セラフィナとエーリヒ
護衛という名の監視が付いて、一ヶ月が過ぎた。
週に何度かある“仲の良い婚約者のふり”も、板についてきた。
それにしても、とセラフィナは思う。
毎日休みなく護衛をする二人は、大変だと。
朝、朝食が終わる頃に公爵邸に来て、夕食が始まる頃に帰っていく。夜会や、アルベルトとの夕食があれば、帰宅するまでついている。
一体、どんなブラック企業だろうか、と考えたところで、「ブラック企業」って何だろう?と首を捻った。
公爵邸の庭で敷物を広げて本を広げながら、うーんうーん、と唸っていると、後ろから急に声が降ってきた。
「――どうしましたか? 何か、問題が生じましたか?」
驚いて振り返ると、エーリヒが斜め後ろに立ったまま、柔らかい表情でセラフィナを見ていた。
今日の護衛は、エーリヒ一人だけだ。
もちろん二人きりではなく、侍女が一人、そばについている。
自分の家の中で護衛とは訳がわからないと、常々思っているが、口には出さない。
「……普通に話せるんですね」
エーリヒの褐色の瞳が、数度瞬きをした後に呆れたような目つきになる。
「ご令嬢は、私を何だと思っているんですか」
ため息をつきながら、エーリヒは言った。
それに、セラフィナは当然のような顔で返した。
「何って、アルベルト殿下の犬でしょう?」
「はっきり言われると、傷つくなあ……」
ガックリと肩を落とすエーリヒを、セラフィナは少し意外そうに見る。
彼もヴィルヘルムも、護衛中は表情を動かさず、無駄な話も一切しない。護衛同士の会話も、必要最小限だった。
非常に真面目な一方で、近くにいるセラフィナは、人間味がなく、薄気味悪いようにすら感じていた。
それが突然、柔和な笑みで話しかけてきたのだ。しかも、傷つくと言い出した。
護衛人形が、急に意思を持って動き出したような驚きだった。
「――普通に話してくれればいいのに……」
ため息と共に口からポロリと溢れた言葉に、セラフィナは、しまった!と慌てた。
焦って口を手で覆うが、彼の耳には届いていたようだった。
今度は、エーリヒが意外そうな顔でセラフィナを見た。
「高位貴族のご令嬢に、私たちのような身分の者が気安く話しかけられないですよ。殿下にも、厳命されていますしね」
セラフィナは、「厳命」という言葉に反応した。
「何を命じられているのですか?」
「私たちの役割は三つです。まず、ご令嬢の護衛。そして、監視。この二つは、わかりますよね」
ずいぶん素直に答えるな、と思いながら、セラフィナは頷いた。
「三つ目は、殿下がご令嬢を大切にしていることを、見せつけることです」
セラフィナは、この答えを予想していたが、はっきり言われると寒気がする。
両手で腕を擦りながら、続きを促した。
「それをするためには、できるだけ長い時間、ご令嬢と一緒にいる必要があります。もちろん、そうなると、ある程度の会話はしますよね」
普通はそうね、とセラフィナは頷いた。
「そこで、厳命です。ご令嬢との会話は、必要な時だけ、最低限に、と」
セラフィナは、ぶるりと震えた。
囲い込みつつ、孤独にする。友人との交流を禁止されないのは、世間の評価のためか。それでも、護衛が常時いると、気軽に友人に会いにも行けない。
ため息をついたセラフィナに、彼は哀れそうな声を出した。
「大変なのに目をつけられましたね、ご令嬢」
「……あなたがそれを言っては、いけないでしょう?」
「本人がいないので、大丈夫です」
エーリヒは、悪気のない顔でにこりと笑った。
それを見て、セラフィナは呆れた顔をする。
「そんなに話して大丈夫ですか? 会話もそうですけれど、あなた方の役割とか……」
「相方がいませんので、なかったことになります」
「……いい性格をしていますね」
「ありがとうございます。ご令嬢こそ、アルベルト殿下の犬の言葉を信じるのですか?」
エーリヒが、少し首を傾げて聞いた。
「信じるというか、予想していた通りというか……」
座っているセラフィナは、エーリヒを見上げる。
「フェルナー様が"犬"ではなさそうだということは、わかりました」
エーリヒは、目を大きく開いた。
「え、どうしてそうなるんですか? 演技かもしれないですよ? ご令嬢を安心させておいて、情報を引き出すとか」
「そんなに単純なこと、しますか? あなたは、もっと……」
なんだろう、とセラフィナは一度言葉を切る。
話している感じでは、このエーリヒという男は、単純ではない。人当たりはいいが、純粋に良い人、とも言えなさそうだ。
こういう人は、嘘や隠し事で信頼をなくすと、後でしっかり裏切られる気がする。厄介だ。
そう考えると、休みがないことを心配して損をした気分になった。
セラフィナは、勝手な決めつけで勝手に気分を害し、ぷいと顔を背けて言い放つ。
「やるならもっと、陰湿です」
沈黙が落ち、庭の木々が風に揺れる音だけが聞こえた。
あちらを向いたセラフィナには、エーリヒがどんな表情をしているのかわからない。
落ち着かない沈黙に、セラフィナがそっとエーリヒを見ようとした時、「――ぶっ」と吹き出す声が聞こえた。
驚いて振り向くと、高い位置に焦茶の髪がない。
ん?と思って下を見ると、蹲って肩を震わすエーリヒがいた。
「……え、何をしているんです?」
訝しげに言うと、エーリヒから「くっ……くっくっ……」という声が漏れた。
「『く』?」
セラフィナは『く』で始まる言葉を考えた。
苦しい、苦痛、苦労、暗い……
少し気持ちが凹んだ。
セラフィナが、何の『く』かわからずに首をひねっていると、それまで空気だった侍女――リーゼが、急に存在を現した。
「お嬢様。さっきから勝手に怒ったり落ち込んだりしていますが、落ち着きましょう。そして、騎士様は笑いを堪えています。こちらはそっとしておきましょう」
適切なアドバイスをしたリーゼに従い、セラフィナは黙って震えが収まるのを待った。
リーゼは、また空気に戻った。
ようやく落ち着いたのか、真っ赤な顔をしたエーリヒが顔を上げた。
大きく息を吸い込み、吐いてからセラフィナを見る。口の端がにやけているが、セラフィナは、見なかったことにした。
「――失礼……しました。……ふう……ご令嬢。私は、決めました」
しゃがみ込んだ姿勢のまま、エーリヒは、爽やかな笑顔でセラフィナを見つめた。
褐色の瞳は、光が入るとほのかに緑がかっている。
エーリヒの表情は晴々としていて、声は穏やかに明るいのに、セラフィナは目を離してはいけないような圧を感じた。
セラフィナと視線が合うことすら喜ばしいような笑顔で、エーリヒは口を開く。
「セラフィナ嬢。必ず、あなたの元に行きます。待っていてくださいね」
エーリヒの言葉が、セラフィナには理解できず、反応できない。
「やりましたね、お嬢様。一人落としましたよ」
「――何の話よ」
また急に姿を現したリーゼに、とりあえず突っ込んでおいた。
そして、しゃがんだままのエーリヒを、引き気味で眺める。
「あの、フェルナー様。意味が――」
「それも!」
エーリヒが急に大きな声を出して、セラフィナはびくりと肩を上げた。
「そもそもね、俺の方が身分が下なんですよ。どうして、このお嬢様は、こんなに丁寧なんですか?」
途中から、なぜかリーゼに視線を移しているエーリヒ。
「うちのお嬢様は、そこらのお嬢様とは違いますからね。いつも怖い顔をしていてプライドが高そうに見えて、身分の差というものを言葉としてしか理解できない、かわいそうなところがある人なんです」
「リーゼ。本人の悪口を、目の前で言うものではないわ。そして、回答にもなっていないわ」
「それ! そんな感じで、俺にも接してください。今のままじゃ、堅苦しくて、しょうがない」
「お嬢様、これは落としてはいけないやつでした。無礼者です。放っておきましょう」
「俺は、案外役に立ちますよ。セラフィナ嬢、俺は、お勧めの人材ですよ」
「二人とも、意味がわからないわ。黙りなさい」
セラフィナの言葉に、騎士はぴたりと黙ったが、慣れている侍女はどこ吹く風だった。
「それよりも、お嬢様。お話をたくさんされたので、喉が渇きませんか? お茶をご用意しますね」
空気になるのはやめたらしいリーゼが、お茶の準備を始めた。
侍女の様子に、セラフィナは諦めてため息をつく。
「もう、わかったわ。どうせなら、三人でお茶にしましょう。準備してあるのでしょう?」
リーゼに確認すると、ニンマリとした笑顔が帰ってくる。
「私はプロですからね。不測の事態など、ありません」
その答えに満足して、エーリヒに敷物へ座るよう勧めると、今度は呆れた顔をしている。
「え、騎士をお茶に誘うって、本当に、お宅のお嬢様は、どうなってるの?」
「言ったでしょう? そこらのお嬢様とは、格が違うのですよ」
「リーゼ、口ではなくて、手を……動かしているわね」
「私は、プロですからね」
その後も、穏やかに、時に喧嘩をしながら、午後のひと時は過ぎていった。




