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没頭環境破壊

作者: 緋西 皐

 砂時計のどちらが上で下なのかを吟味していた土曜日。彼の心は空っぽの側のようにつまらない一色だった。

 何か熱中できるものはあるか。無い。好きなものはあるか。無い。正義や信念、怒りでもいい、それはあるか。無い。全てが面倒くさい。

 その癖に流る砂のごとく儚く散っていく人生を杞憂して止まなかった。信念とは、強い思いな気がするが、ある種の呪い、この空白の時間を忌むことも含まれるのだろうか。もちろん彼は人生に意味があるなどとは到底思わない。それは大抵そう叫ぶ輩が愚かな行為ばかりをしているからであるからだ。されども彼のこの時間をどこか無駄にするという、損失感はまさに人生に意味があると、何かしらの価値があるという詭弁に支配されているに過ぎない。

 川の流れのように人間の情もそう変わっていくのならば、彼の心もそう支配されたものだろうか。人間だから、生き物だから、この世に存在するのだから。どちらが正しいか、悪いか、上か下かを決めるのは人間であっても、この流れる砂は、たしかに流れている。そればかりは事実であって、どうしようもない。いわば彼のこの憂鬱感と人生への過度な期待はそういうものなのだろうか。


 だからメフィストフェレスはひとつ、彼を誑かした。どうだ、一つ才能をやろう。それで満足いく人生が送れるかもしれん。しかしその代わり、砂時計を寄越せ。そのありきたりな砂時計を寄越せ。私はそう云ってやった。

 彼はさぞかし呆れただろう。コイン一枚の砂時計で天才になれるというなら誰が断るのか。と、そのコインは裏表どっちだったか? 私が訊くと彼は覚えているわけがないだろうと返してきた。


 例によると努力とは才能らしい。日本人はよく働いてその努力を賛美するあまりに結果を蔑ろにしてきたが、それも才能なのだろうか。いいや、きっとそこではない。ヒロポンの副作用ってだけなんだろうさ。現実逃避という意味だ。

 つまり私は彼にそれをやった。覚せい剤ではない。努力だ。彼の嘆く空白を、その時間を埋め尽くす集中力や精力を渡した。いわば無限のエネルギーだ。彼はもはや一睡も眠らず、米粒一つ噛まなくとも、死なない。寿命が来るまで彼は永遠に物事に熱中できる。

 ここまでいけば努力は才能だと言わしめるほどの結果を出してくれるだろう。私はそういうことはどうでもいいが。

 ああそうだ、彼は物語を書くらしい。


 彼はその通り、つねに三百六十五日動き続けた。つねにパソコンを直視し、文字を打ち続けた。つねに発想し、計算し、頭が痛くなることなく、全てを文字にした。初めは貴婦人のバレエのように軽やかだった指裁きも、努力の前ではゴリラのドラミングに変わった。

 まぁまぁ面白い物語を書いたらしい。彼は有名になっていった。一桁だった銀行口座の数字も多様性が生まれてきた。

 それで今日、編集者がやってきたのだが、やはり彼を目の当たりにして頭を抱えている。編集者は早々、彼のパソコンの無い机でタイピングの練習をしているところに、バラバラの砂塵になったパソコンに呆れていたのだ。それで新しいのを三台ほど持ってきて、それを彼に渡した。彼はその三台も数日で壊してしまうのだが。

 そうだ。彼は努力の天才であるのと同時に、文学の巨匠になったのと並行して、パソコンを破壊する神になった。しかもそのスピードは日に日に増している。彼はパソコンが無いと、働かねばと、机でタイピングをする。早く打つ練習らしい。馬鹿馬鹿しい。しかしそれを知らずに放っておいてしまった編集者が次に見たのは、机を貫通し、部屋の床に北斗百裂拳を繰り出している彼だった。ので、どうしようもない。このまま放っておけば彼はブラジルまで穴をあけかねん。その勢いであった。


 さりとて編集者にとって、いや、社会にとってやはりこれは悪い話ではない。ああたしかに気持ちは悪い。そうであっても彼の与える経済効果は確かなものだ。三百六十五日、一分一寸の休みもなく、本を書く、しかもそのクオリティが毎秒上がっていくのだ。一作の完成するスピードもまた上がっている。単純な横ばいではない、今日の日本の出生数の推移のような、それとは逆向きの指数的な昇りである。

 

 そうして編集者が一人死んだ。

 何があったと言えば、ついにパソコンを持ってこれなくなった。彼は六時間に一度、パソコンを壊し、三時間に一作を完成させるようになった。編集者は三人いたが、それでも彼らはそれに目を通せなくなり――ああ、まぁ単純に言えば、編集者が彼についていけなくなった。

 これには出版社に落ち度があったろう。人員を増やせなかった。いやだって、彼が働き過ぎる分、こっちもブラックすぎる。という評判が酷く、ならばともう目を通さず売ってしまおう、としても、やはり彼は怖い。彼はとっくに世界的に影響力のある人物になっていた。何かヤバいことが書いてあるかもしれない。

 それに彼は怖い。単純にずっと働いている人間って、怖くない? 気持ち悪いって意味だ。人間の性として、動物の本能として、彼は異常だ。どれほど経済が彼を称賛しようと、本能はそこにあるものだ。まぁ彼の背後にはつねに私がいるので、あながち間違いではないが。


 編集者が五人死んだ。

 過労死で二人、その死体の処理で闇業者と揉めて二人、もう一人はなんと、彼のタイピングの衝撃波で死んだ。たまに彼の一文字は音速を越えるのだ。ついにそこまで速くなったか。と、師匠面の悪魔は頷くのであった。

 してパソコンが山のように積み重なっていたが、これもまるで椀子そばのように彼の前に置かれていくのだが、彼はそろそろパソコンを貫通し、机を割るようになってきた。それでまた机が山のように積み重なって、これもまた流し素麺のようにベルトコンベアーで運ばれていくのであるが、いよいよベルトコンベアーも破壊してしまった。

 それでならばと、ベルトコンベアーにベルトコンベアーを乗せてみようと編集長が提案したとき、彼はもういいと投げろと言った。それで投げた。どうなった。彼はパソコンが地に落ちる前に、その前に粉々になる前に、一作書き上げてしまった。

 なるほど、パソコンもかみの一枚の時代か。とつまらないことを編集長は云った。それから彼は毎秒、パソコンを壊すようになった。でもそれからしばらくは彼の執筆スピードが上がることは無かった。最大値といったところだ。


 のはずだったが、いや、彼はなんと一枚のパソコンを今度は二枚、三枚、四枚、と、、やってしまった。今日は宙に五枚投げて、十冊書いていた。毎秒。


 ところで経済はどうなったかというと、荒れた。戦争がまた二つくらい起きた。資源の争いだ。主に彼が毎秒消費続けるパソコンのせいだ。あとどうでもいいが 本屋は全て潰れた。彼の膨大な量の本は電子でないと無理であった。ここら辺は彼の真空波に目潰しされてあまりよくわからない。ともかく彼の本はついに人を殺した。

 それだけではない。読者も死んでいる。彼の超越的、爆発的に面白くなってしまった本は、読んだ人を過労死させるようだ。ここまでいけば呪いだろう。


 資源不足の末、古今東西の出版社は滅び、彼は紙で書くようになった。ものの紙も作る人がいなくなってしまった。ので、彼はバンクシーのごとく壁に書いていったが、それも戦争が壊していった。ので、彼は信者から集めた紙に細々と書くしかなくなったのだ。それももう無くなってしまった。


 さて世界は終わった。ああ、彼はブラジルまで穴をあけるほど気狂いしてはなかった。人類は彼の新作をかけて石を投げ合った。それも終わった。

 足りない足りない。彼はありもしない砂時計に苛まれるばかりであった。

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