第四章:掛け出しスパイと依頼
イギリスの首都、ロンドン・ミルバンク11番、テムズハウス。
ここに本部を置く英国諜報組織、Mi5。
20世紀に入り創立100年になる老舗機関だ。
旧、Mi6---SISと同じ時代に造られた組織であるMi5は主に対スパイ組織として活動している。
主に敵国でのスパイ活動から英国内で暗躍するスパイの“調査”が仕事だ。
あくまで調査であり、逮捕はしない。
それ以前にこの組織に司法権は無い為、逮捕が出来ないと言う方が正しい。
調査してスパイを逮捕するのは、スコットヤード(ロンドン警視庁)の役割だ。
100年の歴史を持つ組織だが、兄弟分のMi6、現在のSISに比べて現場などには殆ど立ち会わない。
それに兄貴分の方が小説「007」などでも取り上げられている為、影が薄い存在として知られている。
更に近年は人手不足が目立ち、新聞に求人募集をするという前代未聞の事を見せている程だ。
その本部の会議室では二人の男が叱責されていた。
叱咤しているのはヴィンセントとBARに居た男。
叱責されているのはヴィンセントを追い、貧民街の者たちに袋叩きされた男達だった。
男二人の顔はバンソウコなどが貼られており酷い顔だった。
「たかが一匹狼の殺し屋を逃がすとは恥を知れ!?」
バッン
デスク・テーブルを力任せに叩く男。
しかし、顔を歪ませた。
怒りではなく力任せにテーブルを叩いて、痛みを覚えたからであった。
「申し訳ありません」
男達は平謝りしながら、上司である男を心の中で罵倒した。
『この見た目より老けて見える爺』
『雷親父がっ』
二人が心の中で罵倒しているのも知らない見た目より老けて見える男は、尚も叱り続けた。
「仮にも英国諜報組織の者が貧民街の者に袋叩きにされるなど前代未聞だ!!」
男は痛みを抑えるように手を組んだ。
ねちねちとそれこそ、餅のように説教を始めた。
まるで教師と悪戯をした子供のようだ。
小1時間も説教を喰らった男達は、やっとの思いで部屋を出る事に成功した。
「あー、くそ。何で、俺らが怒られなきゃならないんだよ?」
「仕事をしくじったとは言え・・・関係ない事まで怒りやがって」
やれ、コーヒー党が多い、女が野蛮になった、女王陛下と会って居ない、と本当に関係ない事まで上司は怒った。
後半はそれこそ八つ当たりに近い。
「で、どうする?」
「どうするもこうするも、あいつを殺さないと、俺ら今月分の給料が無いぞ?」
上司からヴィンセントの首を持って来い、と厳命された。
もし、持って来れなければ今月の給料は無い、と言われたのだから堪らない。
「だよな。しかし、二人だけでやれ、って言われても・・・な?」
「あぁ。俺らまだ1年しか働いてないぞ」
そう、二人はまだ1年しか仕事を経験していない。
その1年だってスパイ活動ではない。
敵国に潜入せず、ただその現地の者に頼んでおいた情報を聞き報酬を渡す、という役割だ。
こんな仕事しかやった事が無いのに一人の男を殺せ、などと言われても度台、無理な話だ。
それでも上司の命令、という事もありやろうとしたが。
「とにかく、あいつの足取りを掴まないとな」
「あぁ。俺らの今月の給料が掛っているんだからな」
何とも情けない理由だが、社会人としては大問題だ。
「さて、どうするか」
「まったくだ。まぁ、今はこの口うるさい爺の居る会社を出て一杯やりたい気分だ」
「だな」
二人はそう言って、廊下を歩き出した。
本部を出た二人はタクシーを拾った。
車は“ロンドン・タクシー”と呼ばれるクラシックな形をした車---オースティンFX4だった。
ミニバン級の高さを持つこの車は元々山高帽を被ったまま乗り降りができるように設計された事が理由だ。
今でもそれは変わらない。
保守的なイギリスを表している車と言える。
「どちらまで?」
タクシーの運転手は乗って来た二人に訊ねた。
「酒場だ」
「へいへい」
運転手はエンジンを掛けて走り出した。
二人は先ずは酒を飲みながら、話そうと思った。
一方、二人の上司で爺と言われた男は電話をしていた。
「はいはい。その件はもう片付きました。はい。それはもう私の優秀な部下が片付けましたとも・・・・・・・・・・」
話の具合からして相手は、男より上の階級の者だろう。
「えぇ。IRAの者など敵ではありません。はい。全ては女王陛下の為に」
それが会話の終わりを意味したのか、男は電話を置いた。
「はー、何とか誤魔化せた」
男は大きな息を吐いた。
電話の相手は男の上司で、女王陛下と首相の信頼も熱い。
今回の仕事をこちらの手で処理したと話したが、何時まで誤魔化せるか男は心配だった。
「まさか人手不足の為に外部の者を使用した、なんて言えないしな」
もしも知られたら大目玉は確実だ。
「一刻も早く奴を始末しなければ・・・・・・・・・・・・・・・・」
男は普段は吸わない煙草を銜えた。
火を点けて煙を吐きながら男は、あの二人以外に誰か別の者を頼もうと早くも決めた。
決めると早い物で電話を取り出して何処かに掛けた。
「私だ。少しばかり手を貸してもらいたい。なぁに、相手はただの餓鬼が一人だ。そいつをただ殺すだけだ。簡単だろ?」
電話の相手は淡々とした口調で男に報酬の事を持ち掛けて来た。
「お前さんとは長い付き合いだ。ちょっと懐が寂しいんだ。少し勘弁してくれ」
男は苦笑しながら値切り出した。
電話の相手は、溜め息を吐きながらも承諾した。
「ありがとう。では、今から会おう。場所は、例のカフェで頼む。あぁ、では」
電話を置いた男は煙草を灰皿に捨てて、椅子から立ち上がった。
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ロンドンの中にある一見何の変哲もないカフェ。
そこで一組の男がテーブル越しに向き合っていた。
男の方はヴィンセントに依頼をした男だが、もう一人は見知らぬ男だ。
髪も髭も白で既に70は悠に超えているだろう。
しかし、身体付きは逞しく今も鍛えている感じだ。
「これが標的だ」
男は懐から写真を1枚だけ取り出した。
写真には頬を赤く染めたヴィンセントが映っていた。
「何だ?この若造は」
老人は写真のヴィンセントを見て訊き返した。
「今を時めく切り裂きジャックだ」
「この若造が?・・・・イメージと違うな」
老人は何と言えば良いのか分からずに唸った。
「リボルバーとナイフを扱う20代の青年だ。請け負う仕事内容・組織は特に決まっていない」
「実力はどうなんだ?」
「良いと言える。だが、お前に比べればまだ赤子だろ?」
お前はこれまで数え切れないほど仕事をしてきた。
こちらはまだ良くて数年。
経験の差が歴然としている。
「まぁな。それでこいつだけか?」
他にも居るのだろ?と老人は訊ねた。
「あぁ。後二人居る」
男はまた別の写真を渡した。
「こっちは私の部下だ。いや、だった」
「なるほど。この3人を消せば良いんだな?」
「あぁ。報酬はこの前と同じく指定の銀行に振り込んでおく」
「分かった。もう引退しようと考えていたが・・・ちょうど良い最後の獲物だ」
今を時めく若い殺し屋に裏世界の厳しさを教えてやる、と老人は暗い笑みを浮かべて紅茶を口にした。
「頼りにしているぞ」
男もそんな老人の笑みに満足した。
そして自分も紅茶を飲んだ。
『くくくくく・・・これで全て丸く収まる。あの二人には悪いがこれも国の為・・・私の為だ。潔く死んでくれ』
心の中で部下だった二人の男に謝りながら、これであの小生意気な若造を殺せると男は思うと笑い声を出しそうだった。
それを抑えるのに更に紅茶を口にした。




