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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

Thou shalt not die

作者: イチジク

煙と硝煙の匂いが鼻を刺す。魔導銃の銃口から放たれる紫の弾丸は冷たく、しかし烈火の如く敵を焼き尽くしていく。だが、その光景は英雄譚ではない。泥濘に沈み、血まみれの兵士たちの呻き声が絶え間なく響く、地獄そのものだった。


ミカエルは塹壕の底で拳を握り締めた。己の手は血に染まっているわけではない。だが、その冷たさが心にまで染みてきた。重圧、恐怖、そして何より、自分の命の価値を疑う思いが魂を蝕む。


「なぜ、こんなにも苦しいのか。なぜ、これほどまでに生が重いのか。」


彼はふと、幼き妹エレナの面影を思い浮かべる。セラフィエル学園の学友と過ごす温かな日々、無邪気に笑う彼女の声。それらは遠く、遠すぎて、今や虚ろな幻のようだった。


「俺は、伯爵子息だ。誇り高きセラフィム家の長兄だ。だが、それが何だ。泥と血の海に沈む一粒の塵に過ぎぬのだ」


砲火が轟き、周囲の兵士が一人、また一人と倒れていく。絶望が徐々に戦場を覆い尽くしていった。


「この絶望を孕む戦場で、命はただの駒に過ぎぬ。だが、それでも……それでも俺は、帰る。帰ってやる。

家族の元へ」


その決意は、凍てついた心にわずかな光を灯した。しかし、その先にある未来は依然として暗く、不透明であった。


彼はゆっくりと立ち上がり、魔導銃を肩に担いで前を見据えた。


「全てを賭して、誇りと共に戦う。それが、伯爵の義務ならば……ならば、俺は死に場所を選ばぬ」


爆音が頭を割り、周囲は混沌の渦。だが、ミカエルの鼓動だけが静かに、しかし凄まじく響いていた。目の前の敵はもうただの影でしかない。人間としての感情は、もはや遠い彼方へ押しやられていた。


「くそったれの世界だ」


拳が魔導銃の柄を握り締める。紫の魔弾は無慈悲に撃ち出され、敵の鎧を切り裂いた。彼の声はまるで呪詛のように塹壕にこだました。


「俺は、血の重みを背負っている。伯爵の名を汚してはならぬ。だが、この重荷は鎧よりも重い。」


彼の瞳が一瞬揺れた。だが、それは迷いではない。己が抱く深い悲しみの吐露だった。


「誰か、俺を止めてくれ。だが、誰も来ない。全ては俺の責任。俺の決断だ。」


その瞬間、稲妻のような叫びが戦場を裂いた。ミカエルは立ち上がり、泥と血の中を駆け抜ける。前線で戦う兵士たちの姿は、彼の背負う十字架のようだった。


「帰る。必ず……」


だが、その言葉はもう途切れていた。命の行方は、誰にも分からぬ。戦いは、そして運命は、冷酷で残酷な審判を下すのだ。


泥と血にまみれた戦場に、蒼白い月が冷たく照らす。ミカエルの瞳はもはや虚ろだ。彼の心に灯ったはずの誓いの光は、幾度もの死の淵をくぐり抜けて、ひび割れていた。


「帰る……帰ると言ったな。だが、その帰路は一体どこにあるのだ?」


己の声が自分の胸に響き、狂気のように折り重なる。まるで運命が嘲笑うかのように。


「伯爵の長兄としての誇り。妹への約束。すべてが土に還り、霧散していくのか。」


塹壕の中で、彼は膝をついた。魔導銃は冷たく、その重みはもう安堵を与えない。遠くで仲間の叫びが消え入りそうに響く。命が選別され、奪われていく場所。


「この戦場は、生死の選別場。無慈悲な神の裁きだ。俺はその運命に抗うことができるのか……?」


だが、そこに一筋の光が射した。妹エレナの顔が鮮明に浮かび上がる。彼女の笑顔、無垢な声、そして未来。


「俺は……必ず帰る」


呟きは風に消えかけながらも、ミカエルの魂の深淵に届いた。それは死の淵で見つけた、唯一の救いの光。


彼はゆっくりと立ち上がり、最後の魔弾を装填した。戦いは終わらない。終わらせはしない。


「命の値打ちは、安くない。誇りで測るものだからな。全てを賭けて、全てを得る――

セラフィム伯爵家の嫡男ともなれば、それくらいの博打は打たねばならん。」


その言葉のあとに続いたのは、声というにはあまりに静かな響きだった。


「エリー。……お前を、愛している。

それは兄としての義務でも、感傷でもない。

ただ、それが俺の本心だ。」


そうして、彼は再び荒れ狂う戦場へと踏み出した。



朝は、ひどく静かだった。

空は一面の鉛。遠くで馬車の車輪が石畳を軋ませる音だけが、まるで誰かの呻きのように響いた。


その封筒が届いた時、エリーは最初、それをただの勧誘か何かと思っていた。

戦況報告、あるいはまた、国庫債の要請かと。そうであれば良かった。

手が震えたのは、名前を見たからではない。差出人の肩書――「陸軍魔導兵団本部」――その文字が、彼女の脳を、蝕むように刺した。


破り開いた紙の中にあったのは、

静かな、礼儀正しい死だった。


「エレナ・セラフィム様


陸軍本部より、誠に遺憾ながらご令兄、ミカエル・セラフィム中佐殿は、先般の戦闘において、敵国ゼノア将軍と相討ちとなり、名誉の戦死を遂げられました。

その卓越した指揮と勇猛果敢な戦いぶりは、帝国軍の士気を大いに高め、永く語り継がれることでありましょう。


その壮絶な最期に際し、深く哀悼の意を表しますとともに、ご遺族の皆様に謹んでお悔やみ申し上げます。


どうか、この悲報に際しましても、くれぐれもご自愛くださいますようお願い申し上げます。


陸軍本部

アバリオ・マグナリア大佐 」


と、それだけだ。まるで人一人の死など、季節の果物の入荷と同じ程度の意味しか持たないかのような、事務的な、乾いた文章。

彼女は読み返した。何度も。読むたびに何かが壊れ、脳が異音を立てる。


「嘘よ」

と、言った。だが言葉は虚しく落ちた。誰もいない部屋の中、ただ木机の上に置かれた便箋の上で、死だけが揺るがなかった。


ミカエル。

兄さま――


……いや。

あなたが出発なさる前、「エリー、待っていろ。すぐ戻る」と微笑まれた、あの時の声が……

いまだ耳の奥に焼きついて、離れてはくれないのです。


机の引き出しを開けると、そこに折り畳まれた布の匂いがあった。

兄の外套だった。戦地へ赴く前、あの日、彼が残していったもの。


エリーはそれを胸に抱いた。

彼の匂いがまだ残っていた。火薬と墨と、そして風の匂い。


喉の奥で何かが詰まり、目が焼ける。


「どうして……あなたは……!」


咽び泣くことはなかった。涙は出なかった。

ただ、その全身から、音もなく血が抜けていくようだった。

世界が反転した。

言葉はすべて、彼のいない現実に敗北した。


あの日、塹壕で、泥の中で、血と煙の中で――

兄は何を思ったのか。

誰の名を呼んで、命の最後の灯を使い果たしたのか。


きっと私の名前を呼んでいた。

エリー、と。あの声で。

なのに私は、暖炉の前でぬくもりに甘え、紅茶を啜っていた。


どうしてあの時、呼び止めなかったのか。

「行かないで」と、なぜ言えなかったのか。


私は、あなたを殺した。

名誉の死? 帝国のため?

そんなものは私にとって空虚だ。死は死でしかない。


エリーは外套を抱いたまま、膝を折った。

この静かな部屋で、ひとりの少女が沈んでいく。


誰にも見えない深海の底に、ただただ沈んでいくように。




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