最後にある幸せ
私は気が付くと、見覚えのないバーの椅子に腰を下ろしていた。
窓の外を見ると、景色と呼べるものは黒一色に染まってしまい、ただ、この店の街灯と思える一つの明かりだけが、外の世界を照らしていた。
視線を前に戻すと、自分の姿が鏡に映った。
グラスやワイン、食器などが並べられている棚の隙間から除くガラスには私の姿と白熱灯の光がぼやけて映った。
そのぼやけが、私の目が濡れているせいだと気が付くには少しも時間が掛からなかった。
私は何故、自分が涙を流していたのか考え、僅かに残っている涙を指先で拭った。何かとても辛い事があったはずなのだが、それを思い出す事を拒むように頭がはっきりとしない。
触れた指先が目の下の皮膚に触れたとき、かすかに傷みが走った。
恐らく、何度も目をこすって皮膚を傷めたのだろう。
私はコートのポケットに手をいれ、お金があることを確認してから、カウンターの端の方で、仕事をしている店員にブレンドコーヒーを一杯注文した。
ほどなくして、店員がコーヒーを運んできた。
「ありがとう」と小さく御礼をいって、何も入れずに、一口だけ口に含んで、ゆっくりと食道に流し込む。
まだ、どこか違う世界にいる頭の中が次第に、現実味を帯びてくる。
ふと、自分に店員が視線を向けている事に気が付いた。
私はカップを静かにおくと、一言。
「何か?」
毅然とした態度で店員に訊いた。
「いえ、すみません。かなり長い時間、泣いていらしたもですから。何かあったのですか? よろしければ、話していただけませんか?」
「プライベートなことですから」
私がそう返すと
「そうですか」と一言呟いて、私から視線を逸らして元の作業に戻った。
私は、カップの中に注がれた、コーヒーを見つめた。そしてまた一口、口に含んでは、その苦さを味わうようにゆっくりと飲み込む。そしてまたカップの中をしばらく見つめ続けた。
私がコーヒーをちょうど飲み終え、カップから指を離したとき、静かに、私の目の前に小さいカップに入れられた、一杯のコーヒーが目の前にあらわれた。
正面を向くと、先ほどの店員がにこやかにたたずんでいた。
見た印象から50代、60代だろうか。
私が何も言わずに、視線を向けていると、
「エスプレッソです。お代はいただきませんので、飲んでみてください」
言われて、店員のその言葉に疑いながらも、ついさっきまで飲んでいたブレンドと同じように一口だけ口に含んだ。
と、口のなかに、額に皺ができるような苦味が広まった。
私の額に皺ができたのを見計らったかのように、店員が口を開いた。
「こちらをお使いください。」
店員は、私の前に粉砂糖を差し出し、カップの中に入れるよう促した。
いつもコーヒーはブラックで飲む私の舌も、さすがにこの苦さの味を美味しいとは思えず、店員に差し出された、粉砂糖が入った容器から砂糖を三杯だけカップに入れた。
「もう少しいれてみてください」
必要量の砂糖を入れて、もう用がないとばかりに砂糖の容器をカウンターの端に追いやろうとした時、店員からまた声がかかった。
店員はさらに続けて、
「騙されたと思って、入れてみてください」
言いながら、カウンターの中から新しい砂糖の容器を私の前に置いた。
仕方なく、私はさらに一杯、二杯、三杯と砂糖を追加した。
追加し終えてから、砂糖を溶かすためにスプーンがないことに気が付いた。
「そのまま、飲んでみてください」
その言葉に、馬鹿にされているのかと思い、思わず店員を睨みつけた。
「騙されたと思って」
店員は、私の睨みに何の反応も示さず、一言だけそういった。
喉元まで出かかった文句を飲み込み、店員の言うとうりに一口だけ口に含んだ。
当たり前のように、先ほどの同じような苦味が口の中に広まった。
口から離したカップを見つめ、少しずつ口に含んでは飲み込んだ。
しばらくして、私は最初とは違う意味で額に眉を寄せた。
そんな私の姿を見て、ゆったりした口調で店員が口を開いた。
「何があったのか分かりませんが。今を乗り切れば、必ず良いことがあります。夜が来て、朝が来るように。コーヒーに入れた砂糖が底に沈んであなたを待っているように。辛い時は必ず終わりがきます。そして、その時間が濃くて長いほど、そこにある幸せは濃くて長いものになります。それはもう、今のあなたのように額に皺がよるほどに」
店員は小さく微笑むと
「仕事があるので」と一言残し、カウンターの奥の部屋に姿を消した。
さっきまで店員が立っていた位置に私の姿を映していた鏡が姿を現していた。そこに反射した光はいつのまにか、白熱灯の光から太陽の暖かな光に変わっていた。
ドートールコーヒーのコーヒーに関する小説で落選したものに少し手直しをした作品です。