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大勝負

作者: 石崎政人

大勝負


第一章


「今度の仕送り、全部ぶち込もうと思うんだけどさ……」

 学生時代から通っている小さな居酒屋のカウンターでテレビを見ながらビールを飲んでいたとき、横に座っていた小泉が突然独り言のようにつぶやいた。

「あっ、そうなんだ」

 テレビに見とれていた僕は、機械的にあいづちを打った。テレビは満開に咲き誇る夜桜を映していた。東北地方の有名な公園から生中継しているようだった。

「もう少しで桜前線も北海道上陸かあ……」

 浮かれた口調で意味のないつぶやきをすませ、僕はテレビから目を離して小泉の方に向き直った。小泉はカウンターに置いたジョッキを右手で握ったまま、虚空を睨んでいた。

「ごめん、なににぶち込むんだって?」

 小泉はその質問には答えず、残っていたビールを飲み干した。

「マスターすいません。焼酎、ロックで」

 小泉は初老のマスターにおかわりを注文すると軽く息を吐き出し、それから首だけ僕の方を向いた。

「週末にあるでしょ、でかいレース。そいつにぶち込む」

「でかいレース? もしかして競馬の話?」

「そう、競馬」

 競馬と言われて、僕はちょっとの間黙りこんだ。ジョッキの底に残っていたビールを飲み、それから小泉と同じものを注文した。

 たしかに、今週末にはでかいレースがある。京都競馬場で行われる春の天皇賞だ。毎年競馬ファンの注目が集るレースだが、今年は特に注目度が高まっていた。強い馬が二頭出走することがその理由だった。昨年このレースを制して現役最強馬の称号を手に入れたメジロマックイーンと、その一歳年下である無敗のダービー馬トウカイテイオー。実績、実力ともに甲乙つけ難い二頭は、今回が初顔合せだった。スポーツ新聞では「世紀の対決」として、このレースのことを連日話題にしていた。

「天皇賞?」

「そう、天皇賞。『銀行馬券』ってやつなんでしょ」

 小泉はいつの間にか空になったグラスを初老のマスターに突き出し、焼酎のロックをおかわりした。

「小泉さん、今日はペース早いね」

 初老のマスターが目で笑う。

 「銀行馬券」、賭けたお金がまるで銀行に預けるかのごとく、数分後には確実に増えて戻ってくるという馬券。もちろん、世の中にそんな馬券は存在しない。ゴールするまでなにが起きるか神様にもわからない、競馬はそんなギャンブルである。ただし、他の馬ではちょっと相手になりそうもない実力馬が二頭出てきたレースは、競馬ファンの間では「銀行馬券」と呼ばれることがある。

 テレビでは夜桜の中継も終わり、僕と小泉の他には客もいない店には、天気予報のアナウンスだけが聞こえていた。僕は氷がとけて少し薄くなった焼酎をノドに流し込みながら、さきほど小泉が口にした言葉をもう一度かみしめるように反復した。

「もしかして、仕送り全部を今度の天皇賞にぶち込むって言った?」

 僕は小泉の横顔を探るように見る。小泉は無言でうなづいた。

 僕と小泉は大学時代からの友人だった。大学は別だったが、同じ学生寮で四年間一緒に暮らしていた。そこは東京で学生生活を過ごす北海道出身者のために作られた寮だった。僕らは同じ札幌出身ということも手伝ってなんとなく言葉を交わすようになり、学生寮近くのこの店で毎週のように酒を飲みながらいろいろな話題を語り合う間柄になっていた。

 大学卒業後、僕はそのまま東京で就職していた。小泉は在学中から弁護士になることを目指していたが、なかなか司法試験に合格することができず、大学卒業後も親から仕送りを受けながら専門学校に通っていた。僕はどこにでもいる平凡なサラリーマン、小泉は司法試験の受験生、そんな生活を続けながら数年がたっていた。昔のように毎週というわけにはいかなかったが、数ヶ月に一度くらいはこうして馴染みの店で顔をあわせて酒を飲んでいた。

「仕送りってどれくらいあるのさ」

 焼酎ロックのおかわりを頼んでから、僕は小泉にそう聞いた。

「前期の学費分がくるから、50万くらいはあるかな」

「50万?」

 50万円といえばちょっとした金額だ。僕がもらっている月給の約3倍になる。「こいつはそんな大金を本当に競馬にぶち込むつもりなんだろうか……」そう思った僕は無言のまま横目で小泉の表情を探った。

 小泉は右手にグラスを持ったまま、少しあごを上げて、さっきと同じように虚空を睨んでいる。昔からあまり無駄口を叩かないタイプの男だった。だからといって口下手だったり、人付き合いを嫌がるわけでもない。ひとたび話しだすと聞き手が思わず話しに引き込まれてしまう、そんな不思議な魅力の持ち主であった。

「いくらつくかな、銀行馬券」

 小泉が口だけ動かしてつぶやく。小泉が馬券の話をしているのは、なんとなく妙な感じだった。僕は就職してから数年ほどで、毎週競馬場に通うヘビーな競馬ファンになっていた。たまに会ったとき、僕が競馬の話をすることはあっても、小泉から競馬の話題を聞いたことはまったく記憶になかった。元々ギャンブルとは無縁の男のはずだ。そんな彼が「銀行馬券」といった専門用語を口にして、さらに50万円という大金を賭けるといくらになるかと僕に聞いている……。

 今年の天皇賞は、僕の目から見てもメジロマックイーンとトウカイテイオーの二頭で仕方がないと思えるレースだった。「たぶん2倍くらいの配当だろう」と僕は答えた。

 仮に2倍ついたとして、50万円が100万円に増える計算になる。ほんの数分間レースを眺めているだけで、ちょっとした大金が懐に転がり込んでくるわけだ。そう考えると僕は自分のことのように胸がドキドキしてきた。

「2倍か……、結構つくんだな」

 ときどき思い出したようにグラスを口に運びながら、小泉はあらぬところを見つめている。僕はなぜ小泉が馬券で大勝負しようと考えたのか猛烈に興味がわいてきた。

「なんでまた馬券で勝負するんだ?」

 小泉は僕の顔をちらっと見た。それから、手に持っていたグラスをカウンターに置き、タバコをくわえると店のマッチで火をつけた。何度か煙を吐き出し、ちょっとうつむきながら小さな声で言った。

「金がいるんだよね」

 なんともとりとめのない話だった。知り合いの弟がちょっとしたトラブルを起こして高校を中退してしまった、今はぶらぶらしているが悪い仲間と付き合っているようで心配だ、働く気はあるが高校中退では就職先を見つけるのも大変だ、なので専門学校にでも通って技術を身につけたいが先立つものがない、ということらしい。

「その知り合いって誰なの?」

 僕がそう聞くと、小泉は僕の顔を横目で数秒間眺めて、それから前を向き、今度は僕の顔を見ないで答えた。

「女」

「女? 女って、どこのだれ?」

「飲み屋。アパートの近くのスナック」

 大学卒業後の二年間、小泉は大学院に進学した友人とマンションを一緒に借りて暮らしていたが、その同居人が地方で就職したので、今は別のアパートに引越していた。そのアパートの近くにあるスナックにときどき通っているという話だった。

 小泉は大学の時からあまり浮いた話もしない男だった。田舎には高校時代から付き合っている彼女がいるそうだが、司法試験生として状況も微妙らしい。大学時代の友人には、すでに結婚したやつも何人かいた。二十代半ばを過ぎ、僕も小泉も、いわゆる「現実」を考えざるを得ない年頃になっていた。

「そのスナックの女と付き合っているの?」

「いや、たまに行って話しするだけ」

「金貸してくれって頼まれたのか?」

「いや、そんなわけでもない」

 僕はすっかりわけがわからなくなってしまった。どうして小泉が金を貸す必要があるのだろうか、金が余っているならまだわかるが、親から送ってもらう大切な学費を競馬で増やそうとする、しかも50万円という俺の月給の3倍にもなる大金を……。

 それから、僕は小泉がやろうとしていることがどれほど馬鹿げたことかを一方的に力説した。焼酎ロックを飲むペースが急速に早くなった。小泉は特に口をはさむことなく僕の話を聞き続け、タバコを吸い、そして焼酎ロックを何杯か飲んだ。

「結局さ、『銀行馬券』なんて存在しないんだよ。たしかに今年はメジロとテイオーで固そうだけど、仕送りなくしちゃったらどうすんの? 自分で稼いでいるわけでもないのに。しょせん競馬なんて走ってみなけりゃわからないんだから……」

「それが勝負ってもんじゃないのか?」

 小泉が誰に言うわけでもなく、低い声でそう言った。

 少し呂律が回らなくなってきた僕は口をぽかんとあけたまま小泉の顔を見つめた。

 初老のマスターがにやりと笑った。


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