アケーシャの叶わぬ恋と時戻り -06-
アケーシャは12歳になった。自身を取り巻く環境は、何も変わらなかった。ーー昨日までは。
「アケーシャ、弟のエイデンだ。仲良くするんだよ」
「はい、お父様」
父に紹介され、おどおどと俯き目を合わせようとしないエイデンに向き合い、少しだけ緊張しながらも優しく声をかけた。
「はじめまして。私はアケーシャよ。よろしくね、エイデン」
「……お願いします」
ヴァンガード公爵家では、アケーシャが家督を継げなくなったために、異母弟を迎えることになった。
この時を想定して、父が外の女性に産ませていた、という異母弟を。
異母弟が生まれた経緯をアケーシャは知らない。知っていたら、素直に喜べなかっただろう。
(本当に私に弟がいたのね。弟という実感は正直言ってないけど、でも、お父様と少しだけ似てる気もするわ。それに私ともお揃いだし)
父親譲りの碧眼は、アケーシャと同じ美しい輝きを放っていた。
ただ、憂いを帯びた表情のエイデンは、今にも泣き出しそうだった。そして、
「エイデン、お前は……」
父の言葉を最後に、エイデンは顔合わせをしていたサロンを飛び出して行ってしまった。
両親は、ため息をつくばかりで、追いかけることさえしなかった。
(エイデン……)
その一部始終を間近で見ていたアケーシャは、自分でも気付かぬうちに涙が零れていた。
両親が、これから家族となるエイデンのことを追いかけなかったから、ではない。
逃げ出したくても逃げ出せない自分の代わりに、エイデンが逃げ出してくれたから。そんな気がして、心の中に巣食う黒い靄が、軽くなった気がしたから。
(ごめんなさい、でも、ありがとう……)
その瞬間、もう枯れ果てたと思っていた涙が、頬を伝っていた。
放っておけ、という両親の言葉を振り払い、エイデンを追いかけて走った。
「エイデン、どこ? エイデン、返事をして!!」
どこを探しても見当たらない。それでも必死になって探した。そして、知らぬうちに、自分の好きな場所へと向かっていた。
大好きなアカシアの木と広大な花畑の中にひっそりと佇む祠がある、お気に入りの場所。
幸せなことがあった時も、辛いことがあった時も、訪れる秘密の場所。
嬉しかったことや楽しかったことがあれば報告し、愚痴や弱音も吐ける、唯一の心の拠り所。
(あっ!)
花畑の中にひょっこりと黒い頭だけが見えた。
一度立ち止まって、遠くから見つめる。再び、頬に涙が伝った。
(偶然なことは分かってる。運命なんてもう信じない。だけど、私とエイデンは似てる……)
涙を拭うと、帰ろう、と声を掛けるためにエイデンに近づいた。
すると、祈るようなエイデンの切なる願いが耳に届く。
「本当の家族を下さい。ずっと一緒にいてくれる、俺のことを一番に愛してくれる家族を下さい」
「私が家族になるわ。私の一番を、エイデンにあげる」
自分でも知らぬうちに声に出していた。どうしてそんな言葉を言ったのかさえ分からない。
だけど、身体が勝手に動いて、優しく包み込むように、エイデンをぎゅっと抱きしめていた。
それはきっと、アケーシャがずっと望んでいたこと。
(私の代わりに、この子だけは、エイデンだけは幸せになって欲しい)
それは、同情だったのか……
「どうして? ねえ、離してよ。……ねえ、本当に、いいの?」
「ええ、もちろんよ」
エイデンは、アケーシャに抱きしめられたまま大声を出して泣いた。
時折、エイデンが痛いくらい力強く抱きしめてきたけれど、その痛みさえも、必要とされているようで、嬉しかった。
ひとしきり泣き終えて落ち着いてきた頃、エイデンは、侮蔑を込めた疑問を口にした。
「やっぱり嘘だ。僕はおねえさんの一番にはなれない。おねえさんの一番は王太子殿下でしょ?」
アケーシャと王太子が婚約したからこそ、異母弟であるエイデンが、ヴァンガード公爵家に迎えられた。
それなのに、軽々しく自分の一番をあげるなどと言うアケーシャに、軽蔑に似た感情を覚えたのだ。
「大丈夫よ、王太子殿下の一番も私ではないから。だから私の一番はエイデンに決めたの。それくらいの我儘、神様もきっと許してくれるはずよ」
(最初で最後の我儘だから、せめてこれだけは、許してください。私はエイデンを幸せにするために生きて行きたい)
祠に向かって心の中で祈りを捧げた。風がそよぎ、花たちが揺れる。返事はやっぱりないけれど、それでも許してくれた気がした。
「さあ、一緒に帰りましょう」
アケーシャが差し出した小さな手を、エイデンは強く握った。その手を強く握り返した。
(あたたかい、人のぬくもりって、こんなにもあたたかかったのね)
誰かと手を繋いだ記憶なんてない。誰かをぎゅっと抱きしめたことも、抱きしめられたことも、覚えていない。
言葉を交わさずとも、二人の心が繋がった気がした。その手を繋いだまま、屋敷に向かって一緒に歩み始めた。
不思議なことに、この時から、厳しい王妃教育も、義務のようなダニエルとのキスでさえも、乗り越えられるようになっていった。