室町クリスタル
永応斬鉄録かなこ04
●短甲
伏美の大荒野には、夜間になると物の怪が出るという。
しかも地方から流れてきた浪人・無頼者・浮浪人たちが棲みつき、あちこちに小屋掛けをしており、荒れ野に入ってきた旅人を襲うという。本当に襲っているかどうかは不明だが、周辺の農民たちはそう信じている。
それゆえここに足を踏み入れる者は皆無といっていい。夜間ならなおさらである。
しかしその夜、その闇の荒れ野を疾駆する影の群れがあった。
野犬かオオカミの集団であれば、個体個体の動きはある程度乱れたち、上からみるとちょうどアメーバが移動しているような姿になるはずである。
しかしそれらの影の群れはきれいな長方形をなし、みな等速で走っていた。たまに大きく跳躍して、灌木や窪地を飛び越えたりするが、おのおのの距離はあくまで一定である。
それらの影は一路、街灯がちらほらともる京洛めざして北上している。
その途中、湿地のそばに掘っ立て小屋がたっていた。用を足そうと小屋から出てきた無頼漢のそばを、影の群れが通りすぎる。
あまりに一瞬の出来事だった。男は気づかないまま湿地の前で裾をたくしあげようとしたが、その全身に無数の墨縄が打たれたような直線が浮きあがる。
ジャッ
と小砂利が弾けるような音とともに、男の全身は四分五裂し、黒い霧になって大気に流れた。
影の通りすぎるところ、人といわず、樹木といわず、オオカミといわず、物の怪といわず、すべからく裁断され、消滅する。
やがて影の群れはやや小高い隆起にのぼり、はるか京洛の街を見下ろした。「花の御所」といわれる柳営将軍府、管領京兆院邸、そして禁裏の大極殿の大屋根が篝火に照らされてぼんやり闇に浮かんでいるのが見える。
影の群れはすべて人の姿をしていた。その中のリーダー格らしき人物が、覆面から顔を出し、背後の群れどもに振りかえる。
女だった。まだ若い。
眼帯をし、頭の後ろに太い縄のような三つ編みの髪を一本、ネコの尾のように垂らしている。
「命は鴻毛(鴻の羽)の軽きに似る」
眼帯の女がいう。
「皇都京洛の地は我ら玖機八幡衆の結界に入る。一同、魔界に投ぜよ!」
それに応じ、配下どもはみずからの胸を叩く。そのたびガシャガシャと金属音がした。黒い衣の下に鋼鉄の短甲をまとっているのである。
「鼬――!」と女が叫ぶ。「はっ」「そなたは東ヶ峰。行け!」
「蛇――!」「はっ」「そなたは花ヶ岡。行け!」
「葎――!」「はっ」「そなたは木栖川。行け!」
いちいち配下に指令をくだすたび、影が三三五五と四方に飛び、集団の輪が小さくなる。
やがて女だけが残される。
彼女は背中に横たえた長剣を引き抜き、そのギラギラした刀身を京兆院邸にむかって掲げる。
「そして京兆院晴氏。そなたの素っ首はこの実穀院の虎麿が、獲る!」
ヒュンと長剣を横にはらう。その斬撃ははるか10間(18メートル)ほど先の灌木を両断した。
それは剣気で斬ったのではない。刀身そのものが驚異的に伸びたように見えた。
直後、女の姿も闇に消えた。
●巨岩
木栖川
カナコたちの住む神宮寺村の3里(12キロ)ほど南に流れる川である。
その川の両辺はやや広めの谷をなし、南にある大和国にむかってえんえん田園地帯のベルトを形成している。
ここも伏美ほどではないが、打ち続く戦火、そして永応の冷害により休耕田が目立ち、あちこちにススキの野がひろがっていた。
というより当時は扶桑のどこもこんな具合であったが。
その田園地帯の、いかにも交通の要衝といったところに田名布郷の大邑がある。「田名布千軒」といわれ、南山城では中心地のような郷村である。神宮寺村の馬崎権十郎もわざわざここまで足をのばして遊んでいる事が多い。
その田名布郷の北の端、木栖川がすぐそばを流れる森の中に、慈源院という小さな寺があった。
その慈源院の本堂から、ほがらかな笑いとともに人が吐き出される。
大柄な女だった。
全身むちむちといった風に肉づきがいい。それに露出の多い服装をしていた。
あまり京周辺では見ない服装である。
その後から彼女より頭ひとつ小柄な老僧が、ケタケタと打ち笑いながら出てくる。
「おおきにおおきに。いつも御苦労さん。これは運び賃じゃ。また頼みますわ」
その代金を受け取りながら、
「今度来るときは天城島の黒砂糖でもみやげに持ってくるよ。いつも和尚さんには世話になってるからね」
女はお天道さんもハダシの弾けるような笑顔をみせる。白い歯がびっくりするほどキレイだった。
ふと、女は寺の本堂脇に置かれた「物体」に目をむけた。
葛籠ほどの大岩が2つ、無造作に置かれている。
「和尚さん、前から気になってたけど」
「なんだね」
「あの岩はなんだい。なにか霊験でもあるのかね」
そばを流れる木栖川の河原にも石がたくさん転がっているが、あれほど大きなものは見かけない。
「霊験なんかあるかい。疫病神じゃ」
和尚は爪先で岩をコツコツと蹴りながらいう。
「この間の大水の時に川から流れてきた岩よ。たぶん川上の山から流れてきたんじゃろ。あんまり大きゅうてワシ一人では運べんでな」
「村のもんに運ばせればよかろうに」
「村のもんは忙しそうじゃから」
近ごろ田名布村の名主の六蔵という人物が、領主の遊狭高教に対し荒蕪地の再開発を嘆願したという。
あまり嘆願のしつこさに高教もついに折れ、ようやく許可をおろしたのである。
それで村の者はその開墾に駆り出されているという。
それを聞いて女は感心げにいう。
「やっぱり京はすごいねぇ」
「なんでじゃ」
「うちの与姥呂島じゃ、地頭さんに嘆願なんかしたら首刎ねられてしまうよ」
愉快そうにケタケタと笑った。
女は2つの岩に近づき、ペンペンと岩肌を叩きながら、
「じゃあコレもらってってもいいかい」
「もらうったって……どうやって運ぶんじゃ、こんな」
「こうやってサ」
なんと女は岩の一つを抱えあげ「よいしょ」と左肩に載せたのである。
さらにもう一つの岩を右肩にも載せていた。
それでも顔にはなお余裕があった。
和尚はおどろいて声もない。
「こういう岩を欲しがってる人が近くにいるんだよ」
●小舟
そのころのカナコといえば……喧嘩をしていた。
相手は例のごとく馬崎権十郎である。
ブーン、ブーンと威勢よく錆び槍を振りまわす権十郎の背後では、子分の茂助がウンザリしたような、ふてくされたような顔をしている。
気絶した権十郎を運ばされるのはいつも茂助なのである。
こういう事がここ半月で5度もあるので、カナコに同行している小竹ノ君も慣れっこになっている。
道ばたの切り株にすわってぼんやり夕陽を見ていた。
「うおらっ、うおらっ、うおらああああ!」
ビュンビュン旋回する槍の穂先を軽くいなしながら、カナコはヘラヘラ笑っている。楽しくて仕方ないという顔である。
どうもカナコはこの権十郎という男を憎めないらしい。愛情というほどではないが、それに近いものを権十郎に抱いているのではないか。と小竹は勘繰ってしまう。
(そういえばカナコ殿には好きな人いるんだろうか)
カナコに関して色気のある話題をついぞ聞いたことがない。というか風貌も性格も男っぽすぎてそういうものを受けつけないのかもしれない。
(あるいは少将殿と……)
と想像したが、あわててその想像を打ち消した。破滅的なほどに合わない取り合わせである。
などと小竹は自分のことはさておいて脳裏で想像している。
ときにカナコたちが立っている街道の西側には、幅3メートルほどの小川が流れている。以前権十郎が落ちた小川である。
その小川から「ズシン」という音が聞こえたような気がして、小竹はそちらに目を向けた。見れば川に小舟がとまっている。
今まで見たこともないような構造である
笹の葉のように細長い胴で、ふつうの小舟より船底深く、中にたくさん木の棒が置かれている。棒は何に使うのか。
舟というより「艇」という字がぴったりくる。
が、小竹が驚いたのは舟ではない。
川辺から道まではゆるやかな傾斜になっており、そこをズシン、ズシンとさながら岩山のごとき「巨人」がのぼってくるのである。
それは大岩を両肩にかついだ人――それも女であった。
その異様な光景を、小竹は凍りついたように見つめている。
「やれやれ、誰かと思えば」
その岩の女があきれたように言う。はじめて権十郎もその女に気づいて「うわっ」と飛びじさった。
「びっくりした! な、なんだ於勝姐かよ!」
「なにが於勝姐かよだ。またヒマもてあましてカナコさんに喧嘩売ってんのか。それもよりによってアマっこ相手に……恥ずかしくないか!」
どすんと大岩を2つ地に置いた。
カナコは両目をまんまるにし、喉奥から
「ンーンー!!」
と甲高い喜悦の声をもらした。
竿の先で、ぼんやり突っ立っている権十郎をわきに追いやり、於勝の肩を抱くようにして「ンーンー!」と喜びをしめす。
「カナコさんが欲しがってた岩持ってきたよ」
「ン? ンーンー!」
「アハハ、ちょっと大きすぎたかねー」
「ンーンー! ンーンー!」
カナコは岩のひとつを両腕でがっちり抱えこみ、腰をすえ、ガニマタ歩き方でとっとと少将屋敷のほうへ向かっていく。
「い、岩だと……」
権十郎は落ちている岩をじっと見おろしていたが、やがて身を屈め、ちょっとその岩を持ちあげようとした。しかしである。
「うおっ! お、おもっ」
わずかに岩が浮いたところで、ドスンと取り落とす。
於勝は両手を腰にやってニカッと白い歯をみせる。
「腰が入ってないよ腰が。ほらほら、カナコさんはもう先行っちゃったよ」
「お、おのれ、うぐっ」
権十郎は顔を真っ赤にしてようやく肩に担ぎあげ、プシューッと蒸気のように鼻息を吹いたあと、摺り足でちょっとずつ歩いていた。少将屋敷につくころには死んでいるのではないか。
●おかつ
アハハ、アハハ
その夜、少将屋敷でめずらしく笑い声があがっていた。戸はおおきく開け放たれ、室内の灯の光が外にもれて庭先に人影をつくっている。
少将経臣殿も頬がわずかに紅潮してうれしそうだった。
「かれこれ3ヶ月ぶりぐらいじゃのう。それまでどこで何しておざった」
於勝は薩摩国のはるか南方、龍球国にほど近い洋上にある与姥呂という島の出身である。本来の名前は阿仁屋の宇嘉茅であり「おかつ」は商売用である。
カヌーをあやつって扶桑周辺の海域を往来し、物をあちこちに運んでは生計を得ている。海だけではなく川をさかのぼってしばしば京洛にも顔を出すのである。
以前この屋敷に棲んでた庄屋さんが良い取引相手だったが、1年前立ちよった時、庄屋さんは亡くなっており、屋敷には知らないお公家さんが住んでいた。
しかしそのお公家さんがいい人で「今度なにか遠い国の土産でも買うてきてくれ」といって一晩泊めてくれた。
経臣、そしてカナコとの付き合いはそれからずっと続いた。
とりわけカナコは於勝が来るとお祭り騒ぎのように喜ぶのである。
「伯方津から、ずっと岸をたどって浮間、艫浦、金比良ときて、5日前に京へ」
於勝が、飲んでいた酒の椀を膝におきながら言う。於勝は体つきは大柄だが、顔の造作がちまちましていて可愛らしい。
「5日前。ならすぐこの屋敷にくればよかったのに」
「いや、ちょっと亀ヶ窪のほうへ行ってたので」
「亀ヶ窪……というと笈ノ坂のほうでおざるな。蘭山の奥じゃ……」
経臣が目を細めながら言う。脳裏には水墨画のように神韻とした渓谷の風景が浮かんでいるのに違いない。
亀ヶ窪は、与菟川の上流、蘭山渓谷の奥深くにある小さな盆地である。
経臣にとって蘭山は意識圏内ぎりぎりにある京の最西郊であり、その向こうというと桃源郷とか龍宮城のような幻想的なイメージなしでは想起できない。
京洛周辺の里人はそういう所を縦横無尽に往来する於勝を尊敬なしでは見られない。傲岸な権十郎でさえ「姐」づけで彼女を呼ぶ。
カナコが酔っ払ってフニャフニャした顔で於勝にしなだれかかってくる。
「今度はいつまで京に居るのかや。ずっと居るのかや?」
「今年は海が荒れること多いから、あんまり遠出はできそうもないねぇ」
「なら当面ここを根城にすればよろし。な、少将殿。な」
これまたフニャフニャした顔を経臣にむけてくる。
経臣殿は杯を口にふくみながら微妙な笑みを浮かべている。
「まあ……べつにかまわないよ。この際、1人増えようと2人増えようと……」
●巻耳
その夜。とうぶん於勝が滞在する部屋で、鉢巻をしめたカナコがドタドタ駆けまわりながら布団を敷いていた。
於勝は困ったように笑い、カナコから布団を奪おうとする。
「いいって、自分で敷くからさ」
「そもじは客人ぞ。これぐらい当然じゃ」
「客人といってもずっとここにいるんだから」
「まあ今日ぐらいさせてたもれ」
カナコは布団を敷き終わると、その上にゴローンと仰向けになり、布団をバンバンたたいて於勝にも寝ろ寝ろとうながす。
結局2人は一緒の布団で寝ていた。
そのあと布団の中で何やらグツグツ笑っていた。猥談でもしてるのだろうか。
「まるで恋人のように仲がよいの」
縁側のへりに座り、夜風で酔いをさましながら経臣がいう。
その後ろの居間では、きっちり正座した小竹が、目の前の喜鶴に「詩経」の一節を読みあげている。そのあとを喜鶴が口をパクパクさせて、
「ケンジヲトリトルモ、キューキューニミタズ」
と反復している。
「キューキューじゃありません……。ケイキョウ。箱のことです」
「わかった! キョーキョーバコ!」
そんなやりとりを聞きながら、経臣は中空にかかった半月を見上げ、
「ああ、われ人を懐いて、かの周行に置かん」
としみじみ詠じていた。
小竹は書をめくりながら、ちょっと経臣のほうへ顔をむけて、
「ところで少将様」
「なんですかな」
「カナコ殿には良い人はおられぬのですか」
「は、良い人?」
経臣は言葉の意味をはかりかねてボワッと口をあけている。
「おもい人というか。心に恋うる人というか……」
「あ、ああ、なるほど。そういう意味か」
どうも、カナコと恋愛というものが脳裏で結びつかなかったらしい。
「まあ。あんな人だからね」と経臣はいう。
「ところでカナコ殿はおいつくなのでしょう」
「う――――――ん……」
経臣は長嘆息した。彼もそれがずっと疑問だったが、聞くに聞けないまま1年がすぎてしまった。
いつしか考えないようにしていたのを、不意に小竹に突かれたのである。
「見ようによってはハタチにも見える。しかし見ようによっては3……うん」
経臣は言葉を切った。
「貫禄がありすぎるんだよね。まるで劫をへた修験者か、はたまた千日回峰行をなしとげた荒法師か。どこか、突き抜けちゃってるというか」
それが天性の質だというなら話ははやい。が、そうでないなら過去によほどつらい事があったのかもしれぬ。だからあまり詮索するのはよくない。
という事を経臣はくねくねと要領を得ずに言っている。
「ぼく知ってるよー」
そのとき喜鶴がふいに声をあげた。
「あのね、カナコね、キューキュー!」
「は、はい?」
小竹はカクンと肩を落とした。
「あのね、カナコね、裏の山でね」
夕焼けを見ながら泣いていたという。
「キューノスケー、キューノスケーって、泣いてた! キューキュー!」
「キューノスケ……」
経臣と小竹は顔を見合わせた。
●城塞
ところで例の2つの岩である。
あの2つの岩は、少将屋敷の庭先にどっかと据えられている。
翌朝、その岩のまわりをカナコと小竹、於勝の3人が取り囲んでいた。
「これを一体どうするつもりなのだ」と小竹が聞くと、於勝が、
「石垣に使うんだろ?」
「石垣?」
振りかえると、カナコはただニコニコ笑っている。
「石垣とは、あの城に使う石垣か?」
「いかにもいかにも」
カナコは「聞くまでもない」という顔をする。
「石垣など組んでどうするのじゃ」
「決まっておる。城を築く」
「………」
言ってる意味がわからない。まさかこの少将屋敷を城に改築しようというのであろうか。
が、まさかであった。
「この屋敷を城のごとくに築きあげる」
カナコは誇らしげにいい、懐から紙を取り出し、それを広げてみせた。
なんと縄張り図であった。
それも本丸、二の丸、虎口、馬出し、御殿、空堀、井戸の位置など、じつにバカバカしいほどの緻密さで書かれている。
「屋敷裏にはすでに石垣が組んでござる。あとは北面に石垣を築く。そのあと南面じゃ」
「し……」と小竹は気が遠くなりそうだった。「城など築いてなんとする」
「決まっておる」
とカナコは岩に右足をかけ、力強く言いきった。
「みんなで住む!」
ドドーンと背後で大波がせり上がったかのような言いざまだった。
「………」
茫然とする小竹のわきで、於勝が愉快そうに笑っていた。
●斬岩剣
「じゃあカナコさん、景気づけにアレやっておくれよ」と於勝がいう。
「あいよ」とカナコも気軽にうけ、竿を取り出した。
そしてスラリと中の刀身を引き抜いてみせる。黒屋治兵衛から「蟠龍墨水」の銘をたまわった黒身の太刀である。
その刀身を、高く上段にかまえ、じっとしていた。
(まさか岩を斬るつもりか)
と小竹が見ていると、カナコは
ふわり
と羽毛が落ちるようなゆるやかさで剣をおろし、右膝をついた。そして剣をくるんと回して鞘におさめる。
(4太刀……)までは小竹も見えた。
ゆるやかにおろした太刀から4度、電光のような剣気が岩に放たれるのを見た。
しかし於勝は腕をくみながら「5手かね」といった。
カナコはフフッと笑って片目をつぶっている。
やがて、岩がパキッ、パキパキパキっと硬質な音を発したあと、
パコンッ
と5つに分かれた。岩の切断面が磨いたようにツヤツヤしている。
「やっぱり5手か」
といった於勝だが、見れば、輪切りにされた5つの岩が、さらに2つに割れた。
結局岩は10等分されていた。
「6手……」
於勝はポカンとする。5手まで見えたのなら大した動体視力だが、真剣勝負では最後の1手を見逃しただけで首は胴を離れている。
「やっぱりカナコさんは只者じゃないね。惚れなおしたよ」
と腕をくむ於勝に、カナコは立ちあがり、くいっとあごをあげて、
「感心しとらんで。次はそもじの番じゃ」
「はいはい」
於勝は左手にパシパシと右拳を打ちつけながら岩に近づき、岩を片手でひょいっと持ちあげる。
そしてポンと空にむかって投げあげた。
そのあとみずからも空を飛び――空中で何をどうしたのか――ストンと地に降り立つ。ついで上体を前に倒し、差し出したうなじに、落下してきた岩をフワリと載せる。
うなじにのった岩は、ちょうどカボチャを等分で切るようにパカッと割れ、ドサドサと地面に落ちた。
それらもやはり10個になっていた。
龍球の古式宮廷武技18種のひとつ「ティー」という徒手格闘技だが、小竹にはただ手品か幻術のようにしか見えなかった。
「小竹さんもけっこう使うんだろ。何かやってみたらどうだね」
と於勝に言われたが、小竹はポツネンと立ちつくしながら、
「岩、もうないし」
●富士
たしかに少将屋敷の背後の斜面には、営々と石垣が積まれていた。
そしてまだ3分の1ぐらいだが、北側の崖にも石垣が堅牢に積んである。
その作業なかばの石垣の前にカナコはしゃがみこんで、さっき割った石をそっと載せていく。
たまに斜かいに見て石積みの高さを確認する。
「よしゃ、狙い目ばっちし」
と言いながら、於勝から岩を受け取り、どんどん載せていく。高さがあわないと足もとの石で調節していた。
やがて全部の岩を載せおわると、カナコは立ちあがり、ちょっと下がって「作品」を確認する。
じつに満足そうだった。
「ずっと気になっていたのだが」
と小竹は口を開いた。「ん、んん?」とカナコは二度見して振りかえる。
「カナコ殿の剣は何流なのか。いずこの師について学んだのか」
「流派……」
カナコは口をへの字にして、ぽりぽりとあごを掻いた。意識したことがないらしい。
「まあ強いていうなら師は……ニーザサって爺さんさ」
「ニーザサ。ひょっとして……新笹香威斎先生のことか」
「そうそう、コイサイ、コイサイじーさん」
ポンと両手を打って、小竹を指さした。
ウソだろう。と思った。
新笹香威斎家尚といえばはるか東国、下総という国の老武芸者である。匝瑳神当流の開祖として知られる。
折目正しい神当流にしてはカナコの動きはあまりにも自由奔放すぎるのである。見る者が見れば「素人の動き」にしか見えないかもしれない。
近ごろ「当国無双」という幟をかかげ、小金を稼いだり、あちこちに仕官したがる自称武芸者が多いという。そういう手合いはたいてい高名な武芸者の弟子だと名乗る。
(しかもよりによって香威斎先生とは)
小竹の一族だった典厩助康という荒武者が、弟子になろうと何千貫だかの大枚をつんで香威斎の所へ行ったが、さんざんぱらドヤされ、滅多打ちにされて叩き出されたという。かなり激越な性格らしい。
という、滅多に弟子を取らないガミガミ爺ィとして知られるため、その弟子を名乗るだけで99%モグリだということがわかる。
「ならばカナコ殿は東国に来たことがあるのか」
「あるある。これこれ」
とカナコは懐ふかく手をつっこみ、「よっ」と小さな根付を取りだした。
それは雲をはらんだ富士の山だった。山麓には大波が渦巻いている。
於勝が目を輝かせる。
「やーみごとなもんだねー。本物そっくりだよ!」
於勝も扶桑中をカヌーで往来しているため、何度も富士の姿を目にしているのである。根付を手にしてキャッキャはしゃいでいた。
「………」
聞けば聞くほどワケがわからなくなるような気がして、小竹はこの話題に触れるのをやめた。
だいたいこの石垣からしてワケがわからない。
●狩衣
冷たい雨がさんさんと降りつづいている。京洛の東を南北に流れる壬賀茂川もやや増水してやや濁った土色をしていた。
雨にけぶる壬賀茂川ぞいの土手道。
そこを雨に打たれ、馬をはしらせる狩衣姿の武士があった。
一路、南へ走る。
土手の西側、森に囲まれた広場にたくさん墓石が並んでいるのが見える。武士は馬からおり、その霊場にむかって歩く。
ふと、森の奥にある寺の境内から、ひとりの僧が歩いてきた。武士の姿に気づくと恐懼に近い反応をしめし、合掌してふかぶかと頭を下げる。
「こ、これは、急なお越し……」
狩衣姿の武士も威儀を正し、かるく頭を下げて、
「本日も私用でございます。すぐにお暇つかまつります。どうぞお構いなく」
とそのまま墓場の奥の方へのしのし歩いていった。
武士はある2つの墓石の前に立つや、濡れた地面に腰をおろし、胡坐をくんでじっと動かなくなった。
2つの墓石はまだ新しい。
その墓石を、武士はギラギラとよく光る眼でまんじりともせず見つめている。
そのときである。寺の本堂脇にある小屋から大柄な女が出てきた。
だれあろう於勝であった。
於勝に気づいて、さきほどの僧が声をかける。
「まだ雨宿りしていけばよかろう。なんなら泊まってゆかれよ」
「いやぁ」と例のごとく於勝はそこだけ太陽が輝いているような笑顔で、
「色々買い物して帰らなきゃいけないんでねー」といった。
「宿はいずれじゃ」
「神宮寺ってトコさ。伏美のちょっと先」
「はー遠いトコじゃな。帰れば夕刻になろう」
「龍球よりはずっと近いよ」
「アハハ道理じゃ」
それじゃ、と歩き出そうとした於勝が、墓場に人がいる事に気づいた。
男のするどく尖ったアゴからポタポタと雨粒がしたたっているのが遠目でも見える。
「なんだね、あのおサムライは。あんな雨の中」
そう聞かれて、僧はやや声をひそめる。
「三吉長真様じゃ。知っておろう」
「ははぁ……あれがチョーシン公」
於勝はちょっと背伸びした。
「チョーシン公といえばかなり偉い人なんだろ。なんで供も連れず……」
「むかし足軽をしてた頃のクセが抜けないのであろう。たまに一人で来てはああやって座ってるのさ」
●龍衝寺
「誰の墓だろう」
於勝は首をひねる。
三吉長真といえばもとは四国阿波の住人であり、一代で今の地位を築きあげた人物である。先祖伝来の墓がこの京洛にあるはずがなかった。
僧がいう。
「叔父上の磐鳴全海。そして弟御の……なんと申したか。そうそう、休之助とか申したな。そのお二方の墓石よ」
「ふーん、休之助」
知らぬ名である。
「かの龍衝寺城でそろって討死なされたという話じゃ。もうあれから何年になるのかのう」
…………
龍衝寺城といえば京洛の西南、かつて古い都がおかれていた平野上にある小さな平城である。
12年前に発生し、以後6年間にわたって京洛を戦火に包んだ「仁承東西の乱」
龍衝寺城はその大乱における最大最後の激戦地として知られる。
西から次から次におしよせる山宝殿軍15万の大軍を、京兆院方の城兵わずか8百人が1ヶ月にわたって支えきり、ついに1人残らず全滅した。
その小城ひとつの喪失により京兆院方は一転守勢に立たされ、ついに山宝殿方との和睦を余議なくされた。
そして「仮」の平和がもどった。
あれから6年である。
この攻城戦にくわわった武士・足軽たちは「龍衝寺」の名を聞くだけで当時を思い出し、戦慄のため酒を呑んでも酔わぬという。
……と話しているうちに武士が立ちあがって、馬の方へ歩いていくのが見えた。
そして馬蹄の音も高らかに土手道をのぼり、北の自邸にむかって走る。
長真は馬を走らせつつ、視点の定まらぬ目で、口の中でぶつぶつ何事かをつぶやいていた。
(休之助……まかね殿が……休之助……)
人馬の影が、雨のとばりの中に没していく。
そのむこうに斐陽の山々が黒く浮かんでいる。
永応斬鉄録かなこ05
●竹林庵
昼なおほの暗い竹林。
斜め上から無数の光がさし、落ち葉がうすく積もった小徑にいくつもの円を描いている。
そこを、鉄瓶を手にさげたひとりの大男が歩いてくる。
おそろしく大きく、四角い顔である。それでいて目はちんまりとしていた。
鍛冶屋の黒屋治兵衛である。
治兵衛は、竹林の中にただずむ一庵の前で立ち止まり、軒にぶらさがった魚の彫物(魚板)を、木のバチでコンコン叩いた。
ややあって、す、すっと障子戸があき、そこから小さな老尼が顔を出した。
巨漢の治兵衛なら、両手で包んでそっと持ち上げられるほどに小さい。
庵の中は6畳の座敷になっており、真ん中に小さな囲炉裏がある。一見なんでもない草庵だが、「畳」という、この時代では珍しい最先端のものを敷いている。
老尼の顔がすぐに蕩けるような笑みで包まれる。
「まあまあ、これは治兵衛殿。わざわざ」
「庵主様、ごぶさたしておりまする。ご注文の鉄瓶仕上がりましてございます。これはここに置いておきます」
と鉄瓶をおいて立ち去ろうとする治兵衛に、老尼が、
「そう言わず。麦湯でもあがっておいきなさい。どうぞ婆の無聊をなぐさめてたもう」
その声にくるまれるような形で、治兵衛は恐縮しながらも「では少しばかり」と身をかがめ、庵の中にあがっていく。
治兵衛がここに来るたびこういう具合である。
老尼は霊然寺の貞応尼という。天子・将軍からも厚い帰依を受けていることは前にも述べた。
齢70。出自は関白土神門家の姫君である。御華苑帝の側近にして「博識京洛随一」といわれる土神門通宣は実弟にあたる。
「どうでございますか。お店のほうは」
仕上がったばかりの鉄瓶の底を布でぬぐい、竹の柄杓で水を注ぎながら貞応尼がいう。
「まあ、そこそこ、やっておりまする」
「ほほ、あなたのお作りになった鉄器はどれも頑丈ですものね。少々手を抜いたらよろしいのに」
「それは……なんとも」
性情としてできないらしい。どうしても完璧で頑丈なものを作ってしまうため、一度鉄器を作ると何年も修繕する必要がなく、それゆえ客も少なくなる。
やがて別な話題になる。
「伏美の庄兵衛という鍛冶師が亡くなりましてな」
「ははぁ伏美の……」
伏美もかつては美田に囲まれた京洛の衛星都市だったが、荒地化によって人も減り、今は御鞍池の水運に頼るだけの小集落と化している。
貞応尼は鉄瓶を囲炉裏にかけながら、
「さぞ伏美のひとびとは不自由していることでしょうね」
「はい。それゆえ当地の鍛冶師を募っている所でございます。しかし、うまくいかぬものでして」
さすがに荒地化して治安の悪化している土地には誰も行きたがらないらしい。
治兵衛はつづける。
「それに南山城の方は、近ごろ物騒だとか。なんでも一揆が起こるのではないかとの噂もあります」
「一揆ですか……」
貞応尼は眉を曇らせる。ひさしく聞かない言葉である。
20年前まで田名布郷を中心とする南山城では土一揆が多発し、たびたび領主や幕府と対立したのである。
その最大のものは南山城、北大和の農民など合計20万人が参加し、あわや幕府が崩壊するのではないかと思えるほどの大騒動だった。
しかし一揆方にまとまった規律がなかったこと、幕府方が一揆方の地侍層を買収したこと、戦闘で鉄獅子を大量動員したことなどから一揆はしだいに終息していった。
近年その動きは鎮静していたが、ふたたび起こる兆しがあるという。
「となると……神宮寺のおカナが心配ですね。何事もなければよいが」
貞応尼が、麦湯をそそいだ白い茶碗をそっと治兵衛にさし出す。
茶碗を受け取りながら、
「まあ、おカナにあたった者こそ災難かもしれませんが」
治兵衛は微苦笑した。
●高札
「遊狭高教、討つべし!」
南山城、田名布郷にある球磨野神社の境内。
そこには大勢の農民たちが集まり、なにやら騒ぎ、あるいは怒号をあげていた。
ごわんごわんと地をつく竹竿の音が響きわたる。
彼らの前、拝殿の階段に座っていた老人は腕を組んだまま沈鬱な顔をしている。
庄屋六蔵の補佐役であり、百姓代をつとめる門倉与助。髪に白いものが目立つ、小柄で固太りな老人である。
与助は苦しげに首を振り、膝をたたきながら叫ぶ。
「やめい、滅多な。仮にもご領主ぞ!」
「なにが領主だ。あやつはやはり管領家の鼻息をうかがうだけの走狗にすぎぬ!」
「すぐさま庄屋殿をお救いするのだ!」
オオッ――と竹槍を天に突き出す。
荒地を再開発するたび、西国の山宝殿軍が来襲し、田畑を焼き払い、さらには土砂で埋めてしまう。こういう事が何度もくりかえされるため、幕府はこの土地の再開発をなかば放棄している。放棄することが一種の政策になっている――
という事情は農民たちも知っている。しかし、
「それでも我らの田畑ぞ! 米を食わねば飢えて死んでしまうわ!」
「だからといって殿様の仕業だと決まったことではなかろう! こんな事をして得をするのは誰もおらん。殿様の益にもならん! 我々の為にもならん!」
「じゃあ何のために、誰がやったんだ」
「だからそれを今こうして!」
ふたたび一座が騒擾に包まれる。与助は伸びあがるような姿勢をしていたが、やがてがっくりと肩を落とし、うなだれて頭を抱えていた。
庄屋六蔵が領主の遊狭氏に荒蕪地の再開発を嘆願し、許可がおりたことは前述した。
それはそれでよかったが、ある日、開墾中の田に、みょうな高札が掲げられていたのである。
『コノ田 濫リニ ヒラク者ハ 死』
はじめは誰かのイタズラだろうと思い、農民たちは高札を引っこ抜き、かまわず開墾を続けていた。
が、その翌日、農民たちの数名が変死をとげるという事件がおきた。
その翌日も、農民の数名が殺害されていた。
結局開墾は中断された。
六蔵は領主の遊狭氏のところへ確認に行ったが、そんな高札は立てていないという。そればかりか警備のために10名の武士を田名布へ派遣してくれたのである。
これで話は少しはおさまるかと思ったが、数日を経ずして派遣の武士もすべて何者かに殺されてしまったのである。
遊狭高教は烈火のごとく怒り、
「百姓、あい結託して打ち殺せしか。許せぬ、討つべし!」
と兵をさしむけようとしたが、農民の反発をおそれた家臣がなだめたので沙汰やみとなった。
しかし腹の虫がおさまぬ高教は、ただちに六蔵をはじめとする領内の庄屋どもをひっとらえ、尋問のため城へ連行していった。
農民たちは殺気立った。
そしてふたたびあの言葉を口にする。
「やつら、我らに飢えて死ねと言ってるんじゃ!」
というのは多少大袈裟である。
100年前、大陸から二毛作の農法、そして新農具が入ってきてから農業生産は従来の2・5倍になった。しかし近年の冷害で収穫量は半減した。
つまり今は100年前の状態にもどったにすぎず、自分たちが生きていくだけの米ならなんとかなるのである。
しかし「飢死」というスローガンをもとに農民たちは怒りをつのらせ、団結し、やがて「前代未聞」といわれる大一揆をひきおこす事になるのである。
●御札
ごうごうと炎が燃え盛っていた。
高く組みあげられた木の櫓が燃えあがり、火は渦をまいて天にいたる。
そのまわりをおびただしい修験者たちが取り囲み、幟をかかげ、鉦をならし、声も高らかに呪法を唱えている。
燃えあがる櫓の前には祭壇が築かれ、壇上には、唐風の道士姿をした京兆院晴氏がすわっている。
両手でさまざまに印を結びつつ摩利支天の偈を唱えながら。
炎がしずまるとともに、櫓が倒れ、もうもうと火の粉があがる。
ザッと無数の熊手がのび、焼け跡から、何やら長方形の御札のようなものを掻き集める。
御札は赤、青、黄、白、黒など5色をしていた。
その間に「筐機」が運ばれてくる。「しかけばこ」とも呼ばれる。その数30はあろうか。
見たところただの木箱だが、箱には4つの足がついている。
「赤2、青1、黄3、白3、黒1――」
神主姿の男が読みあげると、そのとおりの色と数の御札が木箱に貼られ、釘で打ちつけられる。
その上にガシャ、ガシャと何枚も鉄板をかぶせていく。
やがて一体の鉄獅子ができあがる。
「青4、黄2、白2、黒2――」
ついで2体目の完成である。
札の数は合計すると10になる。札の色の割合によって性能が変わってくるのである。
大陸のものは8進数であり、さらに札も「木火土金水」だったが、晴氏はこれを10進数にし、札も色で呼ぶように変えた。
そして札の割合による鉄獅子の性能の変化について詳細に観察・研究し、これを図にまとめたのが「八万壱機図」である。
…………
この光景を祭壇の上から眺めている道士姿の晴氏。
祭壇の下には、払子をもち、錦繍のきらびやかな法衣をまとった禿頭の入道がすわっている。
野洲因幡守義国。今は剃髪して洞賢入道を号す。
ライバルの典厩家を滅ぼして後、京洛でならびなき権勢をほこる京兆家重臣筆頭である。
「こたびもぶじ相済みましたようで。いずれもみごとな出来映えにございます」
義国が壇上の晴氏にほたほたと愛想のいい声をかける。まるで腹話術の人形のように無機的な顔だちだった。大きすぎる眼の下がやや赤みがかっている。
その赤らんだ眼を避けるように、晴氏は顔を背けながらいう。
「入道には鉄獅子10両の進呈があろう。よく励むように」
「あっ、これはかたじけなく。エー……ついでと言っては何ですが」
「なんだ」
「南丹波の一件、どうかお忘れなきよう」
「わかっている。考えておく」
「あ、それとですな、輪格寺の修築の件ですが。あ、それとそれと」
うるせぇ――と冠を義国の顔面に投げつけたくなる衝動を抑えながら晴氏は黙っている。
晴氏は「かぶりもの」嫌いであり、何かあるとすぐ冠を脱ぎ捨てるクセがある。
そこへ、狩衣姿に折烏帽子をかぶり、荒鷲のような風貌をした武士があらわれ、壇上の晴氏にひざまずいた。
三吉長真である。
晴氏はさも救われたような顔で、
「どうした大膳。何用か」
しかし長真は黙っている。
必要以外のことは喋らないのが長真の性質だが、この時はどうやら野洲義国の存在を気にしているらしい。
それを察し、晴氏は立ちあがって壇上から降りてきた。義国がゆったり平伏する。
顔を上げたとき「この成りあがり者が」と鼻で笑うような蔑視を長真に向けてきた。
その冷笑を、晴氏の袖がさえぎる。
「大膳、参れ」
さっと袖をひるがえす晴氏のあとを、長真は身を低くして随伴していった。
●弾正
「なぜじゃ……」
京兆院邸の一室。
京兆院晴氏は、手にした唐風の冠をグリグリといじりながら、ぼんやり鴨居を見ていた。
鴨居の下には拝跪した三吉長真の姿がある。
「なぜ暴発する。今の土民どもにそんな力はないはず」
首をひねりながら、手もとの冠に目をやる。そしてグリグリを続ける。
たとえ土一揆がおこったとしても、晴氏にはべつだん脅威ではない。三吉長真配下の精鋭をもってすればおそらく10日以内で片づくだろう。
しかし武力で鎮圧すればかならずや民間に怨恨を残し、来たるべき西国との戦いにおいて致命的な内患になるであろう。
それは6年前の大戦でイヤというほど思い知らされている。晴氏自身、敵に寝返った農民の竹槍にかかって死ぬ寸前まで追いつめられた事がある。
その時の出来事が、以後の晴氏の政治観を決定づけたといってもいい。
「農民たちはどこからか支援を受けているのかもしれません」
長真がいうと、晴氏はコクコクうなずきながら、
「考えうるは西国の山宝殿……しかし」
京兆院家に敵対する勢力など全国に無数にいる。どれが、どれがとやっているとキリがない。
晴氏はぽいっと冠を放った。半眼のままふし黙っている。
「ともあれ放置はできません。この京洛のお膝元で一揆がおこれば、西国方に付け入るスキを与えることになります。すぐさま平定すべきでしょう」
そう考えるのが普通である。しかしそう考えられるだけでも、以前の武骨一点張りだった長真からすると別人の観がある。
「まあ待て。そう急くな」
晴氏は抑えるように左手を見せ、それをおろした。
「ここは乗せられた風を装い、うまく活用するにかぎる」
「と、申しますと……」
「南山城は遊狭高教の所領であったな。そして遊狭は……」
晴氏が長真をそっとさしまねく。長真は両手をついたまま、すっ、すっと前進してきて、晴氏の口に耳を近づけた。
しばらくして後、長真は下がって平伏する。
「ただ宰相殿の御深慮に一任いたす」
「で、だれを差し遣わすか……じゃが」
「適任者がおります。五百住弾正武久」
「五百住弾正……」
晴氏はちょっとイヤな顔をした。
先だって討伐した大和伊出氏の降将である。伊出氏の平定にはやや手間取ったが、五百住弾正の寝返りによって短期的に事を決することができた。一種「功臣」である。
まだ若く非常な美男だが、男色の気がある晴氏でさえ一目見て「こいつはヤバい」という感じをもった。ちょっと野洲義国を若くして目鼻を整えたような人物である。絶対近くに置きたくないタイプだった。
そういう人物を長真はなぜか重用し、さまざまな権限をあたえ、諸事務を司らせていた。ふしぎでならない。
「重宝な男でございますゆえ」
と長真はいう。
晴氏は何か言おうとしたが、黙った。
客観的に見たらあるいは自分も弾正と同じタイプの人間かもしれないと思ったからである。
●密雲
「やめい、やめいって。ぐわっ」
神宮寺六軒村にある馬崎屋敷はその藁ぶきの大屋根でちょっと有名である。現存していれば間違いなく重要文化財級であろう。
その藁ぶき屋根の大農家から、茂助青年の小さな体がゴロゴロと転げ出てきた。
その後から、腰に大刀をぶちこみ、錆び槍をかついだ馬崎権十郎が、ホコリをまきあげるような勢いで出てくる。
「この」と茂助を蹴り転がし、どこかへ走っていこうとする権十郎の脛に、なおも茂助が取りすがる。
「悪いこと言わん。あれは田名布の問題じゃ。うちらには関係なかろうが!」
「やかましい! それでもウヌは山城っ子か。日ごろ募りたるサムライどもへの鬱憤をはらす未曽有の好機ぞ。ええ、はなっ、はなせこの腰抜け!」
まさに「馬」のような勢いで街道へ飛び出し、はるか南へと駆け去っていく権十郎。
その街道の向こうから、釣りの魚籠をさげたカナコ、そして小竹が歩いてくる。
「ええいどけい、邪魔だこの章魚!」
と叫びながら猛進する権十郎を、カナコはくるんと身を回転して避ける。
カナコはタコのようにニュッと唇を突き出し、
「な、なんじゃ?」
と既に小さくなっている権十郎の後ろ姿を見送る。
とそのとき、馬崎屋敷の生垣の陰から、よろよろ歩いてくる茂助の姿に気づいた。
カナコが声をかける。
「茂助ぇー、何ぞその姿は。何があった」
「あ、カナコ姐さん……。実は」
聞くところによれば、権十郎はちょっと南にある宇陀の平乗院に行ったという。平乗院で近隣の若衆による会合が開かれるという。会合の内容は、南山城で起ころうとしている一揆への加盟についてである。
それを聞いて権十郎は俄然はりきっていたが、茂助はそうではない。
「この近隣は関係なかろうに。何をうろたえとるんじゃ」
土一揆はその目的がたいてい年貢軽減、関所撤廃、借金棒引きなどであり、成功した後おもだった首謀者は処刑されるのが常である。
それを免れるには農民自身が「政府」を作り、領内からサムライどもを一掃しなければならない。いわゆる革命である。しかしそんな例はこれまで一つもない。
「一揆か……」
小竹はちょっとカルチャーショックを感じている。農民たちが団結して武士に対抗するなど、東国では見られない現象である。
なぜ典厩家は滅んだのか、なぜ国元の豪族たちは簡単に離反したのか。
それがずっと小竹の中にある疑念だった。
しかしこのとき小竹は、密雲がわずかに晴れて、そこから陽がさすような解答を見た感じがした。
が、その光はすぐに消えた。
まだわからない。
あるいは自分が生きている間も、死んだあとも、誰もわからないかもしれない。
「………」
その小竹の横顔を、カナコは静かに見つめている。
●烈風
その夜、烈風がおおいに吹き荒れた。
夜空をいろどる無数の星辰も、露で濡れたようにゆらゆら揺れ輝いていた。
少将屋敷の裏手にある大森林もさながら怪物がのたうつように波打っている。
「………」
屋敷の離れで寝ていたカナコがふと眼をさます。
彼女の上で寝ていた猫の群れを追い、戸をあけ、風の吹きまくる庭に出る。
うつむき加減のまま、首を左右に動かす。やがてジッと、屋敷裏の森に目をむけた。
屋敷の東側は3メートルほどの段差になって落ち込み、その下に幅10メートルほどの空地がある。
段差のへりにはカナコが組んだ石垣がびっしり積まれている。
その空地に足を踏みいれたカナコはふと立ち止まり、生えていた笹の葉を無造作にちぎって、口にくわえた。
そして、
「おい」
と闇にむかって声をかける。しかし応えはない。ただ天を摩する風の音だけがゴウゴウと鳴っているのみである。
「そなた、先刻も屋敷のまわりをウロついとったな。この屋敷になんぞ用か」
やはり応答はない。闇の中でザワザワと樹葉が動くのみである。
「応えなければ別によい。盗賊ならば二度とここへ現れるな。さもなくば」
と足を踏み出そうとしたカナコが、ふいに、右足を下げて体を引いた。
口にくわえた笹の葉が真ん中からスパッと切れている。
「かわした……!?」
と闇の中からやや驚きをふくんだ声がした。しかし驚きはすぐに止み、相手の気配は風の音に没していく。
その気配の消し方に気づいて、
(こやつただの盗っ人ではない)
とカナコは直感的に悟った。右手の竿を左手に持ちかえる。
「そなた透波(忍び)じゃな」
「………」
「しかしこの屋敷を付け狙うなど、トンマな透波よ。ここにはそなたの欲しがるような財宝などない。ただ病持ちの貧乏公家と、その子供が住んでるだけじゃ」
ブンッとカナコの姿が闇に消える。
ガッ、ガカッ、チュイーン
という金属のはねる音とともに空中で火花が弾ける。
直後、身を低くし、右肩に竿を担いだカナコが、3メートル先にあった。
そのカナコの背後から声がする。
「その竿、仕込みか」
今まで完全に見えなかった相手の全身が、闇に浮かびあがった。しかし黒い装束を着ているため輪郭しか見えない。
影が声を発する。
「そなたほどの手練がいるという事は、やはりこの屋敷、ただ事ではない。京兆院の手の者か」
「いや、しがない居候さ」
「ふん……まあいい。今夜のところはこのまま退散するとしよう」
「いやぁ、そうはいかんねぇ。そなたの意図を聞くまで生かしては帰さぬわい」
「なにぃ」
「少将殿や喜鶴に何かあったら大事じゃ。仲間を連れてこられたら少々厄介ゆえな」
「こやつ……」
と影が腰の剣に手をかけた直後、頭上から「カナコさーん!!」という声が噴きあがった。
見れば、少将屋敷のある石垣の上に人が立っている。
於勝であった。
●碧光
於勝もまた格闘技の達人であるため、みょうな気配を感じて起きてきたらしい。
屋敷の離れに行ったらカナコの姿がないので、あたりを探しまわっていたのである。
「――――!」
カナコはしかし、影が一瞬動きを止めたのを見逃さなかった。ダッと地を蹴り、竿の底で、
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ
と相手の胸、みぞおち、腹にかけて、マシンガンのように突いたのである。
たまらず影が後ろに吹き飛ばされる。
ふつうならこれで相手は戦闘不能になるはずだが、影はクルリと宙で回転し、着地した。
烈風ふき荒れる星空にむかって、飛ぶ。
(こやつ胸に鉄甲を――)
カナコは石垣にむかって走り、ダダダダダと猛然と駆け昇っていく。その勢いで宙へ大きく舞いあがった。
両手で竿を持つ。
ず、ずず、と黒い刀身を引き抜く。
この時、影は見た。刀身のむこう、カナコの双眸があわく碧色に輝くのを――
落下しながら剣を構える影と、上昇するカナコが交差し、バァァァンと光の輪が爆発的にひろがった。
屋敷裏の大森林が一瞬、青白い光に浮かびあがり、すぐに闇に包まれる。
影が着地する。
ややおいて、カナコも地に降り立った。
影がいう。
「やるな。3太刀しか見えなかった」
「………」
カナコは応えず、刀身をカチンと鞘におさめた。
同時に、ガクッガクッと影が痙攣しはじめる。
「まさか……これほどの、斬撃ッ」
パキンという乾いた音とともに、影がもっていた剣が真ん中から折れた。
ついで、胸にまとっていた短甲に、右袈裟に光のラインが走り、金属片が弾け飛んだ。
左袈裟にも同様のラインが走り、胸にⅩ字が刻まれる。
カナコが静かにいう。
「そなたもかなりの手練よ。致命の一撃だけはみごとかわしている。命だけは救われよう」
最後に、口元をおおっていた鋼鉄のマスクも左右に飛んで、落ちた。
男の面貌があらわになる。
「7太刀……とは。そなた……一体」
男はブフッと霧のような血を吐き、くるんと一回転したあと地にくず折れた。
カナコは息ひとつ乱れていない。
この様子を見ていた於勝が、パッと石垣から飛び下りてきて、倒れた男を抱きかかえた。そしてはげしく揺すりたてる。
「五郎蔵! お前、五郎蔵か!? なんで、なんでお前がここに!」
「ぬ、ぐ、宇嘉茅……そ、そなたこそ」
とつぶやいた直後、男はガクリと気を失った。
於勝は男にまだ息があることに気づいてひどく安心していた。
カナコが後ろから覗きこみながら聞く。
「於勝殿、知り合いかね」
「ああ……。昔、こいつらにえらく世話になった事があってね。でも何だってこんな所に……」
●ばはん
男の名は鵲の五郎蔵というらしい。
玖機島という、伊勢阿児ノ海に浮かぶ小島の住人である。
もともと玖機の衆は、大船にのって大陸沿岸を荒らしまわった海賊、すなわち倭寇でもある。
海賊といいながら男気のある気のいい連中で、大シケにあって洋上で行き暮れていた於勝を助けてくれ、しかも彼女の故郷の島まで送り届けてくれたという。
「その倭寇がなぜ透波のマネを……」
とカナコがいうと、於勝は五郎蔵の血に濡れた口元を拭いながら、
「商売にならなくなったからだろうさ」といった。
倭寇の増加に苦しんだ大陸の黄華帝国は、たびたび軍勢をさしむけたが上手くゆかず、ついに扶桑の柳営幕府にその討伐を依頼してきた。
しかし倭寇討伐に本腰を入れたのは幕府ではなく、各地の大名たちだった。彼らは黄華帝国との私貿易で新兵器(とりわけ鉄獅子)を輸入していたためである。
とりわけ西国の山宝殿家はこの討伐に主力を注ぎ、つぎつぎに倭寇の島を攻め落とし、見返りに大陸から大量の鉄獅子を手に入れた。
それまで倭寇の透波として活動していた「玖機八幡衆」も、重要な拠点をすべて奪われ、海賊稼業から完全に足を洗ってしまった。
それ以後のことは知らない。と於勝はいう。
「しかし、玖機八幡衆が、なにゆえこの屋敷を狙う」
カナコがいうと、於勝はケラケラ笑って、
「さしずめ、このお屋敷にお宝があると勘違いしたんじゃないかね。こいつら何だかんだいって元は海賊だから」
(そうかな)
さきほど男は「この屋敷ただごとではない」といい、さらに京兆院の名を口にした。なにやら政治的な匂いがプンプンする。
(あるいは小竹殿の所在を)
と思ったが、これまでの話を総合すると玖機衆はどうも野洲家とは縁もゆかりもないらしい。というより野洲義国は戦勝におごって典厩家残党の追捕を停止してしまっている。小竹の存在も既にこの世にはないものと認識されているのかもしれない。
と、いくら考えてもカナコにはわからない。
彼女にとって最大の懸念はただ経臣殿と喜鶴の安全だけだった。それが守れるならこの連中が何をどうしようと知ったことではない。
ともあれ五郎蔵の処置についてである。
放っておけば今度は仲間を連れてくるだろうし、捕らえておくにも場所がない。まさか於勝の恩人を殺すわけにもいかぬ。
「心配ないさ。これで」
と於勝は腰から長い針を一本取り出した。
「ここ半刻(1時間)ばかりの記憶を消す」
そんなことができるのか――とカナコが見ていると、於勝は、
「ごめんよ五郎蔵、ちょっとチクッとするけどね」
と言いながら、五郎蔵の延髄あたりに針をあてがい、そろり、そろりと斜めから差し込んでいった。
そして口の中で何やら祝詞のような呪文を唱えている。南方の島々の言葉だろうか。耳慣れない響きだが、どこか懐かしい。
五郎蔵の体がぐっと大きくのけぞり、やがてガクリと力を失った。
於勝はその五郎蔵を右肩にかかえ上げる。
カナコが聞く。
「その男をどうする」
「まあ、どこか遠いところの地蔵堂にでも置いてくるよ」
永応斬鉄録かなこ06
●観音
結局、馬崎権十郎は神宮寺六軒に帰ってきた。
昨夜の宇陀平乗院における若衆の会合は「田名布の動きに対応する」という事になったらしい。
田名布郷はまだこれといった動きを見せていないため、当面は見合わせるという事である。
喜んだのは茂助だけである。しかし権十郎は煮えきらない顔をしている。
「くそっ」
道ばたの小石を蹴りながら権十郎がいまいましげな声をあげる。
まだ朝の8時ごろ。浮草山の上にかかった朝陽が琥珀のような光をはなち、うずうずと地の露を照らしている。
神宮寺六軒には木栖川街道という古道が南北にはしっている。
街道の西側は見渡すかぎりの荒れ野原だが、東側は荒地化をまぬがれている。谷あいに小さな田んぼが散在している。
その田んぼのあぜ道を、権十郎と茂助がとぼとぼ歩いている。
彼らの前方、やや小高い高台に、笹やぶにかこまれた「カナコ農園」が見える。
その笹の間から、鉢巻をしめたカナコが、うろうろ歩いているのが目に入った。畑に水をまいているのであろう。
権十郎が手にペッとつばをはく。
「これは好個の憂さ晴らし。いっちょ暴れたるかい!」
錆び槍をブウンと振りまわし、カナコ農園にのぼっていこうとしたが、ふとその足が止まった。
舞へ 舞へ かたつぶり
舞はぬものならば
カナコが歌を歌っていた。見れば背中には喜鶴をおぶっている。
歌にあわせて喜鶴がキャッキャとはしゃぐ。
まことに 美しく 舞うたれば
花の園まで 遊ばせてん
歌いながら、カナコが背の喜鶴にニッと笑みをむける。
彼女の頬に、しずかに朝陽の白い光がともっている。
「………」
この光景を、崖下の権十郎はボーッと眺めている。
やがて槍を担ぎなおし、もと来た道を引き返しはじめた。
「やめじゃやめじゃ、喜鶴様がおわすわ。今日は気を削がれたわ。……ん?」
後ろにいる茂助がなにやら意味ありげな笑みを浮かべ、カクカク肩をゆすっていた。
それを過敏に察する権十郎。
「なに笑うとるか茂助」
「いや、カナコ姐さんって、たまに女らしいというか、色っぽい顔する時ありますよねぇ」
それ以上言わず、ただクツクツ笑っていた。
しばらく権十郎は首をひねっていたが、やがて眼を剥いて、
「バッ、このっ、阿呆! あーこいつ、あーこいつ、冗談、冗談きつう」
爪先でザッザッと地を蹴って、茂助にホコリを飛ばす。
「俺にはすでにお紺という人がだな!」
「お紺さんはべつに権兄のモンではあるまいに」
「だからこれから、何とかするのであろうが」
お紺というのは宇陀村に住む、近隣でも名高い美女である。昨日の宇陀平乗院における会合で、お紺は給仕として若衆に白湯をふるまっており、そのとき権十郎は「その指に触れた」と自慢する。
「まさに観世音菩薩の化身のような人じゃった。あれほどの美女は扶桑広しといえど紺女以外にはなかろう。それにくらべたらカナコなど、三白眼神将の化身じゃわ」
「なんじゃあ三白眼神将とは」
「今考えたんじゃい、深く考えるなこの薄ら木瓜!」
ビシッと茂助の額に水平チョップをくらわせる。
2人の話し声に気づいたものか、丘の上のカナコが柄杓をふりながら「おーぅい」と声をかけてくる。
「何やっとるかぁ権十。そんなにヒマならこっちの畑仕事手伝うてくれい」
「阿呆抜かすな。散歩じゃ散歩。壮士は野を逍遥して烈々たる鋭気を養いたり。ウヌのごときその日暮らしの田婦にわが高い志がわかってたまるか」
カラカラと笑いながら、ガニマタで馬崎屋敷のほうへ戻っていった。
●書肆
「痛っ」
小竹はとっさに左手をひいた。彼女は少将屋敷の台所で瓜を切っていたが、あやまって指を切ってしまったのである。
後ろのカマドで湯をわかしていた於勝が、小竹の手をのぞきこむ。左の人さし指からまるく血の玉が浮いている。
「あ、大丈夫大丈夫。いい傷薬あるから」
言いながら、於勝は「変だな」と思っている。近ごろ小竹はボンヤリしている事が多く、庭に立てかけてあった竿に引っかかったり、ちょっとした窪みに足をとられて転びそうになったりしている。
(武芸の達人だと聞いてたけど)
ちょっとボンヤリした所のある人なのだろうかと思う。
が、その実は逆である。むしろ諸事にキッチリしすぎて堅苦しいほどだった。
その日、神宮寺村の少将屋敷にめずらしく来客があった。
客といっても書籍を売って歩いている商人である。名を間瀬藤兵衛といい五条千鵬堂という書店の出張販売人である。連歌もよくし草池だかの雅号も持っていた。
この時代の書籍は高価であり、一冊何貫目という大枚はする。
しかし霞修寺経臣殿の数少ない趣味が読書だった。そしてこの藤兵衛が持ってくる本はどれも廉価なのである。
たいがいどこぞの学僧が漢籍の勉強のために書き写した写本の、さらに古本である。
「資治通鑑……この章は前に読んだな。旧唐書列伝……何だかよくわからないね」
積まれた本を漁りながら、経臣はぶつぶつ言っている。
やがて『顔魯公文集』という本をパラパラとめくって「これにするかね」と言った。
そのあと雑談になる。
小竹が奥から出てきて、大盛りにした塩もみの瓜と、白湯の椀をさし出す。
指には白い布が巻いてあった。経臣がのぞきこみながら訊く。
「どうしたの、それ。お怪我でも召されたか」
「いえ、何でもありません。包丁で、ちょっと……」
褐色の可愛らしい顔だちを見て、藤兵衛が「ほほぅ」と感心げに、
「新しい人を雇われたか。東国の人ですな」
「いや、雇い人じゃなくて……」
「住み込みの下女ですだ。武蔵の出ですだ」
と小竹はかるく頭を下げ、隣の部屋にひっこんでしまった。
藤兵衛はモヤモヤと謎の微笑を浮かべている。
「少将様もなんだかんだいって奉公人を雇うだけの小金はあるんですな。なかなかの器量良しで」
「だから雇い人じゃないっての。さる知人の……預かり人というか」
説明するのが面倒なので、経臣はただ額をさすっていた。
出された瓜をポリポリかじりながら、藤兵衛がいう。
「ところで、南山城のほうでは一揆が起こるそうですな」
経臣はフウッとためいきをつく。
「そうらしいね。よくわからないけどね」
「でも今回は絶望的ですな……」
「ほう、一揆はそれほどの規模でおざるか」
「いや、たとえ一揆をおこしてもすぐに潰されるでしょうよ。幕府軍に」
藤兵衛によると今の幕府には大量の新兵器、および鉄獅子があるという。しかも、
「三吉長真。あれは魔神ですよ」
●魔神
藤兵衛はちょっと前に大和国まで足をのばして商売していたが、たまたま三吉長真の戦いぶりを目撃したという。
三吉軍1万5千に対し、大和伊出軍8千は劣弱な装備しかなかったが、さすがに鉄獅子の弱点をわきまえていて、1里(4キロ)にわたってユルユルと後退した。
鉄獅子の原動力は、術者による法力である。その有効半径は術者の能力によって異なるが、だいたい1里半(6キロ)が限界とされる。
鉄獅子が1里も前進すれば、それだけ術者との距離が遠ざかり、突出力が弱まるのである。
弱まるたび、伊出軍の前衛がたびたび前進しては、鉄獅子どもを破壊してしまう。これを何度もくりかえす。
(のち「鉄砲」が伝来したとき、それをフル活用した清洲天摩は、術者そのものを狙撃することによって鉄獅子を無力化した。それにより鉄獅子は「金食い虫の木箱」と化し、中世の遺物として戦場から消えていった……というのは何十年も後の話である)
そういう後退・前進をくりかえすことで伊出氏は善戦したという。しかし、
「阿波黒騎衆が現れてから戦況が変わりましてな」
細かい後退をくりかえす伊出軍に、横合いから黒い鎧に身をつつんだ騎馬隊350騎が突入するや、その動きを完全に止めてしまった。
混乱する伊出軍に鉄獅子が殺到し、目を覆わんばかりの惨状を呈したという。
「その時の長真公の勇猛ぶりたるや、古の項羽か関将軍(関羽)かというぐらいで。こう、槍を一振りしただけで、10人の兵の胴が、腰から……」
「あーもういいもういい」と経臣は袖をふって話をさえぎった。
藤兵衛はハハハと膝をさすり、別な話題に切りかえた。
「ところで、あのカナコという人はいずれにおわすや。また例の根付細工を見せてもらいたいものですが。あれは見事なもんです」
「カナコ……そういえば見ないね」
と経臣は、隣の間で控えている小竹に「あーあのね」と声をかける。
「悪いけどカナコ殿呼んできてくださらんかね」
「カナコ殿……また畑仕事ではないですかね」
さきほど離れに行った時、カナコの姿はなかった。また崖下の農園にいるのだろうと思っていたが。
すると台所のほうから、
「カナコさんなら畑にもいないよ」
という於勝の声がする。経臣は首をかしげる。
「買い物か、釣りにでもいったのか。まあすぐに戻ってくるでおざろ」
「………」
小竹はじっと考え込むような目をしていた。以前、喜鶴が「カナコはたまに裏山のてっぺんに座ってる」と話していたのを思い出したのである。
小竹は軽く辞儀をして、立ちあがっていた。
「ちょっと、まわりを見て参ります」
●夕雲
少将屋敷の北と東は、深い森に覆われている。
京洛の東方に南北に横たわり、南へ半島状につき出た浮草山系のへりである。ついでにいえば霊然寺も浮草山脈のへりにある。
少将屋敷からそのまま東に斜面をのぼると浮草山(標高230m)の山頂に出、さらにくだると花品という小盆地に出る。
浮草山のまわりにも標高100mほどの小さな山々があり、喜鶴が「裏山」とよぶ墨染山(75m)もそのひとつである。
浮草山につづくゆるやかな斜面に、ぽこんとお椀のように盛りあがった所が墨染山であり、登るのにさして苦労はない。
しかしここからの眺望はすばらしく、伏美の大平野から、京洛の街並み、御鞍池のキラキラした湖面、そして宇陀の寺院群まで見渡せる。
その山頂の手前まで来た時、小竹はふと立ち止まり、足もとにキラリと輝くものものが落ちている事に気づいた。
石である。碧色をしている。
石はまるく曲がっており、真ん中には小さな孔が穿たれていた。石の中にこまかい輝きが散らばっている。見たこともない石である。
見れば、赤い石の玉やら、素焼きの皿やら、精巧な装飾のナニヤラなどが落ちている。ナニヤラは剣の柄のようにも見える。
(なんだろう、ここは……)
まわりを見回すと、森のあちこちにこんもりとした土の隆起があるのに気づいた。墓かと思ったが、墓にしてはちょっと大きすぎる。中には直径10メートルもある隆起もあるのである。
ぼんやりしながら、落ち葉を踏みつつゆっくり歩く小竹。そこへ、
「コザエモンよーい――」
というノンキが声が、森のどこからか響きわたった。とっさに身を低くする小竹。
「ゼンカイどのよーい――」
よく聞けばそれはカナコの声ではないか。
(やっぱりここだったか……)
胸をなでおろす小竹。しかし次の瞬間ハッとした。
「キューノスケよーい――」
どこかで聞きおぼえのある名前。かつて喜鶴が言っていた名前ではないか。
そっと立ちあがり、森の奥をのぞきこむ。樹がひらけて空地になった所に、背をむけたカナコがアグラをくんで座っているのが見えた。
頭にちょこんと網代笠をのせている。
そこが墨染山の頂上らしい。
網代笠のむこうには、燃えるような夕陽、そして眼下の大荒野を包みこむ褐色の砂嵐が、ごうごうと湧き立っているのが見える。
夕陽のまわりには光る雲の斑が、さまざまな色を呈しつつ流れている。
ちょっとこの地球にいるとは思えない光景だった。
カナコはなにやら3体の土人形に、瓢箪の水をドボドボかけている。
土人形は、竹べらで突いたような目鼻があるだけの素朴な作りで、タケノコのように地から生えている。いわゆるハニワだが、この時代の小竹は知らない。
「キューノスケーェ」
ふたたびあの名前を呼ぶ。カナコはじっと夕陽に顔をむけている。
いつもぐったりと背を丸めているカナコではない。背をピシッと伸ばし、アゴを軽くひき、さながら百万の大軍にむかう大将のような風格だった。
それでいて夕陽をむかいから浴びる顔は、ひどく涼やかだった。
涙も絞りつくすほど泣いたあとの、すき透るような穏やかさに似ていた。
(カナコ殿は……)
小竹はその横顔を恍惚とした目で見つめている。
(こんなに美しい人だったのか)
パキンと小枝をふむ小竹。それに気づいてカナコが振りかえった。
そこにはいつもの三白眼があった。
●命二つ
結局、小竹とカナコはならんで夕陽を見ていた。
カナコはイタズラを見られた悪ガキのように、網代笠で顔を隠すように瓢箪の水を飲んでいた。いつもの猫背にもどっている。
「この人形は?」
と小竹が、地から生えた3体のハニワを指さすと、カナコはちらっと目を向けながら、
「ここにずっと植わってあったのさ。たぶんずーっと昔からね」という。
「水をかけておられたが」
「まあ……見立てというか。墓というか」
「墓とは、さきほどカナコ殿が言ってた名のひとびとか。キューノスケとか」
「………」
カナコはうなだれてアゴをかいている。よほど見られたくない姿だったらしい。
「キューノスケとは、あなたの何なのだ」
「………」
膝をこすり、パンと打って、カナコは顔をあげる。
びっくりするぐらい突き抜けた笑顔だった。そして言った。
「そもじはなんのためにこの世に生を享けしや」
「え……」
急にそんな事を言われても即答などできない。というかいきなり何を言い出すのか。
カナコは土人形のひとつに顔をむける。
「キューノスケは、その答えを、わらわに教えてくれた人じゃ」
よくわからん時代、よくわからん世界に生まれた。生まれたはいいが世界は混沌として定まらぬ。黒雲のように渦巻き、つかまえようとしても捉えどころがない。自分がいつ、どこで、何をしてるのかもわからん。わからんまま死んでいく。名前も残らないだろう。
キューノスケはそんな世界に、カナコ自身に「軸」をあたえてくれた。
だから自分は今生きて、こうしてそもじと夕陽を見ている。
という事をカナコはいう。
これはカナコだけの問題ではない。当時のひとびとはみなそうであった。
この世は夢ぞ
ただ狂へ
という当時の流行り歌にもあらわれている。みなどこにいるのかわからなかったのである。
「じゃが、こうして生きていることが正しいかどうかもわからん。わらわはあの時、死んでおればよかったのかもしれん」
カナコの声が一瞬涙声になったが、すぐに元に戻っていた。
「よほどつらい事があったのかもしれん」という経臣の言葉が小竹の脳裏によみがえる。
そのあと沈黙が続く。
小竹は立ちあがっていた。そして叫んだ。
「何を言う……。何を言うか!!」
「は」
「人の命を勝手に助けておいて、自分は死んでいればよかったなどと。ならば私はどうすればいい。どこに軸をおけばいい。あなたがいなかったら。あなたが……!」
ぶわっと小竹の両目から涙が溢れ出る。
カナコは後悔した。
そうか。この小竹は――典厩家唯一の生き残りなのだ。
父も母も一族郎党もすべて殺され、国元では家臣たちが離反した。この世にたった一人しかいないのだ。
気丈にふるまってはいるが、あるいはちょっとした風でポキリと折れてしまうほど繊細な性情なのかもしれない。
誰かが支えてやらねば――
カナコは腕をのばし、小竹の顔をそっと抱きよせた。
「すまんじゃった。みょうな事をもうした。二度とかような事はいわぬゆえ許してたも」
…………
結局小竹はなんのためにここへ来たのかわからずじまいであった。
●牛若丸
その夜、南山城の木栖川郷の燈明神社において、田名布、束川、笠木、狛場、井戸など各村代表による秘密の会合が開かれていた。
その肝煎をつとめているのは、木栖川郷の地侍の木栖甚内という人物だった。
しかしその後、会合は紛糾した。
なにしろ各村の庄屋はいまだ領主方に捕らわれたままなのである。
そして木栖甚内という人は、田名布の六蔵ほどの人望がなく、多くの郷村をまとめていくだけの求心力に欠けていた。
庄屋たちを救い出してから決行するか。あるいは挙兵後に庄屋たちを救い出すか。
慎重派と強硬派で揉めに揉め、会合は夜の10時をまわってもまだ終わらぬ。
この様子を、砂のような無感動さで見つめている二つの目がある。
それは鳥居の上にあった。
暗くてただ星空があるようにしか見えないが、たしかにその影はいた。
(愚かなり。逡巡しているうちに遊狭方は万端の態勢で攻めかかってこようものを。ここはまた一押しが必要か……)
ふっと鳥居の上から影が消えた。
影はさながら蛇がのたうつような軌跡を描きながら、神社裏にある木栖川の河原にむかって走る。
音もなくとうとうと流れる木栖川の流れを前に、影はしゃがみこみ、懐から何かを取り出した。
笹の舟である。
「ほーう、笹の舟か。風流な」
すぐ耳元から声がして、影はぎょっと前方へ飛んだ。バシャッと川に足をつける。
「おおかた仲間に知らせるつもりかね」
声の主は、河原におちていた笹舟をひろい、クルンクルンと手の中でもてあそんでいる。
影はとっさに腰から火打石を取り出し、
カッ
と火花を散らした。相手の全身が闇に一瞬浮かびあがり、網膜にくっきり焼きつけられる。
(女……? いや)
網膜に写真のように映し出されている人物は、公家の童子のように優美な装束をまとい、顔だちもほっそりしていて女性のようだった。しかし声はどう聞いても男のものである。ちょっと物語に出てくる「牛若丸」に似ている。
しかし異様なのは目つきだった。絹地にすっと切れ込みを入れたような細い目の奥にある双眸は、常人がふつう持っているはずの光がまったくなかった。
目つきの悪い牛若丸といったところだろう。
その瞳をじっ……と見ているうちに、影は何やらそこに吸いこまれるような錯覚をおぼえ、とっさに目を開けた。
闇の中で、薄い唇が笑っている。
「なにが見えた? あるいはわが美しさに酔うたるか」
「うぬは、何者だ……」
「スッパ(忍び)に名乗る名などもたぬ。南山城の一揆騒動、なにやら裏にカラクリありと思っておったが、やはりそなたらが蠢動しておったか」
「くっ――」
影はふいに殺気を感じ、川面からパッと上空へ飛んだ。両手をくんで印を結んだあと、
「轟来、残!」
と叫ぶ。
先ほどまで影が立っていた川面から、白い飛沫を噴きあげて「それ」は現れた。
「それ」はガシャーンと河原に降りたつや、シャラシャラと鎖をひきずるような音を立てて、牛若丸の男に迫ってくる。
男は後ろ飛びに飛んで「それ」の追撃をかわす。
ざんぶと川に飛びこみ、中洲へと移動したが、「それ」はアメンボのように水上を滑ってくる。
「なるほど、これはとんだ番犬よ。いや番アメンボかな」
退がりながら、男は身をひねってクルクル回転する。砂地に着地したとき「それ」との間にバキャッという凄まじい音がした。
男は左右の腕をおおきく開き、両手に2本の長剣を持っていた。それはただの剣ではなく、針状にとがった刺突用の剣である。
男がニワリ……と薄い唇をひらく。
「黄華伝来の針蜘蛛か。これはいい。どちらの「針」が勝るか、ここはしばし遊んでつかわそう」
●針蜘蛛
針蜘蛛もやはり鉄獅子の一種だが、後者とは構造がまるっきり違う。
大小2つの筐機が使われており、小さい方が頭部、大きい方は胴である。
それらに白銀の鉄板が何枚もかぶせてある。
そして脚も8本使われていた。それらの脚の先は針のように尖っている。「針蜘蛛」の名の謂いである。
その鋭い脚で対象者を貫き、あるいは抱擁して締め殺し、あるいは石垣をのぼって城兵を串刺しにする。また天井にへばりついて要人の暗殺までこなす。
あらゆる面で活躍するため重宝がられ、そのため莫大な値がつく。とても一忍者集団が所有できるシロモノではない。
その針蜘蛛のむこう、腰まで水につかった「影」が、口の中でぶつぶつ呪法をつぶやいている。
男が目を細めつついう。
「鉄獅子をあやつる『通機転位術』までこなすとは器用なスッパよ。どこで覚えた」
しかし影はこたえず、念をこめた右腕を「ふっ」と突き出し、針蜘蛛を前進させる。
針蜘蛛は後ろの4本脚で全身を支えつつ、前脚4本をおおきくせり上げた。その4本の前脚で、
シャシャシャシャシャシャ
とミシンのような突きを繰り出してくる。男は2本の刺突剣を器用に動かして、それらを一つ一つ、正確に弾いていく。
その間に「影」も手裏剣をくり出してくるが、男は「あぶね」といいながら、紙一重でかわしてしまう。
男は愉快げに打ち笑いながら、
「これはおどろいた。術者が同時に攻撃してくるなど聞いたことがない。これはちょっと本気を出して遊んでやろう」
「本気だと」
「まず針蜘蛛を倒してから、ゆっくりそなたを始末する」
ふつう逆である。まず術者を倒してから、行動不能になった鉄獅子を破壊するのが安全な方法である。
ふたたびシャラシャラと音をたて、針蜘蛛が砂地を滑ってくる。
男のすぐ手前の砂地でドッと8本脚をふんばり、直後、急上昇した。
今度は8本すべてを使って、頭上から攻撃してくるのである。
ブウウウウウウウウウウウウン
まるでクマンバチのような羽音を立てながら、針蜘蛛がゆっくり落ちてくる。その8本の連続攻撃はもはや肉眼ではとらえきれない。
突如、男が奇声を発した。
「ちょええああああああああああああぁぁぁ――」
両手の刺突剣を針蜘蛛にむかって突き出す。
両者の「針」が空中でかちあう。
おそるべきことに8本脚の攻撃を、2つの剣が凌いでいるのである。
ばかりか、男の剣はますます速さと延びをみせ、ズン、ズン、ズン、と針蜘蛛の胴に風穴をあけていく。もはや人間の動きではなかった。
ついに針蜘蛛の8本の腕が完全に止まった。止まったのと同時に、針蜘蛛は何百、何千という無数の穴をあけられ、ヘチマタワシのようにされた。
そのボロキレを剣の先に突き刺し、それを高くかかげながら、ゆっくり影に向きなおる男。
その光のない瞳は……先ほど「影」が網膜で見た魔界の深淵そのものだった。
「そなたがどこの誰かなど重要ではない。ただ我らの企図と一致している」
ボロキレが、ポシャンと肩透かしな音を立て、影のすぐ前の水面に落ちて、沈んだ。
やがて川の中に入ってきて、影の前に立つ男。
影はまるで金縛りにあったかのように動けない。
「そなた、なかなかの使い手よ。その腕だけでじゅうぶん組頭ぐらいにはなれよう。私に仕えぬか」
「殺せ……っ!」
「左様か」
パッと男が後ろへ飛ぶのと同時に、影は「うっ」と声を発し、横倒しに水面に倒れる。そして木栖川のひたひたとした流れに流されていった。
粉々にされた針蜘蛛の金属片もキラキラ光りながら流れていく。
「そなたもまた混沌の世に落ちた夢のひとひら……。あとはこの私が替わりを務めようほどに、安心いたせ」
さてと……と鼻息をついたあと、男は中洲から川岸にわたってきて、そのまま川近くの燈明神社に歩いていく。
社殿の中からは、いぜん農民代表の声がやんやと聞こえてくる。
バァンと社殿の扉がひらかれる。たちまち一座が凍りついた。
男はニッコリと人の好さそうな笑みを浮かべ、ひどく低姿勢な調子でいう。
「あ、これは申し遅れました。ワタクシ、三吉長真様配下の五百住弾正と申します。管領京兆院晴氏様の使者として参ったものです。以後お見知りおきを」