番外編 珠の恋
秋の日差しが差し込む中、珠はぼうっとしていた。
頭の中は藤原教通の姿だけが浮かび、自分で自分を制御できなかった。
ーふう。教通様か…。
思い出すだけで、顔が赤くなる。
素敵な御方だったと、土御門邸に行ってから、ずっと思い続けていた。
ー可愛いらしい御方だって言われたし。
嬉しい自分と、訳が分からない自分と、色んなものが混ざり合い、珠はまた息を吐き出す。
この気持ちは何なのか、不明だった。
ーもう会えないわよね…。
紫式部のお供でついて行ったので、教通に会える確率は低かった。
顔は赤くなったり、青くなったりと忙しく、珠は目が回りそうだった。
「…ま、珠!!」
「!! え…?」
急に声をかけられ、珠はびっくりして、そちらに目を向ける。
すると賢子と手を繋いだ紫式部が、心配そうな表情をしている。
「こ、これは紫式部様…!! 失礼いたしました!!」
「いいのですけれど、墨が…」
「す、墨…? あー!!」
紙は貴重なものなのに、珠は筆を持ったまま、ぼうっとしていたらしく、慌てて離したが、時すでに遅しだった。
「も、申し訳ありません!!」
紫式部に向かって頭を下げると、紫式部が賢子を前に出す。
「賢子が様子がおかしいから、見てって言うから、見てみれば…。どうなさったのですか?」
「そ、その、あの…」
唇が上手く回らず、しどろもどろとなる。
紫式部は賢子を手放すと、
「女房達と碁でもしてきなさい」
と伝え、場を去らせる。
御簾の中には、珠と紫式部だけになり、二人は向き合う。
「どうしたんですの、珠? いつもならしっかりしているのに」
「も、申し訳ございません。ちゃんとします」
失敗を片付けようとしたのだが、紫式部がその動きを止める。
「待ちなさい。土御門邸に行ってから、おかしいですわよ? 何かあったのですか?」
「え…。えっと、その」
珠はおどおどしたが、言わないほうがいいと口をつぐむと、紫式部が床を叩く。
「こら、珠!! 言いなさい!!」
「は、はい…!! あ、あの」
紫式部には逆らえないので、勇気を出して事を伝えると、彼女が嬉しそうに微笑む。
「ほほ。そういうことでしたか」
「は、はい。私、おかしいんでしょうか…?」
「違いますわ。珠は光源氏を見つけたのよ」
「ひ、光源氏…? え? 教通様ですよ?」
「そう。教通様が光源氏なのよ」
よく分からず首を傾げると、扇で胸を示される。
「ー恋ですわ、恋。珠は教通様に恋をしているの」
「こ、恋…!! え、え、えー!! そ、そんな、そんな、滅相もない!!」
「どこが滅相もないことですか!! 立派な大人になるために必要なことですわ」
「立派な大人…」
珠は胸をゆっくりと押さえる。
恋と言われ、この苦しかったり、不安になったり、更にはときめいたりと、忙しい心がそうなのかと、初め知る。
ー私、教通様のこと…。
一目見ただけなのに、恋と呼べるのだろうか。
紫式部に問うと、彼女は嬉しそうに笑う。
「そういうこともあるのですよ。一目惚れというものですわ」
「一目惚れ…。なるほど」
声に出して言うと、ゆっくり納得し、紫式部にすがる。
「ど、どうしたらいいのでしょう…? この複雑な気持ちを楽にするには!!」
「結婚なさい」
「は…? 結婚?」
いきなり話がとんだような気がし、珠は目をぱちくりさせる。
「ど、どういうことでしょうか? 結婚って、いきなり」
「珠もいい年ですもの。まずは文のやり取りから頑張りなさい」
「ふ、文…? あの、どういう…?」
「光源氏を見習いなさい。ちゃんと文のやり取りをして、夜、忍び込んで来ているでしょう?」
「し…!! そ、そんな恥ずかしいことは!!」
「何が恥ずかしいですか。立派に成長している証ですわ」
ほほと紫式部は笑うと、珠の前に膝をつき、頭を撫でる。
「あなたは受領の娘。道長様のお母様も、そうなんですわよ」
「え…。道長様のお母様もそうなんですか?」
「家にお金があるかないかで、身分なんてどうとでもなりますわ。珠の家は…?」
「一応、順調です。お父様もやり甲斐があるようですし」
「そう。それなら教通様に恋をしてもいいわね。応援するから、頑張りなさい」
「え、でも、その、奥方様が…」
「皆、正室の他に女性達がいますわ。道長様だって、いらっしゃいますし」
「なるほど…。…でも、その、勇気が出なくて」
「断られてもいいのですよ? いい勉強になりますし、教通様に早く文を書きなさい」
「えっと…」
失敗した紙と筆を見、珠は固まる。
恋なんてまだ早いと思っていたが、突然、起こるものだと知る。
ー自分の心が止められませんわ。
早く文を書きたい自分と、そうでない自分がせめぎ合う。
自分と教通でつりあうだろうかと思ってしまうのだ。
ー教通様が私の光源氏…。…それなら私は。
珠はしっかりした顔つきとなると、紫式部に言う。
「ー私、やめておきますわ。その、もう少し紫式部様の側にいたいのです」
「まあ。せっかく叶うかもしれない恋なのに、やめるのですか?」
「はい。私、紫式部様の弟子ですので、この複雑な気持ちをいかして、物語を綴ろうと思います。そうしたら…読んでくださいますか?」
「珠…。…よく言いました」
紫式部は珠を側に寄せると、耳元で言う。
「恋は一つ間違えれば、命取りになるもの。しかも政に関わるとなると、珠では素直で優しすぎて無理かもしれませんわね」
「紫式部様…。ありがとうございます」
珠は一緒に心配してくれる紫式部の存在がありがたかった。
紫式部は珠の両方の肩を掴むと、真剣な顔つきで言う。
「物語にしてみなさい。それでこの恋は終わりにするべきですわ。いずれ教通様も偉くなる御方ですもの」
「はい。分かりました。…あー、何かすっきりしてきましたわ。紫式部様、話を聞いてくださって、ありがとうございます」
「ほほ。いいんですわよ。若いうちはたくさん恋愛しなさい」
「たくさん恋愛…。…私が紫の上になる日が来るのでしょうか?」
「くるに決まっていますわ。どんと構えなさい」
「はい!!」
珠が元気に答えると、紫式部が額と額をくっつけてくる。
「珠、いいですか。男といっても、色んな人々がいます。その中から、この人なら自分を預けても大丈夫だという人を探しなさい。あなたのことを大事にしてくれる人を探すのです」
「はい、分かりました」
珠がはっきりと告げると、紫式部は身体を離してくる。
奥から「きゃあ」と賢子の声が聞こえてきて、二人はくすりと笑う。
「いつもの珠ですわ。割り切りましたね」
「はい。私も不祥ながら、物語を書いてみようと思います。あと、素敵な男性が見つかったら、紫式部様に相談しようと思います」
「ええ、それでいいのです。…ああ、雰囲気が明るくなった。やはり珠がしっかりしていないと、部屋が淀みますわ」
「え? そうなんですか?」
珠が御簾の中を眺めると、外と内とを結ぶように、光が差し込んできている。
あとは秋の葉を揺らすように、風が流れているのが伝わってくる。
ーそうか。私が元気がないと、暗くなるのか。
珠はぱしりと両頬を叩くと、紫式部に頭を下げる。
「助言、ありがとうございました」
「いいのですよ。…でも初恋の御方が教通様で良かったですわ。見る目があるのね、珠は」
「これでも…色々と苦労していますから」
詳しくは言わないが、珠は口をつぐむと、静かに立ち上がる。
その影に驚いたのか、雀達が一斉に飛んでいく。
「ー私、頑張りますわ。まずはここを片付けないと」
「そうそう。その調子です」
「はい。では失礼して」
失敗した紙を丸めると、珠の心が爽快なものになっているのに気づく。
ー本当に初恋の人が教通様で良かった。
珠を攻撃せず、見守ってくれた御方。
そんな御方と出会いたいと、珠は願うのだった。
「よーし、やるぞ!!」
「まあ、珠ったら」
二人は声を立てて笑うと、明るい表情となり、それは部屋の雰囲気に広がるのだった。
ー次の恋、次の恋!!
光源氏ではないが、男性とのやり取りを学びたいと強く願うようになり、珠は紫式部に伝える。
「私、よい夫婦になれるように頑張りますわ」
「それがよろしくてよ。子どもも早いうちに生んだほうがよろしいですし」
「だったら賢子様みたいに育てたいですわ」
「そう? 頑張ってね。困ったら、また私に言いなさい」
「はい」
しっかりした声は外に響き、珠の心は静かなものとなったのだった。




