第四章 倶生・潜行 1.第七門、開けり
退屈。
その男の人生を一言で表すのならば、まさしくこれであった。
彼は生まれながらに暴力でしか人との触れ合いを感じられないという、致命的な欠陥を持っていた。
誰かと死にかけるまで殴り合わないと、絆や繋がりを感じられない。
それが歪んだ精神構造であることを、男はわずか四歳で理解する。
結果、彼の人生は凄まじくつまらない、ただ灰色の時間が過ぎるだけのものとなった。
当然だ――暴力を自重している以上、誰かと本気で繋がることなどできないのだから。
それから二十年以上もの時間が過ぎ、人類が謎のウイルスによって絶滅まで追い詰められてからもそれは変わらなかった。
たまたま免疫を持っていたため意識を失わずに済んだその男は、マスターアカウント・帝釈天を操る適性を持っているとされ、以後、その反則的なまでの武力を磨くようになる。
最初は、期待していた。
彼からしてみれば、これは敵が人間と同等の知能を持ったゲームだったから。
魂を燃やして、心を奮い立たせて、電脳世界の中とはいえど本気で殺し合える場所。自身が有利な戦いというのが少し気に入らなかったが、敵は想いの力で限界を超えるという話ではないか。ならば――魔王を撃つ勇者のような男が現れてもおかしくはないだろうと。
そんな勘違いをしていたのだ。
どうして気付かなかったのだろう。
自分たちは管理する側なのだから、万が一にも電界人に敗北するようなことがないように戦力を確保することは当たり前のことなのに。
アカウントの持つ制圧力は、まさしくチートと言って差支えがなかった。
何があろうとも絶対に負けない。感情がどれほど爆発し、魂をいくら燃やそうとも絶対に届かない高み――電界人からしてみれば、真実、神と呼べる性能を有していた。
そんなアカウントを使って電界に降りて戦ったところで、当然血沸く戦いなど待っていない。
そこにあったのは一方的な虐殺。人の想いを、信念を、魂を……それら全てを塵のように打ち捨てていく雑魚狩り、作業。
そして、そのおかげで諦めがついたのだ。
データで構成されたこの世界では、奇跡は起きない。所詮は心や魂、感情すらも数値で現れる。無意味で下らない、乾燥した塵以下のもの。想いの力など、圧倒的な火力を前にすれば芥に帰るのみ。――信じたところで意味はないのだ、そんなもの。
だからこそ――
だからこそ、あの少年が気に食わない。
『さて、そろそろ動くか』
己が半生に思いを馳せてから、男は右手を天へと掲げて雷を集約させた。その手に握られるは紫電で構成された槍である。
あれから一時間以上待っているが、先の少年が仕掛けてくる気配はない。
となると、この街から逃げている可能性がある。既に生体情報をアカウントに登録しているため、サーチをかければ見失うことはないが、面倒であることに変わりはない。
あの少年ならばもう一度来ると思ったのだが――当てが外れただろうか?
失望がないとは言わないが、別に珍しくもない。
さっさと索敵をして、この槍で貫いて仕事を終わらせよう。
どうせ現れたところで、あの少年が何をできるわけでもないのだから。
『索敵開始――、登録個体・天津淡島』
呟いたのち、阿修羅街全域という広範囲に渡って索敵を開始する。
視界いっぱいにウィンドウが広がり、一秒、二秒……立ち上がりに数秒を要した後、淡島の座標情報がピックアップされた。
位置は――
『うし、ろ……?』
☆ ☆ ☆
膨大な量の情報で溢れた電子の海を掻き分けながら、オレは彼女の魂と自身の魂が深い同調を始めていることを自覚する。
ゆっくりと、ゆっくりとたえ姉の存在がオレの中へと入り込んでくる。
彼女の体は既に淡く光る粒子となって魂を包んでいた。
そうだ、オレはこのぬくもりこそを欲していた。
ずっとずっと、守ってくれる誰かが欲しかった。
ただ幸せに生きることこそが、最初に抱いた望みで、得られないことは分かっていてもそれを求めていたからこそ、彼女を呼んだ。
優しくされたかった。甘やかされたかったし、誰かに守ってほしかった、
七識たえは、その全てを与えてくれていた。
オレが無意識のうちに抑圧していた渇きを癒してくれた。孤独を埋めてくれた。
だがオレは、そんなことにも気づかずに、自分を守るために塗り固めた信念を正しいと頑なに信じていて、その果てに多くの命を奪った。
オレにはその、責任がある。
許されることではない。
この罪は一生背負っていかねばならぬものであり、永劫償い続けれなければならない。
その方法が何なのかはまだ分からない。
ただ、一つだけ――間違った信念のもとに奪ってきた命を無駄にするようなことだけはしてはならないと分かる。
そのために、オレはオレ自身の意志で選び取った真実の理想を掲げなければならない。
今度こそ誰もが当たり前に幸せを享受できるような世界を。
無責任に与えるだけの救いでもなく、当然他者を排除するようなそれでもない。
誰もが必死に生きる世界は無理だと知った。そもそもそれは、オレが生きるために掲げた偽りの理想だった。心を燃やすための起爆剤。力を得るために自分で自分を洗脳しただけだった。
けれど――
「誰だって、前を向きたいと思っているはずなんだ」
出来る出来ないの違いはあれど、誰もが心のどこかで英雄や天才に憧れる。
「弱い自分を認めて、一歩だけでも前に進みたいと願うことは間違いじゃない」
自分を信じられる人間なんて本当に一握りなのだ。自分には無限大の可能性があると信じられるのは狂人だけだ。
そう――生き残るために己を偽り、自分以外の全てを否定した、かつてのオレのように。
「努力をしても成果を上げられない人間もいれば、努力をしたくても出来ない人間だっている」
人の在り方は種々様々。自分の価値観から外れる人間や、信じていた枠には収まらない人間など数多に存在する。
「だからってそれを――否定して排斥しても、後に待っているのは地獄だけなんだ」
たえ姉はそれを教えてくれた。もう顔も名前も覚えていない、あのお姉さんも諭そうとしてくれていた。
だったら、オレはどうすればいい?
奪ってきた命を無駄にすることはできない。何もかもを忘れて幸せに生きようだなんて、そんな恥知らずは今すぐ地獄に落ちるべきだろう。
けれど、もう偽りの夢に逃げるわけにもいかない。
「だから――たえ姉、オレは寄り添おうと思う」
《うん――いいんじゃないかな》
誰もが少しでも前を向ける世界は、やっぱり笑顔が溢れていると思うから。
小さな一歩でも構わない。勇気を出して踏み出したその一歩は、やはりこの世の何よりも尊いものだと思うから。
暗い場所に閉じこもっている人だって、外を覗くだけで新しい世界が見えるかもしれない。
失意の底にいる人だって、もう一度前を向くことができれば何かが変わるかもしれない。
夢を抱け、理想を掲げろ、愛に狂えなどと、もう、そんな傲慢なことを言うつもりはない。
ただ、各々の人に見合った明日を提示したいのだ。
できない人を切り捨てるのではなく、その人の心の奥にある想いを引き出して、ほんの一歩だけでいい――その人にできる分でいいから、小さな勇気を持つ手助けをしたいのだ。
迷惑と思われようとも、傲慢だと非難されようとも、無駄だと蔑まれようとも。
真正面から向き合って、真摯な気持ちで語り合い、時には本気でぶつかり合って、絶望の底にいる人に笑顔を届けたいと――
今は、心の底からそう思えるから。
《やればいいと思う。君は優しいからね、きっとできるさ》
「ああ、ありがとう」
たえ姉には感謝してもしきれない、
彼女がオレにぶつかってくれなかったら、オレはこれから先も罪を重ね続けたし、この答えは得られなかっただろうから。
七識たえが心の底から天津淡島を愛してくれて、オレに道を示すために嫌われることすら覚悟して叱ってくれたから、オレは気付くことができた。
切り捨てるのではなく、向き合うことの大切さを知った。乱暴ながらも話を聞いて、寄り添ってくれたからこそ、今オレは自分の弱さを認められたのだ。
そうだ、オレは弱かった。
それを認めてしまえば生き残ることができなかったから抑え付けていたけれど、オレは確かに弱かったのだ。
今までそれを否定してきたけれど、今こそオレはその弱さを自らの力と変えてみせよう。
それがきっと、成長というものだから。
天津淡島は守られたかっただけの、ちっぽけな男だったこと――それを否定せずに、受け入れよう。
そして――
自身の弱さを知り、より深く己を知ったことにより、自我の無意識領域への扉が開く。
《さあ、開いたよ》
「ああ」
《覚悟はできてる?》
「うん。たえ姉は?」
《わたし? そうだね……君と離れることになるのは嫌だけど、でも大丈夫。いつか出会えるかもしれないし、たとえ出会えなかったとしても、君と生きた七年間が嘘になるわけじゃない》
「そうか」
《たとえ記録から消されて、記憶にも残らなくて、思い出が失われたとしても、わたしたちの真実は今ここにあるはずだから》
「オレもそう思うよ」
《うん、強いね。――だからさ》
「…………っ」
《今だけは、泣いていいから》
「ああ……っ!」
結局、最後まで泣いていたのはオレの方だった。
あれだけオレに執着していたたえ姉は既に覚悟を決めていて、離れたくないと涙を流すオレを優しいぬくもりで包み込んでくれていた。
《さあ――》
「ああ――」
そして、二人の声が重なった。
「《――二人の心で、神に勝とう》」
☆ ☆ ☆
そして、表と裏は反転する。
『うし、ろ……?』
オレの目の前には帝釈天の背中があり、先を取るため佩いた太刀を抜き払う。
同調が限界まで深く沈んでいく。
オレたちの魂が融合を果たし、同一の存在へと相成って魂の格が昇華される。
弱さとの統合を果たしたことで、第七識――末那識への扉が開かれた。
彼女の全てがオレと一体化する。
これは最初で最後の同調だ。
戦いが終わればオレはたえ姉を忘れてしまうし、たえ姉も夢から覚めてしまう。
でも、それでいいのだ。
だって結局、お互い――愛する人が健やかに暮らしていれば、それだけで嬉しいと心の底から思うことができるから。
「《――『倶生・潜行』――》」
たえ姉は儚げながらも覚悟を決めた強い笑みを、
オレは強がりながらも覚悟を決めた涙を流して。
「《――――『一心同魂・唯我神楽』――――》」
声を重ねて叫びあげると共に、たえ姉の姿が守護霊の如くオレの背後に浮かび上がった。
優しく抱きしめるかのようにしてオレの背後で揺蕩いながら、儚げに笑って見守ってくれる。
『ちィッ!』
「だらァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
帝釈天が何かするよりも遥かに速く右の太刀を振り抜いた。銀の軌跡が虚空へ刻まれ、刃が肌に接触すると共に業火の一閃が爆発。――無敵の神の右腕が千切れ飛ぶ。
『倶生・潜行』――倶生とは末那識と同義であり、潜航とは字の通り潜りって行くこと。
祝詞とも呼べるこの名は、末那識へと至ったことで自然と口から漏れていた。
その内容はオレとたえ姉の意識と能力の共有。
『おい、なんだその力は』
腕を切り落とされ後退した帝釈天が怪訝そうに尋ねてくる。
両翼型の推進装置から炎を噴出させ空に浮かびながら、神を高みから見下ろす。常のように右腕に大気を裂くが如く回転する穿孔機を創造、左腕に凶悪に笑う鎖鋸が癒着しており、左手には竜爪を装備。脚部にはこれまでとは形状が異なる推進機が装着されている。
「質問に答えるつもりはない」
《君は邪魔だから、帰ってもらう》
対して、帝釈天は雷槍を持つ右手を、爪が食い込むほどに強く握りしめて、
『どういうつもりか知らんが、あくまで神に逆らうか。ならいい。叩き潰してやる』
だがな――、と男はさらに付け足して。
『相手は神だぞ。俺以外にも天部はいる。それでもなお、無駄な足掻きをするというなら――なるほど、貴様らよほどめでたい頭をしているようだな』
あくまでも下らなさそうに、どこまでも退屈でつまらなさそうな表情で、こちらを見上げながら、神は問いを突き付けた。
『神々の世界を敵に回す――その覚悟はあるのか?』
おめでたいのはどちらだろうか。
神と言っても頭の出来は悪いらしい。
何も分かっていないようなので、言葉にしてやらなければならないらしい。
「おまえ馬鹿だろ」
《まったく、話にならないね》
オレは太刀の切っ先を、こちらを見下ろす神へと突き付けて――
「《こっちは恋人との思い出を失う覚悟すら決めてるんだッ!
今さら神様如き恐れるに足りないんだよッッ!》」