発表『走馬灯のように』
これは、見た者にしか分からない筈である。
私の導き出した、死の間際『走馬灯のように』過去の出来事が駆け巡るという事の否定的結論について発表する。発表中は私語を慎み、静かに聴いて頂きたい。
死の間際、過去の出来事が『走馬灯のように』駆け巡るという。
しかし、本当は死の間際ではなく、死を悟った瞬間・死を覚悟した瞬間に過去の出来事が頭の中をフラッシュ映像のように駆け巡るのである。
私は過去に自殺行為というモノを行った事がある。この時、死のうとしている時は正常(本当に正常なら死のうとする訳はないのだが)なのにも関わらず、もう意識が遠退く瞬間、昔にあった思い出(自分で覚えている事も、覚えていない事も)が頭の中に、早送りのビデオを見ているかの如く、映し出される。見えるのである。『走馬灯のように』と表現される事が多いが、少なくとも私の場合、影絵などでなく鮮明な色の付いた記憶の断片であった。
この映像は、遠退く意識の中で見るモノなので、そんなに長くは続かない。言い換えると、長く見続ける事は不可能なのである。しかし、さすがに早送り映像。しかも、楽しかった事が中心となる『この世に未練を残す』ような映像な為、遠退く意識を遠退かせないようにと踏ん張りたくなるのだが無駄な足掻きなのである。
しかし、この早送り映像は正常な精神(意識)を持った者にしか見る事は叶わない。認知症のような精神状態にある者には見る事すら叶わないのだ。
私は過去に、何度も認知症患者の看取りに立ち会った。この時の患者の中にあるのは苦しみ。そう、病に対する苦しみのみ。これに抗うが如く、患者の耳元で囁くのである。その方が生前楽しんでいた情景を。楽しみにしていた情景を、耳元で何度も何度も囁くのである。そうする事で苦しみから軽く解放された患者は笑みを零す。これは過去の記憶ではなく、創り出された記憶に過ぎない為、上記のような『走馬灯のように』『早送り映像』には当てはまらないのである。
して、まとめである。上記二点の理論を用いて、死の間際に過去の出来事が『走馬灯のように』駆け巡るという事は、完全に否定する。死の間際ではなく、死を覚悟した悟った瞬間であると私は考える。
これが、私の導き出した『走馬灯のように』の否定的結論である。
この定義にあたり、抗議の声もあるだろうが、もし、抗議されるのであれば、一度見た後にして頂きたい。(本当に死ぬなよ抗議出来なくなるぞ)
という事で私からの発表を終了する。
以上
抗議・苦情は受け付けます。しかし、まず見てから抗議・苦情を言うように!




