公僕戦線 (1):定時を過ぎた公務員たち
公務員の、もう一つの定時後業務。
ここは、戸隠市役所。リストラ予備軍のおじさんたちが集められた窓際部署、「地域振興課特命係」。
彼らの真の任務は、市の負の感情が具現化した怪異「地脈異形」から、街の平穏を秘密裏に守ることだった。
行政権限を武器に、誰にも知られず戦う公僕たち。
――さあ、市民の知らない『公僕戦線』の火蓋が切られる。
1.冒頭:希望と絶望
真新しい革靴を履いた西田啓太は、戸隠市役所のエレベーターホールで深い溜息をついた。
「地域振興課特命係」。
それが、彼の新しい配属先だ。配属理由は「適材適所」とのことだが、人事部の長老たちがニヤリと笑っていたのを、西田は忘れていない。職員の間では「リストラ対象の墓場」か「窓際部署」のどちらかだと言われていた。まだ28歳。キャリアの先行きを不安に思いながら、彼は地元・戸隠市への貢献を心から願う、真面目だが要領の悪い青年だった。
希望と不安が混ざり合う感情を抱きながら、西田は建物の裏側、薄暗い階段へと足を向けた。特命係は、賑やかな市民課や福祉課の部署が並ぶ一階ではなく、誰も立ち寄らない二階の片隅に存在していた。エレベーターも止まらない。階段を上り、廊下を曲がると、そこは清掃用具置き場と古紙のリサイクルボックスの隣だった。
「――ここか」
『地域振興課特命係』と書かれた部署の扉は、他の部署と比べて木の色がくすみ、取っ手のメッキが剥がれかけている。蛍光灯は半分しか点いておらず、湿っぽい空気が淀んでいた。
「失礼します……本日付で配属になりました、西田啓太です」
西田が声をかけると、部屋の奥からガタッと音がした。
五人のおじさんが、それぞれ壁に向かって黙々と作業をしている。一人は古びた電卓を叩き、一人は分厚い古文書を広げ、一人は水道管のカタログを眺めている。彼らは皆、年齢は50代前後。表情には、長年の公務で蓄積された疲労と、週末の溜まったレシートのような虚無感が張り付いている。覇気がないどころか、生気を吸い取られた亡霊のようだった。
「ああ、西田くん。噂は聞いているよ」
壁際のデスクから、田中徹課長(58歳)が顔を上げた。白髪混じりの髪はきっちりと分けられ、しわくちゃの作業着の上から、清潔なカーディガンを羽織っている。その目だけが、妙に澄んでいた。
「君には、あそこのデスクを使ってもらう」
田中課長が指差した先は、窓際だった。デスクの上には、誰も手を付けていない書類の山。そして、なぜか大量の使用済みの土のう袋が積み上げられ、隣には錆びついた道路標識が立てかけられている。
「あの……課長。これらの備品は、何に使うのでしょうか」
西田の質問に、小林稔(51歳、税務担当)が顔を上げ、嫌悪感を露わにした。小林は、常に不機嫌で、神経質なまでに経費にこだわる男だ。
「さあな。『消耗品費』として計上されてるが、俺には何の役に立つのかわからん」
「土のう袋は防災用だ。公務員なら備えろ」
無愛想な声で言ったのは、佐藤剛(49歳、土木担当)だ。彼は頑丈そうな体躯に似合わず、繊細な手つきで水道管の継ぎ手を磨いている。
「そんなことより、西田くん。君に与える最初の業務だ」
田中課長は、一枚のA4用紙を西田に手渡した。
「市北公園の異臭苦情調査のための書類作成。マニュアル通りに、正確に処理してくれたまえ」
「承知しました!」
西田は意気込んだが、ふと疑問に思う。書類作成だけなら、わざわざこの部署に来る必要はないのではないか。
「あの……課長。特命係の『特命』とは、具体的に何を……」
「地域振興、観光客誘致、そして……」
田中課長はそこで言葉を区切ると、西田の目をまっすぐに見つめた。
「市民の平穏な日常の維持だ。間違えるな。それ以外は公務ではない」
田中課長の目が、週末の溜まったレシートのような虚無感から一転し、まるで研ぎ澄まされた刃のような光を放った。その時、西田は、この部署の「窓際感」が、単なる無能さではないことを直感的に悟った。
2.異変の兆候と「コード・ブラウン」
西田は、真面目にマニュアル通りに苦情調査報告書の作成に取り掛かった。だが、周囲のおじさんたちは、やはり「特命」と呼ぶにふさわしくない、奇妙な業務に没頭していた。
鈴木啓介(42歳、文化担当)は、古文書のページを虫干しすると称して、小声で呪文のような古代の祝詞を読み上げている。その傍らには、最新の広報紙印刷システムが置かれ、鈴木はそれに古文書の図案をスキャンさせていた。
渡辺義雄(55歳、戸籍担当)は、まるで宗教儀式のように神経質な手つきで、戸籍謄本の最新データと、古い住民台帳を照らし合わせ、その横に定規で複雑な図形を書き込んでいる。
西田はマニュアルとにらめっこしながら、内心で自問した。
(これが、戸隠市を守る公務なのか?こんな地味で、非効率な作業の先に、一体何があるというんだ……)
その時だった。
田中課長のデスクの無線機が、突然、低いノイズをあげた。警察や消防の無線とも違う、低く唸るような、異様な音だった。
「――(ピーッ)――市北公園、廃棄物処理場付近、コード・ブラウン。地脈異形の活動を確認。周辺住民への緊急広報を発令せよ」
「コード・ブラウン」。西田は聞いたこともない単語だ。彼はパニックに陥り、田中課長を振り返った。
田中課長は、その言葉を聞いても顔色一つ変えない。彼は立ち上がり、壁に吊るされた地味なジャンパーを羽織り始めた。そのジャンパーの裏地には、チタン合金のようなプレートが薄く縫い込まれているのが、一瞬見えた。
「全員、業務を一時中断。緊急災害対応に切り替える。行くぞ」
「課長!緊急広報って、具体的に何を……!?」西田は声を荒げた。
「『異臭騒ぎによる立ち入り禁止』だ。間違えるな。真実を公表すれば、市民はパニックに陥る。それは公務員の職務放棄だ」
田中課長はそう言うと、隣に止めてあったボロボロの公用車――特命係のワゴン車に乗り込んだ。
車内は、最悪だった。改造された高圧洗浄機と、消火器、そして大量の使い古した道路標識が積まれていた。異臭苦情調査に向かう車の積載物ではない。
「西田くん、君も来たまえ。最初の現場研修だ」
西田は、半ば強引に助手席に押し込まれた。
「あの、課長、地脈異形って一体……」
「君がこの部署に来た理由だ。この街の地脈には、住民の負の感情や、行政が処理しきれなかった怨念が溜まる。それが具現化したものが異形だ」
田中課長はそう言うと、無線機で指示を飛ばした。
「交通規制課へ。市北公園周辺に、環境保全のための緊急車両規制を発動。通報は『異臭による調査』で処理しろ。繰り返し、公的権限を最大限に利用しろ」
公的権限を「隠蔽工作」に使う描写に、西田の頭は追いつかない。
3.バトル開始:怨念ゴミの具現化
市北公園の裏手にある、普段は施錠されている廃棄物処理場。現場に近づくにつれて、鼻を突く異臭ではなく、まるで「憎悪」のような、精神的な臭気がワゴン車の中にまで漂ってきた。
「くそっ、今回の異形は強そうだぞ。ゴミの不法投棄と、それに伴う納税への不満が混ざっている」小林が顔を歪ませて言った。
扉を蹴破って外に出ると、西田は絶句した。
ゴミ袋の山が唸りを上げ、緑色の粘液が溢れ出している。それは見る間に巨大な人型へと変化し、市民の「不法投棄への無関心」と「行政への不満」が混ざったような、泥まみれの巨人、「怨念ゴミ(クレーマー・ダスト)」として立ち上がった。
異形は咆哮をあげると、近くにあった公衆トイレを真っ先に破壊しにかかる。公的なものが、その憎悪の的だった。
「散開!田中は司令塔。佐藤はフェンスと地面に、渡辺は周辺の住民台帳データに接続!鈴木、小林は後方支援だ!」
田中課長の冷静な指示が飛ぶ。おじさんたちは、長年のルーティンのように、それぞれのポジションに散らばった。
異形がワゴン車に接近する。西田は恐怖で動けない。
「危ないぞ、西田!」
佐藤剛がワゴン車の前に飛び出した。彼の体から、長年の現場仕事で培われた『地盤操作』の異能が解放される。
「動くな!道路法第42条に基づく、緊急道路使用許可は出ていないぞ!」
佐藤が叫ぶと、アスファルトの地表が波打つように隆起し、異形を足止めするようにコンクリートの巨大な手となって異形を掴んだ。それは、完璧な耐久設計に基づいた、寸分の狂いもない防御壁だった。
しかし、異形はその腕を強引に引き剥がしにかかる。粘液が、アスファルトを溶解し始めた。
「小林さん!渡辺さん!」田中課長が叫ぶ。
「わかっている!」
渡辺義雄は小型の端末を操作し、戸籍データにアクセス。「戸籍コード、12-198、12-199……」とブツブツ呟くと、異形の体に「絆の鎖」が巻き付いた。それは、この地域に住む人々の「微かな繋がり」を可視化したものだ。異形は、その鎖を断ち切ろうともがく。
「鈴木、高圧洗浄機を準備!」小林が叫ぶ。
西田は、その連携の凄まじさと、目の前の非現実的な光景に、思考が追いつかない。パニックに陥った西田は、持っていた「不法投棄対策マニュアル」を異形に向かって投げつける。それは単なる紙だったが、異形は「公的な規範」に触れられたことで一瞬怯んだ。だが、その直後、西田は異形が振り払ったフェンスの破片で公用車のドアに激突し、動けなくなる。
4.クライマックス:公務員は嘘をつかない
「西田!無事か!」
田中課長が西田に叫ぶが、彼の視線は戦闘から外れない。怨念ゴミは強力で、絆の鎖を断ち切り、佐藤の地盤操作を上回るパワーで暴れ始めた。
「このままでは、市民の日常に被害が及ぶ!小林、最後の手段だ!」
小林稔(税務)は、端末を操作しながら叫んだ。
「田中課長!『清掃車両維持費』の特別予算を計上!これ以降のダメージは全額市の負担とする!公的負債が異形を弱体化させる!」
小林の異能、『予算の鉄槌』。無理やり計上された市の負債が、異形の活動エネルギーに圧し掛かり、動きを鈍らせる。
「鈴木、今だ!洗浄機(聖水)で異形の核を狙え。その隙に、佐藤は『緊急道路工事申請』で異形の活動場所を公的に隔離しろ!」
田中課長の静かな指令が飛ぶ。
鈴木啓介は、改造された高圧洗浄機を異形に向けた。彼は、古文書から見つけた「穢れを祓う水」の配合を洗浄機に仕込んでいた。
「公文書は嘘をつかない!この配合こそが、真の『浄化の儀式』だ!」
鈴木の放った超高圧洗浄水が、怨念ゴミの核、すなわち不法投棄された偽の金銭トラブルの契約書を貫く。契約書が破れると同時に、異形の体が崩壊し始めた。
佐藤は、最後の力を振り絞り、周囲の地面を分厚いコンクリートで固め、異形の残骸を完全に地中に封印した。戦闘終了。
5.終幕:定時後の始末書
戦いの現場は、おじさんたちによって完璧に清掃された。破壊されたフェンスは佐藤が「緊急修繕」し、怪異の痕跡は完全に消える。まるで何もなかったかのように、現場にはただの清掃活動の痕跡だけが残った。
西田は、ワゴン車の中で呆然としていた。数十分前、ここで異形と公務員が戦っていたことが信じられない。
田中課長は、血の付いた手袋を外しながら、西田に一枚の書類を渡した。それは「異臭苦情調査完了報告書」。
「西田くん、この書類に、今見たことを書くな。真実を公表することは、市民の平穏を乱す。それは公務員の職務放棄だ。公文書は、我々の戦いを公的に否定するために存在する」
田中課長は静かに言った。
深夜。特命係の部屋に戻り、おじさんたちは溜まっていた書類の山に戻る。戦闘後の疲労感と、日常業務の重さが混ざり合う。渡辺は戸籍台帳を、小林は経費精算の書類を、佐藤は水道管のカタログを、鈴木は古文書を眺めている。彼らは、戦闘で流した血を拭いもせず、公務に戻った。
西田は、自分のデスクの埃を払いながら、自分の公務員としての人生が、完全に変わってしまったことを悟った。自分の公務は、市民の怒りや不安を鎮めることではなく、市民に知られずにその怒りを叩き潰すことだったのだ。
田中課長が、佐藤に声をかけた。
「佐藤くん。来週、あの橋の地盤調査が入るぞ。地脈の歪みが大きくなっている。気をつけろ」
佐藤の顔に、いつもの無愛想さとは違う、僅かな動揺が走った。橋の下には、過去の悲劇が沈んでいる。
おじさんたちの、定時を過ぎた戦いは、まだ始まったばかりだ。
∗∗第1巻完∗∗
報われないヒーローに、明日は来るか。
お読みいただきありがとうございます。
彼らの戦いは、公文書に埋もれ、誰にも賞賛されることはありません。しかし、彼らは明日も、静かに、そして命を懸けて「公務」を遂行します。
田中課長の言葉通り、戦いは続く。次巻では、土木担当・佐藤の過去が、街の地盤を揺るがす危機となる。
『公僕戦線第2巻:アスファルトの下の叫び』にご期待ください。




