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無月

作者: 山内博之

戦争に負けて未曾有の混乱期に生きて行く一家の悲惨な日々を振り返る時代の証言。

 夢に一艘の汽船が現れる。

 思うように足が動かなくて、スローモーションで走っているじれったい夢のように、船も深夜の霧のなかをゆっくり進んでいる。

 まだまだか。ながいなー、と思いながら夢を見ているのだが、船は濃霧のなかでときおり霧笛を鳴らすだけでちっとも進んでいるようには思えない。

 汽船は機雷を警戒してゆっくりと進むらしいと船客のだれかがいう。

 船はぼくらがあのときに乗った、関西汽船の阿摂航路『ときわ丸』だ。

 夢のなかでは、半世紀の時空をさかのぼって、少年のままの私がいまもそこにいる。

 船底にちかい客室は混んでいて換気がわるく、奧のほうでは饐えたような空気が漂っている。男女も年齢も問わず、雪崩れ込むように先を争って、早いもの勝ちに場所をとって寝ころび、夢の場を確保したのである。

 からだが横になれただけでも幸運なのだ。 私たち家族は壁際に枕を一列に並べて何とか寝ることは出来たのだったが、周りに入り乱れて寝入っている人たちに圧迫され、蒸し暑くて、自分の場から絞りだされるように身体を起したために、私は身体をふたたび横たえるスペースがなくなってしまった。

 右舷前方に席をとっていたので、私は立ち上がって、窓枠に白いペイントを分厚く塗られた汽船の円窓から海面を見ることができた。分厚いガラスの入った直径二〇センチほどの丸窓の枠は真鍮で出来ていて、みんなに撫でられているお寺の賓頭盧さんの腕みたいに、一ヶ所だけが金属の地肌がむきだしになって金色に光っていた。窓枠と壁が接する面には、分厚い防水のためのゴムが張ってあり、右側に窓枠を壁に強く押し付けて螺子で締めつける頑丈なワッパの止め金具がついていた。空気が悪いので、止め金具を外して、窓を空けてみようと触ってみたが、大きな道具で締めつけたように子供の力ではびくとも動かなかった。

 出帆前に、ガラスに額をくっつけて丸窓から外を覗くと、月明かりの海面が手が届きそうなほどすぐ目の下に見えていたが、いま海面は目の前で隆起して白波をたて、船が蹴立てる波しぶきが船窓の丸ガラスに飛沫を打ち付けていた。窓をあければ海水が流れ込むことだろう。これでは窓を開けられないようにするはずだ。

 私たちが乗り込んだ船室の空間は、薄い鉄板一枚を隔てて海のなかに飲み込まれているのだ。船窓の構造を観察していると、潜水艦の乗組員になったような気がしないでもなかったが、私は巨人国の大男に指でつまみ上げられて、水に浮かんだ箱の底に置かれ、大きな眼で観察されている自分を空想した。

 大男はぼくらの運命を統べる神様のようなもので、逆らいようがないのである。大男の気分しだいで、ここから一瞬の間にとてつもなく明るい原野のど真ん中にぽんと置いてくれるかも知れない。そこは自由自在に、自分が望むあらゆることを構築することができる、可能性だけが広がる原野なのだ。

 原野にはゆっくりした起伏がいくつもあって、すこし高い丘から眺めると、どこまでも広がる草原と花々、地平線しか見えない。

 見たことはないのだが、原野のそのような風景を、私はいつも空想するのだった。

 原野のところどころには泉が湧いていて、そこを源流とする小川が流れ、ぼくらは好きなところに小さな小屋を建てて、家族と自由に暮らすことができるだろう。

 父のように苦労して探し回らなくても…。 両親は身内に起きた軋轢から、廂を貸して母屋を取られるという現実に起きた寓話めいたことを何度か反芻していることだろう。行先の確たるあてもなく、食べるものも得られない流浪の不安定なくらしがはじまって、前途には希望などもてないまま流れていくしかないのだ。

 人間はどうやって、自分が安心して生涯を過ごせる土地や家を獲得するのだろうか。ぼくらはいまからどうなっていくのだろうか。

 敗戦後の住宅難、食料難の時代に、借家とはいえ長年住み慣れた家を、叔父や叔母に惜しげもなくやってしまって、自分たちが家を捨てて出ていくというだれが考えても無謀な父の決断の結果、大阪へ出てくるまでの一年余の間にすでに三回の転居を重ねていた。

 はじめはミシン針を製造する父の友人の家の二階にきっちり一ヶ月間いた。

 府中と書いて(こう)と読む駅から、歩いて二〇分ほどの、田園のなかにあった二階屋だが、父がどのように頼んだのかわからないが、七人もの家族をよく引き受けてくれたものだ。背の高い胸が薄い体格のそこのご主人は四〇代なかばだろうか、小柄な奥さんと小学二年ぐらいの女の子がいたが、私は話したことはいちどもなかった。

 会えばぴょこんと頭をさげて無言の挨拶をするだけだった。

 九月だったので、新学期ははじまっていたが、短期間の臨時暮らしの予定だから、ぼくらは転校もしないでいた。約束の一ヶ月のちにも行く先は見つからず、そこを引き払って、やむなく祖母ヨウの家に二ヶ月余をくらした。祖母ヨウは、ずっと住んでいいといったが、母の甥がそのことをきつく非難していると伝聞で聞いた父は、そこに居座るようなことが出来る性格ではなかった。伝手を頼ってやっと見つけた、鳴門の電気もない小さな納屋を借りて自分で床を張った小屋に八ヶ月余り暮らしたが、ここも仮の住まいで、我が家なんかではなかった。放浪の途次の雨露をしのぐ雨具にも似た存在だった。

 

 それから…

 私は薄暗い船室の明かりに照らされて、疲れて眠り込んでいる家族の姿を観察した。

 姉と妹,弟二人の四人も両親に挟まれて眠っていた。五尺そこそこの小柄な父は、細長の顎の締まりのいい口元を閉じ、モンペ姿の母は、白いものがまざり始めた髪が額から顎にかけて幾筋か流れていて、疲れきった顔ですこし口を開いて寝入っていた。

 船客のだれかがトイレに行くために、階段をあがっていって扉をあけると冷たい風と波の音がどっと舞い降りてきて、入り口に近い人が「寒いぞ、早く締めろ!」

 などと、どなる声が聞えた。一九四六年(昭和二十一年)敗戦の翌年のことだ。私は小学校五年生になっていた。

 木枯らしが吹く季節をむかえていた。

 徳島の小松島港から出帆する、阿摂航路の「ときわ丸」という千頓ほどの客船に乗って、その日、ぼくらの家族は、空襲で焼け野原になった故郷徳島をあとにしたのである。

 七人家族が両手に持てるだけのいっさいの世帯道具を持って。

 文字通り、鍋、釜、食器にいたるまで、最低限必要な生活用具を家族で手分けしてもっていた。風呂敷で包んできた荷物を床に置くと寝る場所がなくなるので、父は汽船の低い天井のあちこちに括りつけられそうなところを見つけては荷物を吊した。

 「頭の上にこんなものを吊して、すまんです」

 と父は断っていたが、わざわざ立ち上がって親切に手伝ってくれる乗客もいた。

 荷物の量といい、切迫した父の雰囲気や家族の尋常でない様子に、まわりから同情の目がそそがれていたようだ。

 船は夜の十一時過ぎに出帆して、七時間余の航海で早朝神戸港に着き、さらに大阪港の天保山まで回送されるのであった。 

 まだアメリカの飛行機が投下した機雷が、大阪湾を浮遊しているといわれていた。

 未発見の機雷に触れると、船の鉄板が瞬時に破られてどっと海水が流れ込み、あの階段から逃げる間もなく、ぼくらはみんな死んでしまうことだろう。

 船のエンジンの音と振動が床下からからだをつらぬいて伝わってくるのが、心臓をぎゅっと締めつけるような不安感を高めさせる。

 眠気が増すほどにエンジン音は神経に応えてくる。

 慣れることのできない不安な音だ。

 エンジン音が自分の心臓の音と重なって、得体のしれない暗雲がひろがってくる。

 この暗雲はぼくらの未来の象徴なのか。

 私がいまも高速の夜行バスが嫌いなのは、タイヤ音とエンジンの音に不安感が増幅してくるからだが、それはこのときの船の音が原体験となったことから起きているのだ。

 私は母が寝ているとなりに、わずかな隙間をみつけて、母の背中に身体をくっつけてからだを横たえ目を閉じた。

 目覚めたとき、父があぐらをかいて考えごとをしていた。

「神戸はもうじき?」と父に聞くと、

 「神戸はとっくに出たよ。まもなく大阪だ」と答えた。

 道理で客席が空いているはずだ。私は飛び起きて甲板にでてみた。爆撃にあって沈没し、大阪湾内に座礁したまま放置されている船が、六甲山をバックに幾艘も夜明けの海面に残骸をさらし、シルエットになって見えていた。甲板から船の舳先を見下ろすと、海水は二つに分けられてめくれるように盛り上がり、粘っこく大きなうねりを広げながら、機雷に触れることもなく天保山へ入港していった。

 徳島での三度の転居のあと、やっと父が見つけてきた転居先は南河内の狭山だった。

 大阪府南河内郡狭山村西池尻というのが、転居先の住所だった。大阪といえば四、五歳の時に来たおぼろげな記憶と、手持ちの教科書にのっている、大阪は水の都、煙の都という、林立した煙突から煙を吐き出している写真ぐらいしか印象にない私には、狭山村などという、村が大阪にあるということが不思議に思えた。

 天保山で船を下りて市電に乗り、汐見橋という小さな始発駅から郊外電車に乗り、天下茶屋という駅で南海高野線に乗り換えて、狭山という駅で降りた。

 天保山から市電で難波まで行って、そこから高野線に乗るという、至便な手段を父が発見したのは、なんどか徳島への往復があってから後のことである。

 大阪だというから、四、五歳のころ一度来たことがある繁華な都会のイメージを私は勝手に作りあげていて、想像のなかでは戦争の被害が抜け落ちていたのだ。路面電車の通る道の両側も、南海高野線の車窓からも、瓦礫になった大阪の町が、目路のかぎり広がっているのだった。

 日本のほとんどの都市が空襲にあって、焼け野原になっていると聞いていたが、見渡すかぎり廃虚になっている大阪の焼け野原の光景は、徳島の町とは桁違いの大きさだった。

 戦争中は敵国を鬼畜米英といったが、この破壊ぶりはまさに鬼畜のしわざだった。

 こんなところに、また家が立ち並ぶようになるのだろうか?

 南海電車の窓も、ガラスの壊れたあとには、粗末な板が釘で打ち付けてあって、その隙間から冷たい風が車内を疾駆した。荒野のような瓦礫のつらなるはるかかなたに、お城がぽつんと建っているのを見ることができた。周りがみんな滅んでしまって、そこだけが崩れず残された、廃墟のシンボルのような大阪城の天守閣であった。

 「あれは」と私が指さすと、父が

 「大阪城だ。前に来たとき連れて行っただろう。忘れたか」

 「うん」と私はどちらともとれるようにうなずいた。聞かなくてもわかっているのだ。

 「通天閣はどっち?」と聞いたら、

 「あっちのほうだが、空襲にあってあれもなくなった」

 と、どもるような早口でいった。

 

 一九〇六年(明治三九年)生れの父は、この年厄年にさしかかっていた。

 父はず抜けて頭のいい人だった。論理的で、無神論者で、およそ摩訶不思議には心を動かさない人だったが、こうして行く末の定かならぬ生活に流されはじめてから、運命というものについては、いろいろな思いをもっていたことを、後に私は知ることになる。

 六回目の転居のとき、大阪では三度目の転居になるが、石切神社に父と二人で詣でたことがあった。

 父がおみくじを引いてこいというので、私ががらがらと棒をひきだして番号のを貰ってきたら、大凶だった。父はもういちど引いてこいというので、また引いたら、これも凶だった。もう一度というので、引いたらまた大凶だった。六回引かされたが、五回凶がつづいて六度目にやっと吉がでた。

 父は右手でおみくじを握りつぶして、拝殿に頭もさげず

 「帰ろう」とぶすっといった。

 この正直一筋に生きてきた父の行く末をおみくじさえも見放していたのである。

 家族全員を引き連れて、見知らぬ土地へ移動するごとに、本復しない体をかかえて、期待よりもいいしれぬ不安がさらに広がったことは間違いない。父はこころのなかにわずかでも、よりどころとなる光明をおみくじに見いだしたかったのだ。

 

 狭山へ家族をひきつれて行きながら、父はなにかを思いだすような顔をして、廃虚になった大阪の町を眺めている。通天閣と四天王寺の五重の塔がすぐ近くに見える家具屋で、戦前に父は働いていたことがあったのだ。

 戦前は、腕のいい職人(指物師)はスカウトされて、競合する家具屋から支度金を積まれて引き抜かれることが普通であった。父はどこの家具屋からも欲しがられる名工で、その世界では結構有名なのであった。父の通称、佐古の義っさんを雇ったということは、家具屋に箔がつくという時代だったのである。

 さる宮家の一人が徳島へ視察に訪れたとき、父が作った店頭に陳列してある家具を見て「だれが作った家具ですか?これが欲しい」と購入したことがあった。

 案内をしていた人が、宮さまのお買い上げになるものですからあらためてこの職人に作らせますといったら、これにほれ込んだのだからこれを、といって買い上げていったという。父の自慢話の一つであった。

 こういう逸話は、職人にとって大きな誉れだった時代であった。だから大阪の家具屋からも父は引っこ抜かれたのだ。

 その家具屋の社長宅に父に連れられて行ったとき、二階座敷に坐らされて、私は通天閣と五重の塔の両方を眺めたのだ。

 そこの座敷には真っ赤な大きな座布団が敷いてあって、その上に三毛猫が二匹、私のほうを見上げもしないで寝ており、三匹目は奥さんの膝の上でのどを鳴らしていた。

 この家具屋は、ベニヤ板を折り曲げて洋服タンスを作るベニヤワークという大衆的な家具の製造法を発明して大成功したのだと、父から聞かされた。父はベニヤワークに引っ張られたのではなく、会社のイメージとグレードをアップする高級家具の職人として雇われたのである。

 あの家も、猫たちも空襲にあって燃えてしまったのだろうか。私は火に包まれた徳島の空襲の夜景をまざまざと思いだしていた。あの火災の何十倍もの規模で、大阪の町は焼け落ちていったのだろう。徳島が焼けたとき巨大な炎から逃げまわった恐怖の時間を私は思い出していた。

 「お母さん、お腹が空いたよ」

 と下の弟、貞男が電車のなかで母を見上げながらいったが、母はだまってうなずき、手をつないでいる幼い娘、ミヤ子の手をぎゅっと握っただけであった。どこかでなにか材料を手に入れて作らなくては、ここで子供に与える食品の持ちあわせなどないのだ。

 電車がしばらく走ると、郊外の田園風景がはじまり、間もなく狭山駅に着いた。

 駅の近くには、小さな散髪屋が一軒あったぐらいで、道沿いに農家が点在するような田舎だったが、狭山駅前には、まだ真新しい富士車輌の大きな屋根の工場とその正門があった。昭和十九年、終戦直前に建てられた工場である。この工場では電車などが製造されているということだった。狭山に住むようになって間もなく、姉の久子はこの会社の事務員として就職した。算盤と卓球が堪能だった久子は、富士車輌で庶務課に配属され、卓球の選手としても活躍した。就職がきまってから姉が辞令を見せてくれたが、初任給十六円だった。この富士車両の大きな鉄製の工場を建てたのが後に春本鐵工となった春本組という会社だった。

 戦後しばらくは大きな仕事がなく、春本組が狭山に家具製造部門を設け、その募集記事を新聞で見つけて、父が応募して採用され勤めることになったのであった。

 富士車両の工場が完成するまでの、建設関係の従業員の飯場として建てられた春本組の仮設宿舎のあとが、家具部門の社宅として使われていたのである。

 そこはみんなが飯場と呼んでいた。ところどころ節穴が抜けて畳に小さな丸い光を落とすような板一枚が壁になっている、その粗末な飯場の一つに私たちが住むことになったのである。

 狭山駅から狭山池に向かって直進すると、やがて右側は昭和六年頃から開発し売り出された、自由ケ丘という高級住宅地が広がる。

 ぼくらには手の届かないような、おぶげんしゃ(分限者)の住む住宅地だ。

 自由ケ丘は植え込みに囲まれ、庭木が形よく手入れされた大きな屋敷が並んでいた。

 そこを通り過ぎると、やがて木材を乾燥させるため、きちんと桟を入れて段組した材木の山がいくつも整然と並んでいる風景が見えてきた。桧の太丸太がが門扉の柱になっていて、ここに「春本組」と大きな桧の看板がかかっており、材木を両側に積み上げた広い通路にはトロッコのレールが敷かれ、工場の奧へと続いていた。廃材を乱雑に積み上げた山もあり、木材を製材している帯鋸の音が聞えてくる。

 そこが春本組の洋家具工場だった。

 そこからさらに数分歩むと、道路沿いの右側に飯場の建物が見えてきた。家というにはあたらないだろう、小屋よりも飯場と呼ぶほうがやはりぴったり似合うような、コンクリートパネルを、壁面に使ったりした仮設小屋であった。

 飯場は右端に井戸がある広場をコの字形に囲んで建てられ、道路沿いに一棟、右側に一棟、奧に一棟の三棟があった。奧の一棟の裏側は、副池という、狭山池より一段水位が低いかと思われる細長い池があった。

 右側の一棟は仮設住宅ではなく、瓦屋根を葺いた普通の平屋の家であったが、そこは先住の社員が入って住んでいた。ぼくらは、池を背にした飯場に住むことになった。

 飯場には畳は敷いてあったが、壁は薄い一センチほどの厚さの板一枚が打ち付けられているだけで、風の強い日には、板の重ね目から風を切る笛の音のような音をたてた。ぼくらは母と、節穴や板の隙間に古新聞などを糊で貼り付けて冷気をさえぎる工夫をした。

 狭山池から堰堤ひとつへだてて、副池へ水路がつながっているのかどうかわからないが、副池というのは、狭山池の附属の池という意味で名付けられているように思った。

 細長い二つの丘陵のきつい急斜面に挟まれて出来ている池で、壷のようにいきなり深みになっていて底が知れなかった。池の様子を見てきた父が、

 「この池は急斜面で、泳げないお前達には危いから絶対に池に下りてはいけないぞ」

 と、厳重にいいわたされた。

 だが、住みはじめてすぐ分かったことは、この飯場には飲み水がない、ということだった。広場に掘られている井戸には水なんかなくて、覗くと乾燥した井戸の底が見えていた。父は下見に来たときこの井戸を見ていたので、水があるということを露疑ってはいなかったのである。徳島の家では、母が

 「どこへ行ってもここの水よりおいしい水を飲んだことがない」

 といって感嘆していたゆたかな井戸の水を使って暮らしてきたので、井戸が空井戸であったことは、大変なショックだった。

 ここの住人は、家の裏側からジグザグにつけられた池へ下りる細い山道を三十米ほど下って副池の水を汲んできて、生活用水としていたのだった。主として母の仕事だったが、池におりてはいけないどころか、池への水汲みは私や弟の仕事にもなったのである。

父は衛生観念の発達した、きれい好きの神経質な人間であった。子供たちにやかましく躾たことは食事の前に入念に手を洗うことだった。ろくに手も洗わずにおやつにありつくことなどは、父の前ではけっしてできなかった。不潔とは菌が付着することで、これをきれいに洗い流さないと病気になると説教した。おやつだと母に呼ばれて、子供たちが座敷に駆け込んでくると

「手!手!手!手!!」

と数回は警告した。自身の喘息のなんたるかを知るために、医師の読むような専門書をひもといてみるような人だったから衛生観念が発達していたのだ。

身だしなみについてもおよそ野放図なところはなかった。おしゃれで、外出に際しては三つ揃いに中折れ帽子をかぶり、寸分の隙もない紳士の風体であった。職人にありがちな乱雑さは父のもっとも嫌うところであり、なにごとによらず隅々まで神経が行き届いていることを自他ともに要求する人間だった。

 「てきず、まらだしにろくな仕事の出来るやつはいない」

 と父から聞かされたことがある。てきずは手傷のことで、不用意によくちいさな怪我をすることだし、まらだしはズボンの前のボタンをかけ忘れることをいう。そういうだらしなさは、一事が万事に通じで、手傷摩羅出しの手合いにいい仕事なんかが出来るわけはなく、職人としては落第だというのが父の意見だった。そういう性格の父が、転居先にきれいな水があるかないかなどということを下見のときに確認しなかったことを悔やんだかどうかわからないが、しまったという思いを強くもったことだろう。

 久しぶりに私と弟は学校へ通うことになった。昭和二〇年になってからは、登校しても頻繁に警戒警報や空襲警報が発令され、サイレンが鳴ると、アメリカの飛行機の飛来のあるなしに関係なくすぐ下校させられていたので学校で授業を受ける時間はあまりなかった。その後、家を引き払って流浪のような環境になったこともあって、半年以上も学校へは行っていなかった。

 地面が凍てついた、からだの芯まで凍えてくるような寒い朝だった。靴下もはいてはいない半ズボンの裾から冷たい風がお尻までもぐりこんでくる。手足には、栄養が不足していることもあって、霜焼けが出来ていたが、冬には霜焼けができて当たり前という認識が普通だった。

 戦争のころ、少学生は長ズボンなど穿かせてもらえなかった。ズボンのポケットは、子供が凍えた手をポケットにつっこまないように、学校の通達で母に縫いつけられていた。

 霜焼けで赤くなった冷たい手を、ポケットにつっこむことなど許されなかった。天皇の赤子たる日本男児が、ポケットに手を入れるような軟弱な男子であってはならないからである。それが大和魂を鼓吹する軍国教育というものだ。小学生ともいえども、ストイックな兵隊気分で生きるように教育されていた時代だったのである。

 飯場を出て道路を右側へ数分歩くと、狭山池の堰堤へのなだらかな二股の坂道になっていて、登り詰めると、土手は幅の広い桜並木で、目の前に大きな池が広がった。桜並木は、葉を落とした冬景色だったが、目の前に広がった湖面ともいうに値する広々とした景色は、なるほど名所といわれるだけあって見飽きない美しさだった。一気に土手まで駆け上がっていた弟と私は、まだ坂道にとりかかったばかりの母を見下ろしながら、 

 「早く早く…、お母さん」

 と、母を気遣わずに坂道を駆け上がったのを自省しながらふりかえった。バセドー氏病が持病の母の心臓はすぐ動悸が起きて苦しそうになるのだった。この持病で、喉がすこし腫れ上がって見える母は痩せたからだに和服を着込んで、すこし息を切らしていたが、しっかりした足取りであがってきた。

 そのとき母が着ていた着物には覚えがあった。数日前に父に連れられて堺東という駅で降りて、見知らぬ店に入った。なんの店か私にはわからなかったが、物を売る店でないことは品物を並べたりしていないことでもわかった。父が財布から金を出して支払うと、冷たい感じの、にこりともしない中年の男が、奥へ入っていって、しばらく待たされたあと、両手に帖紙につつんである着物を運んできて、

 「これですね」と父に言った。

 だまってうなずいた父に男が広げて見せたのは、私にも見覚えのある女物の着物で、一枚は姉の晴れ着であり、もう一枚はいま母が着ている着物だった。どうして母と姉の着物がこの店にあるのだろうといぶかる私をうながして外へでると、父は私の目をじっと見ながら

 「ここは質屋といってな、品物をもってくるとお金を貸してくれるところだよ。あまり利用したくないところだが、お金に困ったので、会社のひとにこの店のことを教えてもらって、姉ちゃんの着物とお母さんのとを預けてお金を借りていたのだ。お金が出来たから今日は預けてあったものを受け取りに来た」 と説明してくれた。

 母がいま着ているのはその着物だった。母はこのとき四〇歳だったが、その頃すでに時々髪を染めていたのを覚えている。頭髪はなかば白くなりかかっていたのであろう。

 両親が結婚したのは、父が二十歳のときで母は十八歳だった。祖母ヨウはあまり賛成ではなかったふうだが、母がどんな苦労もいとわないからと、祖母にいったそうだ。

 祖母が私にそんな話をしたのは大阪へ発つ前の日のことだった。母に孝行を尽くしてやっておくれという、切なる心願を私は祖母から受け取った。

 新婚当初は、母は父が仕事に出かけたあと、毎日のように友人たちとテニスを楽しんでいたと母からきいたことがあるが、その風景は私の想像の枠を越えている。しかしタップの巧みなのはなんどか見せてもらったから、テニスだってかっこよくやっていたのかも知れないとは思う。だが二十年後に大阪に住んで、水も満足に飲めない境涯に至ろうとは、神のみぞ知ることであるが、祖母ヨウにはいくらか予感はあったのだろう。狭山池を目にしながら

 「これくらいは平気だよ」

 と、私の心配をよそに、目の前に広がる美しい眺めに見とれた。

 「大きな池だね」

 「日本一の大きな池で、古さも日本一なんだって」 

 と私は父から聞いた通り説明した。狭山池は古代に作られた池で、人工の池としては日本最大のものだと、父から今朝聞いたばかりだった。

 転居後、父は数日間は仕事に行かず、チッキにしてあった残りの荷物を受け取って運ぶために、大阪港から狭山までなんどか電車で往復した。船室にもちこんだ荷物以外に、父は自分で数個の木箱を作ってそこへ家族の荷物をぎっしりつめこんで港の荷物預けに委託しておいてあったのだ。市電と南海電車へ乗るために汐見橋から天下茶屋で乗り換えるという、手間のかかる経路を経てそれらを数日かけて一個ずつ運んだのであった。

 だが、この荷物を持って電車に乗り、混雑するので、木箱を網棚に置こうと持ち上げていたときに、重くてつい手をすべらせて、木箱で父は強く胸を打った。

 「痛い!」

 荷物の箱をかろうじて運んできた父は、家に帰るなり胸に手をあてて座り込んだ。

 かなり大きなダメージを受けたのだろう。 いつもよりいっそう青ざめた顔色で、胸で大きく息を吐きながら、心配そうに見ている家族をじっと見た。父の目は、いつも人を射るような鋭い眼光だったが、その時の父の目は、どうやってこれから家族を支えていったらいいのだろうかという大きな不安が生み出したにちがいないが、悲しみを通り越して、かくなるに至った自らの宿業か、深淵な虚無を覗いているような目だった。

 これがもとで、父は新しい職場に入ったばかりなのに、しばらく働けないような状態となった。無理を押して仕事に出かけてはみるものの、鉋を使うと胸が痛んで仕事が出来なかった。会社には了解を得て、体を回復させるまで休むことになったが、転居が重なってきたこともあって経済的にも困窮をきわめ土壇場に追いつめられていた。

 着物を質草にしたのもその時だろう。

 食料は配給制度だったが、食料不足で、配給は満足に受けられず、遅配や欠配といって遅れたり、全く配給されないことも多かった。七人の家族で、姉は一八歳、私は十一歳、続いて二歳違いの弟がふたり、下の妹は四歳

という家族構成で、子供たちは食べ盛りなのだった。政府は食料不足だから配給は欠配するという通達ですますことは出来ても、子供を抱えた家族は欠配ではすまされないのだ。父が胸を痛打しながら運んできた木箱から、母は着物を取り出しては、近所の農家などを訪問して、物々交換をしてもらって野菜などの食料を入手するのであった。そうして手に入れてきた食料は、ぼくらが汲み上げてきて台所のバケツに貯めてある副池の水を使って料理するのである。

 その日狭山池はさざ波もなく、対岸はまるで水平線かと思うほど遠くに見え、対岸の堰堤の樹木を水面にさかさまに映して、池のなかにも青い空が限りなくひろがっていた。

 学校は狭山池の土手の中程に建っている村役場前を通り過ぎて土手を下り、古い村落のなかの細い道路をしばらく行くとあった。

 狭い運動場と、一階建ての木造校舎があった。学級は一クラスしかなくて、生徒は三〇数名ぐらいだった。

 担任の女先生は三〇歳ぐらいだろうか。

 色の白い角張った顔をしていたが、理知的な感じがして嫌いではなかった。

 私は肌の黒いちびだった。

 クラスで背の低い順に並ぶと、一番か二番になる。徳島の国民学校で、クラスの記念写真を写したものを見ると、私はまるで黒人ででもあるかのように、肌が黒っぽく写っているのである。なぜ私は黒く写るのだろうと長年疑問だったが、肌色が黒いのは、いまから思うとアレルギー体質をもっていたからだろう。

  女先生は太田先生といったが、転校してきた私を教室に連れていき、仲良くしてくださいと紹介してくれただけでなく、私を前に立たせたまま、クラスの生徒たちに一人ひとり起立させて自己紹介をさせた。そのうちの一人が、照れて名前が言えなくてもたついていると、

 「はんだら!」と激しい口調で怒鳴る生徒がいて、この声にみんながどっと笑ったが、

「はんだら!」というのがどういう意味なのかわたしには見当がつかなかった。あまりいい言葉ではないらしいとは思ったが、ここの子供たちは「はんだら!」をことあるごとに連発した。

 ある日太田先生に職員室へ呼ばれて、

 「あなたは、国語とかほかの科目ははこんなにもよく出来るのに、どうして算数がさっぱりできないのですか」と聞かれた。返答に窮したが、学習しないことは出来ないのが当然で、そのころの私は算数の授業などこころにすこしも止まらず、いつもうわの空で過ごしてきたところがあり、くわえて空襲警報のたびに下校させられていたし、戦争が終わって間もなく、家族が流浪しはじめたので勉強どころではなかったのだ。

 空想癖の上に小説を乱読する読書癖があって、毎日の読書は欠かすことがなかったが、それは勉強なんかではなく、好きだから欠かさない悪癖なのである。わずかの単校本や数冊あった文学全集で、村上浪六や久米正雄や、菊池寛の恋愛小説、谷崎潤一郎などを、年齢不相応に耽読していたのであった。

 きちんと段階的に勉強するという、思考をこらすような訓練はだれもしてくれなかったので、算数などにはまったく無関心だったといっていいだろう。姉が両親の放任主義にもかかわらず抜きんでて成績が良かったので、両親は子供の勉強や成績を気にかけるなんてことはまったくしなかったのである。

 そんな理由を先生にわかるように説明など出来るわけもなかった。 

 「質問してもいいですか」とこんどは私が聞くと、どうぞといったので

 「はんだら!ってなんのことですか」

 と聞いたら、あきれたような顔をして、

 「あほんだらということばを、早口で縮めていうから、はんだら!とか、だら!になるのです。こんながらの悪い河内言葉を覚えて使ってはいけませんよ」といわれた。

 「なんの勉強が一番好きなの」と聞くから 「音楽の時間です」と答えた。

 「そう!」と先生はややがっかりしたような声で、突き放すような言い方をしておわったが、気にかけてくれていたらしく、間もなく音楽会のコンクールに推薦してくれて出場したりしたが、はんだらを連発する連中とはついに友達にはならずに終わった。

 父が会社を休んで一月以上経過したころ、家計の逼迫は限界になっていた。療養してはいたがなかなか痛みは取れず、父は暗澹とした気分を紛らすために、ときどき三味線をつまびきした。知っている流行歌のメロディを

山勘で演奏するのが得意だったし、夜など阿波踊りのよしこのをにぎやかに弾いた。

 よしこのが鳴り始めると、いつとは知らず家族みんなが得意の阿波踊りを狭い部屋で踊りはじめるのだった。 

 踊る阿呆に見る阿呆

 同じ阿呆なら踊らにゃ損々

 四〇ワットほどのはだか電球の下で、親子が生きることの困難を忘れて毎夜のようにいっとき乱舞していると、近所の人たちが何事かと覗きにきて、上がり込んで見物するのである。

 「お宅は陽気でよろしいですなー。うらやましいです」

 などと感想を聞かされるが、内実は火の車なのである。腹がへって踊りどころではないという状況なのだが、宵越しの金は持たない主義で生きてきた職人根性は、じめじめと落ち込んだりばかりはしていない。もともと陽気なお人好しの夫婦は、こうしてひとときを自慰しながら、子供に愚痴はいわなかった。そうしながら父はいかにこの困難を乗り越えていくか秘策を練っていたのである。

 ある日、水汲みから上がってくると、父が風呂敷包みをかなりふくらませて外出するところだった。

 あの店に行くのだ、と私は直感した。

 まだすこし痛みの残る胸をかばうようにしながら、父はそれを背中に巻き付けて出ていった。

 数日後、父に呼ばれた。

 「博之、徳島へ行く。リュックにこれを入れなさい」

 父が渡したのは、お茶の葉を入れるブリキ製の丸い空の茶筒が四つだった。

 この茶筒は、戦争中に非常食として炒った玄米を保存して持ち歩くためのもので、空襲にあって逃げるときには、リュックサックにいつも入れて持っている予定のものだったが、実際に空襲に遭ったときは、私はなにも持たず家族のことも念頭になくなって、弟とふたりでとんで逃げたのであった。

 その空の茶筒を持っていけとは、どういう意味だろうか。疑問に思ったが、父はむっつりと質問をはばかる雰囲気なので黙ってリュックにいれた。

 その夜、阿摂航路に今度は逆コースでまた乗ることになった。船は一月前に訣別してきた故郷へと碇をあげた。

 眉山を横目に見ながら、汽車は池田に近い寒村の駅に着いて、そこへ迎えにきていていた私も知っている父の友人宅へ行った。

 翌日、父から渡された茶筒にはなにか入っていたが重くはなかった。それをリュックに詰めて翌日の船に乗った。こういうことをその後数回繰り返した。小松島港や大阪港では、時折警官が闇ブローカーの取り締まりをして、乗客の荷物を検閲し、父の荷物も調べられたりしたが、子供の小さなリュックなどには触りもしなかった。

 茶筒には葉たばこの束が入っていて、母が包丁で刻んで煙草を巻いた。これを会社の人たちが買いに来てくれた。

 「お宅はよろしいですな。こんな仕事が見つかって」

 などと、皮肉っぽくいいながら買いに来る人もいたが、父はだまって頭を下げるしかなかった。この煙草の密売で狭山の苛酷なその冬をなんとか切り抜けたのであった。

 父の身体はなかなか本復しなかったが、椅子張り職人が居なくて会社が困っていることを知って、そちらの仕事を担当することになった。西洋椅子の布や皮やレザーを、バネやクッション材をいれて形をしっかり整え、頭が大きくて足の短い釘を打って仕上げる職人を(張り屋)というが、父は若いときに好奇心からチャレンジして、マスターしていたのである。

 繊細さとセンスを生かして張り屋として仕事は他にひけはとらなかったが、意外なところで作業速度に差がついた。速度の差が生まれたのは、父の衛生観念が邪魔をしたからであった。

 張り屋の職人は釘を一つかみ口に放り込み、舌で釘を回すという操作して、釘の頭を唇に一本づつ出し、金槌の頭が磁石になっているところに釘をひっつけてポンと打ち付けるのである。

 父は機械油がにおうこの釘をどうしても口に放り込めなかった。箱に入れた釘を手でつまみあげてから打ち付けるのである。

 釘は足が短く、頭が大きいので、箱のなかで上向きになっていることが多く、釘を拾うとき、どうしても頻繁に指を刺してしまうのだ。だから、張り屋の仕事には見切りをつけていたのだが、思いがけずここで技術が生きた。器用が身を助けたのである。

 しかし、翌年の初夏、大阪市内に謄写版の製造会社の職長の仕事を見つけて、春本組を退社することになった。

 会社は父の技能を惜しんで慰留につとめたが、父は決意してかわらなかった。

 ここの暮らしは母にはすでに苛酷だったのだ。母は六人目の子供を妊っていた。

 




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