第一章 顔無し 壱――百花繚乱
激しい頭痛に襲われて目を覚ました。
窓から差し込む朝日に顔を照らされて、半ば強制的に起き上がる。
「つぅ……! 頭いてえ……っ」
布団の中に暖かく柔らかい感触を感じるも、特に気にしないままそれを横によけて、布団から這い出るとゆっくりと伸びをした。
少し涼しい朝でいつもならば心地よく感じるはずなのだが、今は頭痛が酷すぎるため特にありがたみを感じたりもしない。というか、それにしても少し涼しすぎるのではないだろうか。少し肌寒さすら感じる。なぜかいつもより体も軽いし、何も身に付けていないみたいだった。
「……?」
そこでオレは強烈な違和感に襲われた。
不思議に感じて視線を下げてみると――
「……え、何でオレ全裸なの?」
全裸、だった。
え? なんで? もしかして寝てる間に服を脱ぐ技でも身に付けたのだろうか。
だが、サッと布団の周りを見渡してみてもそれらしいものは見つからない。
「何なんだ……?」
朝から意味の分からない事態に出くわして軽くため息をついていると、
「ん、んぅ~」
「へ?」
なぜか布団の中から変な声が聞こえてきた。
誰もいないはずの布団なのに、こんもりと人ひとり分の体積が収まるくらいの膨らみがある。
「うみゅぅ……あっくぅ~ん……駄目だよそんなところー……」
「……………………」
布団の中から漏れ出してくるのは女の子の声だ。それもオレがよく知る女の子。
七年前に出会って以来ずっと一緒の幼馴染で、二つ年上のお姉さん。
七識たえの声だった。
「…………まずい」
直感で理解した。というか馬鹿でも分かる。これはまずい。絶対だめだ。
うなじからすぅーっ、と熱が奪われて寒気が全身を襲うのが分かった。
詰んだか? これもう詰んだか?
……いいや、待て。大丈夫だ。落ち着け、落ち着け。
まずは状況を整理しよう。
まずオレは酷い頭痛に襲われて目を覚ました。
布団の中には暖かくて柔らかい何かが乗っていて、オレはこれを横へどかして布団から出た。……おそらくだがこの暖かくて柔らかい何かは、布団の中で変な声を上げているものと同一の存在だろう。
そしてオレは全裸だ。
「王手、か……」
そう、まだだ。
詰みかと一瞬諦めかけたが、まだ敗北は決定していない。
なぜなら、あの布団の中にあるものが寝ているたえ姉とは限らないからだ。
あの中にあるものはたえ姉を模した人形かもしれないし、たえ姉の声を再生するだけの機械かもしれない。何だそれは、業が深いな。
もしかしたら死んでるたえ姉かもしれないしな。
……いや、それは困るな。そもそも、死んだら魂は《天の屑箱》へと落ちるから、あんな風に遺体は残らない。
「すぅぅぅぅぅー…………」
気合を入れるために深呼吸をして、全裸のままゆっくりと布団へと近づいていく。
「いざ尋常に――勝負っ!」
意を決して布団をめくり上げると、その中にいたものの正体が暴かれる。
全裸のたえ姉だった。
想像を遥かに超えてきた。
薄い金色の長髪と線の細い肢体。足はすらりと伸びていて、命いっぱい露出されたそれはとても艶めかしい。胸部だけは残念なことになっているが、あれだけ体が細ければ許されるだろう。身内びいきを抜きにしてもオレの幼馴染はかわいいと思う。
だが、今はそんなことはどうでもいいのだ。どうでもよくはないが、それ以上に切迫した事態にある。
「…………………………………………………………………………………………………………」
全裸のたえ姉が、全裸のオレの布団の中で、寝ていた?
もう駄目じゃないのかこれ? いや、もう詰みとかそんな次元の話ではないぞ。
事案だ。
「う、うぅん……」
しかも最悪なことに、オレの焦りがたえ姉にまで伝わってしまったのか、彼女はまぶたをしばしばさせて目を覚ましたのだ。
寝ぼけた瞳でこちらを見上げながら、
「……あれ。もしかして、あっくん……? やあ、おはようー」
そんな風にいつもの飄々とした調子であいさつをしてくるのだった。年上らしい余裕のある表情だ。だが忘れないでほしい、オレは今、全裸である。
「って、あれ……?」
そして、たえ姉もまた、全裸である。
彼女は何か自分の視界に映っている光景――特にオレの格好――がおかしなことに気付き、たちまち顔を赤くした。だが、すぐにその端正な顔にニヤリと悪そうな笑みを浮かべた。
「ふう~~~ん……」
「いや、待ってくれ。頼むからその悪そうな笑顔をやめてくれ!」
たえ姉は面白いおもちゃを見つけたような笑顔でオレ(全裸)を見る。
「あっくん……これは、何だい……?」
「いや、ちょっと待ってく――」
「お、その格好のまま近づくんだあ」
「ぐ……!」
「って、あれ……?」
終始たえ姉が有利な会話が続いていたのだが、そこでふと彼女が自身の格好の違和感に気付いた。
具体的には、何も着ていないことに。
「え」
それまでニヤニヤと笑みを浮かべていた彼女の表情から、余裕が一瞬にして消え去った。
「――――」
彼女も年ごろの少女だ。少女であり処女だ。ならば、記憶がないままでこの状況を理解したならば、どうなるか。
「わたし……ねえ、何があったんだいあっくん……?」
布団を抱き寄せて体を覆い隠し、引きつった笑みでそんな風に聞いてくるたえ姉は、もういっそ哀れだった。目が少し潤んでいるようにも見えるし、これは本当にまずいことになった。
「…………っ」
先ほどとは打って変わって助けを求める小動物のようなたえ姉はかわいかったが、そんなことを考えている場合ではない。
「たえ姉……」
「う、うん……っ」
緊張した面持ちで尋ねてくるたえ姉に、オレは告げる。
「去勢します」
☆ ☆ ☆
それから三十分、自らの性器を切り落とそうとするオレと、それを止めようと本気で掴みかかってくるたえ姉との死闘が繰り広げられた。
結局たえ姉に説得されて去勢は思いとどまったものの、彼女にしたことの責任を取るためにはどうするかは考えなければならなかった。
「結婚するかたえ姉?」
「馬鹿かい君は!? そんな風に結婚を申し込まれても嬉しくないよ! 本当にわたしと結婚したくなってから出直すんだね」
去勢騒動も終わり落ち着きを取り戻したオレたちは、ひとまず服を着てから居間へ向かった。
部屋に入ってまず目に入ったのは、卓の上に無造作に置かれている酒瓶の数々だ。
「そういえば昨日は二人で盛大に飲んだのだっけ」
「そうだったね。ああまったく不覚だ。酔っていたとはいえ、まさかあっくんの布団の中に全裸で潜り込んでしまうとは」
酒瓶を片付けながら、オレたちは少しずつ昨晩の記憶を取り戻し始めていた。
昨日は確かオレとたえ姉が出会ってから七年目ということで、そのお祝いとして思う存分飲んだのだったか。
葦原電界に限らず、オレたち人類が暮らす五つの電界は、旧世界に存在した様々な嗜好品をこちらに《事項品》として持ち込んだ。聖欧電界では《あいてむ》と呼ぶらしいが、同じ意味なのかはよく分からない。この八百年で各電界における上層部同士での繋がりはあったものの、個人間の交流や移動などはなくなったしまったため、時と共に外来語の類はほとんど使われなくなってしまったのだ。
話が逸れてしまったが、ともかくオレたちは電脳世界でも酒に溺れることが可能だというわけだ。
「それにしても、酒を飲んだ勢いでわたしを布団に全裸で誘い込むとは成長したね、あっくん」
「やめてくれよ……たえ姉が看病してくれたんだろ?」
「まあねー」
もっとも、そのたえ姉もオレを寝かし付けた後は力尽きて服を着替える前に寝落ちしていたらしいし。
まあ、以上のことから、昨晩オレたちの間に責任が発生するようなことは起きていない。
それでもまあ、女性の裸を見たという事実は変わらないわけで……
「だから気にするなってー。さすがに朝チュンは驚いたけど、別にあっくんに裸を見られたからって怒ったり嫌いになったりしないから」
「でもさすがに何もなしというのはなあ」
「だから大丈夫だって。本当に君は、変に真面目で放っておけないな。いつか変な女に騙されないようにしてね。本当に、これは本気で」
「あ、ああ……」
やたらと食い気味で来るたえ姉にたじろぎながらもとりあえず返事をしておいた。
もうずっと一緒にこの家に住んでいるけれど、まだまだ彼女に関して知らないことはとても多い。
「ならいいんだっ。ささ、それより今日は出かける約束していただろ? 買い物だ。そろそろ新しい服が欲しかったんだ」
「そうだったな。じゃあちょっと装備品だけ整理するから待ってて」
「りょーかいっ。わたしもお化粧してくるよ」
そうしてそれぞれ自室に向かい、支度を始めた。
☆ ☆ ☆
お気に入りの赤の和服を纏い黒色の帯を締めると、壁に立てかけている太刀と小刀を腰に佩き、長い髪を頭の後ろで縛って身支度を整えた。
指を鳴らすと視界に《窓》が展開される。
《窓》の右側には上から順に《写真》《勲章》《装備品》《記録》《心理類型》が映し出されており、左上方には《魂命》……いわばオレの生命力、どれだけ死から遠いかの項目が存在する。
そしてその下には『天目装者』の文字。これはオレの能力だ。
オレは《装備品》の項目を指で押し、内容を開く。
「お金と会員証、地図……これくらいか。何かあっても大将でも来ない限りはたえ姉を守り切れるか」
身支度を終えたオレは部屋を出て玄関へ向かう。
扉の前では、たえ姉が先に着替えて待っていた。
「遅かったね。どうしたんだい? 女のわたしの方が準備が早いなんて」
「たえ姉が早いんだよ」
彼女の出で立ちはどこにでもいる町娘という印象で、特に化粧に気合を入れたという感じはなかった。いつも通り、恥ずかしくない程度には身なりを整えているという感じだ。
だが、桃色のそれが似合っていることには変わりなく、花柄の帯もとてもかわいらしい。団子に結った髪に差したかんざしは、確かオレとたえ姉が出会って一年経った頃に渡してあげたものだ。勝手も分からずとりあえず白色の安っぽいものを渡したのだが、どうやら未だに大切に使ってくれているらしい。
「それでどうするの? 何を買いたいんだっけ」
「分かってないなあ。わたしは何かを買いに買い物に行くんじゃない。あっくんと買い物に行くのさ」
「えぇー……。めんどくさくないか、それ」
「いいや全然。わたしは君と出かけるだけで楽しいんだ」
「……よく分からん」
「ふふっ。ま、おいおいね」
よく分からないことを言って、彼女は先に外へ出てしまう。オレも草履をはいて後に続き、彼女の横に並ぶ。
「さてさて、今日はどこへ行こうかなー」
「本当に買いたいものとかないのか?」
「うん、ないよ。適当に服でも買えたらなーって思ってる程度さ」
そう言ってたえ姉は、オレの手を引いて走り始めた。
ここ阿修羅街は葦原電界において二番目に栄えている街であり、その座標は『大和国』の北部である。
以前は荒れくれ者が我が物顔で街を練り歩き、普通に生きる人々が怯えながら生活しなければならない弱肉強食の法則に支配された最悪の街だったのだが、一年半前に現れた六人の傑物達が殺し合いのついでの感覚で、それぞれ同じ地域で暮らしていた雑魚たちをまとめ上げ組織化したことで皮肉にも混沌が解消され、これにより阿修羅街は表面上の平和を獲得したのだ。
阿修羅街は正方形をしており、それら六つの勢力によって六等分されている。
即ち、
『織田延焼領』
『井伊女傑衆』
『服部忍術衆』
『上杉拳帝域』
『武田騎兵軍』
『今川呪法会』
オレたちが暮らしているのは井伊女傑衆の領内だ。彼女らは皆が女性のみで構成された組織であり、大将の井伊凪奈に至っては阿修羅街の頂点の六人のうちの一人であるとすら言われている。噂ではかつてこの辺りの地域で幅を利かせていた犯罪組織を単独で壊滅させた怪力女だとか、人類最強の霊長類の二代目だとか、生物学的には女だが性別は男、だとか、そんな風に好き勝手言われている。
他の領主もそれぞれ冗談としか思えないような武勇伝を三つ四つは携えているが、今は割愛。
「相も変わらず今日も大きな城だね」
「そうだな」
「あっくんよりおっきいよ」
「当たり前だろ。幼馴染が巨人で嬉しいか?」
たえ姉の見上げる先には大きな城がある。領内の治安を守ってくれている井伊女傑衆がおわす『凪奈城』である。
自分の名前をそのまま城の名前にしてしまうなどなんと自己顕示欲の強い女だと思われるかもしれないが、安心して欲しい。彼女は六人の中でも一等自己顕示欲の強い、最も俗な人間だ。
その証拠に――
「くははははっ! 見つけたぞ天目装者! 面倒な部下や召使いやら見張りを薙ぎ倒してここまで来たんだ! 今日こそ決着を付けさせてもらうぞ、天津淡島ァァアアアアアアっ!」
己の強さを証明するためだけに、罪のない一般人であるこのオレに、往来のど真ん中で奇襲を仕掛けてくるのだ。
空からオレの頭へ落ちてくるけたたましい笑い声と共に、黄色の着物を着崩した少女が上空から急襲した。
「まったく――!」
噂をすればなんとやら、奴は今日こそ決着を付けんとして意気込んで、己が心を励起させる。
たえ姉を後ろへ下がらせると、同じくオレも心理類型を励起させた。
「発現――『天目装者』」
「くははっ! 今日こそ私が勝利するぞ! ――舞うぞ、『百花繚乱』! 井伊女傑陣が大将・井伊凪奈、推して参る!」
「天津淡島、受けて立つ!」
男女――もとい井伊凪奈からのありがたい申し込みを受諾して、瞬時に能力を発動。
右腕の肘から先をを巨大な送風機へと変態させて、襲い来る凪奈の攻撃に備える。
「ふはーはー!」
奇妙な笑い声と共に彼女の両手から生み出されたのは無数の花びら。桃色をした春の風物詩が束になり、竜巻の如くとぐろを巻きながらオレの体を呑み込まんとした。
しかし、既に先んじて生み出していた巨大な送風機から放出された暴風によって、その花弁はいとも簡単に吹き散らされた。
「おっ、今日も城の姫さんがちょっかいかけてるぞ」
「おら、やれやれぇ! 最近は娯楽がなかったんだよー!」
「品物は隠してるから存分にやりなー!」
街の真ん中で暴れるオレたちを、住民はまるで見世物か何かのように囃し立てた。
もともとは無法地帯だった阿修羅街だ。個人差はあれど、皆その気性はわりと荒い。少し前は殺しが横行していたため住民は恐れるほかなかったが、平和になった今ではこれくらいの小競り合いは娯楽として機能する。
「たえ姉、離れろ!」
囃し立てる人たちを意識の外へ追いやって、オレはたえ姉に叫んだ。
「うへぇ……せっかくの逢い引きなのにさあ。まあいいけど。手早く終わらせてくれよー。ていうか怪我しないでね本当に。あまり無茶したら怒るからね……って言っても聞かないか」
凪奈との喧嘩は本当によくあることなので、たえ姉に危機感などは特に無いようだった。オレの心配をする余裕まであるらしい。具体的には三日に一度くらいの頻度で戦っている。
そしてたえ姉に被害が及ばないなら、オレは目の前の戦いに集中できる。
手早く彼女を打ち倒し、たえ姉との買い物を再開するとしよう。
「創造――竜爪」
右手の送風機を分解して右手を元に戻したのち、左手に竜の爪を模した凶悪な籠手のような武器を作り出した。
さらに腰に佩いた太刀を抜き放つと、一気呵成に走り出す。
駆け出す直前、両足のふくらはぎにさらに機会を創造し癒着させた。
爆発のような威力で炎を吹き出し、その勢いで体を前へと進める推進装置だ。
オレたちの暮らす葦原電界に限らず、五つ全ての電界において、オレたち人間は超常的な力を使用することができる。もっとも、電脳世界での事象であるため特別な才能だとかそういうものは必要ない。
能力の在り方は個人の心理類型に大きく左右される。
かつて旧世界で心理学の研究を行っていたとある学者の提唱した四つの心理機能と八つの類型、これに依存した形でまずそれぞれの人間に基本の型が存在する。
簡単に言ってしまえば、性格によってそれぞれ得意とする分野が異なるというわけだ。
四つの心理機能には『思考型』『感情型』『感覚型』『直感型』というものが存在する。
ある事象を論理的に考える種類の人間は思考型であり、これを主機能とする者は物体や物質――つまり『物』を作る能力を持つ。
ある事象を感情的に受け入れるか否かで判断する人間は感情型であり、これを主機能とする者は自然物や非人工物などの概念的なものを生み出す能力を持つ。
事物を己の知覚でもって理解する人間は感覚型であり、これを主機能とする者は客観的、あるいは主観的に事物を解析・理解して、補助機能として作用している思考型か感情型の心理機能の助けを借り、それを外界に何らかの形で放出・創造する能力を持つ。
事物そのものよりも、その背後にある可能性に注目する種類の人間は直感型であり、これを主機能とする者は己でもよく分かっていない何かを、思考機能や感情機能の補助を受けて生み出す力を持つ。
そしてこれら四つの類型が、さらに外向的か内向的かという方向性によってさらに分化していく。外向的な人間は能力を外界に作用させるし、内向的な人間は自身の肉体に作用させる。
例えばオレならば主機能が『内向的思考型』であり、補助機能が『外向的感覚型』である。
そこから応用・派生した能力こそが『天目装者』であり、その内容は『肉体に癒着する形で物体を創造する』というものだ。
先の送風機も、たった今創造した竜爪も、ふくらはぎの推進装置も、『天目装者』によって創造したものだ。
あまりにも愚直すぎる上に捻りも何もない能力だが、『感覚機能』によって外界の情報を客観的に把握することに長けるオレが使えば、それも変わってくる。
千差万別に使い分けられるその力を用いて、的確な判断と行動によって最適解を選び取り、各上相手にも勝利をもぎ取ることが可能というわけだ。
「――――ッ」
鋭く息を吐きだす。それと同時に、轟! と脚部の装置が火を噴いて、オレの体は爆発的に加速する。舞い散る花弁の中を潜り抜け、凪奈への切り込みを開始した。
群衆から「おおっ」という驚きの声が上がった。
当然だ、相手は井伊女傑陣の大将、この領内における最強の少女だ。女人の形に牛魔王か海坊主を詰め込んだ妖怪女などとすら語られる化け物に、真っ向から挑むなど正気の沙汰ではないだろう。……というか、この二つ名を考えた奴は、近いうちに死ぬかもしれないな。
「くふふっ。そうか。やはり正面から攻めるか! ならば良い、胸を貸してやろう! 私の胸に飛び込んでくるが良い!」
「へ、変なこと言うんじゃねえよ!」
たえ姉とは違い豊満な胸を大きくそらすと、着崩した着物から大きな胸が零れ落ちそうだった。
しかもそのせいで朝の一幕を思い出してしまう。……駄目だ忘れろ、今は目の前の戦いに集中する時だ。
気を引き締め直し、オレは勝つことだけを念頭に置く。
ひらひらと舞い散る花弁。オレはそれらに一度として触れないよう細心の注意を払いながら、出しうる限りの最速で駆け抜ける。
なぜ触れてはならないか? ――理由は単純にして明快だ。なぜなら火を見るより明らかなのだから。
掛け抜けたオレの背後で、ひらり、ひらりと花弁がゆっくりと落ちて――そして地に触れた。
直後――――爆発した。
それも鉄砲の一撃などとは比較にならない。大筒よりは劣るものの、家屋に叩き込めば壁は軽く吹き飛ぶほどの威力を誇っている。
こんなものに一度でも触れてみろ。《魂命》が尽きることはないだろうが、数秒戦闘不能に陥ることは想像に難くない。
触れれば爆発をもろに受けることになる。ならば花弁が落ちる前に距離を詰めればいいだけのこと。
どうしても間に合わない花弁は最小の動きだけで回避して、オレは凪奈に肉薄。太刀を握る右手に意識を集中させ、俺にできる最速の速度で振り抜いた。
「ふははっ、遅いわ! この程度で私に一太刀浴びせられると思うたか! 付け焼刃の剣術が通じるなどと思われているとは、私も低く見られたものよ」
しかし当然、この街の頂点の六人の一角に届くわけもなく――
そんなことは分かっているし、まさかこのオレがただの刀を持ち歩くとでも思っていたのかこの脳筋女は。
「オレの勝ちだ」
空を切った刃の切っ先を凪奈の顔に向くようにして無理やり止めると、手首をひねった。
ガチンッ、と何かが切り替わる音が太刀の内部から響くや否や、鉄砲の炸裂音が響き、その刀身が飛んだ。
「うえわぁ! にゃっ、にゃにがぁ!?」
かわいらしい声を上げ、咄嗟に顔を傾けて顔面串刺しだけは避けたものの、もはやまともな体勢でないうえに精神まで乱れてしまっている。
そのせいで花弁の球体の形が崩れる。
そして当然、オレはその隙を逃さない。
柄だけになった太刀を捨て、小刀を抜き放つ。その切っ先を凪奈の顔面へと向ける。
当然彼女は刀身の射出を警戒して顔を横へ大きく振ったが――掛かった。
これは陽動、偽装の一手だ。
オレは小刀を逆手に持ち帰ると、その峰で彼女の服の胸の辺りを引っ掛けた。こちらへぐいと引き寄せると、たたらを踏んでこちらへ迫ってくる。
「よっと」
軽い掛け声とともに竜爪を彼女へ叩き込み、地面へと押し倒した。
「今回はオレの勝ちだ。百戦中、五十勝五十敗。また並んだな」
「ぐぬぬぬぅ……卑怯だぞ天津淡島!。……ていうか、その。近い……いや、別に私はいいんだが……」
「え、いやいや! 待てよ! 今のは戦ってたんだから仕方ないだろ!」
「む、いやそうだが……」
「ああー、いや。もういい。とにかく今回はオレの勝ちだ」
変なことを言ってくる凪奈から逃げるようにして立ち上がると、武装を解除した。
周りを見渡しても、どうやら目立った被害はないようだ。
花弁が地を吹き飛ばす前に決着を付けようと思っていたが、どうやらきちんと成功していたらしい。
遠くに落ちている太刀の刀身を拾い柄に取り付けると、腰に戻す。
「む、それはぬしの創造物ではないのか」
「ああ。オレは内向的思考型だからな。物体を外界に創造するのは苦手だからな。まあ凪奈みたいに花弁を生み出したり、織田の化け物みたいに気合の炎を生み出したりするよりは簡単だけど」
雑談をしているうちに、遠くで見ていたたえ姉が近付いてきた。
もうー、などと文句を言いながら、オレの体をぺたぺたと触り始める。口調や表情から、オレを本気で心配している様子がうかがえる。
「ほら、ちょっとじっとしてて。怪我とかないよね。魂命は削られてない? もう止めても無駄だから黙ってたけどさ、あっくんはもうちょっと自分の体を大事にしてくれよ。見てるこっちは気が気じゃないんだから」
「ああー、うん。ごめん」
「…………」
じとりと含みのある目でこちらを見てくるたえ姉に、オレはたじろぐしかない。
「ほんとに?」
「うん、ほんと、ほんとほんと」
「怪しなぁ。まあいいけど。ならまあ、分かった。重ねて聞くけど怪我はしてないよね?」
「してない」
「そっかそっか。それなら遠慮なく――」
そう言うと、たえ姉は瞳に慈愛の色を含ませた。
「あ、ちょっ、待って!」
嫌な予感がしたオレは必死に彼女を遠ざけようとしたのだが、
「待ちませーん」
つん、とオレの言葉を無視すると、往来の真ん中でオレの頭を抱きしめて自分の胸に押し付けた。
「ほら、大丈夫かい? 疲れただろうしお姉ちゃんがしっかり癒してあげよう」
「たえ姉ほんとに! たのむ、ほんとにお願い! やめてくれ! ここ家じゃないからっ!」
あ。
失言だわコレ。最悪だ。
たえ姉の胸から抜け出せないまま視線を横へ向けると、オレたちの行動を目の前でまざまざと見せつけられた井伊の妖怪女が口の端を引くつかせていた。
からかわれるかと思っていたが、特に何も言ってこない。ただ、すごく泣きそうな顔でオレたちを見ていた。
まずはオレを獣でも殺すのかというほどの眼光で睨んだ後、オレを抱きしめるたえ姉へ悔しそうに歯噛みした。
「ぐぬぬぬぬ……ぅぅぅうううう……うううううううううううううう!」
……獣か? とうとう力だけじゃなくて心まで獣になったのか?
くだらないことを考えていると、オレを抱きしめる腕の力が強まって、より一層強くオレの顔がたえ姉のあるようでない胸の膨らみに押し付けられる。
まずい、駄目だ。いやいやいや、ちょっと待ってくれ。何なんだこの状況。心臓の音がおかしいし体がめちゃくちゃ熱い。
年頃の男にはさすがに刺激が強すぎる。
それにしてもこの体の感覚まできちんと電脳世界へと持って来たんだな昔の人たちは。心行くまで称賛させてほしい。いやだから、そうではなく。
「離れんか馬鹿者がぁ! ここは。ここでは私が一番偉いんだぞーっ!」
「子供かきみは」
「な、ぬしの方が子供ではないか! どうせ私にそこな男を独り占めされた腹いせにそんなことをしているくせに」
「なっ! そ、そんな根拠がどこにあるのかなっ!?」
「うるさい! だって今さっき、明らかに私に向かって『どうだ? 君にこれができるかな?』みたいな雰囲気で嫌な微笑みを向けてきたではないかー!」
「おいおい。おいおいおいおいおいおい……出鱈目はそこまでにしてもらおうか。特にあっくんの前では。ていうか君こそ子供じゃないか。あんな方法でしかあっくんと喋られないからって――」
「だああああ! 違う! 違うわ! そんなんじゃない! わ、私は純粋に天津の馬鹿と決着をだな……。ぐぅううう……胸は絶壁のクセに!」
「――――っ」
何かオレの知らないところで世界を滅ぼす戦争が起きそうなのだが、どうすればいい?
とりあえずたえ姉の胸から出るか。
……あと五分ぐらいこのままでいたいな。
…………いや、五分といわず五十時間ぐらいこのままでいいか。
「ぬしもいつまでそうしてる、天津淡島! 早く離れんか情けない男だ!」
「ぐぇえっ!」
凪奈の怪力によってオレはたえ姉から引き離された。それと共にせき止められていたらしい呼吸ができるようになり、オレは徐々にまともな思考能力を取り戻していった。
「オレはいったい、何を……?」
「ふふっ、私とあっくんの秘密だ」
「いや、年上の幼馴染に街の真ん中で抱きしめられていただけだからな。何も重大な事態には陥っていないから神妙な顔でこっちを見るのをやめろ姉狂い」
「姉狂いって何だよ。変なあだ名やめろ」
なぜかオレを見る目が戦いのときよりも冷たく感じるのは気のせいだろうか。
凪奈は戦闘で乱れた服を整えて、心底軽蔑した目でオレを睨んでいた。
頭の上で結った黒い髪がしっぽのように揺れている。腰を占める黄色の帯は、向日葵のように鮮やかな色をした着物とよく合っていた。少しあどけなさが残るものの、顔たちはたえ姉に負けず劣らず整っている。ただ、目つきが大変よろしくない。瞳に映る好戦的な色は隠せていないし、目の下にあるくまのせいで人相が悪くなってしまっている。だがそれでもなお、彼女が可愛らしい顔をしていることに変わりはないだろう。低い身長や大きな胸も加味すれば、特定の層の男には馬鹿みたいに刺さるかもしれない外見だ。
「む、何をじろじろと見ている」
「いや、別に」
「むぅ、納得がいかん」
井伊凪奈。繰り返すが、彼女はこの付近の地区では最も強く、最も地位の高い人間であり、この阿修羅街の頂点の一角を担う一人だ。
そんな大物となぜオレが知り合いなのかというと、単純な話でオレが潰そうとしていた裏組織に、ちょうど凪奈も目を付けており現場でばったり会ったことが始まりだ。
それ以降彼女はオレに事あるごとにちょっかいを掛けてくる。とはいえ別に、オレはそれを迷惑だとは思わないのだが。
彼女のように何かに真剣で、常に本気で取り組んでいる人間は純粋に好きなのだ。
「それより凪奈。どうして今日はこんな街の真ん中で喧嘩を吹っかけてきたんだ?」
「ああ、そうだ。忘れておった!」
仮にもこの街の統治者である凪奈が、ここまで人が多い道で挑んでくることに疑問を覚えて尋ねると、彼女は思い出したかのように手を叩き、服の中をごそごそとあさり始めた。
あの、その……ちょっと目のやり場に困るんですけど。
「えいやっ」
「え、ちょっ」
「見ちゃだめー」
オレの邪な思念を嗅ぎ取ったのか、たえ姉がオレの目に手を当てて視界をふさいだ。さすがに過保護すぎる気もするが、たえ姉のことだし気にしても仕方がないな。
「これだ」
目当てのものを見つけた時点で、オレの視界が解放される。
彼女の手には、くしゃくしゃになった紙が握られていた。
というか、この女はどうして装備品の項目に入れていなかったのだろうか。落としたらどうするつもりだったのか。
「……なあ、見たか?」
「は?」
「いやだから。私のきわどいところをだよ」
「……? ――ああ! そ、そういうことか。いや、大丈夫だ! 見てない。たえ姉に目をふさがれたから」
「またぬしかァ!」
とうとう阿修羅街最強の六人のうちの一人がキレた。獣のようにぐるる……! とたえ姉に向かって唸っている。
楽しそうにしているのでオレは二人を放っておいて、凪奈が持っていた紙をむしり取った。
「あ、こら! ……まあよい」
「ちょっと、あっくん今のは行儀が悪いんじゃないのかい? はい、謝る」
「どわ、分かった、分かったからオレの頭を押さえつけるなって!」
「むむむむむぅ……」
不服そうにしながらもオレの謝罪を受け入れてくれた。
「それで、これは?」
「中を検めてもらえば分かるのだが、まあいいだろう。先に簡単に説明しておく」
その瞬間、彼女の表情が切り替わる。
先までの穏やかな雰囲気は霧散して、阿修羅街を統べる六勢力の大将――その風格が彼女の深奥から発散された。
「ここ最近、『顔無し』の目撃証言とその被害件数がまた増えた。今月だけで既に八件だ。
――最悪なことに、死人も出ている」