その一
この作品には犯罪者の心理描写などがありますが、決して犯罪を助長するものではありません。
ある拘置所に一人の極悪囚人がいた。その男は二十数件の殺人と、それ以上の強盗、強姦を繰り返していたが、立証されたのは強盗が一件のみ。
男は貧しい農家の四番目の子だった。男の家は極貧だった為、幼い頃は満足な食事を与えられることなく、常に腹を空かせていた。
十歳頃には盗みを覚え、欲しいものは盗んで手に入れることが常習的になっていく。しかしもちろん毎回成功するわけもなく、十四歳までに既に少年院に二回放り込まれていた。
十四歳の冬に少年院を出所した男は、浮浪者の集団に襲われ強姦されてしまう。この時に男の中で力こそが正義で全てなんだという感情が芽生えてしまった。
三十代半ばとなった男は刑務所と娑婆を行き来し、今は塀の中にいる。
罪状はせこい強盗の為、普通なら他の囚人からも忌み嫌われ暴力を受けたりするのだが、彼の虎のように鋭い眼光と強靭そうな身体つきを見てちょっかいをかける者はいなかった。
囚人同士とはいえ仲良くおしゃべりをしたり、体を動かす時間を通じて親睦を深めたりするのだが、彼に話しかけようとする者は一人としていなかったし、彼からも話しかけたりもしなかった。
彼は生まれてからこの方ずっと一人、一人きりで、ただただ社会への憎悪を募らせてきたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
そんな彼に興味を示すものが居た。それは新しく看守を務めることになったヘンリー・レッサーという男。
ヘンリーは先程、別の看守に連れて行かれた男の事が気になり懲罰室へ向かった。
「よぉ、あんたかい」
懲罰室という名の独房の中で横たわる男の身体は傷だらけだった。この日も看守に反抗的な態度を取った男は懲罰と称されて、しこたま棒で打ち据えられたのだ。
「傷だらけじゃないか。大丈夫か?」
「このくらいは慣れっこよ」
そう言って起き上がる男を見て、ヘンリーは心配そうに訊ねた。
「反抗的な態度を取らなければそんな目には合わないというのに……なぜわざわざそんなことをするんだ?」
「あんな奴らにへりくだるくらいなら、俺は死を選ぶぜ」
「憎いのかい?」
「ああ、この世の全てが憎いね。何もかもぶち壊してやりたいって常に思ってる」
なぜそうも憎悪を募らせるのか。
ヘンリーはいつも一人でいる彼を眺めては気に掛け、経歴を調べたりもしたが、男の詳しいことは何もわからなかった。
ヘンリーは囚人を使って男に一ドルを渡すように頼んだ。
「これで美味いものでも買ってくれ」と。
受け取った男は、何の冗談だ! と怒りを露わにしたが、ヘンリーが自分を本気で同情していることがわかると、さめざめと涙を流した。
生まれて初めて受けた恩情に感謝した男は、ヘンリーに筆記用具を所望して自分の犯してきた罪と、己の全てを告白した。
男の書いた文章は理路整然としており、時に論理的な説明がなされていた。
『こんな時に俺はなんて言ったらいいのかわからねえ。わからねえが、あんたにはおれが行ってきた全てを教えてもいい。何故俺がこんな人間になっちまったのかだが、俺だって好き好んで畜生に成り下がったわけじゃない。並び立てればキリがねえが社会がそうさせたんだ。俺を取り巻く社会がな。どんなガキにだって犯罪者としての素質は備わっている。人格が形成されている若いうちにその習性を正していかなければならないのさ。そうすれば真っ当で正しい人生を送れるだろうよ。だが、俺の両親は無知だった。誤った教育と誤った家庭環境で俺は次第に間違った方向へ導かれていった。そしてだんだん悪さが酷くなって少年院にぶち込まれた。そこでの扱いも酷いものだった。過重労働に加え、ことあるごとにリンチされた。挙句俺が窃盗の罪で取り調べを受けていた時だった。隠した金の在り処を吐くなら懲役を軽くすると司法取引を持ちかけてきた奴らに、俺は正直に場所を教えた。だが奴らは約束を反故にしてたっぷり最長刑の懲役七年を与えてきやがった。ブタ箱に戻された俺を看守どもは嘲り笑いやがった。その後に待っているのは不当な暴力の数々だ。
そんなどん底の中じゃまともな感性なんざ育たねえのさ。良心や善意、同情も憐れみも俺の中にゃ欠片もねえ。でもそうだろう? 俺は今日まで二十年以上もそんな環境にいたんだ。そんな中でも真っ当な人間でいられる、隣人を愛せるってんならどうぞやってみてくれ。俺は断言できるぜ。環境次第で人は怪物にだって変じられるし、俺の置かれた環境は怪物を育てる環境だ。
例えばあんたが虎の子を飼っていたとしようや。その虎の子を毎日虐待して、それから外に放つんだ。するとどうだい? 虎の子は血に飢えた猛獣となって手当たりしだいに食い散らかすのさ。それと同じよ。俺はこう信じてる。「社会が俺にしたように教え続けるなら、俺もまた社会に俺の苦しみを教えてやらなければならない」ってな』
男が社会を憎む理由が、刑務所の仕組みを糾弾する内容とともに書き連ねられていた。
さらに。
『俺が二十六歳くらいの時、マーフィーという男が刑務所長になった。マーフィーは今までの連中とは違ったやつで、その日から俺には毎日三度の食事と布団が与えられるようになった。頭のおかしいやつが来たもんだと思っていたが、マーフィーは俺にこう持ちかけてきたんだ。「君は何度も脱獄を繰り返す問題児のようだね。どうだろう? 君が名誉にかけて脱獄しないと誓うなら君を縛りつける鎖を解き、刑務所の門も開放しよう。但し、夜の点呼までには必ず戻らなければいけないよ?」とな。
俺は馬鹿なやつだ。必ず脱獄してやると思いつつも、表面上は名誉にかけて脱獄しないと誓った。すると本当に外に出ることができて、このまま逃げようかと思ったんだが、点呼時間が迫ると何故か後ろ髪を引かれて戻っちまった。他の囚人たちから頭おかしいんじゃないか? と言われ、俺もそう思って医者に見てもらったくらいだ。だが、俺はある日。つい魔が差して点呼時間に戻ることなくそのまま逃げちまった。数日後に捕まっちまったが、俺が逃げたことによってマーフィーは責任を追求され刑務所長から降ろされた。結果、刑務所内は元のブタ箱レベルにまで落ちたんだ。俺はそれまで、社会の全てを憎んで生きてきたが自分だけは憎くなかった。だが、俺はマーフィーを裏切った。かつて俺との約束を反故してブタ箱に放り込んだあいつらと同じことをしちまったんだ』
男が社会だけではなく、己すらも憎悪する怪物に変じた瞬間だった。自棄になった男が、上述した二十件以上の殺人に手を染めたのはこの後のことである。




