第二章 天部光臨 壱――運命
たえ姉との出会いは二年前。それはきっと、二人にとって運命だった。
冷たい雨が、死にかけているオレの体を叩いている。家の前で無様に転がっているうちに、冷気で《魂命》が少しずつ減っていく。
そんな時だ。
「……どうしてそんな所で寝そべっているのかな?」
ぼろぼろの布みたいな服を着た少女が、雨に打たれながら慈愛に溢れた笑みを向けていた。
「寒くないかい? 動けないのかな……それなら、手を貸してあげるよ。ほら、おいで」
「あ、ああ……」
「家は?」
「そこ……」
「うひゃぁ、大きいね。お父さんとお母さんは?」
「去年死んだ。今は一人暮らしだよ」
「あー……それはごめん。少し気遣いが足りなかったね」
「別に、大丈夫だよ」
一年も経てば悲しみも風化する。それにそもそも、落ち込んでいられるほど世界は優しくなかったのだから。
「そっか。ごめんね。……それで、君はどうしてこんなところに倒れていたんだい?」
「ああ、それは……オレ、最近になってよく電界に不正に侵入してて」
「さらっと凄いことを」
今にして思えば、本当に不思議だと思う。どうしてこんな簡単に、オレは彼女に心を開いていたのだろうか。
「それで、その……失敗しちゃって」
「ああー。しっぺ返しでも食らったんだね」
その頃はちょうど電界の情報構成領域への不正侵入を始めたばかりだった。そしてこの時のオレは、間違えて掃き溜めのような場所へ道を繋いでしまい、その際に防衛機構のようなものによって無理やり弾き出されたところだった。
その思い出すも悍ましい世界を目に焼き付けたことによる精神への圧迫や、防衛機構による《魂命》への直接の攻撃などから、現実に帰還したオレは虫の息だった。それからのことはほぼ覚えておらず、気が付けば家の前で倒れていたというわけだ。
「それより、お姉さん、は……?」
「ああ、わたしか。……わたしは、実は何も覚えていなくてね」
「え……?」
「記憶喪失というやつさ。気が付けばすぐそこで倒れていて、寒いしどこか身を温められる場所へ行こうと思ったときに、君を見つけたんだ」
「ああ、そうか……じゃあ、名前も?」
「うん……」
それまでずっと、オレを安心させるように柔らかく微笑んでいた少女は、ふとその笑みを曇らせて、
「わたし、だれなんだろう……。なんだか、その……すごく、」
「こわい?」
うつむいて泣きそうな少女の横顔を覗き込んで、オレは優しく問いかけた。
少女は数秒黙り込んで、
「うん、ちょっと……」
「さっき、すごい、って言ったよね」
「あ、いやー。それは言葉のあやだよ。わたしはお姉さんなんだから」
「うち、来なよ」
「え……」
助けられているのはオレの方だったはずだけど。
どうしてか、その少女を放っておけなくて、そんなことを言っていた。
「家、広いからさ。一緒に暮らそう。君がそれでいいなら……おいでよ」
「……、ぅ、うん」
驚いたように目を丸くしてこちらを向いた少女は、それからすぐに顔を赤くして俯いてしまった。
「それで、君の名前だけどさ。オレが付けてもいい?」
「え、ああ。お願い」
すぐに赤い顔を余裕ぶったそれに戻して、オレの言葉を待つ。
「たえ、っていうのはどうかな」
「へえ。なんで?」
「オレに『多くの恵み』を与える、って意味で。きっと、オレはこれから君に助けてもらってばかりだからさ」
「そっか。……嬉しいよ。漢字、得意なんだね」
「勉強したから、ね……」
「偉いね。っと、そうだ。君の名前を聞いていいかい?」
「オレ? オレはね……あわしま。天津淡島って言うんだ」
「そっか。意味はよく分からないけど、でも、良い名前だと思う。だって、君の名前だからね」
「そうかな。じゃあ、これからよろしく、たえ姉ちゃん」
「うん、よろしくっ」
「そうだ、苗字は天津でいいよね?」
「あー……、いや、それは遠慮しておくよ」
「え、どうして?」
「だって、それじゃあいざという時に色々と面倒がありそうだし。だからそうだね、苗字は適当に『七識』とでもするよ。七識たえ」
「よく分からないけど、分かったよ。とにかくよろしくね、たえ姉ちゃん」
「うん。よろしくっ」
その出会いは運命だったと思う。
たえ姉と出会ったことは、オレのかけがえのない財産だから。
それだけは、胸を張って言える。
☆ ☆ ☆
「がふぅッ、げば! がッ……。は。ぶふぁぅ……ッッ!」
最後の一人を仕留めた瞬間、全身の血液が沸騰したが如き熱が襲ってきた。もはや激痛という言葉すら生ぬるく、『痛い』よりも『熱い』という言葉が近いだろう。気が狂いそうなほどの苦痛の渦中に呑み込まれて、触覚が絶叫を上げていた。体を動かしただけで全身が悲鳴を上げている。
血反吐をまき散らしながら地面をのたうち回るっているうちに、先ほど顔無しに付けられた腹の傷がさらに広がった。
「ぎッ、ィあ……! かふ……ッ、ふ、ふっ、ぁ……ッ!」
たちまち減っていく《魂命》に、さすがに命の危険を感じ始めた。
戦闘が終了して残っていた《魂命》はおおよ一〇〇〇は残っていたが、無理な出力・火力の底上げによって魂の情報そのものが傷つき、現在は一〇〇近くにまで減っている。
数値は今なお緩やかながらも減少を続けており、とうとう三桁を切った。
「ぐッ、ち、ィ……ッ!」
《窓》を開いて《装備品》の欄から回復薬を取り出して一気に飲み干す。
「んぐ……ん……ッ。ぐ、はぁ……ッ。はあ、ぁっ……はぁっ。あッ……ッッ」
数値の減少速度が低下していき、やがて停止する。そこから僅かのみ上昇して……残った数値はおおよそ八〇。ここで顔無しに喧嘩を吹っかけられてしまえば今度こそ死ぬだろう。
戦闘中は余裕ぶって見せてはいたが、実際本気を出してしまえばこんなものだ。
想いの力の発露――その過剰使用による副作用だった。自身の心を奮い立たせ、魂を燃やすこの力は――当然ながらその魂に大なり小なり負荷をかけるもので、それは六勢力の大将であろうと変わらない。
そしてオレは――オレは、一度覚悟を決めてしまえば、それを止めることができない。まるで後ろから何かに追い立てられるように、魂魄を燃やしながら破滅へ破滅へと突き進んでしまうのだ。
それは自分が自分でなくなってしまうような感覚を伴っていて、しかしその最中は全能感に支配されているため、それを自ら止めようとも思えない。
「……………………」
激痛や呼吸が収まったところで、オレは仰向けになって森の中に寝そべった。折り重なる葉の間をすり抜けて、淡い月光がオレの憔悴した顔を照らし出す。
森の向こうには星空が見える。
「そろそろ戻るか……」
近くで気絶している、殺さなかった『顔無し』を捕縛するため、未だ少し痛む体を起こそうとしたところで――
「あっくん!」
荒い息のまま必死にオレの名前を叫ぶ、幼馴染の声が聞こえた。
「あっくん、そんなところにいたのかい? 大丈夫か、死んでないよなっ。消えてない? 生きてる? ほんとに大丈夫?」
「……見て、分からないか……? どこからどう見ても、死にかけてるよ」
「~~~~~っ、そんなボロボロのくせに、笑ってるんじゃないよぉっ!」
「ははっ、ごめん……でも、あいつら嫌いだったし、それに、何より……こうでもしないと、たえ姉が……」
「そんなことどうだって良いんだッ!」
たえ姉はオレの言葉を遮って、顔をくしゃくしゃにして涙を流していた。
戦闘の影響で原形もとどめぬほどに破れてしまった服を、まるで父親を引き留める子供みたいに力強く握りしめて、絶対に離そうとしない。
「君はそんなこと考えなくてもいい! わたしが、わたしがずっと守ってあげるから。だから、どこにも行くんじゃないっ。わたしの隣で、わたしの作った料理を食べていればいいんだ! 変な意地も張らなくていいッ! 男の子っぽくならなくていいッ! 理想を追いかけなくてもいいっ! わたしの隣にいればいいんだっ! わたしが甘えさせてあげるから。ずっとずっと、君のことをわたしが守るからっ。だからどこにも行くなっ、行くなっ!」
「え、と……」
「君にそんなのは似合わないんだよ! 強がって遠くに行こうとするな! そんな風に無理しないで、わたしに甘えていてくれよ……っ。いっつも、いっつもそうやって一人で抱えて、ほんとうに、ばか。ばかだよ君はぁ……っ」
泣きじゃくる声は悲痛で、訴えかけられる言葉は切実だった。
「ねえ、頼むよぉ……」
そして、ゆっくりとオレの体に額を当てながら、彼女は言った。
「――お願いだから……捨てないでよぉ……」
「……うん、ごめん」
彼女の言葉や考え方は、本来はオレが最も忌避するようなものであるはずなのに。
どうしてだろう――彼女に言われてしまうと、オレは何も言えなくなってしまった。
オレが大怪我をするたびに聞かされる言葉だ。
そのたびに、なぜか――ああ、この子を泣かしてしまったと、反省するのだ。
そして、こんな姿の幼馴染を見てしまうと、先までの激痛などどうでもよくなってきた。たえ姉を泣かしたことの方が、遥かに痛い。
「でも、もし」
縋りついて涙と鼻水を流していたたえ姉が、ゆっくりと顔を上げる。
まだ涙の跡が残るその顔を、無理やりにお姉さんぶった笑みに変えて、
「もしもね、あっくん……それでも、あっくんがその夢を叶えたいなら、もっと人を受け入れないと。今みたいにできない人を切り捨ててたら、結局残るのは冷たい人だけになっちゃう。だから、あっくん……できない人を要らないって放っておかずに、話を聞いてあげようよ」
そういえば、昔にも誰かにそんなことを言われた気がする。
「……っ。そう、なのかな……」
「うん、きっとね。だってさ、そうしないと、結局あっくんの世界で生きられる人って、みんな自分一人で完結しているんじゃないのかな?」
「それは――……」
確かにそうかもしれない。オレの言葉通りなら、そういうことだ。
実際、オレはそれで間違っていないと思っていたけれど、でもそれは――
それはきっと、何かが欠けている。人として一番大切なことが、欠けている気がする。
「悩めばいいと思うよ。まだまだあっくんは若いんだから。ただ、これだけは覚えておいてほしいんだ――」
小さくはにかんで、その整った顔がオレに近づき――
ちゅっ、と。頬に優しく口づけされた。
「……っっ」
「あっくんって、本当はとても優しいんだよ? さっきも言ったけど、あっくんはね、そうやって大きな声で人を威圧するような人じゃない。君は冷たくなんてない、優しい子だ。他の誰も知らなくても、わたしだけは知ってる」
真っ赤な頬を押さえながら、オレは何も言えずにたえ姉の女神のような微笑みに釘付けになっていた。
「そしてもう一つ、自分の命は大切にすること。無茶しちゃだめだ。あっくんの命はあっくんのものでも、それを当人と同じくらい大切に思っている人もいるんだ。それを、知っていてほしい」
「まあ、それは……善処する」
「よしっ」
嬉しそうに笑って、たえ姉はオレをゆっくりと起こしてくれた。
「じゃあ、帰ろうか」
「ああ。――っと、その前に」
「はいはい、あの『顔無し』さんだね? 分かってるよ。一緒に連れていく」
「きちんと縛って身動き取れなくしておくよ。……まあ、腕と足が無いから大丈夫だろうけど」
星空の下、二人寄り添い合って家に帰る。
じかに触れるたえ姉の心は、オレを想う気持ちで満ちていて、優しく、暖かかった。