悲しくはない
カップとソーサーがあたる微かな音だけがする。
新父が去ったあと特に話すこともなく、私もライオニアサマに倣ってカップを手に取った。
曲線の美しい華奢な取手を持ち白い陶器に目を落とす。色は少ないが繊細な絵を描いたカップをしばらく見てから、少し冷めた紅茶を飲んだ。
このお茶の価値は知らないが、美味しいとおもう。
この1年とちょっと、お茶は嗜むものではなく給仕するものであったから、茶器や茶の色・温度は見れても味わったことはほぼない。
ああ、練習の時に飲んだのは薄かったっけなあ。
ましになってからは、味見と評価と嫌味は義妹の役目だったので、私は出来ないし。
「さて」
ただお茶を眺めていたら、やっとライオニアサマは話す気になったらしい。
私もぼんやりしすぎた…と少し反省する。
「カミンドル嬢… ドリーとお呼びしてもよろしいかな?」
別に嫌ではない。私は頷くことで応えた。
「では。ドリーは子爵からどの様に話を聞いているかな?」
「…夫人からは、私は婚約をして此処に来たのだと・・・」
そういえば、私は具体的に何をするか聞いていなかった。言葉が続かない。
新父は「行くぞ」とだけ命令をして来たし、夫人は最初に新父を詰った時位しか口を滑らせなかった。義妹は一番言葉を交わしたが侍女に掛ける言葉ばかり。
他の侍女や使用人もあえて口にするものはいなかった。
暗黙の了解のもと私は田舎爺の婚姻者となる女だった。それ以上でも以下もない。
役があったからスルーしちゃってたけど、私具体的に何する人なんだろ?と今さらだが知らない事にきづいた。
「婚約か。まあそうなんだがね。相手は聞いたかい?」
その言葉に思わず目を開いてしまう。
ライオニアサマではないの?
「え…っと?…閣下だと思っておりましたが、違いましたか?」
「ああ、聞いていたんだね。いや、思ったより平然としているから、もしかしたらこんな爺だとは知らないのかと思ってな…」
なるほどな、と思う。と同時に意外だった。
こう言ってはなんだが、孫とも言える歳の差での婚約。しかも申し込まれた形だったようなので、もっと何というか・・・もっと変態的なじいさんだと思っていたのだ。
だけど、改めて見てみると髪は白いものが混じっているし、顔にも皺があるが、背筋は伸びており矍鑠とした雰囲気がある。
服も落ち着いた色ながら年寄りめいた雰囲気はなく流行も取り入れてる様でお洒落だ。
容姿と性癖は違うかもしれないが、少なくとも今までの話からして良識的な視点を持っていると思われる。
ここには私が想像していた好色ヒヒ爺とは雲泥の差があった。
しかし、ここで「思ったよりもマシでした」とは言えない。私はにっこり微笑みで誤魔化しておいた。
けれども、何となく察してくれたらしい
「少しは君の合格点に近かったのかな」
と苦笑いされてしまった。
「君の言ったことで大筋は間違いないのだよ。君はこの家の跡継ぎを生んで貰いたくて此処に来た。いや、来て貰った」
覚悟はしていたが背筋が震えてしまう。
それからの話はライラルド家の醜聞だった。
簡単に言うと、ライオニア様の母上の不義が発覚したらしい。
ライオニア様は、婚姻経験無しの今年54歳。
不義の子とされる弟は、10台末に結婚し、今は3男1女の子沢山。
次男の甥が跡継ぎ候補であったが、血を残すために継がせるわけには行かなくなった、と。
あと、三男にライオニア様と29歳離れる異母弟がいるらしい。
「家族仲は悪くないんだ。今は発覚したばかりで少し空気が悪いがね・・・しかし半分は血が繋がっているし、幸か不幸か父は先年無くなっている。だから弟と縁を切るまでは考えてないが、跡継ぎがね・・・」
貴族にとって血というのはそれほど重要らしい。
「今思ったら、父は何か察していて、末の弟をと思ったのかもしれない。あの当時は驚いたものだが、私は既に婚期を逃していたしね」
「末の弟様は結婚されていないのでしょうか?」
「父も誤算だったのだろうけれど、あいつも難儀なやつで結婚する気がまったく無いのだよ」
「甥の方ではダメなのでしょうか?大奥様も由々しき方なのですよね?」
「回りが煩くてね・・・」
深いため息と共に呟かれた台詞は小さくて部屋の隅に立つ執事や侍女には聞こえなかったかもしれない。それくらい慎重に口にされた言葉のようだった。
血を重んじているのは貴族様だけでなく仕える人たちも、なのかも知れない。
にわか使用人であった私には分からない信条があるのかな・・・
しかし、では・・・
「やはり、私は閣下の・・・お子を・・・」
はっきりとは言葉には出来なかったけれども『子を授かる』事。これが私の仕事だったらしい。
結構な大仕事である。
「・・・うん。そうだ。・・・申し訳ないが、よろしくお願いしたい」
ライオニア様も歯切れが悪い。しかも新父にお金まで払ったのに私に対して強制的に出来ないでいるようだ。とても困ったような顔でいる。
しかし、そういう理由であれば、私も確認しておかなければいけないことはある。