第四章 倶生・潜行 3.光芒の下。
勝敗が決した。
天津淡島と七識たえの勝利が確定した段階で、二人は同調を解くと、手を繋いで、今しがた下した神もどきへと歩み寄った。
『くかかか、ははははは……負けた、負けたよ。負けちまったぁ……っ!』
莫大な力を持ちながら己よりも下位の存在に敗北としたというのに、仰向けに寝転がる男の顔は夏の日の蒼穹のように晴れ渡っていた。
己と真っ向からぶつかり、そして下した二人に感謝を抱きつつ、もはや指先一つ動かす気がない男は目線だけを向けて楽しそうに笑っている。
『いい思い出だった。とても楽しかった。お前たちと会えて本当に良かったよォ』
「……オレは少しでも、おまえが前へ向く手助けができたかな」
『ははっ、それはどうだろうなあ。ただ、やっぱ本当に楽しくてよお、感謝してもしきれないってことくらいは伝えさせてくれ。こんな俺と遊んでくれて、本当にありがとうよ』
「よせよ、やりたくてやっただけだ。たえ姉に迷惑もかけたし、礼を言われる筋合いはない」
『なら、まあ何でもいい。――ただ、そうだな。一つだけ伝えておいてやる』
「なんだ?」
先までの戦闘狂の雰囲気を霧散させ、再度神の威厳を纏いながら雷道は淡島に忠告した。
『おまえとそこの女……もう、二度と会わないことを勧めておくぞ』
「「…………っ」」
『お前たち二人が一緒にいると、地上で電界のシステムに異常な数値が表れるんだよ。もちろん無視できるレベルのもんだが、神々(やつら)は人類を生き延びさせることに必死だ。どれだけ僅かな違和であろうと見逃すはずがない。おまけに俺が負けたんだ。もう二度と異常値が検出されないならば干渉することはないだろうが、もしも見つかったならば……当然第二、第三の刺客を寄越してくる。だから――まあ、お互いのことを想うなら。相手が生きているだけでいいと願っているなら、それ以上のことは望むべきじゃあねえな』
「……分かっているさ」
受け入れがたい事実を突きつけられた直後であったが、淡島の声は風のない湖のように凪いでいた。隣に並び立つたえもまた、涙を流すそぶりすら見せない。
「それくらいの覚悟はできている。言っただろう? ――思い出を失う覚悟すら決めてるって」
『そう、だったな。愚問だったか』
「そういうことだ。……じゃあ、少し待っていてくれ。今回復薬を分けるから、しばらくじっとしていろ。相当《魂命》を消費しただろう?」
お互い既に満身創痍。残る《魂命》は両者ともに五十を切っていた。今何者かに背を刺されでもすれば、それだけで命の灯は消えてあの掃き溜めのような《天の屑箱》へ落ちるだろう。
もはや淡島の信念は、これまでのように死を撒き散らすようなものではない。誰もが少しでも前を向き、勇気を出して一歩踏み出して〝生きられる〟ようにしたいのだから。
だが――
『いや、それには及ばない』
彼は差し出された回復薬をふんだくり思い切り淡島へとぶっかけた。
「うわっ!」
「あっくんッ?」
驚いて素っ頓狂な声を出す淡島へ向けて、男は満足そうに息を吐いた。
『それは受け取れねえ。何より俺は、もう生き切ったんだから』
「な、は……?」
回復した《魂命》には全く気を割かず、不可解な言葉を並べる雷道に疑問の眼差しを向けた。
『これは俺が望んだ道だから、お前は絶対に気に病むなよ。俺が望んで、俺が選んだ結末だ。いくらお前でも、これを背負うことは許さない。これは……これは、〝俺〟のもんだ』
「おい、ちょっと待て……おい!」
ゆっくりと立ち上がり、その右手に雷槍を形成すると、その穂先を己の首にぴったりと添えた。
反射的に前へ飛び出そうとする淡島をたえが抑え付けるのを見て、視線だけで礼を告げた。
『お前と語り合った時間は最高だった。やっと生きているって思えた。これまで真っ暗だった世界に光を灯してくれた。……俺はこんな馬鹿野郎だから。至高最高の気分のまま、最期を迎えたくて、お前の信念通りには動けなかったけれど、それでも――言わせてくれ』
「…………っ」
結局、淡島も止まるしかなかった。
だって――
『ありがとう――天津淡島、七識たえ。お前たちのおかげで、俺はようやく前を向けたよ』
子供のような無邪気な笑顔は、どこまでも喜びに満ちたものだったから。
槍が首を切断し――その《魂命》が零になる。体が淡い光に包まれ、輝く粒子と化して虚空へ消えた。
男の名は雷道闘夜。天部の器、帝釈天の力を振り翳した雷霆の軍神。
彼は最期まで、戦いと闘争の中で、炎のように激しい光を尊んで逝った。
☆ ☆ ☆
「終わったね」
「ああ」
帝釈天の死と共に拳戦領域が霧散し、天蓋の如き雷雲が徐々に散り始めた。
再び優しい日差しが大地を照らし、街に平和が訪れたことを教えてくれた。
そんな中、オレは右手に感じるぬくもりを逃がさないよう、必死に強く握り締めていた。
「痛いよ」
「…………いや、だ」
「へ?」
隣に建つ少女の体が淡い光を発しているのを見た瞬間、その言葉は一切の自制も効かず、喉からするりと零れ落ちていた。
「いやだ、いやだ……! 離れたくない。いやだ! たえ姉がいない世界なんて、君のことを忘れてしまった人生なんて、そんなの怖くて、無理だ……」
「……あっくん」
「ずっと一緒だったじゃないかッ。何でなんだよ……どうしてッ。好きな人と一緒にいたいだけなのに……。ただ、こうやって手を握られるなら、それだけで、よかったのに……!」
言葉は嗚咽交じりになっていき、瞼の裏から熱い液体がとめどなく溢れ頬を伝う。
「オレは……弱くて、馬鹿で……たえ姉がいなかったら、ずっとずっと間違えっぱなしでッ……」
彼女がいたからオレは生きていけた。守ってくれたから、甘えさせてくれたから。愛してくれたからこそ、オレはこの七年間を幸せに生き続けられたのだ。
「さっきだって、結局失敗してしまった……ッ。本当は満足な最期を迎えさせるんじゃなくて、明日から少しでも彩りのある毎日を生きてもらおうって、そう思って、頑張ったのに……! それすらもできなくてッ。また、死なせて、しまって……!」
オレはこんなにも弱い。欠陥だらけの理想を掲げたり、自らの意志で選び取った信念をまるで果たせていなかったり……天津淡島は本当に小さくてちっぽけで弱い人間なんだ。
覚悟は決めたはずなのに、心の奥底からは湧き水のように次から次へと弱音が溢れてきた。
そんな情けない姿を見たたえ姉は、大切なものを扱うようにオレの頭を胸に抱き、優しく撫でてくれた。
「他には?」
「……ッ、」
「他に、まだ言い足りないこととか、甘えたいこととかあるかい?」
「……っ、――いいや、もう。もう大丈夫、だ……」
「無理しなくていいしカッコ付けなくていいんだよ? わたしにだけは、甘えていいんだから」
だって――、と。
続いた言葉には嗚咽が混じっていた。
「わたしたちは、もう……これで、お別れなんだから……!」
オレたちはとても弱い人間だった。
意志の力を信じていた少年は、生きるために必死で――本当は誰かに守られたかった。
少年を守ろうとした少女は、捨てられたくない一心で――本当は彼女が依存していた。
弱くてちっぽけな独りぼっちの二人が出会ったあの日――オレはそれを運命だと感じた。
その運命から、共に過ごしてきた七年間を思い出す。
過保護なほど世話を焼いてくるたえ姉に、文句を言いつつも何だかんだ甘えていた毎日。
たまに街へ出かけて買い物でもして、新しい服に目を輝かせるたえ姉の後姿を眺めていた。
作ってくれたご飯がとても美味しくて、それを素直に告げたら泣かれたこともあったな。
つい最近だったら、出会ってから初めて大喧嘩をした。
本当にいろんな思い出が輝いていて、何気ない会話の一つ一つ、その全部が宝石のように鮮やかな光を放っている。
それら全部を、胸にしまって。
オレは――光彩を放つ思い出から決別するように、ゆっくりと七識たえから離れた。
「じゃあ、最後にひとつだけ」
「……うん。なら、わたしからも」
暗雲の狭間から差し込む日照りが、七識たえを美しく彩り――
「「――あなたを愛している。この世の誰よりも」」
彼女を照らす光芒が雲に遮られ――気が付けば、その姿は幻のように消えていた。
その存在を証明するものは、地に落ちた小さな染みだけ――それも、光子となって空に溶けた。
次に目を覚ました時、オレは彼女の全てを忘れているだろう。
だけどそれでいい。
だって、記録にも、記憶にも残らないのだとしても。
――二人で生きた七年間は、紛れもない本物なのだから。