この人だ
エーリヒさんの短いお話
エーリヒにとって、それはとてもつまらない仕事だった。
彼の家は男爵家。
歴史的に目立った功績もなく、収める土地を持っているわけでもない。
まずまずの成績で国立リュミエール学園を卒業し、手に職を得るために騎士学校に入学した。もともと器用な彼は、課題を難なくクリアして、ここでもまずまずの成績で卒業した。成績が良かったことから、近衛騎士団に配属された。
ごく真面目に勤務して、近衛としての評判も良かった。
騎士職を夢見ていたわけではない彼は、日々の業務に飽きていたが、だからと言って、やりたいことがあるわけでもない。
適当に昇格して、いい人と出会えれば結婚して、普通の家庭を築いて、普通に人生が終わればいいと思っていた。
だから、急遽命じられた"王子の婚約者の護衛"という、どうにもつまらなさそうな仕事も、命じられるままに引き受けた。
仕事の内容は三つ。
王子の婚約者の「護衛」と「監視」と「周知」だ。
ただ、黙って四六時中監視する。そして、彼女の行動を王子に報告する。
なんともつまらない作業だった。
その日も、エーリヒはやる気のない気持ちを無表情に隠して仕事に当たっていた。
相方は不在。場所は公爵邸の庭。相手は“王太子殿下の婚約者”という名の、実質的な監視対象。
余計なことを言わず、必要な距離を保ち、問題が起きなければそれで終わる。
――どうでもいい仕事だ。
だから、敷物の上で本を開き、眉間に皺を寄せて唸っている彼女を見たときも、最初は特に何も感じなかった。
考え事をしているだけだろう、と。
「――どうしましたか?」
声をかけたのは、ただの暇つぶしと少しの興味だった。
エーリヒは、護衛についてから彼女をよく観察していた。
この公爵令嬢は、深層のご令嬢ではない。
ご友人との会話を見れば、気の強い人なのだとわかる。
反面、公爵邸の使用人には人気がある。それは、キツい言葉の裏に、優しさと気遣いがあるからだろう。
公爵家から男爵家まで、幅広い友人を持つことからも、身分は理解しているが頓着しない人なのだろうと推察した。
だから、護衛であっても、少しくらい声をかけても叱責されないだろうとも思った。
バッと音がするほどの勢いで振り向いた彼女は、高位貴族の令嬢とは思えない顔をしていた。
もともと整った顔で冷たい印象を受ける令嬢だが、氷青の瞳をこれでもかと言うほど見開き、あんぐりと口を開ける様子は、その辺にいる平民の少女と変わらない。
そして、返ってきたのは、予想外の言葉だった。
「……普通に話せるんですね」
一瞬、理解が追いつかなかった。
話しかけたのはエーリヒだが、高位貴族は下位貴族を無視してもいい。得体の知れない護衛など、無視されると思っていた彼は、咄嗟に、ため息と共に素の言葉が出てしまった。
「ご令嬢は、私を何だと思っているんですか」
言ってから、しまった!と思った。
あまりにも失礼な態度だった。このご令嬢は、友人の身分には頓着しないが、親しくない相手にはしっかりと身分の差を守る。
(うわ、やらかした……俺、明日から無職かな。さようなら、俺の普通の人生)
絶望感を覚えながら、外見には平常心を保つ。
覚悟して待った令嬢の言葉は、予想もしないものだった。
「アルベルト殿下の犬でしょう?」
――普通だった。
普通の返答が返ってきた。
まさに、エーリヒの状況を的確に表していた。
怒るでもなく、嘲るでもなく、普通に言ってのけたこの少女に、エーリヒの力がガクッと抜けた。
もう、無理して"騎士"をしなくてもいいのではないかと思った。
そして、その後の「普通に話せばいい」という発言で、完全に仕事を放り投げた。
そして、最後の一撃――
「あなたは、もっと……やるならもっと、陰湿です」
エーリヒは、外面が良い。
良い人。
真面目な人。
話しやすい人。
それが、これまでの彼の評価だ。
ここに来て、まさか真逆のことを言われるとは。
エーリヒは、耐えられなかった。
笑ってはいけない場面だと、頭ではわかっていた。
だが、腹の奥から、どうしようもなく込み上げてきた。
どうしようもなく、楽しかった。
ようやく顔を上げたとき、彼女は訝しげにこちらを見ていた。
その表情すら、どこか面白くて、愛おしいとすら思えた。
エーリヒは、決めた。
「セラフィナ嬢。必ず、あなたの元に行きます。待っていてくださいね」
すぐには無理だが、必ずセラフィナの元に行く。
人生の道筋を、彼女の方向に全て切り替えてしまおう。
エーリヒにとって、それは、とても楽しそうな未来に見えた。




