第三章 対決と統合 3.前哨戦:黄泉下り
「任せてくれ。……必ず、助ける。君を屑箱から、引っ張り上げよう」
ようやく自分たちの弱さに気付けた。
本当に欲しかったものを見つけて……そして。
「ねえ、言ってくれたよね。あっくん」
「え……?」
「わたしのこと、愛してるって」
「あ、いや……まあ。うん」
「そっか。じゃあさ。……ちゅー、して?」
「えっと」
恥ずかしそうにはにかみながらも、逃がしはしないと淡島の上に覆いかぶさる。顔を鼻が当たる距離まで近づけて、オレを待っていた。
「わたしからはしないよ? 君がわたしの唇を奪うまで――ひゃっ!」
余裕ぶって笑うたえ姉が気に食わなくて、オレは無理やり起き上がると、逆に彼女を押し倒した。
「えっと、あの。いや……その」
今まで殺し合いをしていたから気付かなかったけれど、雨に濡れているせいで着物は体に張り付き、美しい体の形がはっきりと分かる。ところどころが透けているため美しい肌がオレの目に飛び込んできて、それが理性を壊した。
「たえ姉――愛してるよ」
「ぁ、こら勝手に――ふぁ……――」
何か言おうとした彼女の口をふさいだ。頭に腕を回し、大切に抱きしめる。
彼女の全てを全身で感じながら、オレはゆっくりと唇を離した。
「ぁ――」
「たえ姉、あいつに勝つ方法、あるかもしれないんだ」
たえ姉に覆いかぶさりながら、オレは優しく言い聞かせるように告げた。
「そう、なのかい……?」
「ああ。オレの考えが正しかったら。……ていうか最初から、オレはそう言おうとしてたんだけどな」
「ふふっ、そんなこと関係ないよ。どっちにしたって、自分のことも知らないで強くなれるわけがないんだから」
そうだ――強くなるとは、成長するとは己の弱さを自覚することだ。
これまで否定してきたものや、欲しいけれど手に入らなかったもの、自覚していなかった心の弱さ……そういうものを認め、受け入れ、そして己の糧とすることで人は強くなることができる。成長し、新たな自分として踏み出すことができるのだ。
それはとても当たり前のことのように思えて、けれど実際はとても難しい。
今までのオレがそうだったように、過去の自分を否定することは怖いのだ、今の自分の道が正しいと思わなければ、人は前に進むことに恐怖を覚える。
盲目的に自分の成功を信じることは簡単だ。だが、本当の意味で成長して強くなって変わりたいのならば、そんな自分を振り返り、ふと己に疑問を投げかけるべきなのだ。自分の道が正しいという保証もないのだから。
人は弱い。どれだけ強く見せようとも、必ず心の奥底に柔らかい部分がある。
それとどう向き合うか――直視し難いものとどう対決し、目をそらさずに統合することができるのか。
「たえ姉のおかげで目が覚めたよ。オレは本当に弱くて馬鹿だった。でも、だからってここで止まるわけにはいかない。弱いからといって君を失うわけにはいかない。だからそのためにも……頼む、たえ姉。オレに力を貸してくれ。そして君を、本当の意味で蘇らせたい」
「……しょうがないね。いいよ。何をすればいい?」
「オレと一つになってくれ」
「………………、――……っ。……ふぇええぇぇえ!?」
オレに覆いかぶさられるたえ姉が、なぜか顔を真っ赤にして焦っていた。
「ひと、ひとつ……えと、それって、その……あの。まさか。いや……」
「……? なに焦ってるんだよ。オレの魂とたえ姉の魂を同調させるってことだぞ」
「え……?」
「たえ姉の魂を《屑箱》から引っ張り上げてから、それとオレの魂を同調させるんだ。より厳密にいえば、オレの未使用脳領域に、たえ姉の魂を住まわせる。それから二人で末那識への扉を開けたいんだ」
「………………………………………………………………ふんッ、そんなことだろうと思ったよ」
「え、なに怒ってるんだ……?」
「うるさいなあ! ……やらしいこと、するのかと思ったのに」
「……? 最後なんて言ったんだ?」
「いいから続けろよぉー!」
何やら怒っているが、別に本気で怒り心頭というわけでもないらしいのでそのまま続けた。
「とにかくだ。オレとたえ姉が同調した状態で、オレが《屑箱》への道を開くから、たえ姉は自分の魂を引っ張り上げてくれ」
「……わかった。やってみる」
「そこから完全に同調する。たえ姉はオレの『アニマ』にあたる存在だというのなら――君をオレの中に受け入れて同調を果たせば、自我の最下層たる末那識に至れるはずなんだ」
もっともこれは、ただの仮説だ。ユング心理学と唯識論の類似性から導き出したに過ぎない。
だが、そもそもその二つの考え方は少し似ているのだ。元型と呼ばれる概念と阿頼耶識と呼ばれる概念が似ているように、アニマの統合による心の成長は、そのまま自我の無意識領域たる末那識への潜行と結びついてもおかしくないはずなのだ。
能力体系はユング心理学を下地にしておきながら、心の階層は唯識論に則っていることからもあり得ない話ではない。
オレの考えが全て分かっているわけでもないだろうに、たえ姉は力強く頷いてくれた。
それを受けてオレは最後に一つだけ付け加える。少し卑怯なやり方だが、彼女なら分かってくれると確信した上でのことだ。
「たえ姉、ただ一つだけ分かっておいてほしい。たえ姉とオレが融合してからしばらくは、今のたえ姉のままなんだけど……多分、ある程度時間が過ぎると、たえ姉もオレも、お互いのことは忘れてしまうと思う」
「そう、なのかい……?」
「ああ。……もともとアニマっていうのはそういう存在でさ。夢の中で出てきた女性像は、起きてしばらくすると忘れてしまうんだ。そしてたえ姉も……オレが蘇らせてからの出来事は、存在の基盤である魂が体験していない、夢のようなものだから」
もちろん、彼女との思い出が偽物だとは思っていない。二人で過ごした七年間はかけがえのない本物で、何にも代えがたい宝石のような時間だった。
けれど、それはオレたち二人だけの話。世界にとっては――電界にとっては偽りのものだ。
魂を復元した後は、おそらく彼女の魂の情報が途切れた場所へ戻される。蓄積された七年間の記憶は封印されて、もう一度オレの知らない誰かとして、どこかで蘇るはずだ。
それはとても悲しいことで、道が分かたれるのも、お互いのことを忘れることも、とても耐えられそうにないことだ。
だが――
「そうか。……なら仕方ないね。いつか……いつかまた会える日を願うしかない。わたしは結局、君が生きているだけで、それだけで満足だから」
「たえ姉……」
「大丈夫。心配しなくても。たとえ道が離れても、お互いのことを忘れても――それでも、二人で幸せに暮らしたこの七年は、かけがえのない本物だから。だから、ね――?」
ゆっくりと、いつものようにオレを蕩けさせようとする甘い笑みを浮かべて、
「行こう、あっくん。今度こそ本当の意味で出会うために! 二人で生きた七年を、あんな神様なんかに奪わせないためにッッ!」
「ああ――、行こうッ!」
二人ゆっくりと目を閉じ、互いのことを強く思い合う。
オレはたえ姉の全てを受け入れるように。
たえ姉はオレに全てを委ねるかのように。
同調開始――、七識たえの情報を受領。
未使用脳領域を通じ、彼女を己の心へ招き入れた。
たえ姉の体が淡く光り、粒子となってオレの中へと入ってくる。
彼女の存在を強く感じると、オレはその手を引いて世界の裏側へと侵入を開始した。
それも、今度は意識だけではない。
彼女の魂を引き上げたのち、そのまま帝釈天へ奇襲を開始するために、命を失う危険すら冒して、オレは魂ごと電界の裏側――情報の海へと彼女と共に身を投げた。
☆ ☆ ☆
目を開けた時、そこには無味無臭――彩りの無い乾燥した世界が広がっていた。
だが、ただ一つだけ常とは異なっている。
「あっくんはいつもこんなところに来ていたんだね」
「ああ」
指を絡ませてオレの手を強く握るたえ姉のぬくもり。
「じゃあ、今からわたしを助けてくれ」
「ああ――今すぐ《屑箱》から助け出してやる!」
意識を集中させ、オレは七年前の感覚を思い出す。
あの掃き溜めのような世界――あの空間への道を開いたその日に、たえ姉はどこかで目を覚ました。ならばおそらく、あの世界こそがたえ姉の魂が囚われている《天の屑箱》であるはず。
思い出せ、あの時の感覚を。
さあ――、今こそ彼女を、真実そこから掬い上げるために。
「――ッ、見つけた」
「本当か?」
「ああ――さあ、行くぞォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!」
雄叫びを上げ、愛しい人の手を引きながら、情報の海を割って突き進む。
この世界に距離や座標という概念はない。ただ、決められた道順をたどり、定められた法則に従って突き進めば己が出たい場所へ出ることができる。
「吹っッッッッ飛べェェェェェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッッ!」
拳を握り、ありったけの魂を込めて現世と黄泉の壁を叩き割った。
硝子が破砕するが如く、その境界が砕け散った。数多の破片が舞い散る向こうに、この世界で壊れ死んだ存在が行き着く、掃き溜めのような場所が広がっている。
その景色を見た瞬間、オレとたえ姉の魂に甚大な負荷がかかった。精神に直接圧力が掛かり、冥界下りをせんとする馬鹿二人を弾き出さんと葦原電界が総力をかけて妨害を開始した。
情報開示権限『六』を用いて閲覧することのできた資料――そこに記載されていた『人類存続システム』とやらだ。
有用な魂が誤って《天の屑箱》へ堕ちることを防ぐために作られた、絶滅の危機にある人類を守るための機構。オレを守り、たえ姉と出会うための猶予をくれた、ある意味では感謝すべきものだ。
だが――
「おまえは今――」
「いらない――」
「「オレたちの邪魔をするなァアア――――ッッ!」」
オレたちの魂を苛むその圧迫を、繋いだ手に感じるぬくもりで弾き返す。
邪魔するなよ、オレたちは今から一世一代の大博打に出るんだ。
おまえみたいな冷たい優しさなんざお呼びじゃないッッ!
「たえ姉! 頼む、引っ張り上げてくれッ!」
「ああッ! ――さあ来いよ、わたしの魂ィぃぃぃいいいいいいいいいいいいいッッ!」
歯を食いしばり、手のひらで感じるオレのぬくもりに守られながら、たえ姉がもう一方の手を必死に伸ばしていた。
「いいかい、わたしの魂くん! 君がそこで馬鹿みたいに寝ている間に、わたしは最高の幸せを手に入れた。大好きな人と七年も一緒に暮らしたッ! 人を好きになる幸せを知って、好きな人と好きって言い合える幸せを知った。君はそれが羨ましくないかい? 愚問だったね。羨ましいに決まってるよね。だって君はわたしそのものなんだから。ほら、今君が見ている夢が覚めてほしくないって思ってるだろ? でもね、知っているかい?」
苦痛に顔を歪ませながらも、その頬には獰猛な獣にも似た勝気な笑みを浮かんでいた。
君では体験できなかった幸せを手に入れたと。
どうだ羨ましいだろう、偽物だろうが何だろうが、これはわたしだけの宝物で宝石だと、そんな見ているこっちが照れくさくなってしまうようなことを心の中で叫びながら。
「そういうのはね、夢よりも現実で感じた方が、遥かに幸せなんだ」
だから――
「もしも君が本当の意味であっくんと出会いたいなら――その夢が覚めることを恐れずに、わたしのもとに来やがれ、このばかァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!」
絶叫と共に、向こうの世界で変化があった。大量の瓦礫や土砂が積もったその世界のある一点で、力強く明滅する光点が生まれたのだ。
「あれは――」
「うん、きっとあれが――」
魂を苛む人類存続システムは未だ健在に働いており、オレとたえ姉を今すぐにでもこの場から退去させようと駆動している。
それに対抗するために、絡めた指にさらに力を籠め、愛し合う気持ちをより強く感じる。
オレも彼女と同じように手を前に突き出して、語り掛ける。
「頼む、来てくれ。オレはたえ姉が好きなんだ。たえ姉のことが世界で一番好きだッ! きちんと君を感じたい! 本当の意味で君を抱きしめたいんだッ! だから頼む、来てくれッッ!」
彼女を想う気持ちが止まらない。愛する気持ちが際限なく高まっていく。
臆面もなく馬鹿みたいな大声で彼女への愛を叫んで、想いの全てをぶちまける。
「「来いよォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!」」
そして、その叫びに応えるかのように。
大量の瓦礫や土砂を押しのけて、青白い光を放つ火の玉のようなものがたえ姉の胸へと飛び込んだ。
「来た――、ああ。来たよあっくん」
七識たえの意識と魂が融合を始める。
仮の形で現世に復元していた少女が、確かな命を宿して蘇生を始めた。
「そうか、じゃあ、後は――」
己の歪んだ生を受け入れ乗り越えた少女の笑みは、見たこともないくらい清々しくて。
その笑顔がとても愛しいからこそ、絶対に守りたいと思えたから。
「行こう――」
次は俺が弱さを乗り越える番だと理解して、覚悟を決める。
「「あの神様気取りのクソ野郎をぶっ飛ばそうッッッ!」」
戦おう――たった一人の幼馴染を守るために。
そのためならば、人の身で神様だって討ってやる。