Light Years Ago
――「『次は浜見碕、浜見碕』」
水中にいるような心地のまま、聞きなれない駅名が耳に入る。
慌てて水面から顔を出すように、窓の外を振り仰ぎ、それから車内の案内板を見た。
最寄りの酒巻から桂比に続き、2つ先の駅、つまり……。
ああ、やってしまった。
駅のホームが容赦なく、遥か遠く離れてゆく。
酔いを醒ますべく、ペットボトルの水を一口仰った。
乗客はほとんどいない。
帰宅ラッシュの殺伐とした緊張感がほどけた車内は、穏やかで、それでいてどこか気怠いような空気が漂っている。
真っ黒い窓には、こちら側と鏡写しの世界の車内が映し出されていた。
こちらの誰かが首を傾げれば、向こうの誰かもまた首を傾げる。仮にこちらの誰かがいきなり服を1枚脱ぎでもすれば、向こうもまた同じことをするのだろう。
3分ほどで浜見碕駅に着き、電車を降りた。
夜風が妙に冷たく、空気が澄んでいる。
運悪く、ここは出口の階段がホームの両端にしかない駅だったので、そこに向かうだけで気が遠くなりそうだった。
反対のホームについてからほどなくして、上りの最終電車が来た。
下りは先ほどの電車が最終だったらしく、電光掲示板には鉄道会社のロゴマークが無機質に表示されていた。
また寝過ごしたら本当に終わりだと思いながら、必死に迫りくる眠気に抗った。
だが、幸か不幸か、それを瞬時に吹き飛ばしてくる光景が目に飛び込んだ。
あるいは気のせいだったかもわからなかったが、それは結果的に、私が再び駅を寝過ごしてしまうのを未然にふせいでくれたのだった。
「(あれ、福田……?)」
白いTシャツを着た1人の青年が、対角線上、少し離れた角の席に座っている。
あの時と変わらない、耳にかかる長さのストレートの髪に、柔らかさの滲み出る童顔。
あくびの度に口を隠すしぐさも、全く同じだった。
そして何より目を引いたのは、彼の支えている黒いギターケースだった。
彼は今でも音楽をやっているのか。
彼はずっと、眠たそうに俯いていて、こちらに気付く気配もない。
しかし気づかれたら気づかれたで、どういう表情をすればいいのかわからなかったので、かえってそのほうがよかったのかもしれない。
そう思っていた矢先、不意に彼は顔をあげ、こちらに気づいたように視線を向けてきた。
ああ、やっぱり、他人の空似などではない。
けれど今さら、どうリアクションすればいいのか分からず、すぐに視線を下ろしてしまった。
彼とは小学校のクラスで隣の席になり、それがきっかけで仲良くなった。
福田は男子の中でもとりわけ大人しいタイプで、大人数でわいわい騒ぐというより、1人で本を読んでいることが多く、彼もそちらのほうを好んでいるようだった。
それでも、彼が読んでいた本に興味を持った私に突然話しかけられても、面倒そうな素振りは一切見せずに、これはナントカという作家のこんな小説だよ、と教えてくれたものだった。
作者名も本のタイトルも忘れてしまったが、聞き馴染みのない海外作家だったことだけは憶えていて、よくそんな難しそうな本が読めるなあ、と、当時から読書に興味のなかった私は感心したものだった。
総合学習や給食の時間のグループでも福田と一緒で、彼だけでなく、他のメンバーとも楽しく過ごしたものだった。
4年生の間でわずか2,3か月限りのグループだったが、あの時が一番楽しかった。
だって、グループ内に福田がいたのは、あの時だけだったのだから。
「一緒に帰ろ?」
いつも一緒に帰っていた友達が、家の用事か何かで先に車で帰ってしまった日、私は福田に話しかけた。
彼は少し不思議そうにしながらも、頷いてくれた。
帰る途中、2人で歩く私達を冷やかしてくる連中が何人もいて、私はさほど気にしなかったものの、彼にとってはいい迷惑だったかなと、今さらながらに思う。
「あ」
と、突然福田が声をあげたかと思えば、鼻先に、雨粒が当たったことに気が付いた。
空はみるみるうちに灰色になり、あっという間に本降りの強さになった。
「やばい、傘持ってない!」
「僕も!」
せめてもの抵抗で、私達は手に持っていた体操着の袋を傘代わりにしながら、雨宿りのできそうな場所を必死に探した。
人が何か珍しいことをすると雨が降る、などというジンクスがあるが、予報になかったあの雨も、私が福田を誘ったことで引き起こされたのかもしれないと、妄想したものだ。
近くにはコンビニがあり、その軒下に駆け込んだ。
「あー、靴下びしょ濡れ」
靴下が濡れた時の感触は、何物にも代えがたい気持ち悪さがあり、その時以来、私は本降りの予報の日は替えの靴下を持つようにしている。
「急に降って来たね。そこに公衆電話あるし、お母さんに車で迎えに来てもらおうか?」
「いや、いいよ。どうせすぐ止むだろうし……」
だれがどう見ても、すぐ止みそうな雨などではなかった。雨の強さが少し収まったかと思えばまた元通りになったし、分厚い雲の切れ間もどこにも見えなかった。
福田と過ごす時間を終わらせたくなかった私は、頑なに車の迎えを断った。
「そう?だったらいいけど……」
福田はすんなりと受け入れた。
「ねえ、せっかくだし、何か買ってこうよ」
私は店内を振り向きながら、そんな提案をした。が、
「え?ダメだよ買い食いなんて!」
優等生の福田は当然、首を横に振った。
「でも、バレなきゃよくない?」
「ええ、でも……」
そんな押し問答がしばらく続いたが、結局、私一人でコンビニに入ることにした。
「じゃあこれ、預かっといて」
そう言って、私は校帽とランドセルを福田に手渡した。
「見えないように、後ろに隠しててね。……そうそう、そんな感じで、あたしが帰ってくるまでずっとそのまま!」
そうすれば、福田はただ雨宿りをするだけの人に見えるし、私も学校の帰り道だとバレないと、小学生ながらに名案だったと、当時の私は信じてやまなかった。
偽装工作をはたらいたとはいえ、ルール違反のことをしていることに変わりはなかったので、内心はドキドキしていた。
他のお客さんや店員さんが先生だったらどうしよう……と思いながら、私は袋入りのドーナツをふたつ、レジに持っていった。
「お待たせ」
そう言って私は、福田の分のドーナツを手渡したが、後ろ手にランドセルと帽子を持っていた福田はたじろいだ。
その様子が可笑しくて、今でも鮮明に憶えている。
「地面に置いていいよ。ここで食べよ」
福田はためらいながらも私の言う通りにし、恐る恐るドーナツを受け取った。
「いいよ、うちで食べるから……」
「だめ、ここで食べるの。そのほうが美味しいに決まってるもん」
理屈は一切通っていなかったが、当時の私からすれば、そうだったのだろう。
サクッとした生地にチョコのかかったドーナツは、甘くて、少し罪の味がした。
気付けば福田も校帽とランドセルを脱ぎ、私のとわずかにくっつく形で地面に置いていた。
「美味しいっ」
私はそう言っていたが、対して福田は、終始無言でドーナツを食べ続けていた。
すると目の前が白く照らされ、光源を見ると、見慣れた車だった。
パート帰りの母親だった。
車のドアが開くと同時に、4分の1ほど残ったドーナツを慌ててパーカーのポケットに押し込んだ。
きっと運転席の母親にはバレバレだったのだろう。
「あら偶然。雨宿りしてるの」
「そうだよ」
私がぶっきらぼうに言うと、福田はその横で、こんにちはと礼儀よく頭を下げた。
「娘がお世話になってるわ。乗ってきな、当分止まなそうだし」
振込と夕食の買い出しに来た母は、私達を後部座席に座らせた。
私は残りのドーナツを食べきってしまうのも忘れて、悶々とした気持ちのまま、雨粒が打ちつける車の窓を睨み続けていた。
事件が起きたのは、翌日の朝の会だった。
その日日直だった私は席を立とうとし、パーカーのポケットに違和感を覚え、しまった、と感じた。
浅いポケットが不自然に膨らんでいる状態で教卓の横に立てば、皆不審に思うに違いない。
かといってこの状態で別の場所に移しかえるわけにも……。
「遠野さん、前に出てください?」
担任に急きたてられ、手元が狂ったのか。
ポケットから落ちたそれを見て、周囲が一気にざわめいた。
「おい、こいつ学校にお菓子持ってきてんぞ!」
「いけないんだー!」
無残に床に転がる、雑にテープ止めされた食べかけのドーナツ。
冷や汗をかいたまま、私はただそれを見ているしかなかった。
「遠野さん、これは一体どういうこと?」
もはや朝の会どころではなく、緊急の学級裁判が開かれた。
あまりに惨めだった。プライドがずたずただった。
クラスメイトの、担任の視線と声が、無数の矢となって突き刺さる。
つい昨日は、バレなければいい、とあれほど強気でいたのに、暫く黙って俯いているしかなかった。
もう頭の中がめちゃくちゃだった。
めちゃくちゃだったからこそ、私はあんなことを口走ったのだろう。
「ふ、福田も、一緒にいましたっ」
騒がしかった教室が、一瞬静まり返っり、また騒めいた。
まさか、あの福田が。と。
「昨日下校中に夕立に遭って、コンビニで雨宿りしてる途中でそれ買って、その食べかけですっ福田も私の横で――」
彼の名前など、ここで出す必要はなかったのに、私は誰かを味方につけたいばかりに、仲間を売ってしまったのだ。
「……本当なの、福田さん?」
福田は立ち上がり、はい、と返事をした。
その時の彼の表情など見ている余裕はなかったが、その声色からして、俯いていたのだろう。
「止めなかった、僕の責任もあります」
その声は、今にも泣きそうなほど震えていた。
悪さをして大人に叱られるのとは一切無縁の彼だから、無理もない。
中休み、私達は担任に呼び出されて一連のことでしこたま説教をされた。
その後、福田は放課後まで元気がなく、いつも好き嫌いなく完食していた給食も半分以上残していた。
ああ、なんてひどいことをしたのだろうと、私はしばらく、あの日のことを後悔し続けていた。
全部、私が一方的に巻き込んだんじゃないか。
結局その日以降、福田と一緒に帰ることはなく、グループ内で彼と話す時もどこか気まずい空気が流れていた。
私はしばらく『食べ残し』というあだ名で呼ばれ、そのたびにあの出来事を思い出し、胸がちくちくと痛むのだった。
彼とは疎遠になったものの、偶然にも、中学、高校共に同じ学校へ通うことになった。
彼は変わらず、大人しい優等生タイプで在り続けたが、意外にも、彼は高校で軽音楽部にはいったのだった。
放課後のリサイタルや文化祭の度に、彼はバンドのベーシストとして出演した。
やはり彼らしい役回りだ、と思っていたが、楽曲によっては彼がボーカルを務めることもあり、その時の彼は普段の教室での様子とは大きく違っていた。
両目に宿す光はクールでありながらも、音楽に対する情熱に溢れ、観客を熱狂させるオーラに満ち満ちていた。
そのギャップ、その姿がまた、密かにバンドを支援していた私を魅了した。
彼がいなければ、私は街の小さなライブハウスに行くこともなかっただろう。
しかし今さら、どうやって、彼に近づくことなどできようか?
あの後謝罪はしたものの、あれが起きる前になど戻れない。
だから私は、ただ遠くから、まるで画面越しのスターを追うかのように、彼を見ているしかできなかった。
今まで私は他の男と何人か付き合ったが、腕に抱かれている時ですら、脳の片隅には彼にまつわる日々の記憶があった。
結局今でも、彼を忘れられずにいるが、連絡先も、彼のいるあてもない。
再び顔をあげると、彼はギターケースを支えたまま、下を向いて眠っていた。
酒巻駅に着き、ドアが開いた。もう二度と、彼と会うことはないだろう。
さよなら、福田。
*******
『鴻坂、鴻坂――』
重いギターケースを背負いながら、最終電車に駆け込んだ。
ああ、何とか間に合ってよかった。
私鉄との乗り換えはいつもギリギリで、もはや乗り換えダッシュは地元へ帰る際の恒例行事と化している
特に今回は終電だったので、本当に焦らされた。
地元の凱旋ライブの帰り道。
調子に乗って打ち上げの2次会、3次会まで開いてすっかり遅くなってしまった。
最悪、駅近のホテルやネットカフェで寝泊りすればいい話だが、1人暮らしをしながら、音楽活動のために決して安くない費用を捻出している身として、極力無駄な出費は抑えたいものだ。
今月だけでも、新しいベースの弦、突然壊れたエフェクト、それに……。
――と、気付いたら眠ってしまっていたらしい。
さすがに体力に限界がきたのか。それとも、途中から酔いが回って大暴れしそうになったあのギタリストを必死に止めたためにどっと疲れたのか……。
やはり最終電車となれば、乗客はほとんどおらず、僕ともう一人、対角線上に座る僕と同世代くらいの女性くらいだ。
……見覚えのある顔だ。
不審に思われるといけないのであまりじっくりと確認はできないが、多分そうだ。
高校時代のライブによく聴きに来てくれた1人の観客、もとい小学校時代からの同級生、さらに言えば――否、今さらそれを言える分際ではないのかもしれない。
もう一度だけその姿を確認したくて、そちらを見やる。と、彼女と目が合った。
その瞬間、僕はどういう表情をすればいいかわからずに内心でたじろぎ、かといってわざと視線を逸らすのもなんだか忍びなく、どうしたものか迷っていると、
「福田、久しぶりじゃん」
彼女は突然、小4の頃の姿になっていた。
あの夕立の日と全く同じ服装、同じ髪型の彼女が、そこにはいた。
すぐ側から聞こえる声のはずなのに、彼女はそこから、一歩も動いていなかった。
「偶然だね、こんな所で」
僕はぎこちなく返す。
だが、彼女はこれ以上何も話してくれず、まるで死んだ二枚貝のように口を固く閉ざし、ただ真正面を見据えてじっと座っているだけだった。
彼女の隣に行きたくても、身体がそこに縛られたように動かない。
これ以上近づくことも、遠ざかることもなく。
目の前にいるのに決して手の届かない存在。
その気になれば届きそうなのに、そこにはどう足掻いてもたどり着けない。
遥か何光年先、燦然と輝く星をただ眺めるしかできないのと同じように。
――酒巻駅を過ぎた頃、目を醒ますと、そこにはもう彼女の姿はなかった。
ああ、もう既に降りたのか。
先に降りるのが僕だったなら、ポケットからうっかり落とした体で、次のライブ告知のポスターでも落としてやれただろうに。
なんて、考えるのは容易いけど、僕にそんな器用な芸当ができただろうか。
けれど、これからバンドの知名度が上がり、彼女に僕の居場所を知らせることができたなら、また会いに来てくれるだろう。
あくまでも、僕達のバンドの、1人の観客として。数多に光る星のひとつとして。
それでも、それは他よりもひと際輝く一等星だ。
久しぶりに、インスピレーションが舞い降りてきた。
スマホのメモ帳を開き、真っ先に曲名を打ち込み、僕はまた、目を閉じた。