第一章 顔無し 参――不正侵入
あくる朝。
目を覚ましたオレはまず寝間着を着ているかどうかの確認をしたのち、布団をめくって中に誰もいないかを確かめる。
何事もないと分かったところで、今度こそ完璧に起きる。布団をたたんで部屋の端へ寄せてから居間へと向かった。
廊下を歩いていると、台所の方から香ばしいにおいが漂ってくる。とんとん、と包丁で何かを切る音が警戒に響いてきて、オレは結局そちらへ向かうことにする。
のれんをよけて中を覗くと、色の濃い浴衣を着て料理をしているたえ姉と目が合った。
彼女はオレの顔を見るや、その表情に笑顔を喜色で満たして、
「おはよう、あっくん。どうしたんだい? 今日はちょっと早いじゃないか」
「ああ、おはようたえ姉。そういう日もあるだろ」
「まあそうだね。いつもわたしが起こしに行ってるから、今日は少し新鮮だっただけだよ。そうだ、朝餉はもう少し待ってね。今お味噌汁を作っているから、もう数分もしないうちにできるよ」
「そっか。何か手伝うことはある?」
「別にないよ。ささ、早く戻った戻った。あとはわたしがやっておくから、あっくんは休んでていいよ」
「そうか……ならお言葉に甘えようか。待ってる」
「愛情をたくさん込めておくから、楽しみにしていなよ」
「はいはい」
朝の挨拶と軽口を交わして、オレは居間へ向かった。
食事という行為が、電気信号の塊として存在しているオレたちに必要なのかとオレはいつも思っているのだが、この世界における食事は電界から命の源――つまり電気的な動力源――を取り入れる行為に他ならない。
人によればこれを無駄な工程だと考える者もいるだろう。
――そんなことをせずとも、電界から直接動力源を供給すればいいものを、と。
それは確かに合理的で賛成するところもあるのだが、やはり食事をとることの意味は大きいだろう。
料理と食事は、人類が編み上げた文化の中で最も重要で偉大なものだろう。
食材を調理して栄養の接種をも(語弊を恐れずに表現するならば)娯楽へと変えたのは、ヒトが動物ではなく人間であったからこそ。知性を持った強欲な存在だからこそ、だ。
「はい、お待たせ。いい子にして待っていたかい?」
「子ども扱いはやめてくれよ」
お盆に二人分の料理を乗せてやって来たたえ姉に抗議するも、彼女は笑うばかりで改めようとは思わないらしい。
小さな卓を挟んでオレの向かい側にちょこんと座ったところで、二人して手を合わせた。
「「いただきます」」
今日の献立は白米に味噌汁、焼き鮭と大根の漬物だ。
白米は昨晩の残り物ではあるがちょうどいい噛みごたえで、口を動かすたびに甘さが口内に広がっていく。鮭を含むと白米の甘みと鮭の塩辛さが融合して、美味という名の槍となって上あごを貫いた。意味が分からない表現かもしれないが、それくらいたえ姉の料理は旨いのだ。
味噌汁も出汁が効いており、大根の漬物も酸味が程よく口直しにはちょうどいい。
ありきたりな献立ではあるが、だからこそひとつひとつの味付けや焼き加減における技量の高さが際立っている。
「どうかな? 特別なことは何もしてないんだけど」
「旨いよ」
「感想はそれだけ? 少し寂しいなー」
「別にひとつひとつ感想を言ってもいいけど、食べることに集中したいしな」
「そっか。まあ、料理がおいしいと言われて悪い気はしないね」
そう言うと、たえ姉はオレの頭を優しく撫で始めた。
「ちょっ、おい。子ども扱いするなって」
「うーん? わたしからしたらまだまだあっくんは子供なんだよ。それに君は危なっかしいから、わたしがこうして褒めたりしないとね」
「…………っ、だ、だからって別に頭を撫でられなくても大丈夫だよ」
たえ姉の意見には正直少し同意するところがあり、これが彼女の優しさの表現方法なのだとはわかるが、さすがに十六にもなって年上の幼馴染に頭を撫でられるというのは男としてどうなのか。
オレは頭を振って彼女の手から逃れると、食事を再開した。
「えっ……。ぁっ」
だが、その直後にたえ姉が心細そうな声を出した。
「……?」
普段の余裕のある彼女には似つかわしくない、焦りと恐れを多分に含んだ――ともすれば聞き逃してしまいそうなほど小さな声に違和感を抱き、オレはたえ姉に視線を戻した。
「あ、いや……えっと」
穏やかで余裕のある瞳は、信じられないものを見るかのようにオレへ向いていた。そこには焦りにとどまらず、小さな絶望すら感じるほどで……
「たえ姉?」
「あ、いや。えっと……あ。ああっ。そうだ。すまなかった。あっくんも、もう十六だ。そりゃあ頭を撫でられて素直に喜べる年じゃないか」
「いや……別に素直とか関係なく喜んでるわけではないけどな」
「またまたー。そんなこと言って嬉しいくせにー」
だが、やがて憑き物が落ちたように、元の明るく余裕のある笑みを浮かべ直してオレに笑いかける。
その表情の変化があまりにも鮮やかで自然だったため、見間違いだったのかと錯覚してしまいそうだった。
とはいえまあ、彼女のこうした唐突な雰囲気の変化は昨年あたりからよくあることなので、ひとまずはそれには触れず食事を進めていった。
楽しく笑顔や言葉を交わしながら箸を進める。
食事が終わった頃には、彼女は先ほどの異変などなかったかのようにオレの頭を撫でていた。
☆ ☆ ☆
「たえ姉。オレ今から部屋にこもるから」
「うん? ああ、そうか。今日も特定の大人しか読んじゃ駄目な本を読みに行くんだ」
「……言い方が悪いな。まあ、間違ってないんだけど」
「いやいや、別に責めているわけじゃない。だって好きなんだろ? だったら止めようとも思わないし、勉強は良いことだしね。……やってることは犯罪だけど」
まあ、わたしは世界の規則よりあっくんの夢の方が大切だからいいんだけど、と優しく笑いかけてくる。
「ただ命だけは落とさないように気を付けるんだよ」
「ああ、気を付けるよ」
朝餉を終えてそんな会話をしたオレは、部屋に戻ると真ん中に再度布団を敷いて、その上で胡坐をかいて瞼を閉じた。
視界が闇に覆われ、それに続いて聴覚、嗅覚、味覚に触覚と、五感を意図的に外界と遮断した。
そのまま意識だけを己の深奥へと向け、魂の奥の奥へと潜り込んでいく。
魂の底へと向かっているうちに、暗黒で満たされた世界に色彩が宿り、眼下には硬質な立方体の物体がそこかしこに向きを揃えて並べられている空間が広がっていた。オレ自身は空に身を投げ出されており、既に重力に引っ張られていた。
オレは別に、目を開いたわけでも、どこか異なる場所へ瞬間移動したわけでもない。
真下に広がるのはオレの意識領域の原風景――つまり心の形である。
几帳面で理路整然とした空間でありながら、その並びには強い『我』がある。
立方体の並べられた空間――その最奥には、固く閉ざされた巨大な扉があった。
あれは『末那識』と呼ばれる領域へと至るための扉である。この扉を開き『末那識』へと至れば、さらなる力を得ることができると言われており、魂の格が一つ上へと上がるらしい。
唯識論と呼ばれる仏教の思想において、五感に対応する『五識』のさらに奥に存在するのが第六識たる『意識』であり、この意識が人間の表層意識の最も深い位置に存在する領域だ。
末那識とはそれよりさらに深い位置――即ち深層域に存在する、己では決して知覚することのできない『識』である。
ただし、今のオレにとって末那識への扉などどうでもいいことで、ここへ来た目的を果たすためにも無視することに決めた。
己の意識領域に足を付ける。
「さて――」
一つ声を上げると、オレは己の心の中に投影された疑似的な体をぺたぺたと触った。
目は見えるし触覚も戻っている。声も聞こえることから聴覚もしっかり働いていることが分かる。
あとは味覚と嗅覚だけだが……
「創造――」
右手の手首から先を、小さな大筒のようなものへと変形させる。おおよその外見は資料で見た大筒と大差ないが、ただ一点――後部にも穴が空いているという点で異なっていた。
というのも、そもそもこれは大筒の姿を模しただけの、全く異なる兵器なのだ。
無反動砲と呼ばれる旧世界で使用されていた歩兵兵器であり、鋼鉄車両や城や砦の破壊に役立ったもの。
オレは右手を前へと掲げて砲弾を発射させた。凄まじい速度で遠方の立方体へと突っ込んだのち、爆炎を上げてそれを木っ端微塵にした。
炎上による嫌な匂いを感じて、嗅覚が戻っていることを確認。
さらに左手に竜爪を装着して、近くの立方体を傷付けた。ぱらぱらと落ちる粉末をほんの少量手に取って、舌に付ける。
「まずいっ」
ぺっ、とつばを吐き出して、オレは意識を含めた表層域の六識全てを掌握したことを理解する。
五感をしっかり知覚しているし、意識も明瞭。
己の魂の一部を切り離した分身を生み出すことに成功した。
さて、それでは『侵入』を始めよう。
☆ ☆ ☆
オレは心の中で編み上げた分身体を一度分解して、無味無臭――彩いろどりの無い乾燥した世界の中に再構成していた。
意識領域から抜け出して、その外側――つまり電界を形作る情報の海そのものへと侵入を果たしたのだ。
ここは言ってしまえば世界の裏側であり、根底にして世界そのもの。
葦原電界と呼ばれるオレたちの世界を構成する情報の集合体である。
当然だが周囲に人がいる気配はない。
オレがここへ来た理由――それは、調べ物をしたいからだ。
本来オレたちが何か調べ物をしたいときは、こんな風に意識を再構成し、分身でもって世界の裏側に侵入せずとも、指定の施設で電子書籍を漁るなり旧世界において《いんたーねっと》と称され全世界の人間が調べ物をする際に使用していた《電界情報網》を使用すればいい。
だが、オレがそうせず、こうして電界そのものとも言える空間へと潜入しているのは、簡単な話――オレに閲覧が許されていない本を『盗み見る』ため。
電界には様々な情報がそれこそ無限に保存されているのだが、それらは重要度や危険度に応じて九つの段階に分けられ、それらの情報を閲覧するための権限が個人個人で異なっている。《情報開示権限》と呼ばれるものだ。
年齢や身分によって変わるのだが、基本的に一般人に許された権限は四層目まで。その内容は、〇歳から十一歳までが権限『一』、十二歳から十四歳までが権限『二』、十五歳から十七歳までが権限『三』、そして十八歳以上の権限が『四』となっている。それぞれの権限で見られる資料の違いは単純に知識の難易度や、思想の極端さや危険さなども考慮されている。
研究者になれば、その専門分野に関する情報だけだが、それでも五層目の情報を閲覧できるようになる。
ただ例外として、阿修羅街を統べる六勢力の大将どもは、おそらく五層目の全ての情報を閲覧することが可能だ。
彼らは研究者ではないのだが、この葦原電界の頂点に位置する人間であるからだと、依然凪奈が言っていたのを思い出す。
そしてオレの権限はというと――十六歳なので年齢的な制約から、三層目までの閲覧権しか持っていない。
それでは深い知識は得られない。
一般人が知ることができる程度の情報を得たところで、あまり面白みはない。よって、こうして世界の裏側へ不正侵入――ようは犯罪行為に恒常的に手を染めることになった。
初期は慣れていなかったこともあり情報を守護する防衛機構や障壁に意識を焼かれかけたりもしたし、訳の分からん場所に道を作ってしまい、残骸だらけの掃き溜めのような場所に出たこともあったが、今ではそんな愚を犯さない。
約七年の実践によって、五層目までは難なく侵入することが可能になった。もっともそこから、さらに専門分野ごとに部屋分けされており、そこへ侵入するという工程が必要なのだが。
周囲に広がるのは、無数の鉄の扉だ。これらが各専門分野の文献や情報が収められている部屋への入り口で、扉の情報には『分析化学』やら『量子力学』、『宇宙物理学』に『遺伝学』と書いてある。この辺りは自然科学を扱った場所だろう。
『さて、どうするかな。そろそろ六層目に隠されているものも知りたいんだけど……』
そう呟いて、オレは昨日に凪奈から聞いた話を思い出した。
顔無し――
都市伝説にも近い、葦原電界の各地で語られる妖魔、怪異、化生の類。
これまでは眉唾物だとしか思われていなかったその存在が、ここ七年で少しずつ目撃証言が増加していき、つい最近ではその被害が死者という形で現れたと聞いた。
ここ最近はずっと自然科学系だったし、たまにはこういう趣向も悪くないだろう。
被害者が出ていることや、ここに来て表面化してきていることからも、調べる価値はあるだろう。
だとすれば、資料はどこか……
怪異というからには、それらは人の噂や言葉がもととなって生まれた概念なはずだ。
ならばとオレは歩きだす。自然科学の一帯を抜けて、民俗学の資料が置いてある情報区画の方向へと進み始めた。
☆ ☆ ☆
痕跡を見せず民俗学の資料情報が集積されている場所へと侵入したオレは、防衛機構の網に引っ掛からぬよう注意して電子の海を彷徨いながら、資料を片っ端から検分していく。
中の景色はまさしく図書館といったものでそこまで珍しい造りはしていないが、色合いの違和感が凄まじい。
早い話が、色が反転している。
例えば本ならば、貢そのものは黒地であり、文字は白。
その他にも本来なら赤であるはずのものが紫に変わっているなどしており、長時間ここにいれば気が狂ってしまうかもしれない。
非正規に資料を閲覧しようとする者に精神的圧迫を与え、綻びを見せたところで防衛機構が稼働して不正侵入した犯罪者を取り締まるためのものだろう。
今はまだどうということもないが、さすがに二時間も三時間も留まっていればどうなるか分からない。早めに出た方が良さそうだ。
背表紙から内容を大まかに把握して、情報が載っていそうなものならば中を開いて目次を眺める。それから貢を最後までめくっていき、巻末に乗っている索引で顔無しに該当するものや類似する概念の用語がないか探すという作業を、一時間ほど続けていたが……
『のっぺらぼう、ではないだろうな……』
顔無しという名の妖怪から連想される妖怪と言えば『のっぺらぼう』だが、あれは人を驚かすことはあっても、殺あやめたりすることはないはずだ。少なくともオレが効いた話や今調べた範囲にはそのような記述はなかった。
加えて、のっぺらぼうは口や目や鼻といった顔の部位が存在しないのであって、黒い布を頭に被っているわけではない。
『やはりここじゃないのか? ――ッ、づッ……。まずい、な――……』
頭の中で唐突に発生した痛みに、オレは良くない兆しを感じる。
あと一時間はここに残っていられることは確かだろう。しかし、それには当然危険が伴っている。あと三十分以上ここにいれば少しずつ綻びが見え始めるだろうし、一度防衛機構に捕捉されてしまえば逃げるのが難しくなる。
長居すれば有用で決定的な情報を得られるのならばまだしも、この一時間の調査から考えるに、そんな期待も抱けない。
いたずらに疲労を蓄積する必要もない。
結局オレは情報図書館の網から逃げ出して、そのまま現実へ――オレの本体がある電界へと意識を浮上させた。