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 今、物語芸術と総称するが、映画・漫画、小説・アニメ等の作品にとって、「キャラクターの描写」というものは非常に重要な要素である。大きく言えば、①キャラクター ②ストーリー の二点が重要であると単純に考えよう。


 今は①キャラクターについて考えるが、フィクションを見ていると、大半はキャラクターは記号的に扱われており、なんというか、製作者によって冷酷に扱われていると感じる事が多い。冷酷でないという場合も、キャラクターが平板に感じられて、存在感が薄かったりする。この問題について、「わたモテ」13巻の描写から考えていこうと思う。


 キャラクターと一口に言うが、そこで、作者はキャラクターの事をどのように考えているのだろうか、それは現実の人間とどう違うのだろうか? というのが問題となってくる。通俗作品の場合、自分の見る所、意図的にキャラクターは平板にされている。「お兄ちゃん大好き」と言ってくる妹キャラが、内心で何を考えているか、本当は彼女が「どんな人なのか」と考察する必要はない。そのキャラクターはただ、「お兄ちゃん大好き」と言ってくるだけの人だ。おっぱいが大きい女の子はただそれだけで、イケメンキャラはイケメンであるにすぎない。


 例えば、イケメンキャラクターが自分の顔がイケメンである事に悩み、硫酸をかぶって顔を変形させたら、それはイケメンキャラクターという自己同一性を崩壊させてしまう。顔が潰れたアイドルはもうアイドルではない。しかし、同じ「人間」ではある。


 キャラクターというものをもっと考えてみよう。ここでは、問題を鮮明にする為に、「内面と外面の矛盾」が「人間らしさ」であると考えたい。


 例えば、私達は猫とか犬とかに、隠された内面があるとは想定しない。猫がスリスリ近寄ってきたら(甘えているのだな)と思い、耳を立てて威嚇してきたら(怒っているのだな)と思う。この時(この猫は怒っている『フリ』をしているのだな)とは考えない。

 

 しかし、人間に関しては事情は別である。誰かが職場で、僕に近づいてきて、「いやーどうも。昨日のサッカーすごかったですねえ」と言ってくれば、僕は必然的に、相手の内面に思いを巡らせる。相手はサッカーの話をしたがっているのか、金を貸してくれという話のきっかけにサッカーを出してきたのか、相談事でもあるのか、警告でもしようというのか。様々に推察されるが、それは人間が外面と内面が矛盾している存在である為に他ならない。


 人間というのは、外面と内面が矛盾しており、内部には大きな世界が広がっていて、外部に対する言動と内部における思考・情念というものがズレている。このズレというものが、根底的には色々なトラブルの元にもなるが、人間の偉大さの元にもなっている。しかし、どちらかと言うと社会はこのようなズレを一元的に置き直したいという願望に取り憑かれているようだ。


 「暗い奴」とか、「心の闇」というのは非難する言葉だ。逆に「明るい人」「あけすけな人」というのは、ポジティブなイメージがある。言動と内面が一致している方が他人から見て「わかりやすい」。「わかりやすい」のを人は好むので、通俗作品は、言動と内面とが一致する傾向にある。そこに、内面と言動とがズレているギャップから来る「人間らしさ」というのはあまり見受けられない。逆に言えば「明るくてわかりやすい人」があふれる事になる。


 今、「人間らしさ」という言葉を使ったが、これは僕の定義の「人間らしさ」である。人間らしさが「苦悩」というものと深く関わり、そこに人間の本質的なものがあると感じられるのは、外面と内面の矛盾が大きく開いて、この溝に人間そのものが引き裂かれてしまっているからだ。ここに、動物から離れた人間というものの気味悪さと凄みがある。パスカルの言う「考える葦」であって、葦であっても「考える」上では「人間」であり、逆に、考えない人間はどれほど人間的表徴を負っていても、もはや人間である事をやめている。


 人間というのは矛盾に満ちている。外面的な言動によって自らを外に表さなければならないが、内面は必ず、外面とズレてしまう。ある言葉を言う。ある行動を取る。例えば、僕が誰かに「あなたの事が好きです」と言う。しかし、次の瞬間に(果たして本当に自分は好きなのか?)という疑問が湧いてくる。自分がある感情を抱いたとしても、それを表明する事との間に大きな溝がある。この溝の中に苦悩や思考が蠢いている。この溝の中にはまり込む事は、その人間が「他者」によって対象化された、「わかりやすい自分」である事を拒否するものだ。だが同時に、人が生きる上において、人は何らかの形で自己を相手に認証させねばならない。その時、自己は他者に対して、外面的に出なければならない。その時、矛盾に満ちた自己は、相手に一元的に処理される。


 学校とか職場のような場所を思い浮かべればわかりやすいが、自分というものをその場所の一つの「役割キャラクター」として振る舞っていれば楽である。みんなの求めるような自分を演じる時、自己は一元化されているが、社会活動としては楽である。しかし、自己が自己を覗いた時、そこに深淵が湧いてくる。


 世界との関わりにおいて、我々は何らかの客体化された存在である事を要請されるが、自己を自己として見た時、世界は己を単純化し、ただ世界の生成の為の道具としてみなしていない事に気づく。ここに世界と自分の裂け目がある。特に、現代社会では、人々の視線が大きく物を言う為に、これが重大な要件となっている。



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