより「なんで伏美ふせみの衆まで参加せにゃならんのだ」というはらもある。伏美は京洛に近いため、一揆に参加した者の詮議はどこよりも厳しくなるだろう。

「権さんの言うとおりだ」

 権十郎の後ろから歩いてきた男。まだ若く、眉がキリとつりあがり、本物の武士のように立派な鎧を着ている。

 頭には白いハチマキを巻いており、長い布が後ろへ風に泳いでいた。

「我らの目的はただ遊狭の本拠地・祇園山城。そこを落とせば我らの意はほぼ達せられる。それまで無用な乱暴はつつしもう」

 その英気に満ちた声に、まわりの百姓たちも、権十郎も「ははー」と頭を下げている。

 彼は田名布総四郎たなぶそうしろうという。かの庄屋六蔵の子息である。年は18歳。彼もまた一隊を任され、300人からの部隊を率いていた。

 が、同じ年齢の権十郎をなぜか兄のように慕い「権さん権さん」と呼んでくる。

「権さんは大人物の風格があるから」というのが理由らしい。

 もうそれだけで権十郎はガラにも似ずデレデレしてしまう。

「大変だ!」

 そのとき一揆勢の先鋒にいた者の一人が、大将の太郎左のもとへ駆け飛んできた。

「前方の坂に遊狭方の旗指物はたさしものが!」

「なに」

 谷の奥のすぼまったところはやや急な勾配をなし、そこをジグザグに街道が走っている。一種城壁のようでもある。そのつづら折りの坂を登りきったところに、たしかに黒い人の塊がわだかまっているのが見えた。

 その頭上には、へんぽんと遊狭家の旗がひるがえる。

「1千、いや2千はおるわ」

 数でいえばこちらは1万超である。しかし向こうはがっちりと鎧で身をかため、手には剛弓を携えていて装備の質が百年ぐらい違う。しかもである。

「鉄獅子じゃ!」

 見てそれとわかるほどに一揆勢に動揺が走る。3体の鉄獅子が崖のへりに脚をかけ、こちらをじっと見おろしているのである。

「お、おそろしや……」

 20年前の土一揆の際、戦場においてまさに魔王のごとき猛威をふるい、大騒動を一気に終結にみちびいた鉄獅子。その「伝説」ともいうべき存在が彼らの頭上にある。農民たちは震えあがった。

 彼らの動揺ぶりを見て、遊狭方の主将・舟入玄蕃ふないりげんばが「引き出せい!」と手にした棒をあげる。

 断崖上にぞろぞろ引き出されてくる農民たち。彼らはいずれも縄で上身をグルグル巻きにされている。

 その一人を見て、田名布総四郎が叫んだ。

「お、おとう!」


●人質


「あれは六蔵殿じゃ。あ、あれは鴨田かもだ石見いわみ殿。笠木かさぎ甚兵衛じんべえ殿もおるわ!」

 農民たちが口々にその名をあげる。

「聞け、百姓ども!」

 坂の上にいる舟入玄蕃が、馬を乗りまわしつつ大音声だいおんじょうをあげる。

「汝ら、多年にわたる大殿よりの深甚なるご慈悲を忘れ、かくも暴挙に及んだは不届至極ふとどきしごくである。このまま引き返せばよし、さもなくばここにいる」

 と縄で戒められた庄屋たちを棒でさし、

「庄屋衆の首を一人ずつ刎ねる。それでもなお頑迷に抵抗するとあらば万やむなし、城に残っている庄屋たちも同様の沙汰さたが下るであろう。いかに、いかに!」

「おのれ卑劣な!」

「汚し、遊狭高教!」

「庄屋衆を死なすな!」

 口々に農民たちが罵りの怒号をあげる。

 とその時、田名布の六蔵とおぼしき大柄な壮年が身を乗り出し、絶叫した。

「皆の衆、どうか我らにかまわず、遊狭を討て! そして年来の悲願を果たせ! 南山城の地をわれらの手に取り戻し、ふたたび荒れ野原を美田にするのだ! それは庄屋衆すべての一致した意志であるぞ!」

 言われて、しかし農民たちは動けない。そもそも一揆の発端はこの六蔵であり、かつ南山城でもっとも徳望のある人物だった。六蔵が死ねば一揆勢の士気はおおいに盛り下がるであろう。

「お父!」

「おお総四郎か。私はうれしい。皆がこうして立ちあがってくれたことに。もはや我ら思い残すことはない。あとはお前たち若者が跡を引き継いで」

 その声は、玄蕃が棒で打ちすえることで中断した。

「お父……!」

 総四郎はガックリ地に両手をつき、じっと坂の上にいる六蔵に平伏していた。ぽたぽたと数滴のしずくが街道の土を濡らす。

 その涙のしずくは、5滴、10滴となり、やがて地上を黒く染める。頭上の黒雲から沛然はいぜんと雨が降ってきたのである。

 雨の中、総四郎はゆっくり立ち上がり、腰の刀に手をかけ、それを一気に引き抜いた。

「皆の者、もはや大人衆おとなしゅうは覚悟を決めたるぞ。我らも覚悟を決めよ。我らはただその遺志をついで突き進むのみ」

 かかれや、ものど――!?

 総四郎はふいに声を失った。

 一揆勢のはるか後方から、一直線に黒い影が横切っていき、そのまま弾丸のように前方へ飛び出していったのである。


黒鹿毛くろかげ


 黒い影は騎馬武者だった。

 黒鹿毛の馬にのり、赤と黒をなす鎧をまとい、頭の後ろにふさふさとした馬の尾のようなまげが垂れる。

 口元は白い布でおおわれているため顔はよく見えなかった。

 しかし総四郎は一瞬見た。騎士の凛冽りんれつすぎる瞳の光を。

女子おなご――?)

 まるでスローモーションのようにその光景はゆっくりしたものに見えた。

 白いマントが天にひるがえる。

「………」

 この騎士の出現に、一揆勢も、遊狭方もただ茫然と立ちつくしていた。

 騎士はふと黒鹿毛の馬を止めるや、手にした長巻を一閃し、サッと頭上の遊狭軍にむけて突き出す。

 馬のいななきが渓谷にこだました。

「はぁっ――」

 甲高い声をあげるや、騎士はふたたび馬を前進させ、つづら折りの坂道を駆けのぼっていく。

 まるで征矢そやのような俊足だった。

 それまでボーッとしていた舟入玄蕃だったが、ハッと我にかえるや、

「何をしておる、射よ、射よ、登らせるな!」

 と慌ただしく命じた。

 たちまち、

 ザアアアアアアッ

 と黒い霧が坂の上で噴きあがり、ゆるい弧を描きながらひろがって、騎士の頭上に降りそそいできた。大量の矢である。

 が、騎士は馬脚をとどめることなく、旋回させた長巻を左右にふって、飛来物を弾き飛ばしていく。

 矢のかたまりが飛んできたが、騎士をのせた馬は前脚をそろえたまま、とっ、とっ、とっと横に避けてしまう。避けるたび道におびただしい矢が突き刺さる。

「かかれや、防げや、かかれや、防げや!」

 長槍をささげた甲冑隊が、どやどやと坂道をおりてきた。

 騎士は長巻をブスリと地に突き立て、短弓を取るや、背のえびらの矢をつがえて次々に放っていく。

 2人、3人と槍隊の武士たちが倒れ、あるいは濡れた斜面に足を滑らせ、叫喚きょうかんをあげて転げ落ちていく。一隊は乱れ立った。

 頃あいよし、と騎士は地に突き立った長巻をとり、乱れたつ一群に突撃をかけていく。

 蹴散らすという言葉がこれほどぴったりくる光景はない。

「ええ、おのれぇ!」

 馬上の舟入玄蕃は切歯扼腕せっしやくわん、眼下に鎮座している庄屋六蔵に憎々しげな視線をむける。

 雨に打たれ、縄目を打たれた六蔵はただ泰然自若、しずかに雨にけぶる渓谷に目を据えていた。まるで末期の光景をその目に焼きつけているかのように。

 ひらりと馬からおり、腰の剣をひきぬいて庄屋六蔵にせまる玄蕃。

「死ねぇ、六蔵!」

 と剣を大きくふりかぶった玄蕃の胸に、ズドッと何かが突き刺さった。長巻だった。

 はるか坂の下の騎士から、それは放たれていた。

 玄蕃は剣をふりあげたままヨタヨタと後ずさり、そのままガシャリと鎧の音をひびかせて崖の壁に背をつけた。

 騎士は剣で敵兵を蹴散らしながら、捕らわれた庄屋衆のもとへ駆けあがっていく。

 玄蕃の胸から長巻を引き抜き、庄屋衆の背後へまわり、

 ひゅん、ひゅんっ

 と長巻を旋回させた。

 庄屋たちを戒めていた縄がパラリ、パラリと落ちる。

「鉄獅子! 鉄獅子はどうした!」

 どこからか慌ただしい敵兵の声が聞こえてきた。


●風景


 今まで気を奪われていたようにこの光景を見上げていた田名布総四郎だったが、ハッと我にかえり、

「助けよ! あの勇士を死なすな! あたら鉄獅子の毒牙にかけさせるな!」

 と叫んだ。それに応じ、一揆勢は、手にした竹槍、鉄のクワ、錆び槍、ムシロ旗を掲げて、おおおおっと鯨波ときの声をあげて殺到していく。

 狭い渓谷はたちまち万という群衆で混雑した。

 田名布総四郎、馬崎権十郎はその先頭きって坂道をかけのぼり、残留している敵兵をかきわけ、なぎ払いつつ六蔵たちのもとへ向かう。

 錆び槍を振りまわしながら権十郎が叫ぶ。

「ははは、なんだこいつら、本当にサムライか! カナコにくらべたらアリンコのように弱いわ!」

「カナコ? それはどなたです」

 と聞く総四郎に、権十郎は照れたように頬をかきながら、

「まあ、俺の、師匠みたいなもんで」といった。

 やがて遊狭方の兵は潰走かいそうをはじめた。一揆勢に破壊されてはかわなんと思ったのか、あるいはたんに示威目的だったのか、結局鉄獅子は一度も活躍することはなかった。

 わあああああっ

 と坂の上から勝どきの声があがる。

 その歓声の中を、総四郎は、父の六蔵のもとへゆっくり歩みより「お父!」とがっちり固く抱擁した。

 その向こうで一揆衆も、権十郎も号泣している。

 総四郎と六蔵は2、3言葉を交わしあったが、すぐ六蔵が「あの騎士様は」といった。まわりを見回したが、騎士の姿はどこにもない。

「ふしぎ、なんとも世のふしぎよ」

 と六蔵がいう。

「あれはきっと神仏がわれらの窮状をあわれんで、地にさし遣わしてださった勇士様ではあるまいか」

 しかし総四郎はだまっていた。あわくぼやけた渓谷に目をやる。

(顔はよく見えなかったが、美しい瞳をした人だった。いずれの御方であろうか。なんという名であろうか。またお会いしたいものだ……)

 …………

 その日の夜、神宮寺の屋敷に小竹がもどっていた。

 そしていつものように夕餉の支度をすると、いつものように皆で食事をとり、そして「ごちそうさま」と食器を台所へもっていこうとする。

 なんら平素と変わりがない。

 それを於勝が呼びとめる。

「小竹さん。なんで黙ってるんだい」

「……黙ってるとは」

「こんな雨の日に、どこ行ってたんだね。それも2日も。みんな心配で……」

 しばしの沈黙。

 経臣殿は杯の酒を吸いながら顔を上げたり下げたりしている。

「ちょっと遠駆けに」

 と小竹はいったが、この少将屋敷に馬はない。

「宮口村の茂助さんのところで馬をお借りしました」

 だからって雨の日に行くことはあるまい。と於勝が思っていると、カナコがゴロンと横になった。

 小竹にごく軽い調子で声をかける。

「その遠駆けで、いったいどんな風景が見えたかね」

「風景? べつに」

「アハハ、べつにか。ならしっかり見えるまでまた行かにゃならんな」

「………」

 小竹の姿が台所へ消えていく。


永応斬鉄録かなこ08


名嶋なじま


 神宮寺六軒じんぐうじろっけんから、木栖川きすがわ街道を半里(2キロ)ほど南へくだると宮口村がある。

 浮草うかくさ山系の南端、花品はなしな盆地の入口にあたる位置にある。

 花品盆地からのびる街道と、木栖川街道がまじわって、ちょっとした交通の要衝をなす。谷あいにある神宮寺村とは違って都会の風情がある。

 その村落の家々のならび、瀟洒しょうしゃな作りの農家が、茂助もすけのすむ名嶋家である。

 庭には葉の青々とした柿の木が生え、低い生垣にかこまれて、いかにも人のいい老婆が住んでそうな雰囲気である。晩秋にくればもっと味わいのある風情が見られるだろう。

 その庭先で、黒鹿毛くろかげの馬をワラでせっせと磨いている茂助の姿が見える。馬の胴は水に濡れてほとんど漆黒の色つやをしていた。

 その茂助が、

「おぅーい」

 と声をかけられて、うろんげに振り返る。

 見れば、低い生垣のむこうに、ニッと歯をむき出したボサボサ髪の女が立っていた。

 茂助は顔面すべて目になったかのように驚く。

「カ、カナコ姐さ……うわっ!」

 すっとんきょうな声をあげ、桶に足をとられて転びそうになっていた。

 カナコの行動範囲は極度にせまく、ここ1年、ほとんど神宮寺村から出たことがない。鉄鍋の修繕で京洛に行ったぐらいが「遠出」である。

 それが2キロ先の宮口村に出現するというだけで、茂助は白昼に妖怪でも見たような顔をしていた。

「な、なにしに」

 という茂助を無視して、カナコは蔀戸しとみどをあけてずいずいと庭にあがりこんでくる。

 大柄な馬体を見上げ、

「おーおー、これがかの名高き宮口の黒鹿毛かやぁ。見事なもんじゃあ」

「で、あのぅ……」

「あーこれこれ」

 と左手のヤマイモの束をかかげ「先日の馬の借り賃じゃ」といった。

 茂助は「ああ」と得心した。小竹がこの馬を借りて遠駆けした一件である。

 が、もちろんこの馬が戦場で大活躍したことまで茂助は知らない。

「べつにいいですよ礼なんて。こいつも」と馬の背をパシンと叩き、

「たまには遠駆けさせてやんなきゃ可愛そうだし」

「アハハ、そもじはらんのかい」

「この馬はあくまで耕作用。のれるんだったらとっくに」

 と茂助はふいに口を閉ざし、ふたたび馬を磨きはじめた。

「とっくに、なんじゃ」

「俺も……権兄と一緒に一揆に出てかもしれん。俺ぁ半里も駆けただけで息切れするぐらいだからな。とても戦場働きなどできんわ」

「………」

 カナコは両手を腰にやって、ぼーっと馬を見ていたが、やがて、

「こいつはゼニにするといくらかね」

「はぁ?」

「だから、売るとしたらナンボするかと聞いている」

「そうさなぁ、15……うーん、いや、20貫目はかたいなぁ……。ってまさか」

 カナコはただニラニラと笑っている。

 彼女はけっこう小金持ちである。


●会議


祇園山ぎおんやま城に一揆軍せまる」

 の報はすぐさま京洛の幕府にもたらされ、柳営りゅうえい将軍府(花の御所)において重臣会議が開かれた。

 参加したのは管領・京兆院晴氏けいちょういんはるうじ。ついで野洲義国やすよしくに三吉長真みよしちょうしんの2巨頭。

 そして薬師元数やくしもとかず木沢宗景きざわもとかげ香斉長基こうざいながもとなどの宿老衆が居ならんでいる。

 彼らの上手かみてに将軍・柳営藤氏りゅうえいふじうじがチョコンと鎮座しているが、あくまでお飾りにすぎない。最後に「よきにせよ」というだけである。

 ちなみに藤氏は後年「武者将軍」といわれるほどの若武者となり、みずから軍勢を率いて反幕的な大名を討伐するほどの武威をしめしたが、25歳で病死している。しかし今はまだ14歳の少年にすぎない。閑話休題。

 野洲義国は一の子分である遊狭高教ゆさたかのりの窮状だけに、一揆の鎮定にもっとも躍起だった。

「すぐさま各国から大名を召集し、大軍でもって一揆勢を制圧すべきこと」

 と主張する。さらに、

「国難である」

 ともいう。

 ただし周囲の反応は冷淡である。

「国難」といっても一揆は南山城周辺の騒動であり、各国の大名たちもそこまで派兵するだけの大義、あるいは利益がない。

 そして野洲義国の真意がただ「子分の遊狭を守りたい」だけという事も気づいている。香斉長基などはそっぽをむいてアクビをしていた。

 しかし義国はたたみかける。

「もし一揆が長引けば、それだけ西国の山宝殿さんぽうでん家に利することになる。そうなれば我ら東西に挟撃されることになる。これを国難といわずして何というか」

 それを眠たげに聞いていた京兆院晴氏が、ぽん、ぽんと扇子で手を打ちながら、

「で、一揆方の主張は……」

 と長真に顔をむける。長真は両手をついて言上する。

「一揆勢はかねてから農地の再開発を嘆願しておりました。もし彼らの要求が通れば、きっと騒乱は自然に鎮まるかと思われます」

「ならばそれまで指をくわえて見ていろというのか。遊狭を見殺しにするのか」と義国。

「そうは言ってはおりません。祇園山への救援の兵はさしむけましょう。そして大軍を駐屯させて一揆勢を牽制し、彼らとよく話しあってから事を決するべきです。無用な刺激は避けるべきです」

「その間に山宝殿が攻めてきたらなんとする」

「それはありません。西国方は今のところ目立った動きはなく、むしろ家臣間の内紛に気をとられている様子。時間はたっぷりございます」

 こうまで言われては、義国も否やはいえず、例の赤ら目をジロリと長真に据えた。

 喉奥でえ立てるようにいう。

「しかし約束せよッ。南山城の地はすべて遊狭の手に戻るとッ。寸土の地もまからぬぞッ」

 野洲義国の勢力は、後年の基準でいえば120万石格の大名ぐらいである。山陰の因幡いなばを拠点とし、但馬たじま丹後たんご、北丹波(たんば)近江おうみの一部を領していた。

 そしてその与党大名たる遊狭高教は河内かわち全域、南山城を有し、30万石ほどの勢威をほこる。これを失えば野洲勢力にとっては大打撃であり、政界での影響力にもかげりが出る。義国が救援にこだわる理由がここにあった。

 そして京兆院晴氏が陰で一揆を支援する理由も。


●方円


「あれほど取り乱す義国もめずらしい。よき見物であったわ」

 その夜、京兆院邸において管領晴氏はなにやら紙に幾何学模様を描いていた。

 おおきく○が描かれ、上下左右から細筆でちまちまと線を引いている。なんの呪符であろうか。

 ちなみに晴氏は酒を飲まない。女も近づけなかった。その代わりのように幾何学と兵器学を愛好している。

 酒色を遠ざけるのは「法力が削がれる」というのが理由らしいが、美少年を愛する性癖はどういう事だろうか……武骨な三吉長真には完全に理解の外だった。

 ともあれ、長真はいう。

「なにしろ領土欲の強い人ですからな。なんでも手ずからソロバンで所領の収穫量を計算しているとか。計算があわないと責任者の首を刎ねるそうで」

 あくまで噂だが、ありそうな話である。

大膳だいぜん

 描いた円にすっと細いラインの1つを引きながら、晴氏がいう。

「もし今の義国と戦ったら、そなた勝てるかね」

「恐れながら、10中7で負けます」

「ならばそなたに摂津せっつ一国を与えるといったら」

 長真は息を飲んだ。そして言った。

「……半々でございましょう」

「では」とさらにラインを描き足し、

「遊狭が滅んだら、勝率はいかほどじゃ」

「8割」といってから長真はすぐに確信に満ちた目で、

「百戦して百勝してみせまする」といった。

 ふふん、と晴氏は鼻で笑った。バカにしているのではなく「そなたならやりそうな事だ」という意味である。

「で、一揆方に潜伏させておいた五百住弾正いおすみだんじょうから何か報告は」

「アテが外れたと申しております」

「アテ……?」

「南山城において徳望並びなしといわれた田名布たなぶの六蔵が救出されたそうです。一揆勢は六蔵を中心として大いに士気を上げているとの由」

「それは知っている。結構な話ではないか。なぜアテが外れたなどと」

「そこまではわかりません。何しろ弾正はそう申すだけで」

 それを聞きながら、晴氏は動かしていた細筆をおいて、言った。

「あの五百住という男、何やら、我らとは違う意図で動いておるような……。やはり、だいぶ食わせ者らしいな」

 ふふんと鼻で笑った。


宝玉ほうぎょく


 茂助からなかば強引に黒鹿毛をあがない、馬の口を取りながらテクテク歩いてくるカナコ。

 神宮寺村の少将屋敷の手前まで来たとき、庭のほうで何やら騒ぐ声がする。

「だめだよ、およしよ、カナコさんが帰ってくるまで!」

 どうも於勝おかつが騒いでいるらしい。

(なんぞや)

 丘の上の屋敷にむかう坂道で、カナコは、駆け下りてくる小竹とばったり出くわした。

「はぁ、はぁ、はぁ」

 小竹は鎧を収めたひつを背負い、右脇には長巻ながまきを手挟んでいた。

 おそろしく張りつめた顔をしていたが、カナコが連れている馬に気をとられる。

 遅れてやってきた於勝も、小竹をさておいて「ン、ンマ!」と口をあける。

「その、馬……」

 小竹がつぶやく。

 カナコはパシンと馬の背を叩いて、

「茂助んとこの黒鹿毛よ。後払いで20貫目。おかげで蓄えスッカラカンじゃ」

「な、なんで」

「この屋敷にも馬ぐらい必要かと思うてな。色々重宝するわい。買い物の荷物運び、畑仕事、石垣の石運び、エー、御鞍おくら池まで遠遊、あとあと、肥やしの備蓄。つまり馬のクソをですな」

 カナコが言い終わらぬうちに、小竹はひらりと黒鹿毛にうちまたがり、そのまま坂下にむかって駆け下りていく。

 街道に出ると、馬首を返し、じっと強烈な視線を坂の上のカナコに向ける。

「………」

 その両の瞳には、横あいから陽がさしてキラキラと細かい輝きが浮かんでいる。

(なんというはげしく、美しい瞳であろうか。墨染すみぞめ山に落ちている宝玉のようじゃ)

 その強すぎる視線を、ふっと吸いこむような柔らかさでカナコは見つめ返す。

「ハァッ――」

 気合一閃、南へむけて馬を走らせていく小竹。

 見送りながら、於勝が「行っちゃった……」とポカンとした顔をしている。

 その於勝にカナコがいう。

「あの人は我らとは違う宿命を背負って生きてるんじゃ。霧の中、必死にあがいてるんじゃ。その答えが見つかるまで、どうか、あの人の好きにさせてたも。な」

 伏し拝むように於勝に両手をあわせた。


●桃源郷


 田名布の六蔵、救出さる

 この報はまたたく間に南山城全域にひろまり、それまで参加を控えていた各村からも陸続と参加者があいついだ。

 ばかりか大和、河内、伊賀、近江方面からも参加者があり、その総数は12万を超えようとしている。

 数だけならこれほどの動員力を持つ大名は扶桑ふそうのどこにもない。

 対する遊狭河内守高教は兵8千しかない。しかし戦意はなぜか衰えていない。

 幕府軍の来援。

 鉄獅子15両、針蜘蛛5両、鬼山車おにだし3両、山麒麟1両という最新の装備。

 そして祇園山城は、1千メートルの標高にある天下屈指の要害である。のちの一世の英雄・清洲天摩きよすてんまでさえこの攻落には丸2ヶ月を費やしたほどだった。

 そして一揆は「成功した後がもろい」という過去の事例をよくわきまえていた。たいてい事が終わると一揆の勢力はなしくずしに退潮する。

「持久戦に持ちこみ、一揆方の士気がゆるんだところを、鉄獅子に殺到させる。そして到着した幕府軍とそのまま南山城へなだれ込み、失地を奪回する」

 高教の構想はほとんど完璧だった。かつて名門総領(そうりょう)氏の一被官(ひかん)にすぎなかった遊狭氏を一代で大名にのしあげ、領内から総領氏を追放しただけの英傑だけはある。

 いっぽうで領民を思いやる仁君としての面もあった。ただ妙な流れで悪役にされ、それを演じているにすぎない。

 ………

 河内波岡(なみおか)の渓谷をすぎ、1刻(2時間)も山道を西へ行くと、たちまち視界がひらけて、目に痛いほど鮮やかな緑が視界に飛びこんでくる。

 南北に細長くのびる射上いかみ盆地である。

 縦は20キロもあるが、幅は3キロしかない。しかし山中にあるため桃源郷のような別天地をなし、そこだけ瑞々しい緑をたたえた水田が広がっている。

 その細い谷をはさんだ向かいの山稜上に、日に照らされた祇園山城の望楼のむれが白くキラキラと浮かんでいる。

 まさに天空の城というにふさわしい――神々しいほどの威容である。

(あれを落とすのか)

 城を見上げる農民たちは、しかし暗然たる顔をしていた。

 一揆軍の総帥・田名布六蔵も同様である。

「ここは持久戦に持ち込み、さんざん我らの力を誇示したあと、交渉して和平に持ちこむしかないのではないか」

 と、六蔵は言う。まわりも同調のムードが強かった。

(バカな)

 背後で聞いている管領方の間者・五百住弾正は胸中で吐き捨てる。

(和睦など実力伯仲せる勢力同士が、精根尽きはてた後にすること。いかな百万の軍勢をもってしてもかの城は落ちぬ。しかも鉄獅子の前には12万の一揆勢など1日で崩壊する。劣勢なのは明らかに一揆勢じゃ)

「いかがです、五百住様」

 六蔵は、この管領家の代理人であるという人物に遠慮し、いちおう意見を求めた。

 応じて弾正がいう。

「たしかに六蔵殿の意見も一理ある。しかしいかな管領家といえど、野洲義国の強硬論を抑え続けるわけにもいかず、いつかは追討軍をさし向けてくるでしょう」

「追討軍……」

「もちろん私が奔走してそれは遅らせましょう。しかし限度がござる。その前に祇園山を奪取しておいたほうが、あとあと幕府との交渉で有利になります。心配ござらぬ、勝算はござる」


そう


 まず弾正が言ったことは「田から稲を刈り取る」ということだった。

「田があっては思うように大軍を展開できず、進退に遅滞あらばかっこうの矢の的になる。さらに鉄獅子に襲いかかられたら甚大な被害が出る」

 それはわかるのだが、せっかく成熟しかかった稲を刈ることは農民たちの良心に反する。

 しかし弾正はいう。

「麓の村々が荒地化に苦しみ、無数の飢餓者を出している中、この地だけは別天地のごとく青々とした稲を茂らせ、遊狭家ひとりが蔵に収めきれぬほどの収穫を得る。おぬしらはこれを何とも思われぬか」

「………」

 農民たちもなんとか義憤をつのらせようとしているが、なかなか火がつく様子がない。ただお互いの顔を見合わせているだけである。

「心配いらぬ。祇園山城が落ちた後、この地は一揆衆の管理下に入る。あとは再開墾でも何でもすればよろしい」

 がそれでも農民たちは鉛のように重苦しい沈黙をつづけている。

 弾正の頬がひくりと引きつる。

 このときじっと黙って聞いていた六蔵の子息・田名布総四郎が、たまりかねて言った。

「お待ちください。他になにか良い手はございませぬか。やはり、この儀ばかりはできませぬ。何か別な手段を」

「別な手段? 無い」

「自分たちが良い思いをするために、他の百姓を犠牲にするなど、それでは我らの大義が立ちませぬ」

「くどいな……。そもそもその大義とは何ぞや。明確に答えてみよ」

「万民がひとしく豊かになることでございます」

(なんだこいつは)

 驚きとも冷笑ともつかぬ感情が、ないまぜに弾正の胸中でわきおこる。

 儒教にかぶれた京洛五山の僧が似たような事を言うことはあるが、あくまで机上の学問のことであり、それを体温のある直截的な言葉でいいきる人間は見たことがなかった。

 しかしこの時代、農村の中でおこってきた「惣」という観念を、この若者は先鋭に持っているにすぎず、それを自分なりの解釈で極言したにすぎない。

 見ればここにいる農民一同もその意識の下にあるようだった。一種新時代の空気ともいうべきものだが「為政者」側にいる弾正にはわからない。

(聖賢の道とやらにかぶれたガキか)

 弾正は心中で舌打ちする。

「ならばこの策は却下としよう。しかしそれにより甚大な被害が出てもこの弾正の預かり知らぬことである。そこの所は了承あるように」

 さっと袖をひるがえして弾正は立ち去ってしまった。

(まあいい、せいぜい両者咬みおうて疲弊するがいい。先のアテが外れたぶん、次の手で大いに取り戻させてもらうさ)


●潰乱


 結局、五百住弾正の読み通りの結果になった。

 ほとんど戦いにすらならなかった。

 射上盆地の水田は広大な水堀となって、一揆勢の展開を阻んだのである。

 しかも祇園山城へいたる道は狭く、険しく、頭上から矢や石などが飛んできては隘路あいろで混乱し、そこを城兵が乱出しておびただしい死者を出した。

 逃げようとも背後には水田がある。田のあぜ道は多くの人間の通行をこばみ、次々に泥田に振り落とし、逃げ遅れたものに鉄獅子が襲いかかる。

 一揆勢はひたすら東へ東へと逃亡した。

「追撃せよ、追撃!」

 さらに遊狭高教は命じる。どっと山上から騎馬隊が駆けおりてきて、一揆勢が逃げていった麓の街道を直進していく。

(こりゃあ、茂助が来なくて正解だったわ)

 負傷をした田名布総四郎の腕を肩にかつぎながら、馬崎権十郎はどたどたと田んぼのあぜ道を逃げまくっていた。

 肺が焼けつくように痛む。

(息が切れて、死にそうだ)

 ついに総四郎もろともドサッとあぜ道の上に倒れこんだ。

 なんとか顔だけ上げる。

 ほんの100m先は、深い山にいたる森である。あの森の中に逃げこめば騎馬隊も追ってはこれまい。

 額から血を流した総四郎が、権十郎の肩をせわしなくつかむ。

「権さん、いいんだ。俺のことは放って、あんただけでも」

「阿呆ぬかすな! あんたが死んだら誰がこのあと一揆を引っぱっていくんじゃ。万民ひとしく敗走して、豊かにならんとな!」

「………」

「そういう村を、総さんはいつか作るんだろ。そういう骨の折れることは俺にはちと無理でな。あんたじゃなければ」

「あ、ああ……。その時は、権さんも、手伝ってくれるんだろ」

「そういうこた生き残ってから考えるわ! よっ!」

 権十はずるずると両脚を引きずるようにして立ちあがり、一路森にむかって歩いていく。背後から馬蹄の音が迫ってくる。

(ああ、ダメじゃ、目が霞むわ)

 キーンと鼻の奥で音がひびき、目の前が白くなった。いつしか肩の総四郎も気を失って重くなっている。

 ドウッと倒れ伏したところは間一髪森の中――だったが、それでも2メートルほど奥に入ったにすぎない。

 余力をふりしぼって、4メートル、5メートルと這い進んだところで、権十郎の意識も遠くなった。昏倒した。

 森の外には槍を手にした3騎の武者が馬首を揃えている。

「さっき2人の男がここへ飛びこむのが見えた。まだ遠くへ行ってはおるまい」

「よし下馬して山中に分け入らん」

 と、馬から降りようとした騎士たちだったが、

「おい、皆の者! そこで何しておる。こっちへ来よ――!」

 という絶叫で思いとどまった。

 旗指物はたさしものを背にした1人の騎馬武者が、手をあげながらこちらへ疾駆してくるのである。その恐慌ぶりを見て、騎士の一人がいう。

「どうした左平次、何としたことぞ」

「敵の来援が現れたという話じゃ。めっぽう強いらしい。ともかく本街道へ!」

「なんと!」

 こうしてはおれぬと手綱をひき、4騎の武者たちはドロドロと馬蹄をとどろかせて北へ走っていった。


●分銅


「おおっ、おおっ、おおっ!」

 射上盆地の東端、南山城へつうじる本街道の坂道で、数十という騎馬武者たちの胴声があがる。

 彼らは槍を構え、あるいは振りまわし、あるいは威嚇の声をあげるが、一歩も前進することができない。

 彼らの前に、黒鹿毛にのった覆面の騎士が立ちはだかっているからである。

 その手には長巻の白刃がきらめく。

 騎士の背後には、身も重たげに街道を敗走していく数百の農民たちの姿がある。

「とエアアアアァァーー!」

 騎馬隊の1人が咆哮ほうこうを発し、するどく槍を突き出してきたが、数合打ちあったところで、長巻で胸を突かれて落馬した。

 さらに、2騎、3騎と武者たちが飛び出していくが、金属が弾ける音とともに次々と落馬していく。

 その間に、覆面の騎士もじり、じりと後退する。敗走する農民はどんどん遠ざかる。

 やがて遊狭方の武者の一人が『言わでものこと』を叫んだ。

「あれは波岡谷で見た騎士じゃ!」

 たった一人で舟入玄蕃ふないりげんばを討ちとり、庄屋衆を救い出し、一揆衆を勝利にみちびいた謎の騎士。その噂は遊狭方の武士の間でも、もちきりだった。

 言うまでもなくこの騎士は典厩てんきゅうの小竹ノ君である。

「あれが!」

「おおお、討ち取って手柄とせよ!」

「玄蕃殿の仇をとれ!」

 武者たちはさらに息み立ったが、相手が「例の騎士」と知ると余計前進することができない。ただ胴声をあげて威嚇するだけだった。

 その間に背後の農民たちはどんどん逃げる。

(あいつか……例の騎士というのは)

 この様子を、街道をはさんだ山林の奥、太い枝に立って眺めているヤサ男。

 五百住弾正武久。

 その細い目をさらに細める。

(あいつのお蔭で予定が少しばかり狂った。今後チョロチョロされると目ざわりだな。ここで始末しておくか)

 すっと懐から分銅のような鉄塊を取り出す。それを紐にひっかけて、グルグルと頭上で旋回する。その回転はしだいに激しさをます。

 ピュッ――

 と弾正が手をさしだすと、紐からはなれた分銅は弾丸のように直進し、小竹にむかって飛来する。

 しかし、

 カキン

 という音ともに分銅ははじかれ、むなしく地に落ちた。

 弾正はポカンと口をあける。

(弾かれた、え――?)

 しかし小竹はキョトンとした顔であたりを見回している。気づいてないらしい。

 その間に騎馬武者の1人が飛びかかってきたが、これまた長巻で突き押しまくられて背中から落馬した。

(角度が悪かったのか……ならば)

 弾正は森の枝から枝に飛びうつり、今度は小竹の背後から狙いをさだめた。

 そして例のごとく、ピュッと分銅を射出する。

 しかしこれもカキンと弾かれて、ぽとんと馬の尻に落ちていた。

 小竹は「ん?」と後ろに顔をむけている。

 弾正は枝の上から飛びおり、地にしゃがみこんだ。

(鉄板をも貫通するわが印字打いんじうちが2度も弾かれるとは……妖術でも使いおるか)

 腰にさした2本の刺突剣をゆっくり引き抜く。

 剣で手ずから仕留めようというのであろうが、それには遊狭兵の目に身をさらすことになる。

 しかし弾正はいささか気が急いていた。

 その彼の背後に、ゆらりと立つ影があったことに弾正は気づいていない。


狐狸こり


 ドッ!

 何が起こったのか――

 身を低くし、双剣をかまえた五百住弾正は、凍りついたように動けなかった。

 というより目の前にあるものを認識できていない。

(な、なんだ?)

 視界の焦点が絞られるとともに、それは黒く、細く、鈍く光るものである事に気づく。

(竹の炭? いや)

 しゃがみこんでいる自分のすぐ目の前に、一垂の剣が突き立っているのである。顔からそれまで1寸(3センチ)の差もない。

 それにしてはなんという刀身の黒さか。世にこんな墨のごとき剣があるのか――

 やがて背後から声がした。

「山には妙なものが棲んでおるな。狐狸が変じて牛若丸に化けたるか」

「―――!」

 弾正は身をひねって、ビュンッと両手の刺突剣を一旋させる。しかし剣はむなしくまわりの樹幹の表面を削っただけだった。

「おのれ、何者……!」

 立ちあがる弾正。その額には青筋が浮いていた。今までこれほど敵の接近を許したことはなく、また背後を取られたことなど一度もない。

「先の印字打ちをやぶったのも貴様の仕業か」

 しかしいらえはない。ただ深い森の中、陰影がさまざまに変化する木々の間を、なにかとてつもない殺気のかたまりが左右に走っているのを感じる。

 その殺気がしだいに一点に集中していく。

 そのとき、樹上の葉がひらひらと落ちてきて、弾正のうなじをサワリ……となぜるように落ちてきた。

「―――!!!」

 それ以後の行動は、弾正の意志によるものではない。防衛本能というべきものだろう。

「ちぇええええええええええぇぇぇ――」

 怪鳥音とともに刺突剣の連続突きが炸裂する。

 空中にとどまったままの落葉がたちまち粉となる。

 弾正の前にあった樹の幹が、カカカカカカッとキツツキに突かれたような音を発し、ベコッとまるく陥没した。

 殺気は背後にまわる。

「チャハアアアアアアァァァァァ―――」

 メチャクチャに剣を突き出していく。削られた木の皮がパラパラと舞い、粉雪のように弾正に降りかかる。

「アッハハ、雪の五条大橋のようじゃな」

 ようやく闇の中から声がした。

「にしても、そもじは狂人か。そんな狂ったような乱れ突き、わらわの目でも捉えきれぬわ。間合いにいたら蜂の巣にされておる」

「わらわ? 女か、貴様!」

「まあどうでもよい。わらわの役目は終わったわ」

 見れば、林の外の街道に、小竹の姿も、遊狭兵の姿もなかった。

 小竹はみごと後殿しんがりの役割を果たし、ぶじ逃げおおせたらしい。

 弾正が虚空にむかって叫ぶ。

「待て、おぬし名は」

「そんなもん聞いてどうする」

「き、貴様だけは許さぬ。この私をこれほど侮辱したやつはお前がはじめてだ。いつか必ず殺してやる! 必ず殺してやるぞ!」

「あっはは、そんなやつになんで名乗らにゃならん。狂人で阿呆あほうかよ」

 そんな陽気な声とともに、殺気が消え、ふたたび林にもとの静寂がもどっていく。

 弾正は頭に降りつもった木屑をいまいましげに払い、真っ赤にそまった目を、誰もいないはずの宙に向ける。

(どっちが狐狸だ――)


永応斬鉄録かなこ09


●山菜


 その夕暮れのこと、神宮寺村の少将屋敷にカナコが帰ってきた。

 肩に竿をかつぎ、手には山菜がどっさり入ったワラ袋をさげている。いつもの山菜採りスタイルである。

 のはいいのだが何かやつれたような、疲労困憊といった感じで、屋敷にいたる坂をヨタヨタ登ってくるのである。

「つ、疲りた……」

 離れの土間にドサッとうつぶせになるや、尻を突き出したまま眠ってしまった。

 そのむっちりした尻をじーっと見下ろす於勝おかつの大柄な影。

「おかえり。なんだいその恰好は」

「あ、これ」

 とカナコはその恰好のまま、山菜の入った袋をさしだす。

 於勝は下唇を突き出しながら、

「山菜採りに行ったわりにはずいぶんクタクタな様子じゃないか。どこまで行ってたんだい」

「へへ、裏の墨染山」

「ウソをおいいよ。朝から晩まで山菜採ってたのかね。それにこの種のコゴミは伏美のあたりじゃ採れ……」

 といってからじっとその葉を見つめている於勝。彼女は「漢方の調合」が特技の一つなので山菜にはくわしい。

「まさか河内まで行ってたんじゃないだろうね」

「……クー……カー」

 土間にヨダレをひろげながらイビキをかきはじめる。尻を叩いてあわてて起こす於勝。

「もーあんたまで一揆に行ってどうするんだい! あーこの人ってば油断もスキも!」

「い、イッチなんて、行ってませんよぉ、ええ……ふへ」

 ちなみにこの神宮寺から河内祇園山かわちぎおんやままでは直線距離でも20キロ(往復40キロ)ある。駆ければ1刻(2時間)もせずに着くが、歩くと1日がかりになる。

 近ごろ遠出していないカナコには相当なハードワークになるはずだった。

 カナコと前後して、黒鹿毛にのった小竹こちくもカッポカッポと屋敷に帰ってきた。

 離れにいるカナコと於勝の様子をキョトンと眺めている。それに気づいて於勝がペケペケとカナコの尻を叩く。

「あ、小竹さんも帰ってきたよ、ほらほら!」

「あ、コ、コチクっどん。お、おひゃえりぃ~、ふへへっ」

 ペケペケ叩かれるたびカナコは尻を左右に揺すったり、突き出したりしている。

「………?」

 小竹はひらりと馬から降りる。そして静かな声で、

「すぐに夕餉の支度をいたします。???」


僥倖ぎょうこう


 河内と山城の国境あたりにある波岡谷なみおかだには、敗走してくる農民で充満していた。

 10人に1人は負傷していたが、そのほとんどは敵と刃を交えたせいではなく、転んだり、後続の味方に押されたり、崖に滑り落ちてケガを負った者だった。

 なにしろ何の訓練もなくいきなりスキクワをもって重装備のプロ(サムライ)と戦うのである。

(それにしても、こうまでとは)

 地にしゃがみこんでうな垂れている農民たちを見て、一揆勢の総帥田名布六蔵たなぶろくぞうは絶望に似た感情を抱く。

 先の不動城と妙顕みょうけん城を落とせたのは、ただ初手の勢いと運のたまものにすぎないのではないか。

 この一度の惨敗によって厭戦感が拡がっていくのではないかという不安がある。

 しかし一揆勢には思わざる3つの救いがあった。1つは、

「あの覆面の騎士様が現れたそうだ」

 という噂が農民たちの間でささやかれ出したのである。

 あの騎士は一度だけではなく、これから何度も我らを助けてくれるのではないか。

 そんな希望が農民たちの心をわずかに明るくした。

 そして2つ目は、それまでその生存が絶望視されていた六蔵の子、田名布総四郎たなぶそうしろうが帰還したのである。

「若じゃ!」

「総四郎殿じゃ! 権十殿も一緒じゃ!」

 はるか波岡谷のつづら折りの坂をくだってくる田名布総四郎。その肩にはもはや歩くのもやっとな馬崎権十郎うまさきごんじゅうろうを助け抱えているのが見える。

 2人が森に逃げ込んだあと、彼らは気を失ってそのまま夜になったが、先に目覚めたのは総四郎のほうだった。ひと眠りしたおかげで彼はやや体力を回復していたのである。

 その残された体力で権十郎を助け起こし、河内の山中をさまよい、ようやく波岡谷の一揆勢と合流したとき、すでに3日が経とうとしていた。

 歓呼の声をあげながら群がってくる農民たちに、総四郎はほとんど泣くような声で、

「権さんを介抱してくれ! 恩人じゃ! この人がいなければ俺は死んでいた!」

 と権十郎の巨体をたくし、そのまま地にくず折れてしまった。2人は農民たちに担ぎあげられながら後方の妙顕城へ運ばれていった。

 この事件が一揆全体の士気を回復させた。若衆のリーダー格的な総四郎は、もはや父親にも匹敵するほど存在感が大きくなってきている。

 そしてもう1つは、この南山城とは関係のない、京洛の地で起こった。


●観能会


 きっかけは取るに足らなかった。花ヶ岡の妙安寺でひらかれた観能会の席で、侍同士が喧嘩をしていたのである。

 京兆院家の重臣上屋素秀(かみやもとひで)。そして野洲家の塩川杢兵衛(もくべえ)。その双方の家臣たちが、席次の事でちょっとした言い争いになった。

 上屋素秀といえば京兆院けいちょういん家の外交官として重きをなし、野洲家との折衝で活躍して野洲義国やすよしくにからも認められた京洛屈指の名吏である。

 そして塩川杢兵衛は野洲家の家臣であり、上記の事をあわせて考えれば上屋に遠慮すべきであった。

 しかし両者の言い争いは加熱してとどまることを知らず、やがて白刃を抜いての乱闘となった。

 目撃した者の話によると、上屋素秀も塩川杢兵衛も、この乱闘をただオロオロと遠巻きに見ていただけだったという。

 そしてすべてが終わった時、そこには血にまみれて倒れ伏した素秀と杢兵衛の姿があった。

 杢兵衛は即死。素秀は重症を負い3日後に息をひきとった。

 俄然、野洲義国がその禿頭とくとうを真っ赤にして激昂げきこうする。

「かの上屋素秀は、京兆院家の寵をかさにきて奢りたかぶり、われら野洲家の郎党をあなどり――」

 以下は省略。表面は激怒しながらもここは管領家の影響力を削ぐ好機だという魂胆があったのかもしれない。

 いっぽうの京兆院晴氏のほうも、上屋素秀の死は痛恨だった。晴氏は素秀に三吉長真みよしちょうしんに次ぐほどの信頼を寄せ、多くの権限を委譲さえしていたのである。

 いつもは義国に何を言われても涼しい顔をしていた晴氏もこの時ばかりは色をなし、京兆院家をあなどった塩川杢兵衛の僭越をなじった。

 評定の場は、晴氏と義国の言い争いの場となった。

 義国がいう。

「このままでは一揆鎮定にあたり大いなる差し障りとなるであろう。一刻もはやく責任の所在を追及し、事の真相を」

「責任者はすでに死んでおるわ。それともこの晴氏にその咎ありと申すか」

「そうは言ってござらぬ。ただ上屋素秀が宰相殿の権威をかさにきて」

「権威権威という。しかしその塩川なる者には何の落ち度もなかったと、野洲家の実力を鼻にかけての傲慢不遜はなかったと言い切れるか」

 かくして評定はかぎりなく続く。いつもは止めにはいるはずの三吉長真だが、このときは鉄面皮をたもったまま静かに端坐していた。

「やめじゃやめじゃ」

 晴氏はかぶっていた冠をわきに放り投げた。

遊狭ゆさもその塩川なる男もおなじじゃ。家臣の不始末の責任をその主君に求めるというなら、南山城の騒動もおぬしの責任という事になる。一揆を鎮定したければおぬし一人の力でやるといい」

「な、なんと……」

「こたびの評定はこれにて打ち切る。以上だ」

 あまりの屈辱に真っ青になって震える義国を尻目に、晴氏はそのまま自邸に帰ってしまった。

 この一件は、晴氏にとっては一揆鎮定をわざと遅らせる口実にもなったが、しかしこの時は感情が勝っていた。上屋の死は、これまで練りあげてきた管領家拡大の計画のいくつかを練り直すか、あるいは放棄することになるからである。

 この事件は妙安寺観能事件として後世にも伝えられるが、これにより京兆院家と野洲家の決裂がひろがり、のちに起こる『京兆院の政変』の端緒となっていくのである。


●焦燥


阿呆あほうぞろいか、閣僚たちは……」

 遊狭高教ゆさたかのりは虚脱したように京洛でおきた事件のあらましを聞いていた。

 京洛からこの祇園山までは30キロほどにすぎない。来ようと思えば幕府軍は一昼夜でこの地に辿りつけるはずである。

 それが最初の戦勝から10日も経とうとしているのに幕府からは何の応答もなく、ばかりか例の事件である。しまいに管領晴氏はヘソを曲げて義国に会おうともしないという。

 豪胆無比といわれた高教ですら気が遠くなりかけた。

 しかもふたたび一揆勢がこの祇園山にむけて進発してくるという報が入る。「持久戦に持ちこめば士気退潮する」という高教の予想を裏切って、一揆勢はさらに意気軒昂の勢いだという。

 数はさらに増えて15万。

(うぬが、死んでくれるわ――)

 そんな自棄的な感情とともに、高教は目を朱にして立ちあがる。いやむしろまだ勝利できる確信が高教にはあった。

「この射上いかみ盆地に足を踏み入れた者は誰一人として生かして帰さぬ。根切りに(殲滅)せよ!」

 高教はそう下知するや、8千の軍勢を麓に駆けおりさせた。そしてあり得べきことに、みずからの手で田を焼き払ったのである。これには射上の百姓たちが驚倒した。

 いまだ黒煙あがる焼け野原となった平地に、高教は正々堂々の陣形をしいた。

 稀世の英傑といわれた遊狭高教の秘中の秘、常勝必殺の布陣である。まさに8千の命をかけて15万の一揆勢を鏖殺おうさつせんとの気迫がみなぎっていた。

 しかし盆地にすむ領民たちはそれどころではない。

「あと1月も待てば稲穂が実り、豊かな収穫が得られたのにのう」

「先の戦のとき、一揆勢は田にいっさい手をつけなかった。なのに殿様のこの仕打ちは何とした事じゃ」

「田名布の六蔵殿が仁者だというのはまことであるらしい。われら、頼うだる人を間違えたのではなかろうか」

 そんな声ならざる声がささやかれる中、ふたたび一揆勢のムシロ旗が射上盆地の東辺からにじみ出てきた。

 以前とはちがいその動きは粛々としており、水が低きに落ちるがごとく自然であった。その静けさがかえって15万という大群衆の存在感をひきたてていた。

(練度が高まっておる……)

 一目見て、高教はそう察した。

 彼らは一度でも戦がどういうものをかを経験した。しかも負け戦を味わい、生き残った者はいやでも優秀な兵士にならざるを得ない。という持論が高教にはあり、それを人にも語っていた。その持論をまさに実地で見せつけられている観がある。

(しかしそれでも付け焼刃にすぎぬ)

 中軍にある遊狭高教の両脇には、陽をうけて白銀に輝く鉄獅子が控えている。しかも前衛には丘のような威容をたたえて山麒麟やまきりんがそびえ立っていた。

 高さ6メートル。体長は10メートル。胴体は大亀に似て寸胴だが、頭部だけは麒麟のように高く突き出し、ぐわっと開けた口から火槍かそうとよばれる火薬式の鉄矢を放つ。

 その威力は後年の大砲には比ぶべくもないが、煙と火をまいて飛ぶ矢の視覚的な迫力は農民たちの肝をひしぐのに十分であろう。

「な、なんじゃありゃあ……」

 これまで鉄獅子を見たことはあっても、山麒麟をはじめて見る農民も多く、肩をダラリと下げて放心している者もある。

 永応3年8月22日、第2次祇園山城の戦い勃発。


●七条


 どうっと空が鳴った。

 短い夏の日ざしが京洛の屋根屋根を炒りつけているが、砂風がつよく、埃っぽい。

 京洛の七条通りぞいにある茶店。店の前にある柳の葉が、風にあおられて忙しげに揺れている。

「また一揆勢が負けたそうだねぇ」

 しわがれた声が茶店からもれ聞こえてくる。主人の声らしい。

「祇園山の河内守かわちのかみ(高教)様は、やっぱりお強いねぇ」

「どだいサムライに勝てるはずがないんだよ」

 客がそれに応じる。どこか他人事といった風だった。

 茶店でそんな声を耳にしながら、於勝は立ちあがって主人に銭をわたしていた。七条の大通りに出る。

(小竹さんは大丈夫だろうか)

 小竹はここ数日屋敷を留守にしている。おそらく先の敗戦にも加わっているのだろう。

 そしてカナコも半日出かけている事が多い。山菜採りだとか魚釣りだとか口実をつけているが。

 於勝はテンから「戦」が嫌いである。嫌いすぎて、ちょっとでも合戦の起きそうな土地からはさっさとカヌーで立ち去ってしまう。

 本当はこの京洛からも離れたいのだが、海が荒れているため遠出ができず、また少将屋敷の留守も預からねばならない。

 なによりカナコたちとの生活がひどく居心地がよすぎて、つい長逗留してしまうのである。今まで万里の波濤をこえて長い航海生活をしてきたのは、結局あの屋敷に辿りつくためだったのではないかとさえ思う。

(まあカナコさんがいるから大丈夫か……)

 そのまま七条の通りを東へゆき、壬賀茂みかも川の河原に出た。そこに於勝のカヌーが繋留してある。

 そのカヌーに、しょっていた袋をおき、乗りこもうとした時である。

 ひたり

 と首もとに冷たいものを感じ、於勝は動けなくなった。

「………」

 たしかに背後に人の気配を感じる。そして首筋に押しつけられたものが刃である事もすぐわかった。

(それにしても、この私が……)

 於勝も龍球りゅうきゅう拳法の達人である。油断をしていたとはいえ、彼女の背後を取るとは並みの使い手ではないことはたしかだった。

「久しぶりだねぇ」

 と背後の影が声を発した。

 すらり、と蒼い刀身を抜くような、鋭利で冷たい響きだった。

「まさか阿仁屋あにや宇嘉茅うかちがこの京洛にいたとはね。ちょっと誤算だったよ」

「その声は……」

「動くんじゃない。かささぎ五郎蔵ごろぞうは死んだよ」

「五郎蔵が……なんで!」

「記憶を消されて任務を忘れたのを恥じて自決したのさ。記憶操作なんて器用なことができるやつは世の中そんな多くない。まさかと思ったら、そのまさかさ」

「カシラは、斎洲さいすの旦那はどうしたんだい。旦那ならそんなこと笑って許したはずさ!」

「カシラも死んだよ、2年前にね。心労が祟ったのさ」

「斎洲の旦那が……」

 於勝は目を閉ざし、全身からダラリと力を抜いた。

 その直後、ストンと落ちるような勢いで身を低くし、首に押し当てられた刃から逃れた。

「―――!」

 気づいた時には、拳をかまえ、こちらに向きなおっている於勝の姿があった。

 於勝の背後にいたのは、市女いちめ笠をかぶり、白地に桜花をあしらった小袖の女だった。背には藁で編みあげた箱を背負っている。

 いかにも行商の連雀女れんじゃくめといった装束である。

「さすが宇嘉茅だねぇ。参信さんしん親方うぇーかたからお墨付きをもらった天才だけあるよ。この虎麿とらまろの眼から逃れるとは」


●秘宝


 市女笠の両脇には半透明の白薄布がひらひらと揺れ、そのあわいに女の顔が見える。

 左目に眼帯をしている。

 右目は細く、鋭く、まるで手にした剣尖のように一点に於勝を睨みすえていた。

 於勝がいう。

「虎麿、お前たちの狙いはなんだ。なぜあの屋敷を付け狙う」

「それをヌケヌケともらす虎麿だと思ってるのかね。見くびるんじゃないよ」

「あの屋敷にはお前たちの望むものなど何もありゃしない。ただ貧乏な公家さんと、ちょっとへんな人が住んでるだけ。それだけさ!」

「………。まあいい昔のよしみさ、ちょっとだけ話してやろう。あの御屋敷にはものすごい宝があるのさ。それも扶桑ふそう中の大名がどんな大金を積んでも惜しくない、なのにヨソの国の人間には半銭の価値もないお宝がね。おもしろいだろう」

 くすりと唇の口辺があがる。目に氷のような殺気を保ったまま。

「なんだね、そのお宝とは」

「そこまで私も詳しくないよ。ただ命じられてるだけだからね。それに神宮寺のお宝はあまり重要じゃないらしい。ただ様子を見ろとね」

「依頼主は西国方かね」

「……どうしてそうと」

玖機八幡衆くきはちまんしゅうは西国方にさんざんな目に遭った。だからお前たちはその手先となることで生き残りをはかった。ちがうかね」

「………。ぼーっとしてるようで、妙なところで知恵の働く御人だね」

 虎麿なる女はふっと全身から殺気を解き、手にした剣を鞘におさめた。

 おさめる時、シュルシュル、ポンという音がした。

 先ほどと打ってかわって、虎麿の目が旧知の友を見るような色になっている。

「ここは宇嘉茅の顔に免じて、しばらくあの屋敷は狙わないでおくよ。お前もあの屋敷の秘には気づいてないようだし」

「今はお前がカシラなのかい」

「そうさ。おかげで50人の手下どもの面倒を見なきゃならない。もしこの企てが成就した暁には3万石の所領をもらえる事になってる」

「3万石。南海を所せましと暴れまわった玖機八幡衆にしては器の小さい話じゃないか」

「それでも万石さ。諸侯になれるんだ。子分たちも槍持ちの足軽がついた馬上身分さ。もう誰にも頭を下げることはないんだ!」

「………」

 於勝はだらりと力を抜き、川面に目をやった。もし斎洲の旦那が生きていたら何というだろうか。たぶん「なんて情けないこと言いやがる。そこまで玖機八幡は落ちぶれたか」と泣くかもしれない。しかしそれを言えば虎麿は怒るかもしれない。

 それにしてもなぜ虎麿は自分の前に現れたのだろうかと思う。わざわざ秘を於勝に漏らすために来たのだろうか。

 しかし次の瞬間、於勝はなんとなくわかった。すでに土手にあがっている虎麿が、去り際にこんな事を言ったのである。

「五郎蔵の事は、この私だって許したさ。でも五郎蔵は仲間へのシメシがつかないといって自分で責任取っちまったのさ。それだけ私には斎洲のカシラほどの器量がなって証拠だろうよ」

「………」

「お前とはゆっくり酒を酌みかわしたかったがね、今はそうもいかぬ。また会う事もあろうさ」

 たんに昔の友を懐かしんだだけなのかもしれない。


土嚢どのう


 結局、野洲義国は本拠地の因幡いなばに帰還していった。

 事情を知らない京人は「素破すわ、戦か」と戦慄したが、ただ義国は京洛にいては思うように行動できないからである。

「一揆鎮定はおぬし一人でやるがよい」

 という京兆院晴氏の言葉をそのまま実践するためだった。そのため本国で兵をかきあつめ、その大軍で一揆勢を攻めようという肚だった。

 しかしこれでまた救援の話がのびのびになる。遊狭高教は焦怒した。

 第2次祇園山城の戦いはたしかに高教の勝利で終わった。しかし思うような戦果はあげられなかった。

 高教の目的はただ「敵の殲滅」だったはずである。だからこそ全軍を麓におろさせ、田を焼きはらう事さえした。

 しかし一揆勢の被害は第1次の時よりむしろ少なく、退路も数ヶ所もうけており、後退も速やかだった。

 しかも彼らは背に土嚢を背負っており、それで矢を防ぐいっぽう、地面において簡単な防塁をつくり、騎馬や鉄獅子の追撃をはばんでしまう。

 先の敗戦の経験から、よほど念入りに打ち合わせをした結果であろう。

 が、高教がもっとも衝撃を受けたのは戦場である一人の騎士を見たことだった。

 覆面に白いマント。そして赤と黒の鎧をまとい、手には長巻がきらめく。顔はやや褐色をおびており東国の人間だという事が知れる。

 それが黒鹿毛くろかげの駿馬にうちまたがって、むらがる遊狭兵を次々になぎ払っていく。

(まさか、典厩てんきゅう家の小竹ノ君が)

 高教も野洲家の重臣筆頭である。京洛で一度だけ小竹を見たことがある。その時の印象と、あの騎士の印象がダブるのである。

 典厩家の残党が一揆軍の中に紛れ込んでいるのではないか。それで一揆勢はあんなに練度を高めているのではないか。

 しかも怨敵野洲義国のかたわれとして遊狭高教をも憎悪しているのではないか。

(もう一戦したら……)

 遊狭高教はずしりと鉛のつまったふくろを背に載せられたような気分になる。

 それゆえ戦勝にわきたつ味方の中で、高教ひとりが鬱々と楽しまない顔をしていた。


●羊雲


 避難場所として設定した波岡谷に、ぞくぞくと退却者が雲集している。

 しかし今回の農民たちの顔に、以前のような重苦しさはない。中にはケタケタ笑ってしゃべくっている者もいる。「ささもってこよ!」と怒鳴る者もいる。晩飯の心配をしている者もある。

(手ごたえを感じている)

 柔らかな笑みをたたえながら、彼らの様子をながめる田名布総四郎。あと何戦もすればひょっとして勝てるのではないかという予感がある。何しろ15万人である。余裕はたっぷりあった。

 そのとき、さらに彼らを湧き立たせる出来事がおこった。

「見よ、騎士様じゃ!」

「救い主じゃ!」

 見れば波岡谷の本街道、城壁のように高くせりあがった坂道の上に、その騎士は長巻をさしあげて馬を止めていた。

 そしてゆっくり坂の下へとおりてくる。その馬の尻には負傷した2人の農民を乗せていた。

 わああ、わああ、と群衆がむらがってくる。彼らに負傷者たちをゆだね、騎士はそのまま坂の上にむかって立ち去ろうとしている。

「お、お待ちください!」

 あわてて騎士に駆け寄っていく総四郎。騎士は……というより小竹は馬をとめた。

 総四郎は片膝をつき、小竹を見上げながら哀願する。

「私は田名布総四郎という者です。どうか、このままお立ち去られにならず、我らとともに妙顕城までご同道くださいませぬか。父の六蔵とともに、あなた様に救われたお礼の饗応きょうおうがしとうございます。なにとぞ、なにとぞ」

「お気づかいありがとうございます。しかし今は万事物入りな時のはず。饗応はご無用に願います。このまま失礼させていただきます」

「な、ならば、せめて御名なりとも」

「………」

 小竹は口ごもった。ふと空を見上げる。そこにはひとかたまりの羊雲が浮いていた。

「神、宮、寺、えと、えと」

「じん、みや、でら?」

「し、神條しんじょう、一雲という者です」

「神條一雲。おお、なんというお美しい名であらせられるか」

「そ、それでは、失礼します」

 なぜか小竹は気恥ずかしくなって、あわてて馬を走らせていった。名前がちょっとキザっぽかったせいか。総四郎がちょっと美男であったせいかどうかは知らない。

 立ちあがってその後ろ姿を見送る総四郎。

(なんという強く、凛々しく、そして奥ゆかしく、お美しい方であろうか。ああ)

 彼の頬はやや紅潮し、瞳はわずかに潤んでいた。いまだ18歳。おそらく初恋に似た感情が胸に満ちていたのかもしれない。

 ともあれ、

 神條一雲――

 扶桑の戦国史上において忘れがたい名が、この時誕生した。

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