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奪われることには、とうの昔に慣れていた。


美しいもの、愛らしいもの、価値のあるもの。私が手にした途端、それらはすべて「妹にふさわしいもの」へとすり替わってしまう。

ローゼンシュタイン侯爵家という歴史ある名門に長女として生を受けた私、エラーラ・フォン・ローゼンシュタインの人生は、常に妹リリアンヌの影として存在し続けることを強要される日々だった。


私が十歳の誕生日に祖母から譲り受けた、星空のように深い青を湛えたサファイアのネックレス。

庭の隅で震えていたところを拾い上げ、ミルクを与えて懸命に看病した真っ白な子猫。

王都でも随一と謳われた高名な家庭講師からの賞賛。

そして、両親からの温かな眼差しと、惜しみない愛情。


そのすべてを、一つ年下の妹であるリリアンヌは、天使のような微笑みと、真珠のような涙を武器にして私から奪い去っていった。

「お姉様、それ、とっても素敵。私も欲しいわ」

甘ったるい声でそう囁かれた瞬間、私の所有権は消失する。もし私が少しでも抵抗の色を見せようものなら、リリアンヌは大きな瞳にみるみると涙を浮かべ、か細い肩を震わせて泣き崩れるのだ。

そうなれば、両親は飛んでくる。そして、冷ややかな視線を私に向け、決まって父はこう言い放つのだった。

『エラーラ、お前は姉なのだから。体の弱いリリアンヌに譲ってあげなさい。いい加減我慢を覚えなさい』


姉だから。

その呪いのような言葉に縛られ、私はいつしか感情を殺すことを覚えた。怒ることも、悲しむことも、無駄なエネルギーの消費でしかない。期待をしなければ、奪われたときの絶望も浅くて済む。私は心を分厚い氷の壁で覆い、ただ淡々と、侯爵家の長女としての義務と教養を身につけることだけに己の存在意義を見出していた。


そんな灰色の世界の中で、唯一「私のもの」として残されていたのが、王太子ユリウス殿下との婚約だった。


私が十二歳、彼が十四歳の時に結ばれた政略結婚。しかし、ユリウス殿下は幼いながらも私の知性と努力を高く評価してくれていた。

「エラーラ、君の頭脳は我が国の至宝だ。君がいれば、私の治世は盤石なものになるだろう」

甘い愛の言葉こそなかったが、そこには確かな信頼と尊敬があったと信じていた。私は彼を支えるため、王妃教育という過酷なカリキュラムを血を吐くような思いでこなし、さらには彼の執務の裏付け調査や、時には彼が提出する政策案の草稿まで代行するようになった。

私の青春のすべては、ユリウス殿下を立派な次期国王にするために捧げられたと言っても過言ではない。


だが、それすらも、ただの砂上の楼閣に過ぎなかったのだ。


────


王立学園の卒業を祝う、豪奢な記念舞踏会。

王宮の巨大なシャンデリアが何万もの光の粒を散らし、色とりどりのドレスを纏った貴族たちが優雅にワルツを踊る中、事件は起きた。


突如として楽団の演奏が止んだ。

ホールの中央、最も人目が集まる場所に立っていたのは、私の婚約者であるはずの王太子ユリウス殿下と、その腕に縋り付くようにして寄り添う妹、リリアンヌだった。


「皆の者、聞いてほしい!」


ユリウス殿下のよく通る声が、静まり返ったホールに響き渡る。彼の金糸のような髪が揺れ、正義感に燃える青い瞳が、群衆の最前列に立っていた私を真っ直ぐに射抜いた。

その瞬間、私はすべてを悟った。ああ、ついにこの時が来たのだ、と。

ここ数ヶ月、ユリウス殿下がリリアンヌと密会を重ねていることは知っていた。私の前では見せないような、とろけるような甘い笑顔を彼女に向けていることも。私が徹夜で仕上げた書類を「自分がやった」と偽り、その手柄で得た賞賛をリリアンヌへの高価なプレゼントに変えていることも、すべて知っていた。


「エラーラ・フォン・ローゼンシュタイン! 私は今この場をもって、貴様との婚約を破棄する!」


ざわめきが波のようにホールに広がる。

私は表情一つ変えず、静かに彼らを見据えた。背筋を伸ばし、扇を優雅に胸元で持ち、完璧な淑女の立ち姿を崩さない。


「理由を、お聞かせ願えますでしょうか、殿下」


私の冷ややかな声が、彼らの芝居がかった熱気を少しだけ削いだのがわかった。ユリウス殿下は一瞬たじろいだが、すぐに腕の中のリリアンヌを庇うように抱き寄せ、声を張り上げた。


「白を切るつもりか! 貴様は長年、この心優しき妹リリアンヌを虐げてきた! 彼女の功績を我が物とし、あろうことか彼女の食事に毒を盛ろうとしたな! 嫉妬に狂った氷の女め、次期王妃の座に就く資格など、貴様には欠片もない!」


……功績を奪った? 毒を盛った?

あまりにも陳腐で、三流の演劇のような嘘の羅列に、私は思わずため息をつきそうになった。妹の功績など、すべて私のものだった。毒に至っては論外である。

しかし、真実などこの場では何の意味も持たない。彼らが求めているのは「悪逆非道な姉」と「可哀想な妹を救う王子様」という、自己陶酔の物語なのだから。


「殿下、それは誤解でございます。わたくしはそのような……」

「黙れ! これ以上、お前の口から出る嘘を聞きたくはない!」


ユリウス殿下が激昂して怒鳴りつける。

その時だった。リリアンヌが、ユリウス殿下の腕の中からふらふらと歩み出て、私の目の前までやってきた。

彼女の美しい金髪は庇護欲をそそるように後れ毛を残して結い上げられ、薄紅色のドレスは彼女の儚げな魅力を最大限に引き出している。大きな瞳からは、見事なまでに大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていた。


「お姉様……ごめんなさい、お姉様」


リリアンヌは震える声でそう言いながら、私を抱きしめるように身を乗り出してきた。周囲の貴族たちからは、「ああ、なんて心優しい妹君だ」「あんなに虐げられていたのに、姉を庇うなんて」という同情と称賛の溜息が漏れる。


しかし、私の耳元に唇を寄せたリリアンヌの声は、甘く、酷薄で、悍ましい毒に満ちていた。


「……お姉様って、もっと良い人が来るかもって、今付き合ってる男の葬式でも次の相手を探してそうですわよね」


ゾッとするほど冷たい、嘲笑を含んだ囁き。

私は目を見開いた。彼女は何を言っているのか。私がいつ、そんな打算的な真似をしたというのか。私はただ、与えられた義務を果たすために、歯を食いしばって殿下を支えてきただけなのに。


私が硬直するのを楽しんでいるかのように、リリアンヌはクスクスと音を立てずに笑い、さらに決定的な一撃を私の耳に吹き込んだ。


「でも心配しないで。お姉様の分まで、私が幸せになってあげますから。……ねえ、お姉様。殿下も、未来の王妃の座も、お父様とお母様の愛情も。みーんな、私のものよ。お姉様は、自らの罪を反省しながら、空っぽのまま惨めに生きていけばいいわ」


ゆっくりと顔を離したリリアンヌは、再び周囲に向けて「悲しみに暮れる妹」の仮面を被っていた。

「殿下……もう、お姉様を責めないであげてくださいませ。お姉様も、きっと心が乱れていたのだと思います。私が……私が至らないばかりに……っ」


「ああ、リリアンヌ。君はどこまで天使のように優しいのだ。だが、罪は罪だ。エラーラ、貴様は王都から追放とする! ローゼンシュタイン侯爵も、貴様のような毒婦は既に籍から抜いている!」


……ああ。

そうか。お父様とお母様も、すでに了承済みというわけか。

私という存在は、ついに家族からも、国からも、完全に不要なゴミとして掃き出されたのだ。


怒りは湧かなかった。悲しみも、絶望もなかった。

あるのはただ、憑き物が落ちたような、圧倒的なまでの「解放感」だった。


もう、王妃教育という名の拷問を受けなくていい。

もう、ユリウス殿下の尻拭いをして徹夜で書類を作らなくていい。

もう、「姉だから我慢しろ」という理不尽な言葉に縛られなくていい。

リリアンヌに奪われることに怯え、感情を殺して生きる必要はないのだ。


私は静かに一歩下がり、完璧なカーテシー(淑女の礼)を執ってみせた。ドレスの裾が美しく円を描き、私の仕草には微塵の乱れもなかった。


「……承知いたしました、ユリウス殿下。婚約破棄、謹んでお受けいたします。今までのお引き立て、心より感謝申し上げます」

「なっ……」


私のあまりにもあっさりとした、そして清々しいまでの態度に、ユリウス殿下は面食らったように言葉を失った。泣き喚いてすがりつくか、怒り狂ってリリアンヌに掴みかかるとでも思っていたのだろう。

リリアンヌの目にも、一瞬だけ苛立ちの色が浮かんだのを見逃さなかった。彼女は私が惨めに崩れ落ちる姿を見たかったのだ。


「それでは、わたくしはこれにて失礼いたします。殿下とリリアンヌの末永いお幸せを、心よりお祈り申し上げますわ」


私は二度と彼らの顔を見ることなく、優雅に身を翻した。

周囲の貴族たちが海が割れるように道を開ける。彼らの哀れむような、あるいは嘲るような視線など、今の私には羽虫ほどの重さもなかった。


大広間の重厚な扉を抜け、夜風が吹き抜けるバルコニーへと出る。

ひんやりとした空気が、火照った頬を撫でていく。空には見事な満月が浮かび、静まり返った王宮の庭園を銀色に照らし出していた。


「……終わった」


ポツリと、無意識のうちに言葉が漏れた。

十年間。私の人生のすべてを捧げてきたものが、たった今、音を立てて崩れ去った。明日からどこへ行けばいいのか、どうやって生きていけばいいのか、何も決まっていない。

それでも、私の心は不思議なほど軽く、満たされていた。

初めて、私は「私自身」を取り戻したのだ。


その時だった。


「随分と、見事な幕引きだったな」


背後から、低く、チェロの弦を弾くような深く響く声がした。

驚いて振り返ると、バルコニーの柱の影から、一人の男が静かに歩み出てくるところだった。


月明かりの下に現れたその姿に、私は思わず息を呑んだ。

闇夜を切り取ったような漆黒の髪。冷たい星の光を宿した、鋭くも美しい瞳。長身で、軍服の上からでもわかるほど鍛え上げられたしなやかな体躯。

その男が放つ圧倒的な覇気と、底知れぬ魔力の圧は、彼がただの貴族ではないことを雄弁に物語っていた。


「……あなたは?」


私は警戒心を抱きながらも、その男の名を頭の引き出しから探り当てた。

北方の国境をたった一人で守り抜き、敵国からは『北の死神』と恐れられ、社交界には一切顔を出さないと言われている、王国の影の英雄。


「クロード・ヴァン・アルジェント大公閣下……」


王弟でありながら、その苛烈な気性から中央を遠ざけられていると噂される人物。なぜ、彼のような雲の上の存在が、こんな夜のバルコニーにいるのか。


クロード大公は私に近づくと、その冷たい瞳で私の顔をじっと覗き込んだ。


「泣いていないのだな。すべてを奪われたというのに」

「……泣く理由がございません。むしろ、不要な重荷を下ろすことができて、清々しているところです」


強がりではなく、本心からそう答えると、彼はわずかに目を細め、ふっと口角を上げた。まるで、面白い玩具を見つけた捕食者のような笑みだった。


「やはり、俺の見込んだ通りだ。エラーラ・フォン・ローゼンシュタイン」

「見込んだ、とは?」

「あの愚鈍なユリウスが提出してきた『東部農業改革案』や『魔力石の効率的運用に関する法案』……あれらが、奴の頭から出たものではないことなど、とうの昔に気づいていたさ。それからずっと、観察させてもらっていた」


私は心臓が跳ねるのを感じた。

私が裏でユリウス殿下の執務をこなしていたことは、徹底的に隠蔽していたはずだ。


「奴の書式の癖、論理の展開、そして魔力理論の根底にある思想。すべてが、数年前まで王立図書館に入り浸っていた小娘の論文と酷似していたからな。……お前は、自分の価値を低く見積もりすぎている」


大公はそう言うと、手袋に包まれた大きな手で、私の顎をすっと持ち上げた。

紫水晶の瞳が、至近距離で私を射抜く。


「家族にも、国にも捨てられたと言うのなら、好都合だ」


彼の唇から紡がれた言葉は、私の運命を劇的に塗り替える、悪魔の契約のようだった。


「俺の妻になれ、エラーラ」


「……はい?」

あまりの展開に、私は淑女らしからぬ間抜けな声を出してしまった。


「北の地は過酷だ。だが、お前のその頭脳と、隠し持っているその莫大な知識があれば、俺の領地はさらに豊かになる。お前が望むなら、自分を捨てたあの愚か者どもを見返す力も、権力も、すべて与えよう」

「お待ちください、閣下。いきなりそのような……第一、私には……」


「空っぽになったのなら、俺が新しいものを満たしてやる」


反論を許さない、強烈な意志を秘めた声だった。

彼の瞳の奥にあるのは、同情ではない。私の「能力」に対する純粋な欲求と、そして、どこか熱を帯びた得体の知れない感情だった。


妹は言った。

『お姉様は、空っぽのまま惨めに生きていけばいいわ』と。


冗談じゃない。

奪われ続けた人生は、今日で終わりだ。

私はもう、誰かのために自分をすり減らしたりしない。私自身の足で立ち、私自身の意思で、私の幸せを掴み取ってやる。

あの妹が、私からすべてを奪ったと思い上がって笑っている間に。はるか高みから、彼女たちの愚かさを見下ろしてやるのだ。


「……一つ条件がございます」


私は顎から彼の手を外し、真っ直ぐに大公の目を見返した。


「私の知識も力も、すべて閣下のために使いましょう。ですが、私はもう、誰の影にもなりません。私を対等なパートナーとして遇していただきます」


クロード大公は一瞬驚いたように目を丸くし、次の瞬間、腹の底から響くような声で大笑いした。


「ははっ! いいだろう。しかしな、ただの飾り物の妻など、初めから求めてなどいない。俺の隣で、共にこの国を震え上がらせてくれ」


彼が差し出してきた大きな手を、私はしっかりと握り返した。

その手は、十年間私を縛り付けていた鎖を断ち切る、熱く、力強い感触がした。


復讐などという下品な真似はしない。

私はただ、圧倒的なまでに幸せになり、彼らには手の届かない場所へ行くのだ。それが結果として、彼らにとって最大の地獄となるのだから。


夜空の月が、新しい舞台への幕開けを祝福するように、私たちを煌々と照らしていた。

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