アケーシャの叶わぬ恋と時戻り -02-
「アケーシャ、あなたは必ず王太子妃になるのよ。あなたには、その資質が十分にあるのだから」
「はい、お母様」
またか、と思いつつも、笑顔で返事をする。そうすれば、母は満足するから。
幼い頃から毎日のように聞かされてきた母の口癖に、幼いながらもそう在るべきだと、漠然と受け入れてきた。
由緒正しい名門ヴァンガード公爵家の一人娘として生まれたアケーシャは、物心つかないうちから、両親にとても厳しく育てられてきた。
それは、冷静沈着でいて聡明だと謳われ、王太子の婚約者最有力候補と噂されるほど。
もちろん、とても光栄なことだと思っているし、両親が喜んでくれるのなら、その期待に応えたいと、できる限りのことを最大限努力してきた。
刺繍以外のことは……
「痛っ、ああ、もう無理!! 絶対に無理だわ」
淑女の嗜みとされる刺繍だけは、どうしても苦手だった。頑張れば頑張るほど、糸は絡まり、指に針を刺し、そして赤く滲む。
今も、見事なまでに指に針を刺し、ぷくっと血が滲み出てきて、ハンカチを赤く染めた。
「これで何枚目かしら? もう私には才能がないのだから、お母様もそろそろ諦めてくれればいいのに!! 刺繍ができなくたって、死ぬわけじゃないんだから」
今まさに、刺していた刺繍を見て、ふと思う。
「これ、何だったかしら?」
自分で刺していたはずなのに、このモチーフが何なのか、自信を持って言うことができない。
アケーシャの刺繍の腕前は、致命的だった。
ようやく完成したかと思えば、花の模様は未確認生物のような形となって、アケーシャを嘲笑う。
だけど、形になっているときは、まだ良くできた方だったりする。
アケーシャの刺した刺繍を見た人全員が、もれなく苦笑いを浮かべるほどの腕前だから。
「お母様の一番得意とする刺繍なのに、どうして私には才能がないのかしら……」
刺繍はアケーシャの唯一のコンプレックス。決して口には出さないし、人前では愚痴をこぼすことなんて絶対にしない。してはいけないから。
だから、今日もまた、アカシアの木の下で盛大に愚痴をこぼす。
「また、お母様に言われてしまったわ。もっと刺繍ができるようになりなさい、って。淑女の嗜みなんだから、って。そんなの、言われなくても分かってるわよ……」
そこに相手はいない。強いて言えば、とても聞き上手な祠がひっそりと佇んでいる。
もちろん慰めの言葉も、相槌も、一度たりとも返ってきたことはないけれど。
だけど、それでも良かった。ここはアケーシャの大好きな唯一の隠れ場所。
広い公爵邸の敷地の外れにあって、可愛らしい黄色い花の咲くアカシアの木と、薄ピンク色の綺麗な花が咲く花畑が広がっている。
その中に、隠れるようにひっそりと佇む祠があるこの場所が、誰にも邪魔されない心休まる場所だった。
「明日ね、王太子殿下と婚約することになったのよ。ふふ、頑張ったでしょ? 王太子殿下ってどんな人かしら? 私のこといっぱい愛してくれださるかしら? ……なんてね」
どれだけ頑張っても、誰もアケーシャのことを褒めてはくれない。できて当たり前だから。できなかったら怒られるのに。
だから、たとえ返事がなくても、誰にも言えない胸の内を話せるだけで、アケーシャは救われていた。
時折、優しくそよぐ風が、アケーシャの心を癒してくれている気がした。
「今日もいっぱい聞いてくれてありがとう。よーし! 王太子殿下との婚約、私、頑張ってくるわ。お父様とお母様のように、娘も羨むような夫婦になってみせるんだから!」
アケーシャの両親は、とても仲が良かった。
父のヴァンガード公爵は、娘のアケーシャでさえも時々呆れてしまうほど、妻のアイリーンを溺愛していた。
どのようなこともアイリーンを優先し、どのような願いも叶えてあげようとするほどに。
羨ましくもあり、少しだけ寂しかった。
そんな二人を見て育ったアケーシャは、いつしか自分だけの王子様が現れてくれることを夢見ていた。
屋敷に向かって走る姿を見送るように、あたたかい風がふわりと吹いて、黄色いアカシアの花を揺らした。