その橋は帳簿にございますわ。ご安心ください、三年前に架け替えておりますので
「その橋なら、帳簿にございます」
ハルデン子爵フォルカーは、机の上の一冊を指で叩いた。
五十二歳。細身で背筋がまっすぐ伸びている。指先にインクの染みがあった。自分で帳簿をつける人間の手である。
「王国財務省より参りました。監査官のリーゼロッテ・フェルマーと申します」
リーゼは膝を折って一礼した。
十八歳の娘である。子爵家の生まれで、王家の財務監査官になったのは二月前のことだった。それまでの六年間は、婚約先だった侯爵家の帳簿をたった一人でつけていた。数字の並びを見れば、その家があと何か月もつかが分かる娘だった。
「お若い方が来られると伺っておりました」
子爵は値踏みをしなかった。若さを笑いもしなかった。ただ帳簿室の鍵を机に置いた。
「二階でございます。鍵はかけておりません。いつでもご覧ください」
「ありがとうございます」
「一つ申し上げておきます」
子爵は立ち上がった。
「当家は二十年、王国へ普請の届けを出し続けております。そのぶん上納を減らしていただいております。疑われるのは当然でございます」
「はい」
「ですがこの土地は川が三本ございまして、秋になれば必ず水が出ます。橋が落ちます。堤が崩れます。水車が止まります」
「その都度、直しております」
子爵は扉のところで振り返った。
「どうぞ、隅から隅までご覧ください」
「一つの数字も間違っておりません」
リーゼは一礼した。
「拝見いたします」
広間を出るとき、リーゼは中庭に面した窓の外を見た。
屋敷の西側に新しい棟が建っていた。石を積んだ壁で、目地の漆喰がまだ白い。石の角も落ちていない。
門の外に馬車が停まっていた。アーベル・グランツはまだ降りていなかった。
二十五歳で王国財務卿に就いた、史上最年少の男である。王都からここまで、同じ馬車で来た。
「わたくしは南の町へ回ります」
アーベルは窓から言った。
「あちらに商業組合がございます。この二十年の石材の取引を当たってまいります」
「お願いいたします」
「なぜ、今になって監査が立ちましたか」
リーゼは訊いた。
「先月、普請の願いが出たからです」
アーベルは書付を膝の上で開いた。
「ミュール川の橋が落ちたので架け直したいと。上納から金貨五十枚を減じてほしいと」
「同じ橋を、三年前にも架けておられます」
「はい。そこまではよくあることでございます」
アーベルは書付を閉じた。
「ただ、二十年ぶんを並べてみました。この家は一度も落ちた報せを寄越しておりません」
「架けたいという願いだけが、十一通ございます」
アーベルは少し身を乗り出した。
「リーゼ。減らした上納の合計が、二十年で千二百枚でございます」
「多うございますか」
「いえ。この土地の水害を考えれば妥当な額です」
アーベルは目を伏せた。
「だから二十年、誰も数えませんでした」
帳簿室は二階の南向きだった。窓が大きく、机が一つ置いてある。
棚に二十年分が並んでいた。年ごとに一冊。背表紙に年が押してある。
リーゼは一冊目を開いた。
字が美しかった。桁が縦にまっすぐ揃っている。書き損じが一行もない。
収入の頁があった。小作からの納め、羊毛の売り上げ、水車の使用料。一年の実入りは金貨で三百枚ほどだった。やせた土地にしては悪くない。
支出の頁。使用人の給金。屋敷の入り用。王国への上納。
王国は毎年、爵位を持つ家から上納を取る。天災で普請が要ったときは、かかった費用の分だけ上納を減らしてもらえる。
いくらかかったかを書くのは、届け出る家自身である。王国は確かめに来ない。
確かめに来た者は、二十年で一人もいなかった。
そして普請の頁があった。
橋の普請。堤の普請。水車の普請。屋根の普請。
どれにも同じ形で三行が書いてある。願いを出した日。減免が認められた日。工事にかかった額。
リーゼは減じられた額と、かかった額を突き合わせた。
合っていた。
二年目も合っていた。三年目も合っていた。
願い出の日から減免が認められる日までは、どの年もひと月ほどだった。役所の仕事としてはむしろ早い。
工事にかかった額は、減じられた額と同じか少しだけ下回っていた。余った分は次の年の頁へ繰り越されている。繰越の額も合っていた。
欠けている頁はなかった。破り取られた跡もなかった。書き直した跡もなかった。
普請の願いは、いつも春に出ている。水が出るのは秋である。秋に落ちた橋を春に架け直すのは、道理に合っていた。
工事を請け負った者の名は、どこにも書かれていなかった。
リーゼは子爵を呼んで訊いた。
「普請の差配は、どなたがなさいますか」
「わたしが直に」
子爵は答えた。
「村の者を集めて、日ごとに払います。名を一人ずつ書いておりましたら、頁がいくらあっても足りません」
それも道理だった。小さな領では珍しくない。そして同時に、いくらでも書ける形でもあった。
つまり、誰に払ったのかは分からない。残っているのは金額だけである。
リーゼは頁を閉じた。
三日かかった。二十年分の頁をすべて突き合わせて、リーゼは机に手を置いた。
一つも間違いがない。
六年間帳簿をつけてきた人間として、リーゼは素直に思った。この人は仕事ができる。
誤りを探すのは易しい。数字が合わなければ、そこに何かがある。
合っている帳簿から何かを見つけるのは、別の仕事だった。
窓の外が暗くなっていた。
四日目の朝、リーゼは領内の図を借りた。
子爵家に一枚だけある古い図で、屋敷と村と道と川が描いてある。
リーゼは図を机に広げ、その横に二十年分の普請の記録を並べた。
まず橋を数えた。
橋の普請は十一件あった。
次に図の川を数えた。
三本だった。
「子爵さま」
リーゼは呼んだ。子爵はすぐに来た。
「この領の川は、三本でございますか」
「三本です」
「橋の普請が、二十年で十一件ございます」
「架け替えたのです」
子爵は図を覗き込んだ。
「増水でよく落ちますので。同じ場所に、何度も架けております」
理屈は通っていた。
リーゼは記録を年ごとに並べ直した。ミュール川の橋。十二年前に架け替え。七年前に架け替え。三年前に架け替え。
「四年ごとでございますね」
「そのくらいで落ちます」
「落ちた記録がございません」
子爵の指が図の上で止まった。
リーゼは言った。
「橋が落ちますと、人が困ります」
「荷が渡れません。迂回いたします。日数がかかります。運び賃が上がります。麦が遅れて、値が動きます」
「二十年で十一度落ちたのでしたら、十一度ぶんの困りごとがどこかの頁に残っているはずでございます」
「一度もございません」
子爵は答えなかった。
「増水の記録はございます」
「秋に水が出たと、二十年で十七度書いてございます。堤の見回りに人を出したことも書いてございます」
「水が出たことは、きちんと残しておいでです」
「ですが、橋が落ちたとは一度も書いておられません」
「水は出るのに、橋は落ちない」
リーゼは記録から顔を上げた。
「それでいて、橋は十一度架け替えられております」
「先月は残っております」
リーゼは先月の頁を開いた。
「先月ミュール川で橋が落ちて、普請の願いが出ております」
「その頁には、荷の遅れも書いてございます。麦が一台ぶん、川に落ちて流れたと」
「誰が運んでおりましたか」
「荷運びの男だ」
子爵は図から目を離さなかった。
「渡り方が悪かった。荷を積みすぎたのだろう」
「その方は」
「死んだ」
リーゼの指が、頁の上で止まった。
それから、そのまま動かさなかった。
「人が一人亡くなったことは、書いてございません」
「ほかの十度が、書かれておりません」
その晩、屋敷に近隣の地主が四人招かれた。
卓に鹿の肉と葡萄酒が出た。子爵は上機嫌だった。
「王都から監査官どのがお見えでな」
子爵は杯を掲げた。
「明日から、橋を数えに行かれるそうだ」
地主たちが笑った。
「橋を、でございますか」
「十一あるはずだが、川は三本しかないと仰る。同じ川に何度も架けておるのだと申し上げたのだがな」
また笑いが起きた。
「王都の方は熱心でいらっしゃる」
年配の地主が言った。
「橋は逃げませんのに」
「はい」
リーゼは杯に手をつけずに答えた。
「橋は逃げません」
笑い声が少し弱まった。
「ですから、数えられます」
誰も返さなかった。
「水車は、また止まっておりますな」
地主の一人が言った。
「六年前に建て替えたばかりでしょうに」
「建て替えました」
子爵は葡萄酒を注いだ。
「あれはよく壊れます。羽根が薄いのです」
子爵は笑わずに言った。答えは用意してある、という顔だった。
リーゼは手帳を出さずに、その言葉を覚えた。
子爵が話を変えた。今年の羊毛の値の話になった。
リーゼは黙って聞いていた。地主の一人が、去年の秋に荷を運ぶのに三日余計にかかったと言った。
「橋がありませんでしたのでな」
リーゼは顔を上げた。
「どちらの橋でございますか」
「ミュール川の」
地主は葡萄酒を飲んだ。
「もう十年も無いでしょう。あそこは渡し舟で」
卓が静かになった。
子爵が杯を置いた。
「十年ではない。去年の秋に流れたのだ」
「……ああ」
地主は葡萄酒に口をつけた。
「そうでしたな。わたしの覚え違いでございましょう」
子爵は羊毛の話に戻った。
リーゼは黙っていた。
地主には、覚え違いをする理由がない。
翌朝、リーゼは屋敷を出た。
馬は借りなかった。屋敷の馬を出せば馬丁がついてくる。ついてくれば、道を選ぶのは馬丁になる。
手帳を一冊持っていた。日付と場所と、見たものを書くための帳面である。
一本目はロート川だった。
幅は十歩ほど。石の橋が架かっていた。橋脚に苔が厚く生えている。石の角が丸くなっていた。
リーゼは手帳に書いた。
――ロート川。石橋一。古い。苔厚し。
二本目は名のない小川だった。幅は三歩。丸太に板を張った橋があって、新しくはないが渡れた。
三本目がミュール川だった。
リーゼは川岸に立って、上流と下流を見た。
橋はなかった。
水の中に丸太が二本落ちている。片方は岸に引っかかり、片方は流れの中で止まっていた。
リーゼは川岸を降りて、丸太に近づいた。
二本の丸太は太さが揃っていなかった。皮がついたままで、削った跡がない。山から出したものを、そのまま渡したらしい。
両岸に石が積んであった。大きさの違う石を、あるものから順に積んだ形である。目地に漆喰がない。
一刻前に見たロート川の石橋とは、積み方がまるで違った。
石工の仕事ではなかった。
板を載せてあった跡が丸太に残っている。板は流されて一枚もなかった。
石に載っていた部分に、苔が生えていた。
厚い苔だった。ロート川の石橋の橋脚と、同じくらいの厚さである。
――ミュール川。橋なし。丸太二本。皮つき。太さ不揃い。石は石工の手でない。苔厚し。
それから顔を上げて、川岸を見た。
道が一本、川に沿って上流へ伸びていた。踏み固められて草が生えていない。荷車の轍が二筋残っている。
リーゼはその道を歩いた。
半刻ほど上流に渡し場があった。舟が一艘つないである。小屋に老人が一人いた。
「お渡りですか」
「いいえ」
リーゼは訊いた。
「この渡しは、いつからございますか」
「わしがここへ来て八年になります」
老人は舟の縄を結び直した。
「その前からありました」
リーゼは手帳に書いた。少なくとも八年、この川には橋の代わりが要っていた。
二日目は南の村へ回った。井戸端で女たちが洗い物をしていた。リーゼは水を一杯もらって、それから訊いた。
「こちらから町へ出られるときは、どちらを通られますか」
「川沿いに上って、渡しで」
「橋は」
女たちは顔を見合わせた。
「ずっと前にはあったそうですけれど」
一番年上の女が言った。
「石を積んだちゃんとした橋は、わたしは見たことがありません」
「丸太は」
「あれは村の男が渡したものです。もう十年になりますか」
女は洗い物の手を止めた。
「板が流れると、また載せるのです。毎年ですよ」
三日目は北の堤と西の水車を見た。
どちらも帳簿では築き直したことになっている。どちらもそうは見えなかった。
リーゼは見たままを手帳に書いた。
人は橋がなければ迂回する。迂回すれば道ができる。道は嘘をつかなかった。
三日で領内を歩き終えた。川は三本、橋は三つ、そのうち一つは落ちていた。
三日目の夕方、リーゼはもう一度ミュール川へ戻った。
落ちた橋のたもとに、女が一人立っていた。
三十ほどに見えた。粗い布の上着を着て、手に野の花を持っている。
女はリーゼを見て、慌てて道の端へ寄った。
「お邪魔でしたか」
「いいえ」
「王国財務省の監査官でございます。リーゼロッテ・フェルマーと申します」
「……マレーネと申します」
女は花を持ち直した。
「マレーネ・ラングです」
「お花を、手向けておいでですか」
「はい」
マレーネは川を見た。
「夫が、ここで亡くなりました」
「九月の八日です」
トビアス・ラングは荷運びだった。麦を積んだ荷車でミュール川を渡ろうとして、橋ごと落ちた。その日は前の晩から雨で、水が増えていた。荷車の下敷きになって、日が暮れる前に死んだ。三十四歳だった。
マレーネは言った。
「橋が古かったのだと思っていました」
「屋敷の方に伺いましたら、そうではないと」
「なんと仰いましたか」
「あの橋は三年前に架け替えたばかりだから、落ちるはずがないと」
マレーネは花を川へ投げた。花は水に浮いて、丸太のあいだを流れていった。
「渡り方が悪かったのだろうと」
「補償は」
「ありません」
マレーネは首を振った。
「新しい橋で落ちたのですから、夫の不注意だと」
「荷車も、屋敷のものでした」
「壊してしまいましたので、そのぶんを払えと言われています」
「いくらでございますか」
「金貨三枚です」
リーゼは手帳に書いた。
リーゼは黙っていた。
しばらくして訊いた。
「ラングさま。ご主人が亡くなった日を、どこかに書いてお持ちですか」
「わたしは字が書けませんので」
マレーネはリーゼを見た。
「覚えています。九月の八日です。朝でした」
「そのくらいしか、残っていません」
リーゼは手帳を開いて、そこに書いた。
――九月八日朝。ミュール川。トビアス・ラング。荷車ごと落つ。
「書いてくださるのですか」
マレーネが訊いた。
「はい」
「わたしは読めませんけれど」
「わたくしが読みます」
マレーネは長いあいだ川を見ていた。
「あの人は、気をつける人でした」
「板を、いつも一度踏んでから渡りました。重い荷のときは二度踏みました」
リーゼはそれも書いた。
屋敷に戻ったのは夜だった。
リーゼは帳簿室の鍵を開けて、三年前の一冊を出した。
普請の頁を開く。
――ミュール川橋。架け替え。願い出、三月十一日。減免、四月二日。金貨五十枚。工事完了、六月十九日。
三行が、いつもと同じ形で書いてあった。字は美しい。桁は揃っている。日付の間隔にも無理がない。
リーゼはその頁をしばらく見た。
それから手帳を開いて、自分の字を見た。
――苔厚し。
苔である。
あの石橋は角が丸くなるほど古い。橋脚の苔は、その年月ぶんの苔である。同じ厚さの苔が、落ちた丸太に生えていた。
三年で、あの厚さにはならない。
苔は帳面に書けない。だが苔は、そこにあるものが何年そこにあったかを言う。書く人間の都合では動かない。
リーゼは棚から七年前の一冊を出した。同じ頁がある。ミュール川橋、架け替え、金貨五十枚。
十二年前の一冊にも、同じ頁があった。
三度架け替えて、金貨百五十枚が上納から減じられている。
そして渡し場の老人は、八年前にはもうあの渡しがあったと言った。
リーゼは三冊を閉じて、机の上に並べた。
落ちた記録はどこにもない。架け替えた記録だけが三つある。渡し舟は少なくとも八年前からある。
書いてあるものと、そこにあるものが合っていなかった。
翌朝、リーゼは子爵の執務室へ行った。
アーベルが南の町から戻っていた。壁際の椅子に腰を下ろしている。
机の上に、リーゼは手帳を一冊置いた。
「それは」
子爵が訊いた。
「わたくしの覚えでございます」
リーゼは手帳を開いた。
「三日かけて、領内を歩いてまいりました」
「歩いて」
「はい。数えてまいりました」
リーゼは顔を上げた。
「橋は三つでございます」
子爵は動かなかった。
「架け替えたのだと申し上げました」
「はい。ですからその話は、もう一度はいたしません」
リーゼは手帳をめくった。
「先だっては、書かれていないものを申し上げました。今日は、そこにあるものを申し上げます」
「まず、ミュール川でございます」
「帳簿では、三年前に金貨五十枚で架け替えたことになっております」
「架け替えました」
子爵が言った。
「あの川に架かっておりましたのは、丸太二本でございます」
「両岸に石を積み、その上に丸太を渡して板を載せたものでございました。石の大きさが揃っておりません。あるものから順に積んだ形でございます」
「村の方が、ご自分で渡したものでございます」
「金貨五十枚の橋ではございません」
「流れたのだ」
子爵は言った。
「石の橋を架けた。それが流れた。村の者が丸太を渡した。そういう順である」
「石はどこへ参りましたか」
リーゼは訊いた。
「石の橋が流れましたのなら、石が川に残ります。木は流れます。石は流れません」
「あの川に、切り出した石は一つもございませんでした」
「積んであったのは、そこらの石でございます」
子爵は答えなかった。
「その丸太に、苔が生えておりました。ロート川の石橋の橋脚と、同じ厚さでございます」
「あの石橋は、角が丸くなるほど古うございます」
「三年で、あの苔にはなりません」
子爵が椅子の背に手をついた。
「……苔で、人を裁かれますか」
子爵は言った。
「苔の厚さに決まりがございますか。何年で何寸と、どこかに書いてございますか」
「ございません」
リーゼは答えた。
「ですからわたくしは、苔だけを申し上げているのではございません」
「それから、渡し場がございました」
「ミュール川を半刻ほど上ったところでございます。舟守の方に伺いましたら、八年前にはもうあったと仰いました」
「橋があるのでしたら、渡し場は要りません」
「舟守が八年食べてこられたのは、八年ぶん人が渡ったからでございます」
「橋だけではございません」
リーゼは手帳をめくった。
「発つ前の晩、水車は羽根が薄いからよく壊れると仰いました」
「たしかに割れて、片側が止まっておりました」
リーゼは手帳を見た。
「ですが水を引く溝に土が積もって、草が生えておりました。根が太うございました」
「六年のあいだに一度でも回しておりましたら、溝は掘り返されております」
「北の堤も、帳簿では四年前に築き直したことになっております。土に草が根を張って、その上を羊が歩いておりました」
「築いた土に羊を入れる方は、おいでにならないと存じます」
「南の村で一番お年を召した方に伺いましたら、石を積んだ橋は見たことがないと仰いました」
子爵は何も言わなかった。
「発つ前の晩、子爵さまは仰いました。監査官どのは橋を数えに行かれるそうだ、と」
「……申しました」
「数えてまいりました。三つでございました」
リーゼは机の上の手帳を、指で押した。
「架け替えたと仰るのでしたら、橋の数は三つで合っております」
「ですからわたくしが数えましたのは、橋の数ではございません」
リーゼは顔を上げた。
「橋を架け替えますと、古い橋の跡が残ります。橋台の石。抜いた杭。使わなくなった橋脚」
「十一度架け替えられたのでしたら、十一度ぶんの跡がどこかに残っております」
「一つもございませんでした」
リーゼは窓のほうへ目を向けた。
「西の棟は、いつお建てになりましたか」
「……八年前だ」
「石を積んでおられます。目地の漆喰がまだ白うございます」
「石切り場が領内にある」
「切ったのは、どなたでございますか」
子爵は答えなかった。
「村の方でございますね。運ばれたのも村の方でございます」
アーベルが壁際から言った。
「南の町の商業組合を当たってまいりました。この二十年、この領へ石材を納めた商会は一件もございません」
「石は、買わずに済んでおられます」
リーゼは窓から目を戻した。
「橋のための石は、一度も切っておられません」
「わたくしは、もう一度数えに戻ってもかまいません」
答えられることがなかった。数え直せと言えば、数え直されるだけである。石は流れず、橋は逃げない。
アーベルが壁際から立った。
「二十年で、王国がこの家の上納を減らした額は千二百枚です」
アーベルは書付を机に置いた。
「橋が五百五十枚。堤と水車と屋根で六百五十枚」
子爵は机を見ていた。
「この領の一年の実入りは、金貨三百枚でございます」
リーゼは収入の頁を開いた。
「千二百枚は、四年ぶんでございます」
「この領が四年のあいだ、何も食べずに働いた額でございます」
「橋を架けていれば、千二百枚は石と人手に消えておりました」
「架けておられません。ですから千二百枚は、そのままお家に残っております」
子爵はまだ机を見ていた。
リーゼは言った。
「橋一つが、金貨五十枚でございます」
「トビアス・ラングの遺族が受け取った額は、ゼロでございます」
「受け取っていないだけではございません」
「壊れた荷車の代金として、金貨三枚を請求しておいでです」
「橋の無かった川で亡くなった方の家に」
子爵が口を開いた。
「……この土地は、痩せております」
「はい」
「麦が育ちません。羊しかおりません。それでも上納は毎年きっちり取られます」
「はい」
「わたしは二十年、一度も上納を遅らせておりません」
「存じております。立派なことでございます」
リーゼは頷いた。
「ですがそのぶんは、毎年減らしていただいておりました」
「遅らせずに済むだけ減らしていただいて、二十年で金貨千二百枚でございます」
子爵は答えなかった。
「この二十年、この領で川を渡っていたのは村の丸太でございます」
「板が流れれば、村の方が載せ直しておいででした。銭は一枚も動いておりません」
リーゼは顔を上げた。
「上納を減らしていただいたぶんを払ったのは、村の方でございます」
子爵は目を閉じた。
アーベルが机の前へ歩いた。
「子爵。明日、王都へお出でいただきます。財務省の名で召喚状を出します」
「……捕らえるのか」
「いえ。わたくしにその権はございません」
「この二十年ぶんの減免は取り消されます。千二百枚を、王国へお返しいただきます」
「返せる額ではない」
「はい」
アーベルは頷いた。
「ですからお家の処分は、王がお決めになります」
子爵は立ち上がった。それから机の上の書類を揃えて、端に寄せた。最後まで几帳面な男だった。
扉のところで振り返って、リーゼに言った。
「あの橋は、次の春に架けるつもりだった」
「はい」
リーゼは一礼した。
「春までに、九月がございました」
三日後、マレーネ・ラングが屋敷に呼ばれた。
広間の入口で立ち止まって、なかなか中へ入ろうとしなかった。粗い布の上着のままだった。
リーゼはマレーネの前まで歩いて、頭を下げた。
「ラングさま。お呼び立ていたしました」
「……はい」
「ご主人のことでございます」
マレーネは手を握りしめた。
「すみません。荷車を、まだお返しできていなくて」
「そのお話ではございません」
リーゼは一枚の紙を出した。
「読み上げます」
――九月八日。ミュール川に橋は架かっておらず。村の者が渡した丸太のみ。同橋については三年前に架け替えとして上納から金貨五十枚が減じられたが、工事は行われず。トビアス・ラング、丸太を渡ろうとして落つ。
「これは」
「王国へ出す報告書でございます」
リーゼは紙を下ろした。
「ご主人は、不注意で亡くなったのではございません」
「屋敷が架けなかったので、村の方が丸太を渡しました。ご主人はその丸太を渡っておいででした」
「屋敷はそれを、三年前に架け替えた新しい橋と呼びました」
マレーネは口を開けて、何も言わなかった。
「新しい橋なら落ちるはずがない。ですからご主人が悪い。そういうことになっておりました」
「帳簿に書いてあるほうが、正しいとされました」
マレーネの肩が震えはじめた。
「あの人は」
マレーネは言った。
「あの人は、板を一度踏んでから渡りました」
「存じております」
リーゼは手帳を開いた。
「先日、伺って書き留めました」
リーゼは読み上げた。
――夫は気をつける人。板をいつも一度踏んでから渡る。重い荷のときは二度踏む。
マレーネは声を上げて泣いた。
リーゼは待った。
泣きやんでから、マレーネが訊いた。
「もう一度、読んでいただけますか」
「はい」
リーゼはもう一度読んだ。
それから、もう一度読んだ。
「その紙は、どこへ行くのですか」
マレーネが訊いた。
「王都の財務省に納めます。そこで綴じられて、残ります」
「誰かが読みますか」
リーゼは少し考えた。
「読まないかもしれません」
「では」
「ですが、書いてございます」
「書いてあるものは、あとから読めます。書いていないものは、誰にも読めません」
「ご主人が橋の無い川で亡くなったことは、これから先ずっと書いてございます」
荷車の三枚は、取り消された。落ちた麦は屋敷のものであって、ラング家のものではなかった。運び賃の未払いも、その日のうちに払われた。
そしてハルデン家の財から、ミュール川に橋を架けることが決まった。石の橋である。
二十年で十一度架けたことになっていた橋が、はじめて一つ架かる。
工事の帳面の一行目に、こう書かれることになった。
――九月八日、ミュール川にて荷運びトビアス・ラング死亡。同川に橋なきことによる。
リーゼが屋敷を出る朝、門の外に馬車が停まっていた。
アーベルが扉を開けて待っている。
「終わりましたか」
「はい」
リーゼは鞄を渡した。
「アーベルさま」
アーベルの手が止まった。
「今、なんと」
「アーベルさま、と申し上げました」
リーゼは馬車に乗り込んだ。
「財務卿さま、では長うございますので」
アーベルはしばらく扉のところに立っていた。それから向かいに腰を下ろした。
「次は東のリンデン男爵家です」
「あちらは監査を歓迎しておいでで」
「珍しいことでございますね」
「毎年、こちらから伺う日を先にお知らせしております。そのほうが支度がしやすいと仰るので」
リーゼは窓の外を見た。
ミュール川のほうへ、道が伸びている。踏み固められた迂回の道である。
「……日にちを、お知らせしているのでございますね」
馬車が動きだした。
リーゼは膝の上で手帳を開いた。
――ロート川。石橋一。古い。苔厚し。
――小川。木橋一。渡れる。
――ミュール川。橋なし。
三日歩いて書いた、たった三行である。
二十年ぶんの帳簿より、この三行のほうが正しかった。
書いてあることは、いくらでも美しくできる。
そこにあるものは、動かせない。




