終章、壱 そのとき、彼は――
天部の襲来と打倒から一日が経った。
凪奈が収めていた領内は酷い有様だが、既に復旧は始まっていた。《魂命》が尽きていない多くの瓦礫は『再生屋』と呼ばれる物体の再加工を行う業者の元へ回されており、昨日までの日常を取り戻そうと、多くの人々が右へ左へ動いていた。
そんな彼らの様子を見回しながら、オレはぼろぼろの街をゆっくりと歩いていた。
「こんな雲一つない晴れの日に、よくもまあそんな間抜けな顔をしているなあ」
「凪奈か」
後ろから声をかけられて振り返れば、鮮やかで明るい黄色の着物を身にまとった井伊凪奈が腰に手を当て、呆れたように笑っていた。
豊かな双丘は今日も健在で、油断すれば昨日の一幕を思い出してしまう。
「……っ、――昨日、ぶり」
何かがオレの脳裏によぎった気がしたが、オレはそれを無視して呼びかけに応じた。よく分からないが、足の甲が妙に痛むような気がする。それも、不快な痛みではないのが不思議だ。
「何だ、その間は。それよりも昨日は本当に助かった。ぬしがおらんかったら、この街は終わっていたし、あと何人死んだか分からん。礼を言わせてくれ」
「いや、まあ……別に礼はいらないぞ」
そうだ、オレは自らの意志でやりたいからこそあの決断をした。帝釈天に真っ向から挑んで、彼の心を開かせるために真っ向からぶつかって……そして、個人的には不本意な形で終わったものの、彼に生きる喜びを見出させることはできたし、この街を守ることができた。
だが、何故だろう――何かが足りないのだ。
二人並んで街を歩き出し、昨日のことを軽く尋ねられた。
「それにしても神様相手にどう戦ったんだ? 街をぶっ壊すほどの大火力だったというのに、それを下すだなんて……。――遠いところに行かれたな」
「ああ、まあ簡単に言えば末那識に至って、それから殴り合ったんだが……」
「末那識だと!? あの扉を開いたのか……しかしどうやって?」
「それが――」
覚えていないのだ。
気が付けば第七層への扉を開き、全心理機能を掌握して帝釈天を圧倒していた。それから奴の心を開くために真っ向から殴り合って、勝利して……けれど生きる道は提示できなくて――
ひとつひとつの場面や戦いを思い出せるのに、なぜか現実感がない。まるで夢を見ていたかのように、おぼろげで透明。ゆらゆらと揺れる水面に映る月のように頼りない。
加えて、やはり何かが欠けている。
絵画の中にぽっかりと穴が空いているような、あるべきものがないような、そんな奇妙な感覚に襲われてしまう。
それは昨日のことだけではなく、ここ七年間に関する記憶も同様で、日常の中に虚があって気持ちが悪い。虫に食われたような真っ黒な闇が、思い出の中に居座っているのだ。
「浮かない顔をしているなあ。隣にこれほどの美少女がいるというのに、少し失礼とは思わんのか。もっと喜んで笑顔で歩け」
「ああ、ごめん。ちょっと考え事をしていて――」
「まあ、別にいいが」
凪奈が少し不満そうに唇を尖らせている。彼女も同じような感覚を覚えているのだろうか。
そんな疑問が湧き出し、口に出そうとしたその時、遠くから聞き覚えのある声が響いてきた。
「頭ぁー! ちょっといいっスかあ?」
「む、なんだ? 問題か?」
「はい、向こうの地区でちっせぇ暴動が起きたんで、鎮圧してほしいんス」
「分かった。すぐに行く。――というわけだ、ではまたな、天津淡島」
そう言って凪奈は離れていってしまう。見覚えのある少女と連れ立って歩き、何やら話し込み始める。
従者の子がオレに軽く会釈をして去った。
「……あの子、どうして顔見知りになったんだったか」
まあ凪奈の側近のような扱いだろうから、それで会釈其する程度の仲にはなったのだろう。
……まただ。
また、奇妙な喪失感――否、不足感が胸の中で違和として広がる。
この感覚の正体が気になる。どうにかして、突き止めたい――そう思うのは確かだ。
けれど、なぜか心の奥底では『これでいい』と割り切っている自分がいるのだ。
何か、大切なものを失ったという確信めいたものがある。それは何より大切で、絶対に手放したくないものだったはずだ。
だが、これでいいのだ。
オレはこの結末を受け入れて、小さな勇気をもって一歩を踏み出し歩き出すと決めたはずだから。たとえ〝二人〟の道が分かれてしまい、もう二度と道が交わることがないのだとしても。
生きているだけでいいと、そう思えるから。
今も彼女がどこかで幸せに暮らしているのなら、それは俺が求めたものであるのだから。
「二人……彼女――――……」
――なぜ、そんな単語が胸の中に現れたのだろうか。
理由は分からない。
立ち止まっていたオレは、もう一度歩き出す。
たとえ失ってしまったとしても、確かに何かが存在したということが分かるから。
記録にも、記憶にも残らない、泡沫の夢のようなものだとしても、それらが嘘になるわけではなく――優しく暖かい真実だと知っているから。
だから――
「これで――いいんだ」
だけど。
そして視線を前へと戻したその時。
人ごみの中を不安そうに歩く、薄い金髪の少女を見た。
「あ、あ。ああ――……」
その瞬間、オレの胸の中で何かが弾けた。
小さな女の子だ。歳は十歳かそれよりも低いくらいだろうか。
年相応にあどけない顔たちだが、成長すれば大人びた雰囲気をまとい、お姉さんぶった優しい笑顔を浮かべる美人になることを、オレは知っている。
好きになった人はとことん甘えさせて、だけどきちんと導いてくれる強い女の子であるということも、オレは知っている。
残念ながら、その胸は育たず小さいままだということも――オレは知っている。
知っている、知っている――そうだ、オレは彼女を知っているのだ。
「……ッ、」
言葉は出ない、出してはいけない。
失ったはずの七年間が――もう取り戻すことはないと受け入れたはずの宝石のように輝く日々が、オレの胸を満たしてく。
最後に見た時とは少し違うけれど。
初めて会った時よりもさらに幼い姿になってしまっているけれど。
でも、ああ――間違いない。
今、そこに。
オレの目の前に――
――そこに、七識たえがいた。
彼女もオレに気が付いたようで――目を見開いて静かに涙を流す。
どうしてこんなところに――そんな疑問は、彼女の容姿が思い出させてくれた。
『こんな世界だけどね、真面目に生きないとダメだよ』
『悪い人たちばかりだけど、流されたらダメだよ』
『淡島くんはねえ、少し人の話を聞き入れてみよっか』
ああ、ああ……ああ―――――
君だったのか、あなただったのか。
ずっと昔、オレや他の子供たちを正しい道へ導こうとしてくれたお節介な彼女。
かつて理不尽に命を奪われてしまった、小さな少女。
みんなの前でお姉さんぶっていた、あの女の子だ。
たえ姉――君はずっと、運命の前からずっと、オレを諭そうとしてくれてたんだな。
ありがとう、ありがとう……ずっと、ずっとオレのことを見ていてくれて。
そして、昔は君の話を適当に流していて、ごめんなさい。
でも、君のおかげで――
君ともう一度出会えたおかげで、今度こそオレは変われたよ。
だから、だから――
目が合ったのはほんの刹那。
オレたちは互いに視線を外して、ゆっくりと歩き出す。
オレは彼女を知らないように。
彼女はオレを知らないように。
もう二度と出会うわけにはいかないから。
これから先、平和に生きるためには――オレはたえ姉と一緒にいてはいけない。
だから――
「「さようなら――知らない人」」
二人の距離が離れていく。
君の幸せを何より願う。
七年間、磨いて集めた宝石を胸に、オレたちは前を向く。
あの日出会った時の、オレたちを凍えさせていた雨とは違う――
二人で勝ち取った澄み渡る蒼穹は、あたたかくオレたちの歩みを祝福してくれていた。