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永応斬鉄録カナコ  作者: 土井平蔵
1/7

御神楽ロック

永応斬鉄録かなこ01


●序


 慶章けいしょう17年。まだ夏というには風軽き晩春のころ。

 200年にわたってつづいた長い戦乱の世が終わろうとしている。

 その乱世に終止符を打ったのは世羅多行家せらたゆきいえという英雄であり、もとは三河国みかわのくに丘碕おかざきという地の小豪族だったにすぎない。しかし行家の事跡はここでは重要ではない。

 ときに京洛の北郊、比室ひむろの山中に龍雲寺という禅宗の名刹めいさつがある。その龍雲寺の禅師・白景伯淳はっけいはくじゅんはある人物の来訪を受けた。

 といっても伯淳は病身であり、齢90に近い老齢である。病床から侍僧じそうたすけおこされながらその人物の来訪を受けねばならない。

 それにしても伯淳は巨大な老僧である。巨躯の上半身をちょこんと起こしたその姿は荒波にけぶる磯岩いそいわたたずんでいるようでもある。

 白いあごひげが生えているため「ヒゲの白景さん」ともいわれる。

 来客が、布団の縁あたりにゆったりと腰をおろす。

 黒髪長く、烏帽子をいただき、錦繍きんしゅうに身をつつみ、温雅おんがな微笑を目もとに漂わせている。一見女性のようでもある。

 その人物が着座するや、大岩がこれでもかと身を縮め、両手をつき、生気を絞るような声で

みかど

 と一言いった。

 帝と呼ばれた烏帽子の君はその瞳にさっと憂いの色をき、慈父じふをいたわるごとき声色こわいろ

「老師、無理をばなせそ。今日も忍びぞ。ただ老師に今生こんじょう別離わかれを告げんために来たるなり。とく伏して身を安んじたもれ」

勿体もったいなし」

 涙をにじませて伯淳は、侍僧に介添えされつつ身を横たえた。

 この帝、後耀光ごようこう帝はいまだ皇太子であった幼少のころから白景伯淳の学徳を敬愛し、しばしば龍雲寺をおとない、即位した後もお忍びで伯淳のもとを訪ねてくる。その行為は一種、諸事さまざまに朝廷に口出ししてくる武家へのささやかな抵抗でもあったのかもしれない。

「しかし近ごろはそれも叶わなくなった」と帝はいう。

「世羅多行家が天下を平らげし後、武家はわれら皇室にも強固なる法度をさだめ、禁令も日々(しげ)くなってきた」

 伯淳はうなずきつつ、岩をこするような荒い声色で応える。

「朝廷を意のままにして武家の権威を高めんとの心でございましょう」

「なれど、それによって朝廷の台所も豊かになった。大極殿だいごくでんの修復も成った。公卿たちの生活も安定している。が、同時に息苦しくもなった」

「世の泰平のためでございます。なにとぞ忍辱にんにくの一語を忘るべからず」

「……しかも来月には行家の征夷大将軍の任官が決まっている。そうなればもはや朕はこの寺に来ることもできなくなる。その前にどうしても老師に一目会っておきたかったのじゃ」

 といってから、ふと帝は暗い床の間を見た。

 あいかわらず殺風景な床の間である。かつて龍雲寺開基(かいき)以来の傑僧けっそうといわれ、かなり悪どいやり方で寺勢をひろげ、聖俗両界への発言力を高め、武家の介入から法門を堅守してきた白景伯淳だが、わが身には悪銭一枚のたくわえもなかったという。それが床の間のガランとした印象に現れている。

 ただ床の間には伯淳が書いたらしき「一剣劫魔いっけんごうま」の掛軸がかけられ、その下に、一振りの刀が大事そうに置かれていた。

 かつて帝はその書と刀の意味を尋ねたことがあるが、伯淳は「いやぁ」と禿頭とくとうをなでたきり話をらしてしまった。その禿頭には汗さえにじんでいたので、帝も不審には思いながらいては追求しなかった。

 だがこの機とばかり帝は尋ねてみた。

「あの御剣みつるぎ」「は?」

「すこし手にとって見てもよろしいか」

「あ……ああ、どうぞ。ごろうぜませ」

 伯淳はもはや諦めきったようにうなずき、ゆったり吐息をついた。

 帝はその剣を手にとる。ただ黒鞘からわずかに刀身を抜いて、どんなものか確かめるつもりだった。

 しかしである。

(これは……?)

 刀身にはニエが青々と、しかもびっしりと浮かんでいる。さながら蛇……いや龍神のうろこのようでもあった。

 その美しさに導かれるまま、鞘はするするとその刀身を滑ってゆく。

 やがて刀身をすべてあらわにし、それを掲げもって茫然ぼうぜんとする帝の姿があった。

 薄暗い房室が一時に明るくなったような輝きだった。

(なんという美々しき剣。まるであおき炎をまといし龍王のごとし。いや宙空たかだかと輝く日輪のようでもある)

 なんという剣か――と尋ねる間もなく、伯淳はかたちをあらため、ややおごそかに言った。

龍虎合一りゅうこごういつの太刀。あるいは日輪剣一文字にちりんけんいちもんじともうしまする」

「日輪剣一文字……」

 そうつぶやいた帝の眼前に「一剣劫魔」の字がふとぶとしく浮かんでいる。

 伯淳はいった。

「これまで帝にはさまざまに昔語をして参りましたが、その剣の由来だけはついぞ語りませなんだ。それは剣の持ち主であったお方が、おそらく世に知られる事を望まぬからでございます」

「お方? 持ち主は老師ではなかったのか」

滅相めっそうもなし。拙僧はただ、そのお方とおなじ国に生まれ、おなじ時代に生き、ともに泣き、笑いあえたことを、今になって思えば……千載せんざいの奇遇であったと、遅く嘆く愚か者にすぎませぬ」

 声を発すれば万軍のきもを抜くといわれ、全身に漫々(まんまん)と自信がみなぎっていた往年の伯淳とは思えぬ、ずいぶん弱々しい発言だった。

 しかも、と伯淳は例のごとく額に汗をにじませた。

「拙僧の恥ずかしき……その、若人わこうどのころを話さねばなりませぬゆえ」

「老師の若き日……」

 帝はゆっくりと剣を鞘にもどし、それを膝の上においた。

「しかしこれが帝にお目にかかれる最後の機会かもしれませぬゆえ、どうかその剣の持ち主がこの世に存在していたこと」

 と、伯淳の声が湿りを帯びはじめた。

「せめて帝の御心みこころにだけでも留めおいてくださいませ」

「そのようなじんがこの扶桑ふそう(日本)におったというのか。そはだれぞ。朕もよく知る者か」

「いや帝はおろか、この国のだれも知らぬお方でございます。なにせいそのお方は名もなき……いや、名もなき者であろうとしていた一介の女性にょしょうでございました」

「婦人じゃと」

 急に帝は気を削がれたような形になった。この雄渾ゆうこんすぎる刀身の持ち主が女性であったことがどうしても脳裏で符号しない。男が持つにしても重すぎる剣である。

(どんな巴御前か、あるいは板額はんがくか……)

「しかし今の泰平の世のもといはそのお方がはじめにつくったのでございます。そのお方がいなかったらこの国はいまだ果てなき戦乱の世が続いていた事でありましょう」

 それは帝の4代前のお爺さまにあたられる後華苑ごかぞの帝の御代みよ

 遠い、遠い時代のことでございます……。


●永応年間


 不意に、後耀光帝は座のまわりが白い霧に包まれたような気分をおぼえた。

 その白い霧は渦をまきながらごうごうと天地を覆いはじめる。

 その年――永応3年は「夏のない時代」であった。

 もうじき7月にもなろうというのに明け方には霜がおり、日中はたえず寒風が吹き荒れ、もうもうと土煙をきあげていた。

 長い戦乱によって田畑は兵馬に踏み荒らされ、荒野化し、その乾ききった大地から土が風にさらわれていく。

 この寒冷現象は扶桑だけにかぎらず、世界各地で見られた。西欧の船乗りたちははるか北の氷海で火山の噴煙を目撃したという。その火山の粉塵が寒冷化の原因ではないかと後世の歴史学者はいう。

 それはともかく無残な光景である。

 京洛の南郊・伏美ふせみ宇陀うだの地はかつて「伏美80万町歩(ちょうぶ)」と称され、京洛30万人の人口をささえた広大な美田地帯であった。

 それがいまや地がむき出しになり、枯草の生いしげる一面の荒野にすぎない。

 この水田地域は、京を拠点とする権力者にとっては外来者の侵入をふせぐ外堀の役目を果たしていた。

 それだけに侵入者にとってはその防衛機能を無効化しなければならない。そのため京に攻めのぼるたびに田を荒らし、稲穂を焼き、かつ土砂で埋めることさえした。

 そういうことが繰り返されたため周辺の農民はこの地を耕作することを放棄し、余所へ移住してしまったのである。

 しかもこの年の冷害、さらに砂嵐である。

 人口30万を数え、東洋屈指の大都をほこった京洛も、いまや10万人ほどにまで減っていた。


小竹こちくの君


 どっ、どっ、どっ、どっ

 地をする重い音とともに、その荒野を黒い塊が駆け抜けていく。一体。二体。三体とかぎりなく続く。

 その姿は獅子、あるいは猪に似ていた。しかし生物ではない。

 金属の塊である。

 幾重もの鉄板に覆われ、さながらダンゴ虫のごときもの。体高は1・5メートルほどもあろうか。

 それが四足をさかんに動かしては、砂嵐よりも速く地を疾走する。

 彼らは古記録では「鉄獅子」と呼ばれている。また「左衛門督さえもんのかみ、15ひき甲虎こうこを引きして」とか「武衛ぶえ殿。ししもどき、24両」などと資料によって呼称も数詞もバラバラである。

 もともとは大陸にあった木牛流馬もくぎゅうりゅうばが起源とされるが……と説明していると長くなる。

 ともかくもこの鉄獅子どもが近年の戦禍せんかをさらにひどくしていた。

「はっ、はっ、はっ……!」

 彼らのはるか前方には、甲冑をまとった一人の武者が徒歩で走っていた。甲冑は赤と黒のコントラストをなし、目にも鮮やかな印象を受ける。

 兜をかぶっていない頭部には馬の尾のように豊かな女(まげ)が揺れている。その小ぶりで愛らしい顔はやや褐色を帯び、一目で東国の出身であることが知れた。

「おのれっ――」

 褐色の女武者は振りかえりざま、手にした長巻ながまきを一旋した。長巻とは刀の柄の部分を長くし、薙刀なぎなた状にした武器である。

 バキイィィィン

 という鋭い金属音とともに黒い影が女武者の脇を通りすぎていく。長巻は折れはしなかったが、女武者は2けん(約3・6メートル)ほども弾き飛ばされて転倒した。

(もはやこれまでか……)

 さきほど彼女は鉄獅子の1体をようやくにして倒した。これだけでも常人の武勇ではないが、それが彼女の限界であった。追撃の鉄獅子どもは無数に湧いてくるのである。

 と、砂嵐の合間から、はるか北にある京洛でぱっと黒煙があがるのが見えた。あの方角には、幕府の有力者のひとり相模典厩さがみてんきゅう家の屋敷がある。

 それとともに勝どきの声がとぎれとぎれに聞こえてきた。

(父上……!!)

 女武者は血涙をほとばしらせんばかりの形相ぎょうそうで、長巻を杖にして立ちあがる。そのまわりをグルリと、5体の鉄獅子が取り囲んだ。

 女武者が突如として大音声だいおんじょうをあげる。

「我こそは典厩相模守政長(さがみのかみまなさが)が一女、典厩の小竹なるぞ。いでや鉄のガラクタども。わが命とひきかえに汝らの幾両かを道連れにして民の安んじとせん!」

 それに応じ、わっと鉄獅子の一体が飛び出してきた。小竹は右腕で長巻を振り上げ、真っ向から一撃をくわえる。同時に彼女の右腕から霧のように鮮血がほとばしった。

 一撃された鉄獅子は、そのまま彼女の背後にある民家に飛びこみ、屋内でさんざん暴れまわったあげく、ヨロヨロと外に出てきて、転倒した。

 もはや小竹の右腕は動かない。意識もはっきりしない。しかし眼光だけは炯々(けいけい)として鬼神のごとき殺気を放っている。

 そのとき彼女はあるものを見た。

 砂嵐におおわれたはるか街道のむこうから、人影がこちらに向かってくるのである。

(旅人か……運のない)

 もし小竹に少しでも余力があればその旅人を逃がすぐらいのことはできただろう。が今は立っているのさえやっとだった。おそらくこの後、小竹は鉄獅子どもに八つ裂きにされ、旅人もおなじ運命をたどるに違いない。

(逃げろ。逃げろ……)

 ただ念ずるしかなかった。

 しかし小竹は、そのあと生涯でもっとも忘れられぬ光景を目にすることになる。


網代笠あじろがさ


 カラン、カラン、カラン

 ごうごうと土煙があがり、上空の日輪を覆いかくす。古代あまたの歌人に詠われた浮草山うかくさやま山稜さんりょうが、さながら魔の山のように黒く沈んでいる。

 そういう状況で、その乾いた音は肩()かしなほどトボけていた。

 網代笠が近づくたび、その乾いた音が大きくなる。左手に黒い鉄鍋をげており、歩くたびに鍋がカラカラ鳴るのである。

 右手には太めの木の竿をもち、それを肩にかついでいる。

 顔はよく見えないが口に長い笹葉をくわえていた。

 ふつう農民たちは鉄獅子を見ると顔から生色を失い、身も世も忘れて遁走とんそうしていくものである。

 しかし網代笠はその存在さえ気づかぬように鉄獅子どものわきをどんどん通りすぎていく。笠をあげて確認するでもない。

 さらには小竹の存在さえ無視するかのごとく彼女の前を通りすぎていった。

「………」

 小竹は然とするしかない。

 やがて網代笠は、さきほど鉄獅子が乱入した民家に入っていった。家の戸口には「鍛冶金物かじかなもの(うけたまわ)そうろう」という木の看板がかかっている。どうやら鍛冶屋らしかった。

 土間に、白髪まじりの老人がうつぶせになっていた。

 網代笠は老人の前に片膝をつき、

庄兵衛しょうべえ殿、庄兵衛殿……」

 そっと揺りうごかし、老人の首もとに手をやった。おそらく事切れていたのであろう。網代笠は鉄鍋をおき、合掌がっしょうした。

 やがて網代笠が、鉄鍋をさげて鍛冶屋から出てきた。よく見ると鉄鍋の底が割れており修繕にきたのであろう。

 その"人物"に対して小竹はずっと違和感を抱いていたが、やがて

(こやつ女か……!)

 という事実を目の覚めるような心地で悟った。みのにおおわれた墨染の衣の前が豊かに盛りあがっているのである。

 気を奪われたごとく動かなかった鉄獅子たちもようやく総身に怒気をみなぎらせ、そのうちの一体が網代笠にむかって殺到してきた。

「………」

 しかし網代笠は竿を担いだままぼんやり突っ立っている。

 小竹の時と同じように、鉄獅子は網代笠の脇を通りすぎていった。全身を覆う鉄の鎧からは鋭いトゲのようなものが出ていて、わずかにかすめるだけで対象者に致命的な重傷を負わせるのである。

 見れば網代笠は片膝をついている。

(殺られた――)

 小竹は絶望とともに確信したが、その直後、網代笠は何事もなかったかのように立ちあがり、もときた道を歩きはじめている。

 傍若無人ぼうじゃくぶじんというにも程がある。

 通りすぎていった鉄獅子はそのままドタドタと駆けていたが、ゴウン、ゴウンと何かがたわむような音を発しながら、俊足を鈍らせ、ガクンガクンと身を上下させ、最後に

 ゴバッ

 と激しい音をたてて炸裂さくれつした。鉄獅子とはいいながら中身はかしの木製であり、あたりに木屑きくずが散乱し、むなしく風にさらわれていく。


●斬鉄の太刀


(何をしたのだ……一体……)

 何も見えなかった。というより笠の女は右手に木の竿をかつぎ、左手に割れ鍋をさげているだけである。

 そのあと1体、2体と鉄獅子が襲いかかってきたが、ピュン、ピュンという風を斬るような音とともに次々と両断され、輪切りにされ、バラバラに粉砕した。

 そのたび半月状の剣波が天空に向かって飛んでいくのが見えた。

(まさか居合か)

 武芸に心得のある小竹はすぐに気づいた。右肩の竿はただの竿ではなく木目の鞘(いわゆる仕込み杖のようなもの)なのであろう。

 ふつう居合は左手で鞘を支えたまま右手で剣を抜くものだが、信じがたいことに右腕の作業だけでそれを行なっている。

 あまりの太刀行きの速さに鞘は、重力がはたらく間もなく右肩にとどまり続けている。

 この時代、武芸というのはまだ新技術の部類であり、居合という技術もまだ一般的ではない。むしろ武芸は「足軽雑兵(ぞうひょう)の手わざ」「いやしき魔術のたぐい」として嫌う貴人も多かった。小竹のように身分ある武士の子女がそれを心得ていることは例外ともいえる。

 やがて女は、ひときわ大きな鉄獅子の前に立った。口でこそ言わないが彼女の全身からは「どけ」という威圧感と、いちいち相手するのが面倒という気だるさが同時に漂っている。

 だが大獅子はガリガリ、ギリギリと耳触りな金属音をたててなお殺気を解かなかった。人語が通じる相手でもない。

 ガラアァァン

 という音とともに、鉄鍋が地に転がった。網代笠の女ははじめて左手で刀をもち、ゆっくり刀身を引きぬいたのである。

(なんだあの刀身は……)

 まるで墨にけたかのような漆黒をしていた。がそれは玻璃はり瑪瑙めのうのように透明感のある墨色ぼくしょくであり、キラッキラッと光を反射している。

 一般の刀よりやや肉厚であり、一見長大なナタにさえ見える。

 その黒い刀身を、そっと載せるかのような風情で、鉄獅子の額にあてがった。

「ウヌらはただ天地自然(じねん)に生じたわけではあるまい」

 このとき女が声を発した。鼻にかかったような、渋みのきいた声だった。

「一両作るのにも十人の修験者の法力、百人の職工のわざおぎ、百貫文の大枚がかかると聞く。一両失えばそれだけ主君の大損になる。このまま無事に退くが主君の御為、御徳ぞ」

 まるでこの無機物の狂獣に対して諄々(じゅんじゅん)と諭すがごとくであった。

 が、それに対して鉄獅子が発した答えは、

 ブルルルルルァァァァア!!!

 という無数の金属が振動する音だった。大気も同時に振動し、砂嵐が一時停止したように一瞬止んだほどであった。

 その衝撃で網代笠がはじけ飛んで、女の顔をあらわにした。

 まるで彼女の刀身がそのまま髪になったようなつややかな漆黒の髪質をしていた。女髷を結っておらず総髪にしているが、髪がボサボサなので還俗げんぞくした荒法師にも見える。

 しかし異様なのは瞳の色だった。蛍火ほたるびのようにぼんやりみどり色の光を放っているのである。土と紙と木しかない色素の乏しい時代環境にあって、その瞳の色だけが唯一の色彩のように思われた。

 ガウン、ガウンと鉄獅子はタタラを踏むように前脚をあがかせている。前進しようとしているのだろう。

 しかし動かない。

 そっとあてがわれた剣(せん)を軸にして、前にも、横にも進むことができないのである。

 そこから逃れるには後退しかないが、無機物にすぎない鉄塊にそんな機能も判断も持ちあわせていない。

 やがて鉄獅子の後脚がそろって地にめりこんだ。このまま力圧しに相手を圧倒しようというのであろう。

 剣尖にはおそらく数百キロ、いや1トンを超える力がくわわっているはずだが、剣尖は微動だにしない。

「退かぬか」

 と短く声を発したのち、女の瞳の光がさらに輝きを増した。

「ぬうううううう……」

 歯を食いしばり、ほおをこわばらせ、眉間に数条のシワが刻まれる。黒い刀身と鉄獅子の接地面からおびただしい火花がはじける。鉄獅子の後脚だけでなく前脚までも地にめりこんだのは、おのれ自身の力だけではない事はたしかだった。

 巨大すぎる剣圧の前に、鉄獅子は四足を踏んばって耐えていたが、やがてゴウッ、ゴゴウッと地響きをたて、ついに真っ向から両断され、四散した。

(魔神か……あやつは……)

 小竹は、まるで自分がすでに死んでいて、この世ならざる幻影でも見せられているような気分だった。

 軍兵ぐんぴょう100人がかりですら多くの死傷者を出す鉄獅子を、たった一人で、しかも4体も倒すなど古今聞いたことがない。


●長巻


 この後しばし小竹の記憶がはっきりしないのは、砂嵐がひどくなったのと、意識が遠くなったせいでもある。

 いや、それよりも女の双眼から発せられた阿修羅あしゅらの闘気にあてられて軽い酩酊めいてい状態になったせいかもしれない。

 気がついた時には、女は鉄鍋をひろい、やぶれかけた網代笠をかぶりなおしているのが見えた。

 そして例のごとく小竹を無視して立ち去ろうとしている。

 小竹は怒った時の癖で、ガン、ガンと長巻の石突きで数度、地を突いた。

「待て!」

「?」

 きょとんと振り返った女の瞳に碧色の光はない。そこには眠そうな三白眼があるだけだった。

 その瞳を見て、小竹は自分でもなぜ怒声を放ったのかわからず、ただ口を開閉させていた。

 女はカクン、カクンと首をかしげていたが、何を思ったのか、無言のまま小竹の前に近づいてきた。

「あっ」と気がついた時には、小竹の手からサッと長巻を取りあげていた。

「何をする、か、返せ!」

 女につかみかかろうとしたが、いきなり強烈なビンタをくらって、小竹はヘタヘタと地にへたりこんだ。

 その小竹を見下ろしながら女が言う。

「そもじ(あんた)はこの場で自害しようとしていたであろう」

「………!」

「に、あらずや?」

「………」

 小竹は唇をひきむすんで、そっぽを向いた。なぜか悔しくて仕方がなかった。相手の声がとろけるように優しいことも無性に腹がたつ。さながら真剣勝負に敗れた相手から優しくされているようなものだ。

 ただ溢れそうになる涙をこらえている。

「これはしばらく預かっておくゆえ、心持ち落ちついたら後で取りにくるがよかろ」

「………」

「ふむふむ、これは世にまれな名物と見える。土倉どそう(質屋)にでも売れば高く買うてくれるじゃろ。さしずめ30貫目かんめという所じゃな」

「そもそもそなたは誰じゃ! どこの誰じゃ!」

 小竹は相手を見ず、地を叩いて叫んだ。

 女は肝心な事を忘れていたかのようにアハハと笑った。

「わらわはカナコじゃ。神宮寺六軒じんぐうじろっけんという在所を訪ねよ。あとは、在所の者が教えてくりょうほどに」

 ちょっと驚いたのは、女は自分を「わらわ」と呼んだのである。こんな男っぽい風貌にわらわは異質だった。滑稽ですらある。

 がそれ以上に名前だった。

「カナコ」

 と反芻はんすうしてから、小竹はケラケラと笑い出した。この時代、名前に「子」がつく女子は公家か、よほど位の高い武家の娘ぐらいである。わらわより異質で滑稽だった。

 それに気づいたものか、カナコなる女は鼻をかきながら、

「じゃあオカナでよかろ」

 と言い残し、まるで戦利品でも得たような喜色を浮かべ、長巻を担いで去っていった。

 そのカナコの後姿を土ぼこりが幔幕まんまくのように覆い隠していく。

 やがて見えなくなった。

 小竹の両瞳からはせきをきったように涙が溢れはじめた。悲しみというより今日は色々な事がありすぎて気持ちが追いつかないのであろう。

 ただ、先ほどまで胸中にわだかまっていた悲壮感がさっぱり消えている。


永応斬鉄録かなこ02


神宮寺六軒じんぐうじろっけん


 神宮寺六軒というのは京洛けいらくの南東、浮草山うかくさやま西麓せいろくにある小さな村である。

 永応の時代から500年前、村を見下ろす丘のうえに神宮寺という法論ほうろん宗の寺院があり、その麓に6軒の農家があった。

 しかし神宮寺は廃寺となり、その跡地には庄屋屋敷が建てられた。以後、神宮寺の存在は地名としてだけ残った。

 が、永応の今でも麓の農家はしっかり6軒なため、旅人は、

「名は偽らざるかな。神宮寺の六軒家」

 と喜ぶのである。

 しかし今でも6軒なのはたんに偶然にすぎない。来年には7軒になっているかもしれない。

 ときに3年前、村の庄屋が後継ぎもなく没してしまい、屋敷地は無人になった。

 それを伝え聞いた荘園領主の霞修寺経臣かしゅうじつねおみという貧乏公家が、京洛からこの地に移住してきた。

 いつしか丘のうえの庄屋屋敷は「少将屋敷」と呼ばれるようになった。

 それから1年がたつ。


●毛玉


 大風はその日いっぱい吹き荒れていたが、深更には止み、かわりに小雨を降らせはじめた。

 7月だがてつくような氷雨ひさめである。

 夜明けはとうに過ぎているはずだが、あたりはまだ薄暗い。少将屋敷の背後にある森はいまだ太古の闇の中に沈んでいる。

 屋敷の母屋の雨戸がガラリと開き、そこからせこけた、寝巻姿の男が出てきた。

 薄(ひげ)が生え、眉を剃り落とし、いかにも貧相な感じの男だ。

 男は小雨そばふる広い庭を横切りつつ、ひょこひょこと離間はなれのほうへ歩いていく。

 離間の戸は大きく開かれおり、その向こうに薄暗い土間が見える。

 土間には、何やら白い毛玉のような塊が山のように積まれている。

 毛玉の山からは白い大根のようなものが伸び、ごろん、ごろん、と2本、無造作に転がっていた。

 目が暗闇に慣れてくると、それは人のすねだという事がわかる。

「………」

 寝巻の男は、眠そうな目で、転がっている脚の指先をじーーっと見おろしていたが、やおらしゃがみこみ、懐から、たたんだ扇子を取り出した。

 扇子の先っぽで、そっと足の指をくすぐる。

 反応はない。

 ふたたびくすぐる。

 ぴくんと足の親指が動いた。

 もうシッチャカメッチャカにくすぐる。

 たちまち毛玉の山が「爆発」した。

 猫の大群だった。猫たちは蜘蛛くもの子を散らすようにほうぼう駆け去っていく。

 あとに残されたのは、上体を起こし、ぽかんと口をあけている女だった。ひどいボサボサ髪である。

 彼女は右手にのみ、左手に天竺てんじくぞうの彫り物を手にしていた。

 まわりには木クズが散乱している。

 近ごろひそかに流行はやっている根付ねつけという細工品である。

 見れば屋内のあちこちに布袋ほていさんだの、仁王さんだの、天狗だのといった根付がたくさん飾られている。好事家こうずかなら狂喜するような空間である。

 女は三白眼のまま「なにか?」というふうに顔を突きだす。

「あのね、カナコ殿ね」

 寝巻の男はカクン、と気が抜けたようにうなだれる。男の声色はふわり、ふわりとしていて、やたら高貴な響きがある。

「今年ね、ほら、肌寒き日が続くでおざろ」

「へぇ」

 カナコは膝の木クズを払いながらうなずく。

「ああ……それを彫ってる間にいねておざるか。でもね、いくらそこもとが頑健だからといって、土間で伏していれば風邪を召されるでおざろ。猫に感謝せねばね」

 といっても猫たちはカナコを温めようとしてたワケではあるまい。氷雨が降って寒くて震えてたところへ、たまたま土間に「湯たんぽ」が転がっていたにすぎない。

 それで例の毛玉の山である。

「あまり、お小言はいいたくないのでおざるが。せめて、せめて、茣蓙ござの上で寝てほしいのじゃ。土間と茣蓙じゃ、心持ちが全然違うのだから。それが文明的な生活って、もんでおざらぬか」

 お小言というより独り言をブツブツ言ってるような感じだった。

 しばらく静寂が続く。そこだけ闇を切りとったような戸口からフオッと湿った風が吹きこんでくる。

 その間、カナコも、男も、じっとうなだれていた。

 男は首をひねりながら「で、なんで麿まろはここにいるんだっけ」とつぶやいた後、

「そうだ。朝餉あさげ朝餉。一緒におあがり」


●少将殿


 この薄髭で貧相な男――霞修寺経臣は、いちおうこの屋敷の主である。

 貧乏公家とはいえ左近衛少将さこんえのしょうしょうだかの官位も持っている。

 かつては禁裏きんりを警備する「北面の武士」という資格も持っていたが、この病弱そうな人に警備される禁裏とはなんだろう。あくまで資格にすぎない。

 しかし6年前の大戦おおいくさで、京洛にあった本屋敷の大半は焼けてしまい、家来たちも殺されるか逃げるかしてしまった。

 さらには妻に先立たれ、経臣自身も病を得てこの神宮寺村に隠棲いんせいした。隠棲といってもまだ36歳である。

 それゆえ彼の「家来」はこのカナコという居候いそうろう一人だけといってよかった。

「カナコ、カナコ♪」

 まだ五歳ぐらいの小さな子供が、カナコの尻を田楽舞でんがくまいの太鼓のようにペンペケ叩きながら居間に入ってきた。

 カナコも叩かれるたびフリフリと腰を振っている。

 子供は経臣の一子で喜鶴きつるといった。頬が真っ赤で、青鼻をたらし、どうしても公家の御曹司には見えない。

 母屋には10畳ほどの広い居間があり、その真ん中に囲炉裏いろりが置かれている。公家の屋敷に囲炉裏はめずらしいが、庄屋屋敷だったころのものをそのまま使っているのである。

「これこれおふざけでない」

 カナコにじゃれつく喜鶴をひざに乗せながら、経臣は囲炉裏の上座にすわり、カナコはその向かいに座った。

 囲炉裏の上には割れた鍋が焼かれている。

「それにつけても、いくさとはいやなもの」

 寒そうに手を揉みながら経臣がいう。

「昨日の戦は、おそらく典厩てんきゅう家と野洲やす家の内輪もめであろう。あの家は同族なれど犬猿の仲。典厩家は東国から来たばかりゆえ、京暮らしの長い野洲家にそれはそれは侮られてのう」

 経臣は焼けた鉄鍋のへりにカモ肉やら菜っ葉やらを載せている。底が破れてるのでこういう調理法しかない。

「おかげで庄兵衛殿は無残な事に……。この近在では貴重な鍛冶屋であったが」

 じゅっとカモ肉がぜる。それを喜鶴がすばやくはしにつかんでは口に入れていた。

 そして「うまーい」と無邪気な声をあげる。

 いつも雑炊ぞうすいばかりなのでこういう料理は新鮮なのであろう。しかし毎日焼き鳥というわけにもいくまい。

「どこぞに土鍋があった気がするが。どこしまったか」

「探しておきまする」と背を丸めたままカナコが応える。

「そういえば霊然寺りょうぜんじのふもとに良い鍛冶屋がおざらしたな。黒屋とかもうしたか」

「黒屋治兵衛」

「そうそう、ジヘエジヘエ。あそこまで行けば……」

「………」

 カナコはうーんうーんと首をひねっている。その様子を見ながら経臣はコン、コンと軽いせきをした。

「さすがに遠いかね。1とき(2時間)はかかるね」

「行きまする」

「まあ今度でもよいのだが」

「今日、行きまする」

「やっぱり土鍋……」

「今、行きまする」

 と立ち上がったカナコを、経臣はポカンと見上げながら「まだ行かなくていいよ」と言った。

 カナコは座りなおした。

 カナコにとって霊然寺周辺はちょっと行きづらい場所だった。この屋敷の居候になる1年前まであの界隈かいわいに棲んでいたのである。

 しかしこの時代の鉄器は貴重品であり、いかに居候といえどなるべく節約しようという経済観念がはたらく。

 結局――

 小雨がやんだ曇天どんてんの中。

 昨日のように網代笠あじろがさをかぶり、鉄鍋をさげ、一路霊然寺のある京洛にむかって街道を北上するカナコの姿があった。

 口もとにはピョコンピョコンと笹の葉が揺れている。

 彼女の左手には広大な美田……ならぬ泥の湿地と化した荒撫地こうぶちがひろがっている。

 余計な遮蔽しゃへいがないので、曇り空でも蘭山らんざんの寺院群まで見えるようだった。

 そのカナコの背後から、バシャバシャと泥水をねあげながら駆けてくる者があった。


●頭巾


 その足音に気づいてカナコは振り返った。

「はぁ、はぁ、はぁ!」

 見れば小袖をまとい、顔にすっぽり白い頭巾をかぶった娘が立っている。脚絆きゃはんは泥で汚れていた。

「………?」

 カナコは笠をあげ、ふしぎそうに小首を傾げたあと、かまわず先に行こうとした。

 頭巾の娘はふたたび駆け出し、カナコの前にまわりこむ。頭巾を脱いで、

「私じゃ!」

 と鋭い金切声をあげた。

 だれあろう昨日の褐色の女武者、すなわち典厩の小竹こちくノ君だった。

 甲冑を脱いで村娘に身をやつしているらしい。

「ご壮健ご壮健」

 カナコは愉快そうにうなずいた。が小竹の顔つきは愉快ではない。

「長巻!」

 グンと右手をさしのばす。カナコは「ああ」と思い出し、しばらく思案していたが、

「今は所用があるゆえ、後ほど」さっさと行こうとする。

「かの長巻はわが家代々の重宝、私にとっては魂にも等しい! 待てぬ!」

 カナコの肩を小竹がとらえたはずみで、二人は泥に足をとられ、チークダンスのようにクルンクルンと回転した。

「おやおや」とカナコは目を回していた。

 かぶっていた笠をボンッと叩いて気を取りなおしたあと、

「とはいえ……あ、そうだ。ともに参られよ」

「どこへ」

「霊然寺(した)

「なにしに」

「鉄鍋の修繕にそろ」と割れた鉄鍋を掲げてみせ「そもじのおかげで雑炊にありつけのうなったでな」といった。

「なんで、私のせいだ」

「鍛冶屋の庄兵衛殿が殺されたではないか」

「あれは……私のせいではない。鉄獅子どもが」

「そもじがあの地に足を踏み入れたるはえにし。その縁によって庄兵衛殿は死にたり。なんの前世の因縁か。身に負いたりし宿業しゅくごうなるかは知らねども♪」

 べつにカナコは咎めているわけではない。当時流行りの狂言めかしく、節をつけて言ってる事でもわかる。

「ついに割れ鍋の修繕につきあわさる。げにも浮世の、あ、げにも浮世のぉ、ふぅしぎなりけぇりぃ♪」

 と小竹の腕をとらえ、ともに京洛にむかって歩いていった。


●黒屋治兵衛


 しかし豪胆な娘だな。とカナコは内心おどろいてる。

 彼女は小竹の正体など知らないし、興味もないが、昨日京洛から逃げてきたということは敗亡した典厩家の縁者であろう。

 ということは京洛はいまや敵地であり、敵方の野洲家に見つかれば命はない。

 なのに小竹は臆することなく先に立ってキビキビ歩いている。臆するという感情をどこかに置き忘れてきたのではないか。

(まるで竹を割ったような)

 と思った。もし「小竹」の名前を知ればカナコは腹を抱えて笑っただろう。

 ところで京洛である。

 いくら人口が減ったとはいえ、伏美ふせみから1時間ほども北上するとしだいに町屋が建てこんでくる。

 霊然寺は京洛の東、斐陽ひよう山系の縁にある。いちおう京洛の市域に含まれるが、東郊ぎりぎりにある立地のせいかそこだけ独立した門前町をなしていた。

 やはり都会だけあって商家が多く立ちならび、京師けいし地区(京の中心部)にせまる繁華ぶりをみせている。

 しかし昨日の戦のせいでか通りに人の姿はなく、戸をしめている店も多かった。そこをひょうひょうと湿った風が吹く。

『くろやぢへゑ』

 と書かれた看板が掲げられたその鍛冶屋もぴっちり戸を閉めていた。

 ただ自分の名前を書いてるだけでどんな店なのか書かれていないところに、人を食ったような主人の性格が伝わってくる。

「閉まっているな。ヨソをあたるか」

 と小竹はいったが、カナコは首を振りながら、

「ここはいつもこんなでな」

 とかまわず戸をポンポン叩く。何度も叩く。

 やがて肩にかついだ竿で戸をゴンゴンやっていると、ガラッと戸が開いた。

 同時に、巨大な顔がぬっと飛びだしてきた。

 あまりの唐突な出来事に、小竹が「ひうっ」と変な声を出したほどだった。

 おそろしく顔が大きいのに、目が異様に小さい。四角い顔のおかめ面のようでもある。

 身の丈は2メートルもある巨漢だが、はだけた襟からのぞく肌はおそろしく白く、起伏がまったくない。いわゆる一枚あばらである。

 まるではんぺんか豆腐のバケモノだった。

 じーーーっと地獄の深淵のような黒い瞳でカナコの顔を睨みつけたあと、

「誰かと思えば……めずらしいやつが来たもんだ。入んな」

 四角いおかめがふっと戸口の闇に消える。

 黒屋治兵衛。

 見た目が全体的にのっぺりしているため年齢がはっきりしない。見ようによっては60にも見えるが、35歳である。

 本職は刀剣の象嵌ぞうがん師だったが、鉄鉱の採掘から、錬鉄れんてつ鍛刀たんとうぎ、つばの製作まであらゆる工程をこなす刀剣のエキスパート、というより刀剣オタクだった。

 しかし今はまったく刀を打っていない。あまり一人で色々な工程をこなしているとギルドから文句がつくのである。

 それに自分が丹精こめて作った刀が、死骸のころがる戦場に雨ざらしで捨てられているのを何度となく目撃してから、急に刀を打つことのむなしさを覚えたらしい。

 どすんと藁の茣蓙に腰をおろし、丸太のような腕を組みながら治兵衛はいう。

「霞修寺の少将(経臣)は達者かね」

 カナコは腰をおろしながら「まあね」と素っ気なくいった。達者というより病人だが。

「たまに来てるのかね。霊然寺界隈は」

「いや、1年ぶりに」とカナコは首をふる。

「そんなに神宮寺のほうは住み心地いいか」

「近ごろは砂嵐がきつうてあまり住みようはない。しかし戦続きの京よりはよかろ」

「まあ昨日の戦もあったしな……。ところで、連れの娘はなんだ」

「いちいちうるさいなあんたは……」

 カナコは下唇を突き出し、そっぽを向いて自分のアゴをぺんぺん叩いている。そのたび口にくわえた笹葉がユラユラ揺れる。

 いつも一問すれば、必ず何らかの一答がかえってくるカナコだが、めずらしく言葉を濁している。

 治兵衛はちょっとピンとくるものがあった。

「で、今日はなんだ。剣ならやらんぞ」

 といわれて、カナコは脇から割れた鉄鍋を引き寄せた。

 治兵衛は鍋の底をポンポン叩きながら、あきれたように、

「鍋の修繕。そんなことでわざわざ神宮寺から歩いてきたのか。伏美には庄兵衛っていう腕のいい」

「庄兵衛殿が死んだでな」

「………。ああそうかい」

 ぽいっと鉄鍋をわきへ放った。

「修繕にはちょっと時間がかかる。その間に……なんだ」

「なんだね」

「寺の庵主あんじゅ様のところに挨拶に行ったらどうかね」

「………」

 カナコがここに来たくない最大の理由だった。ものっすごい沈鬱な顔をしている。

「あのあと庵主様に手紙は出したのかね」

「一度」

「一度か」くすっと治兵衛は笑った。

 治兵衛は巨大な手をポンと打ち、それをこすりあわせながら、

「じゃあやるか。珍客の注文だしな」

「今はいくらするね」

「まあ相場なら35文。しかしアレよ」くいっとあごをしゃくる。

「………」

 カナコは右手の竿(つまり刀)をぽいっと治兵衛に放った。それを受け取った治兵衛は、なにやら上気したような目で、

「これだけは……どうしても……性分でな」

 ゆっくり中の刀身を引き抜いてみせた。

 自分の佩刀はいとうを見せると少し割引してくれる。気に入ると半額にしてくれる。という妙なサービスがこの黒屋にはある。

「うむ……うむ……」

 墨のごとき黒い刀身を天井にむけ、それを惚れ惚れと眺めながら、治兵衛は何度もうなずいている。

「今まで長いこと刀を見てきたが、こんな剣ははじめてだ。無銘だというが……いや、これは筬船おさふねの影響がみられる。この黒い地肌は、下野天妙しもつけてんみょうの鉄に似ている。しかし天妙の鍛冶師は刀は打たんと聞いていたが」

 何やら言っているが、カナコにはさっぱりわからない。何しろ人からもらった剣である。その来歴など知ったことではない。

 それにしても下野天妙ははるか東国とうごくの地である。そんな遠国おんごくの鉄器のことまで詳しい治兵衛はやはりただのマニアではない。

 やがて剣を鞘におさめた時、治兵衛はもう……この剣を打った鍛冶師の生涯を一瞬で体験したかのように、じっと眼をつぶっていた。

 薄髭の少将殿がひさしぶりに銘酒を飲んで「あな、うまし」とじっと動かない時の様子に似ていた。

 目をつぶったまま治兵衛がいう。

「おカナよ」

「?」

「この刀に名前をつけてもいいか。そしたら修繕代タダにしてやる」

 カナコは目を丸くした。

蟠龍墨水はんりょうぼくすいの太刀」

 それが(どうやら)この刀の新銘らしい。

 カナコは良いとも悪いともいわない。


●ヌエドリ


 結局、カナコは霊然寺の庵主様に会うため、黒屋からいなくなった。

 後には小竹だけが残される。出された白湯さゆを静かに飲んでいた。

 村娘の恰好をしているが、いかにも名家の子女らしく泰然としている。

 その間、治兵衛はフイゴを踏んで炉の火を盛んにしている。

 治兵衛はちょっと振り返り、自若じじゃくとしておさまった小竹を見ながら、

「つくづく典厩家の鬼姫よなぁ」

 と首を振りながいった。

「あんた小竹ノ君だろ。それが、こんな白昼堂々」

 小竹はむふっと白湯を吹きだしそうになった。

 褐色の肌、全身から漂う気品、そして凛々(りんりん)とした眼光を目の当たりにすれば、勘のいい者なら「ああ、あの小竹の君か。噂たがわず」と察するだろう。

 京洛屈指の事情通である治兵衛ならなおさらでる。

「心配しなくてもいい。密告なんかせんわ。逆にあの野洲家に一泡吹かせたって、京人はこぞって喜んでおる」

「………」

 相模典厩さがみてんきゅう家は東国を基盤とする大名であり、幕府では将軍につぐ権力者・京兆院けいちょういん家の一族である。4年前に京兆院家の命を受け、はるばる東国から呼び寄せられたのである。少々武断的で粗野な面もあったが、戦場では鉄獅子を用いないので民衆には人気があった。

「しかし、これからどうする」

「どうするとは」

「この京周辺に、典厩家の寄るはない。まさか相模まで落ちのびるかね。まあ無理だろうな」

 治兵衛の観測によると、各地の関所はすでに野洲家の兵がおさえているだろうし、相模本国でも、反典厩派の豪族たちが典厩家の居城を攻め落としているだろうという。

 全国の鍛冶師ネットワークからたえず情報を受け取っている治兵衛にはそれぐらいの事はすぐわかる。

 小竹は肩を落とし、力なく言った。

「ならばどうすればいい」

 治兵衛はハハッと笑った。

「心配ないさ。京人はみんな典厩家びいきだから。それに」

 カァン、カァンとつちの音とともに赤い火花が飛んだ。

「おカナがいる」

「え?」

「あんたも気づいてるだろう。あいつの力量を。あれは……なんというか……人間の杓子定規を超えたやっとうを使う。あいつを味方につけることは万の軍勢を得たようなもんだ」

 かつて霊然寺本堂の屋根裏に15体ものヌエドリ(妖怪の一種)が棲みつき、巨大な巣を作ったことがある。

 寺の僧たちはただ恐慌狼狽きょうこうろうばいして、侍所さむらいどころの役人を呼べだの、べつの寺から僧兵を集めろだのと騒いでいたが、その間にカナコはタスキがけでするすると本堂の柱をよじのぼり、一人ですべてのヌエドリを成敗してしまったというのである。

 それを目撃したのはこの治兵衛と、寺の庵主様だけだったので噂は広まらなかった。

 門前町の住民を不安におとしいれないためカナコがこの話をかたく口止めしたのである。

「まるでいにしえ鎌蔵権五郎かまくらごんごろうが目の前にあらわれたような気分だった。ワシは泣いたよ」

 と鎚を振りおろしながら治兵衛はいった。

「あ、あの」

「なんだ」

「あのカナコとは何者なのだ。どうしてあんな……」

「カナコ? なんだ公卿くぎょうの娘みたいに」ぷっと治兵衛は吹きだした。そして「ははぁ、あの少将か」と何やら得心していた。

「カナコ」の命名親はどうも経臣らしい。

「ワシもおカナのことは良く知らんよ。ただ2年前このあたりに現れ、いつしか霊然寺で小間使いみたいな事をしておった」

 そのあと霊然寺の檀家だんかだった霞修寺経臣が郊外へ引っ越すというので、寺は手伝いにカナコを向かわせたのである。

 しかしカナコは何をどう気にいったのか、そのまま経臣の転居先に居ついてしまい、寺にはもどらなかった。

「よっぽど寺の生活がイヤだったんだろうな。あすこの規律は厳格だというから」


貞応尼ていおうに


 やがてカナコはもどってきた。

 いくら修繕費がタダだといってもそれは心苦しいので、いくばくかの銭をおき、黒屋を後にした。

「一年一度といわず何度もこい」

 それが治兵衛の別れ際の言葉だった。

 修繕なったツヤツヤの鍋をひっさげて、カナコは南へと歩く。

 ただ、庵主様のところで何があったのか、何もしゃべらなかった。

 小竹が霊然寺で何があったのか尋ねてみると「茶菓さか」という返事。

「は?」

「茶と菓子を出された」

 それだけである。

 カナコもそれほど背の高いほうではないが、齢70になる庵主様はカナコより頭ひとつ小さいという。

 その小さな老尼が、カナコを自室に招きいれ、茶菓を出し、何もいわずニコニコしていただけだったという。

 で去り際に「またいらっしゃい」とだけ言った。何やら目に見えるようである。

 小竹もよく知らないが、霊然寺の貞応尼といえば先代の将軍柳営満藤(りゅうえいみつふじ)から厚い尊崇を受け、皇室からもたびたび御下問や相談を受けるほどの、いわば影の宰相といっていい。

 だがありようは小柄で柔和な笑みをたやさない人のいい老婆にすぎない。

 ただそれだけの話なのにこのカナコの寂しそうな横顔はなんだろう。

 やがて西の曇天から夕陽がさしこみ、街道をゆく2人の女を照らし出す。

 寒冷な年の夕焼けは美しいという。

 その非現実的なほど荘厳そうごんな夕景の中を歩きつつ、小竹は「やはり自分は死んだのではないか」という錯覚にさえ襲われる。

 長巻のこともすっかり忘れていた。


権十ごんじゅう


 やがて伏美をすぎ、神宮寺村が近づいてきたところで、小竹は何やら奇妙な音を耳にした。

 ジャラン、ジャラン、ジャラン

 まるで千の鈴の音が鳴るような、バカに賑やかな音である。

 それははるか前方の街道から吹きあがってくる。

 はじめどこぞで村祭でもやってるのではないかと思った。

 それは一人の人間から吹きあがっていた。

 黒屋治兵衛ほどではないが長身の壮漢。

 歩くたび腰や足首につけたおびただしい鈴がジャラジャラ鳴っている。

 頭には、深緑と黒のまだらの布をバンダナのように捲いていた。

 それが子分らしき小柄な男をひきつれ、まるで天下を睥睨へいげいするような顔つきで、のしのし近づいてくる。

(あれ……??)

 と思ったのは、男は肩に長巻をかついでいるのである。

 長巻は珍しい武器ではないが、何やら小竹愛用のそれに似ていた。

 壮漢はくっちゃくっちゃとスルメのようなものを噛みながら、へっと笑った。

「よーやくご帰参かね、カナコ御寮人ごりょうにん

 しかしカナコは応えない。ただ肩にかついでいる長巻について尋ねた。

「それをどこで手に入れた」

「これか? 喜鶴様がコレもって遊んでたので、危ないから丁重にお取り上げしたのだ。なかなかの名品だぜ」

 ビュンと片腕で長巻を旋回する。

 小竹が飛び出そうとするのをカナコは首をふって制し、

「それはさる人からの大事な預かりもの。そもじの玩具おもちゃにされては困る。返してもらおう」

「おういいぜいいぜ。ただし、わかってるな」

 ビュン、ビュンと長巻を左右に振りながら、壮漢が迫ってくる。

 この男――馬崎うまさき権十郎は、神宮寺六軒村にすむ若者である。

 たまに錆び槍をかついで足軽働きをしている。

 戦のないときは鈴をつけ、奇矯ききょうな格好をして田舎道を練り歩いているのである。一種ヒマなのだろう。

 それはいいのだがなぜかカナコを目の敵にしているのである。

 で、見かけるたび勝負を挑んでくる。

「権十、こいや」

 言いざま、パッとカナコが網代笠を脱ぎ捨てた。見れば笑っている。

 この夕陽より晴れやかな笑顔だった。

「おうさ!」

 ブーン、ブーンと大ぶりに長巻を旋回する。

 それにしても何という膂力りょりょくであろうか。そのバカ力にかかっては長巻が小枝に見える。

「今日はどうしても負ける気がせぬ。いやいつも負けたなどと思ってはおらんぞ! いいか、霞修寺の少将様はオレ一人が――」

 といった瞬間、権十郎は向こう脛を蹴られてトトッとよろめき、やや前傾になった。

 その脳天に、

 ズドッ

 とスイカがかち合うような音とともにカナコの脳天が直撃する。

「うおっ頭突き!!!」

 わきで見ていた子分が叫ぶ。

 権十郎はさながら狂言の道化役のように、トトッ、トトッと後じさったあと、街道脇の小川に背中から落ちていった。

 盛大に水しぶきがあがる。

 カナコは笠をかぶりなおし、落ちていた長巻を拾うと、それを小竹に放った。

 いや小竹は長巻よりも小川に落ちた男に気をとられている。

 男は水面から顔を出したまま白目を剥いており、そのまわりをフナが泳いでいた。

「い、いつもこうなのか、そなたらは」

「コレもあやつなりの忠義心から出たこと。あんなで死ぬタマではない。茂助」

「へっ」

 茂助といわれた小柄な青年は、ビクッと肩をすくめたあと、権十郎の落ちた小川に駆けおりていった。

 だが非力な茂助ではとても権十郎の巨体を抱えきれないので、結局カナコと小竹も手助けしてやった。

「負けたなどと思っていない」というのはいつも最後は気絶させられるので「負けた記憶がない」という意味であろう。

 陽が暮れようとしている。


永応斬鉄録かなこ03


御鞍おくら


「はぁ、なんとも無残なものよ」

 えんえんと広がる伏美ふせみ宇陀うだの大平野を眼下におさめながら、霞修寺左近少将経臣かしゅうじさこんしょうしょうつねおみはためいきをついた。

 7月にしては冷たすぎる風に肌をなぶられながら。

 その平野の半里(2キロ)ほど先、御鞍の方に目をやるとそこにキラキラと湖面が輝いているのが見える。

 そこにおびただしい川船の白帆が漂っていた。

 御鞍池

 池とはいいながら広大な湖沼であり、宇陀川・与菟よど川をへて海に通じている。京洛周辺の物流を支える水運の要衝でもある。

 一見のどかな光景ではあるが、この視界をおおいつくすカヤの野が、かつて「伏美80万町歩」と称された美田地域であった事を思うと、たちまち陰鬱いんうつな風景になる。

 経臣は少将屋敷のある丘のへりに座ってこれを眺めている。

「あれが全部田んぼであったらばのう」

「へへっ」

 隣であおむけに寝そべっていたカナコが鼻先で笑う。

 タスキがけで、ボサボサ髪に鉢巻を巻いており、ちょっと女弁慶といった恰好だった。

 右手ののみをカリカリと動かしながら、万年亀の根付ねつけを彫っていた。

 根付細工は当時あまり流行していないために、経臣は「ほう見事な」とは感心しながらもさして興味がない。

「あの田はべつに少将殿のものではあるまいに」

 ふっと根付の木クズを吹き飛ばしながらカナコがいう。

「まあそうだけども……」

 霞修寺家の所領は浮草うかくさ山系のあちこちに点在する谷あいや窪地などに散在しており、全部あわせても150石に足らない。今の実高は100石以下である。

 しかも公家の力ではその所領を守ることができないため、自然、近くの有力大名に警備・徴収等を依頼することになる。

 その手数料で収穫の半分を持ってかれてしまうため、手元には50石しか残らない。

 これでは青侍あおざむらい一人雇うことができない。

「まあ米のメシが食えるだけでも幸いでおざる」

 と経臣は諦観ていかんぎみにいう。


●カナコ農園


 ときに、2人のすわる丘のへり、比高15メートルほどの崖下に、やや広めの空き地があった。

 そこでは茄子、かぶら(カブ)、大根、ネギ、ヤマイモだのといった作物が植えられている。

 空き地のまわりは防風・防砂のための笹竹が柵のように植えられており、一(うね)ごとに藁むしろの壁を立てている。

 これらはすべてカナコの作品であり「カナコ農園」といっていい。

 ふだんのカナコは寝ている事が多いが、いざとなると水汲み、薪割り、縄ない、畑仕事、裁縫、洗濯、家の修繕、手紙の代筆などなんでもこなすのである。

 さらに余暇で根付を彫っており、経臣が知人に見せるとひどく喜ばれ、見返りにけっこう高価な贈り物が届くことがある。

 カナコがいなかったら霞修寺家の生活は3日と保てないのではないか。

「おぬしは何でも知ってるのう」

 と経臣がいうと、カナコは「へへっ」と鼻をこすり、仰向けのまま「うーん」と一つ伸びをした。

(一体どういう人間なのか……)

 経臣は変なことは色々知ってるくせに、カナコの過去を詮索したことは一度もない。

 というより妙なことを詮索して、カナコが気を変じて屋敷から出て行ってしまうことを極度におそれた。

 一種死活問題である。


●かぶら


「で、あの小竹ノ君(こちくのきみ)よ」

 屋敷の母屋のほうを振りかえりながら、経臣がいった。

 母屋の前の庭先では、片膝をつき、弓の弦をひきしぼったまま不動の姿勢をたもつ小竹ノ君の姿がある。

 いかにも所作が小笠原流の典礼にかなっており、背すじをピンとのばした後姿がほれぼれするほど美しい。

 真空のような静謐せいひつののち、

 カッ

 と矢が放たれ、20間(約36メートル)ほど先の、樹の幹にたらした手拭を射抜く。やや風があって矢の軌跡は弧をえがくが、矢はしっかり手拭に当たるのである。

「水際立った手並みよ。麿まろもああはいかぬ」

 感心げに経臣がいう。

 射抜くたび、経臣の子の喜鶴きつるがうれしそうに駆けていき、矢を引き抜いて満面の笑みでもどってくる。

 そして「ハイ!」と小竹に手渡す。それを飽きずに何度もくりかえしている。まるで球遊びする仔犬のようだった。

 小竹ノ君は、あのあと霞修寺家の居候におさまり、母屋の一室を借りて住んでいる。

 母屋には空き部屋が多く、居候が増えることはさして負担ではない。それに小竹は和歌や漢文にも通じているため喜鶴の家庭教師にもよく、諸武芸にも達しているためボディーガードにもなる。

 経臣はカナコにも母屋へ移るように言うのだが、カナコはどうしても「離れでいい」といってきかない。

 根付製作にはたくさん木クズが出るため離れのほうが都合がいいという。

 で、土間で大の字に寝そべっていては経臣からお小言をいわれる。

 経臣が薄髭をなでながら言う。

相模典厩さがみてんきゅう家の姫君だというが……大丈夫かな」

「大丈夫とは」

「かくまっていると、色々問題ないかな」

「大丈夫でござりましょう。今は」

 かつての幕権が強固であった時代ならともかく、今は将軍の権威は地におち、管領の京兆院けいちょういん家ですら実力を失っている。格下大名である典厩家・野洲やす家の内紛を止められなかったことでも管領家の凋落ちょうらくぶりがわかる。

 野洲家の実力でいえばその追捕ついぶ能力は京洛けいらくの中だけにとどまり、南郊の伏美まで及ぶまい。とカナコはいうのである。

 と話していると、くだんの小竹がこちらに近づいてくる。

「カナコ殿もいかがじゃ」

 小竹はカナコの隣にすわり、見上げるような弓をさしだす。カナコは眠そうな目を向けて、興味なげに首をふった。

「わらわ、射は不調法ぶちょうほうにて」

「そうか、カナコ殿は剣術であったな」

「ふふ、剣よりかぶらを育てる方がぶんにあってござるがね」

「かぶら……。ん?」

 ふと小竹は、眼下の農園を囲う笹やぶに、人影が立っていることに気づいた。笹に隠れてじっと憎々しげな眼光をこちらに向けている。頭に緑と黒のまだらの布を巻いているため、たしかにかぶらの親分のようでもある。

 小竹がいう。

「あそこに妙な大かぶらが一本」

「え? ああ」

 カナコは頭をあげ、すぐにおろした。先刻承知という風だった。

 しかし経臣ははじめて気づいたように崖下に目をやり、

「あれは権十か?」

 といった。

 いくらカナコや小竹が視線をむけても仁王立ちの姿勢を崩さなかった馬崎権十郎うまさきごんじゅうろうだが、経臣の視線を浴びるや哀れなほどの狼狽ろうばいをしめし、ひとつ頭をさげて、どこかへ退散してしまった。

「げにも奇態きたいなる大かぶら」

 小竹はケラケラと笑った。しかしカナコと経臣は笑っていない。


●野犬


 上身を起こしながらカナコが言う。

「よほど、少将殿に忠義心があるようで」

「そのようだ」あまり経臣はうれしそうではない。

「俺を家来にしてくれ、家来にしてくれとうるさいんだよね。うれしいけどね」

「してあげればよかろうに」

「貧乏公家の家来であるわ。うちにそんなの雇ってる余裕はおざらぬ」

「あれはきっとタダでも働こうわい」

「それはまずいよ」

 あんな男ざかりの若衆を無禄で飼い殺しにしておくと色々外聞が悪いという。

 それに足軽働きの時に「我こそは公家の家来」などと名乗ればたちまち他の足軽から、

「青侍(公家に仕える下級侍)の出る幕にあらず。推参すいさんなり」

 とバカにされるであろう。青侍には文弱といったイメージもある。

「それよりどこぞの武家に仕えて、千貫取り、万貫取りと出世したほうが、権十にはってる気がするんだよね」

 たしかにあの膂力りょりょくなら千貫ぐらい槍一本で稼ぎるかもしれない。

 カナコがかすれた声を出す。

「なんでこの屋敷の家来になる事にこだわってるのでござろ」

「さあね」

 と経臣はいってから、小首を傾げて「ははぁ、あれかな」といった。

「なんでござろ」とカナコもちょっと身を乗り出す。

「むかし、10年も前だけどね。このあたりに野犬が出てのう」

 そのころ経臣は京住まいだったが、自分の荘園の見まわりとして神宮寺村に立ち寄った事があるという。

 その時たまたま村の子供が野犬に襲われており、経臣は石を投げて犬を追い払ってやったというのである。

 その子供というのが権十だった。

 子供のころに触れた「強さ」というのはいつまでも心に残るものだ。権十にとって経臣はいまだにヒーローなのかもしれない。

「それをいまだに憶えているのかもしらん。存外律儀なやつよ」

 経臣はやや寂しそうに言った。今では石ひとつ投げるにも動悸が止まらなくなるほどの病持ちである。こうやって外で日向ぼっこをしているのもよほど具合が良い日だけだった。

 それを聞いて小竹がいう。

「10年前? ということはいま権十殿はいくつなのだ」

「さあね。18ぐらいじゃないかな」

「ええ――!!」

 小竹は立ちあがっていた。ずいぶんおっさん臭いやつだと思っていたが自分より年下ではないか。


●行軍


 その日の昼下がり。

 いつもは死んだように眠っている神宮寺六軒村に、ちょとした珍事があった。

「軍勢じゃ、軍勢じゃ!」

 若者の茂助もすけが、叫びながら権十郎のすむ馬崎屋敷に飛び込んでいった。

 村の前を走る街道にこれから軍勢が通るという。

 茂助は南隣の宮口みやぐち村の住人であり、それをわざわざ権十郎に注進にきたのである。

 巨大な藁ぶき屋根をもつ大農家から出てきた権十郎は、不機嫌そうにわきをかきながら、

「なんじゃあ、軍勢など珍しゅうもない」

「ちがうちがう、ミヨシの軍じゃ。ミヨシチョーシンじゃ!」

「なにぃ――!!!」

 権十郎は目を剥いたあと、屋敷の中に飛びこみ、ボロい大剣をひっさげて出てきた。まさか斬り込みに行くわけでもないだろうが。

 三吉大膳大夫長真みよしだいぜんだゆうながざね

 管領・京兆院晴氏けいちょういんはるうじの懐刀として近年とみに頭角をあらわしてきた海内かいだい随一の出世頭である。

 長真は音読みで「チョーシン」ともいわれる。

 京兆院家の与党勢力としては野洲・典厩家につぐ実力を持っていたが、典厩家なき今、京兆院勢力ではナンバー2になった。

 大和国でおこった伊出氏の反乱を鎮圧するため、朝廷の綸旨りんじを奉じて京洛を留守にしていた。それがようやく反乱を平定して都に凱旋してくるのである。

 もし三吉長真が在京していれば、野洲家と典厩家の内紛は起こらなかっただろうといわれている。

 しかし権十郎が興奮しているのはそれらが重要な理由ではない。

 三吉長真がもとは名もなき足軽集団の頭目にすぎなかったという事実が、権十郎の血をいかんともしがたく沸き立たせるのである。

 まさにこの時代の特徴である「下剋上」の体現者であり、槍一本でのしあがろうとする野心家たちの目指すべき頂点だった。


●笹の防風柵


 権十郎は茂助を引きつれて、さっきまでいた「カナコ農園」の空き地に駆けのぼっていた。

 ここは街道からは10メートルほどの高台にあり、街道の様子がよく見えるのである。

「おお、おお、おおおっ」

 やや砂塵をふくんだ風は大気をおおい、薄黄色の大天幕をつくっている。

 その天幕のあわい、はるか南方の街道から軍旗のむれが近づいてくるにつれ、権十郎は防風用の笹葉をかきわけ、かきわけ、落ちつきなく左右に動きまわる。

 そのとき、崖下の道から、2つ水桶のぶらさがった天秤棒をかついだカナコがのぼってきた。

 権十郎のケッタイな様子を見て、

「そこな権十郎、なにをウロタえとる」

 と声をかける。

 権十郎はギョッと振りかえったが、

「だ、誰もウロタエてなどおらんわ。勝負は後日あずけるから首洗って待っとけ木瓜茄子ボケナス!」

 とすぐにカナコを無視し去って、立ったり座ったりしていた。

 カナコはカクン、カクンと首を傾げたあと、水桶をおろし、柄杓ひしゃくでピャッピャッと畑に水を撒きはじめる。

「うおー来た来た来た来た来た。なんだありゃあああぁ……!」

 権十郎が魂消タマゲきったような声をもらす。かきわけた笹葉がパキパキ折れる音がした。

 カナコはチッと舌打ちして、柄杓片手に怒ったように近づいてくる。

 曲がった笹を元にもどし、権十郎の頭を柄杓でポコポコ殴ったり、太い猪首いくびをつかんで揺すったりするが興奮状態の権十郎はビクともしない。

 その間に茂助が「すいませんすいません」と小腰をかがめて笹を直していた。

 ズシーン、ズシーンと、カナコたちが立っている高台までも震わせる地鳴りとともに、その「山」が影絵のように迫ってくる。

 それは3体の鉄獅子であった。それもただの鉄獅子ではなく、ひとつひとつが馬崎屋敷の大屋根ほどもあろうかというほど大きい。

 使われている鉄板・銅板も1枚1枚が畳のように大ぶりで、それらが何十枚、何百枚と短冊のように貼られている。

山麒麟やまきりん」といわれる新型の鉄獅子である。

 そのまわりを何百人という修験者たちが随伴している。音吐おんと高らかに声明しょうみょうをあげ、黄・赤・黒・白・青など諸元素をつかさどる色とりどりののぼりをはためかせ、シャンシャンと地を突く錫丈しゃくじょうの音を響かせていた。

 山麒麟のほかに、針蜘蛛、蛟竜みずち土竜車どりゅうしゃ鬼山車おにだし、快風天、飛雷天などといった得体のしれない兵器も列をなしている。

 これらは「兵器マニア」といわれる管領・京兆院晴氏の発明のほか、大陸の黄華帝国の貿易商から大枚で購入したものが多い。

 大陸で大きな戦乱が起こり、それが終焉に向かうたび、用済みになった中古の兵器が扶桑ふそう(日本)に大量流入してくるのである。晴氏はそれに改良をくわえ、今まで存在したことのない新兵器を作ってしまう。

 中世以来の鉄獅子しか持たない大和伊出氏はひとたまりもなかっただろう。

 このあとに三吉軍最強の精鋭といわれる「阿波黒騎衆あわこっきしゅう」350騎が続き、いよいよ三吉長真の登場となる……のだが、

「コケおどしじゃな」

「え?」と権十郎は振り返る。

「あんなもん買うてる銭があれば、この一帯の荒れ野はふたたび緑したたる水田になるんじゃ。阿呆あほうか侍どもは!」

 カナコは吐き捨てたあと、空桶をかついで少将屋敷のある崖の上にのぼっていこうとする。

 あわてて権十郎が呼びとめる。

「おい! これからミヨシの大将が通るんだぞ、見んのか!」

「それより笹の壁を壊すな。そこの畑の菜っ葉は少将殿や喜鶴の口にも入るんじゃ。道楽で植えてるわけではないわ、まったく」


御陵みささぎ


「まるで祭礼の山鉾やまぼこでも通ったようでおざるな」

 その夕暮れごろ、囲炉裏端で経臣が杯の濁り酒を舐めつつ、つぶやく。

 昼過ぎから続いた行軍パレードはようやく夕刻ごろおさまり、外ではただ風の音のみが響いている。

 それはいつもの静寂ではなく、村祭が終わったあとの静けさに似ていた。

 カナコはうなだれながらグイッと椀の酒をあおり「ただ近郷近在の迷惑にそろ」と不機嫌そうにいった。

 経臣は柔和な笑みを浮かべて、

「いやそうでもないよ。ほれ」

 と居間のすみにあった錦の包みを引き寄せ、それを開いてみせた。

 包みからからは餅やら干し豆やら、昆布、スルメやらが出てくる。

 また袋のつつみも上京かみぎょうあたりで織られている上等な生地(のちに西陣織と呼ばれる)を使っていた。売れば数日分の米に困るまい。

「おぬしがいない時に、三吉の家来がここへ来ての。しばし御迷惑をおかけいたすとこれを置いていった。なかなか抜け目なき男よ三吉大膳は」

 ホクホク顔で経臣はいう。

 三吉軍が通るたびこういうプレゼントがあれば霞修寺家の財政も少しは楽になる。もっと通ってくれないものかと思う。

 しかしカナコはガッパガッパと大口をあけて酒をあおっていた。わきで小竹が目を白黒させている。

 じつをいうとカナコはあまり上戸ではない。これほど飲むのはめずらしかった。

 経臣は目をしばたかせたあと、いぶかしげに、

「カナコ殿はいつウワバミになりおわした」

「え、いや」

 はじめてカナコは飲みすぎた事に気づいて、3度ほどむせた。

「これは……とんだ散財を」

 そういわれて、急に経臣は暗い顔になり、

「酒ぐらい好きに呑んでいいよ。悲しくなるよ、そういうので散財とかいうのは」

 ちびり、と杯の酒を舐めた。

 夕餉がおわって2時間ほど後のこと。

 ふと目をさました経臣は、かわやにむかう廊下でふしぎな音を聞いた。

 屋敷裏の森から「ビュンビュン」と空を斬るような音が響いてくる。

 カナコがいつも森の中で剣の稽古をしている事は知っていたが、あんなに音をたてて剣を振るのはめずらしい。

 カラリと雨戸をあけ、暗い野外をうかがう。上弦の月が出ていてやや明るい。

(やれやれ……すめらぎの御霊みたまもおどろいてござろう)

 村人によるとこの森の奥には古代の大王おおきみ陵墓りょうぼがたくさん存在するという。いわば古墳群であり、一種聖域であるが、古墳という歴史的遺物に対して神聖視とか、学究的な保護の認識が生まれるのははるか後年の事であり、この時代は公家の経臣ですら「そういうもんか」という認識でしかない。

 やがて森の中から、全身汗みずくになったカナコが肩をいからせつつ出てくるのが見えた。

 そして雨水をためる大瓶に桶をつっこみ、頭からザブッと水をかぶったあと、夜なべの根付も彫らずにさっさと寝てしまった。

(なんだろ、今日は……何か変なこと言ったかの)

 経臣は考えても全然わからないので、そのまま用を足して寝てしまった。


後華苑ごかぞの


 永応3年7月の中ごろ、管領・京兆院右京大夫(うきょうだゆう)晴氏は禁裏に参内さんだいし、ぶじ大和伊出氏の反乱を鎮定したことを後華苑帝に奏上した。

 御簾みすのむこう、帝は頭に布を巻き、息をあらげ、肘置きにもたれるようにしてその拝謁を受けている。

 ここ数年来、重い病にかかっており起居もままならない。

 しかも生来、気性の激しい御性質であった。

 とうとうと何事かを言上する晴氏の言葉をさえぎって、切るように言った。

「それより肝心なのは先日の戦の一件である」

「はっ?」と晴氏はわずかに顔をあげる。

「そなた管領という地位にありながら、野洲、典厩家の争いを止められなかったこと。そのため京洛市中を不穏におとしいれたこと。何と心得おるか」

「お、恐れいりまする」と晴氏は平伏する。

 滅亡した典厩政長てんきゅうまさながはもともと東国の大名であり、京洛の内情などよく知らずにやってきた。

 ただ一途に天子(帝)をこの世で二なき尊貴と信じ、武家はその衛兵にすぎぬと心得ていた。

 しかしいざ京洛に来て、その実態に愕然とする。公家領・禁裏御料きんりごりょうのほとんどは武家に横領されるかその実収のなかばを奪われており、皇室はわずか小大名ほどの所帯しかなかったのである。

 そして横領の元締のような存在が野洲因幡守義国やすいなばのかみよしくにだった。

不遜ふそんにあらずや」

 という純朴すぎる義憤で、典厩政長は横領地の返還を野洲義国に迫ったのである。それがそもそもの発端だった。それが日ごろの仲の悪さとあいまってついに合戦に及んだのである。

 京兆院晴氏も京洛で生まれ育ったため野洲家の立場もわかるし、天子を重んじる典厩家の大義名分論もよくわかるのである。

 しかし今の将軍および管領家にはその両方を同時に抑える力を失っていた。結局看過するしかなかったのである。

「そればかりではない」

 帝はつづける。

「荒れ野と化した伏美・宇陀の再開発はいつになったら着手するのじゃ。いつまで百姓たちを塗炭とたんの苦しみにおくつもりか」

「いまだ山宝殿滋持さんぽうでんしげもち西国さいごくに強大な勢力を保っておりまする。いつ京洛に攻めのぼってくるやもしれず。そうなればふたたび田畑は荒らされ、再開発をしても無駄金を使うことになりましょう」

「鉄獅子をあまた建造することは無駄金とはいわぬか」

「鉄獅子はいまや無くてはならぬ兵器。1両あればそれだけ迅速に作戦が遂行でき、それにより多くの将兵の命が救われまする。兵らの命には代えられませぬ」

畿内きだい百万の民の命より、うぬら一族郎党の命を尊しとするか。不心得者」

 たちまち御簾から肘置きが飛んできて、晴氏の額に直撃した。

 晴氏は座ったまま、スッ、スッと後ろへ下がり、平伏する。

 御簾のむこうから帝の苦しげな息ざしが聞こえてくる。体調が悪化したらしく、お付きの侍者たちがオロオロと介抱していた。

 なお帝は振りしぼるような声でいう。

「朕はいつもそなたにたばかられてきた。何度その妖言にたぶらかされ、わが手で、わが帝家の力を損なうようなマネをさせられてきた事か。6年前の龍衝寺りゅうしょうじ城の一件もそうじゃ」

「お、お待ちください。それは違いまする。私めはただ一途に」

「晴氏。しばらく内裏への参内を禁ず。退がれっ」


●猛禽


 大極殿から退出してきた京兆院晴氏の姿を見て、家臣たちは絶句した。

 晴氏は額から血を流しつつ、よたよたとした足取りで階段をおりてくるのである。

宰相さいしょう殿、そのお姿はいかに」

 と駆けよってくる家臣らを「うるさい!」と追い払い、かぶっていた冠を荒々しげに放り投げたあと、しばらく額をおさえて唸っていた。

 晴氏はけっして無能ではなく、お人好しの貴公子でもない。乱世に生まれていれば希代の英雄になり得ただろうし、治世に生まれていれば無二の名君として名を残しただろう。

 そして兵器研究の大家でもあり「八万拾機図はちまんじゅっきず」という鉄獅子に関する書を残している。

 しかし今の時代は治・乱が分明ぶんめいさだかならぬ状態で混在している。しかも「管領」という、上に天子・将軍あり、下に無数の大名ありという難しい家の嫡子として生まれた。その地位を保持し続けるだけで奇跡的な才能を必要とするだろう。

(実際晴氏の死後、管領家はほとんど消滅に近い形で衰微している)

「………」

 無言のまま、そばで片膝をついた素襖すおう姿の男に気づいて、晴氏はすぐに気を取り直し「大膳だいぜんか」と声をかけた。

 男はだまったまま、ふところから懐紙を取り出し、晴氏にうやうやしく差し出す。晴氏は受け取った懐紙で額をおさえながら、

「帝より苛烈かれつなる御勘気ごかんきをこうむりたり。軽傷じゃ。気にするな」

 この素襖をまとい、折烏帽子をかぶった男。

 三吉大膳大夫長真。齢30である。

 若いころは足軽(傭兵)集団の首領をしていたが、その比類なきカリスマ性により他の集団を順次吸収し、いつしか全足軽の王のような存在になった。それにより無頼の足軽による乱暴に悩んでいた京の治安がウソのようにおさまった。

 のち京兆院晴氏の厚い信任をうけてその重臣格におさまり、阿波・播磨2ヶ国を領し、今やその動員兵力は野洲家に次ぐといわれる。

 容貌は猛禽もうきんのごとく精悍せいかんであり、素襖の衣をとおしても全身鋼のようにひきしまった筋肉である事がわかる。

 その男がスッとそばに座るだけで、晴氏はそれまで高ぶった気分が鎮静し、しずかな勇気が湧いてくるような心地になるのである。

 牛車ぎっしゃに乗り込みながら、晴氏は長真に振りかえって「大膳」と言った。

「はっ」

朝隈あさくま真鉄まかねが生きているという噂を聞いた」

「………!」

 それまで黒金くろがねのごとき鉄面皮てつめんぴを保っていた長真の形相に、ピシッと驚愕の亀裂がはしった。

 そして鷹のような眼光を頭上の晴氏にむける。

「まかね殿が……。い、いずこに」

 晴氏はふっと満足そうな微笑を浮かべ、

「そのことにつきしばし物語をせむ。あとでわが邸に参れ」





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